3-7.
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話す、と言ったのは自分なのに。 いざとなると、何から話していいのかわからなくて、カイは黙した。紅茶の湯気がゆらゆらと揺れているのを、ぼんやり目で追う。 これまで、話を聞いてもらえた記憶はほとんどない。周囲が決めた通りに動くのが当たり前で、気づけば言葉を探すこと自体が苦手になっていた。 だから、黙る。そうすると、他人は苛ついてもっと話を聞いてくれなくなる。――悪循環だ。 折角兄さんが話を聞くと言ってくれているのだから、早く何か言わなくちゃ。――そう焦り始めた矢先だった。 その様子を見守っていた航が、ふっと笑った。「いいよ。待ってるから、大丈夫だ」そして、軽くカイの背中を撫でる。 カイは、右腕に伸びかけていた左手をそっと下ろし、小さく頷く。その肩からストンと力が抜けた。 何から話そう。そう考えているうちに、やっと一つ思い当たった。それは多分、自分たちがちゃんと話せなくなってしまった根っこの部分。――カイは、ゆっくりと口を開いた。「兄さんが、いつからオレのことを避け始めたのか――実はあんまり覚えてないんだ。気づいたら、もうそれが普通になってて……」 しかしそこで、カイの言葉が止まってしまった。航は暫く待ってみたが、続きが一向に出てこない。 だから航が、助け舟を出す。「それで、お前はどう思ってた?」 カイは、答えられない。その右腕を触りながら「どうって……」と呟いて、また黙り込んだ。二人の間に流れる沈黙が長くなるほどカイは焦る。しかし、言葉が上手く出てこない。 航は、縮こまっていく弟の向こうに、ウサギのぬいぐるみを見つけた。ふっと目を細めながら手を伸ばしてそれをカイに抱かせ、「ウサちゃんとは、何か話したか?」と、質問を変え問い直した。 カイは驚いたように顔を上げたが、すぐに小さく頷いた。少しの思案の後、ぽつりと答える。「さびしいね、って」ぎゅっとウサギを抱く腕に、力を込める。「……かなしいね、って。でも、しかたないよね……って」「仕方ない?」「うん……。オレ、身体弱いし、手ばっかかかるし。何の役にも立たないでしょ。……嫌われても……まあ、そうだよねって」 それは、何度も自分に言い聞かせて来た言葉だったが、口に出した途端、胸がじんと痛んだ。気持ちが沈み、声が落ちる。 「……だから、これ以上嫌われないように、迷惑をかけないように。大人しく、いい子にしてようねって……」 ――航は、すぐには言葉を返さなかった。ただ静かにカイを見ていた。 そしてその様子から、ようやくカイの生きづらさの根源が腑に落ちた気がした。 一方で、カイはどんどん沈んでいく。 「……でもオレ、いい子にすらなれなくて……。大人しくするどころか、余計なことばっかりして。今回だって、そうだよね。勝手に先走って、結局……みんなに迷惑かけた。ごめんなさい……」 そこまで聞いて、航は小さく息を吐いた。「……色々と言いたいことはある。が、一旦は飲み込もう」そして少しだけ身を乗り出し、カイをしっかりと見据える。「でも、これだけは聞かせてくれ。――誰が、“迷惑だ”と言った?」 その言葉に、カイがハッとしたように顔を上げる。 「みんなって……誰だ?誰がお前にそんなことを言った?」 航の追撃に言葉を詰まらせ、目を彷徨わせる。それから俯いて、ウサギの耳をいじりながら暫く考え込んだ。そして少しの間を置き、小さな声で返す。「……ほまれ、とか」「本当に、あいつがそう言ったのか?」「……ううん……」 カイは更に俯いてしまう。「兄さん……も、……言っては、いない」そのまま、確認するように一人ずつ挙げていく。「満兄さん……じーさん……」「満は、主治医を引き受けてくれた位だ。違うな。お祖父さまは、俺が見てる限りは言っていない」「……りじかいの、ひと」「確かにあいつらは、何にでも文句を言って騒ぐのが仕事だが……。今回、迷惑という趣旨の発言はしていない」「医局のみんな……とか」「言ってない。むしろ、如月先生が戻るまで、俺が頑張るッス〜、と、山川がビビリながら無駄に張り切ってたくらいだ。ちなみに佐々木は永久に頑張り続けろと頭を小突いてたがな」 再びカイは黙った。ウサギを抱く腕に力がこもる。 航は、少しだけ肩の力を抜いて言った。「つまり、な。全部、お前の思い込みだ。その思い込む癖が、きっとお前の生きづらさの根っこなんだろう。俺も今、話をしていてようやくわかった」 そして航は、その頭をグシャグシャと掻きながら、目を伏して苦笑した。「ずっと一緒に居たのに、今まで分からなかったなんてな。兄としては落第……満のいう通りだ」 そして、独り言のように続ける。 「なるほどな。“再教育”が必要なのは、どうやらお前だけではないらしい」「――再教育」「そうだ」 航は少しだけ椅子に背を預け、カイに向き直った。下唇に軽く触れた後、一瞬だけ視線を左にずらしてから、言葉を繋げる。 「今回の件について、理事会での指示は大きく2つ。まずはお前の体調を万全とすること。今の状態なら、一ヶ月もあれば十分だと思う。問題は、二つ目。お前の“再教育”。これについて、具体的な内容の指示はなかった。……あいつは、俺がお前をどう仕上げるか、そこまで見るつもりだ。俺のことも、同時に試している。――というその思惑はすぐ理解できたが、具体的に何をすればいいか全く見当つかず、正直途方に暮れていた」 航は、苦笑する。「礼儀作法?経営?それとも医師としての再訓練か?いや、何かが違うとずっと引っかかっていた」そして、改めてまっすぐにカイの目を見て言った。「だが、今、はっきりとわかった。再教育は、教えることじゃない。話すことだったんだ。――言わなきゃ分からない。聞かなきゃ分からない。俺たち共に、最も足りないものはこれだ。 冷静に考えれば、当たり前のことなのにな。俺たちは、その当たり前をずっと避けてきた」そして、そこまで言い切ると軽く肩を竦めて息を吐く。しかし、その次にはまたカイを見て、迷いなく続けた。「退院までの間――できるだけ時間を作る。話そう。お互いのこと。今さらでもいい。むしろ今だからいい」 航は、カイに手を差し出す。「お前は俺に、お前のことを教えてくれ。何を思い、どう考えるのか。どうしたいのか。俺も、同じようにお前に俺のことを話す。そして今度こそ、ちゃんと"兄弟"になろう」 ――カイは。暫く差し出されたその手を見つめていた。 やがてようやく左手の人さし指をピクリと動かしたかと思うと、右手でそれを制するように押さえた。そして兄を見上げながら、自信なさげに尋ねた。「……兄さんは、オレなんかが弟で……いいの?」「いいも悪いもあるか。俺の弟は、お前だけだ。……お前が生まれた、その瞬間から、な」あまりの即答ぶりに、カイは更に目を大きくする。兄は、差し出した手を軽く上げ、頷いてみせた。そうしてようやくカイは、おずおずと手を伸ばした。兄の指先に触れた瞬間、躊躇う。だが、その手を先に兄が取り、引き寄せてぐっと握った。「……うん」カイは握られた手を見つめながら、頷く。「オレの兄さんも……兄さんだけだよ」 それから顔を上げそう言うと、ふにゃりと笑った。 航もまた頷き、ゆっくりと手を離す。そのまま背もたれに身体を預けると腕を組み、病室の隅にあるカメラをまっすぐ見据えた。そして足を組み不敵に笑うと、声を張り上げる。 「聞いてるんだろ、お祖父さま。――そして、理事会の皆さん」 突然のことに、カイが目を瞬かせる。航は構わず続けた。「俺はこいつに、全部話す。情報を渡すことを、再教育に必要だと判断する。異論は認めない。そのかわり、一ヶ月後に必ず結果を出す。……見てろよ」そしてそれだけ言って、視線を戻した。「今回の結婚騒動については、恋愛感情起因ではなく、執着による衝動的な行動だと報告をした。入院前にお前にしたことは、全てそれを裏付けるためにわざとやった。……悪かったとは思っているが、後悔はしていない。それしか、お前ら二人を"救う"弁が立たなかった」 カイの指先が、ウサギの耳をきゅっと握る。航は、続けた。「結果、暫定対応としてお前は入院治療と再教育。誉は現状維持。まあ、今あいつを外すと現場が回らないから、という経営的な事情もある。そして、次の監査は一ヶ月後。だから、それまでに見極めなければならない」そして航は、声色を一段下げた。「敢えて、問おう。お前は、本当に誉を愛しているのだろうか?」 不意打ちとも言えるその問い掛けに、カイはひゅっとのどを鳴らして息を詰めた。――背筋が凍る。何も言えない。「お前にとって、誉は救世主だった。あいつは、如月家の教育とは正反対の、型にはめない肯定と自由をお前に与えた。お前に一番必要だったのは、それだったんだろうな。だから誉を"大好き"になったのも、まあ当然だと思う。……だが、それが愛かどうかは別の話だ 例えば、瀬戸に向ける信頼や安心と、根っこは近いんじゃないか?少なくとも俺はそう判断をし、理事会でも報告をした」 航はそこで一度、言葉を切った。すっかり俯いてしまったカイの様子を観察し、ほんの少しだけ目を細める。「……なんて急に言われたって、何も言えないよな。わかるよ。俺も満に問われた時、同じ反応をした」それは、珍しくぽつりと落とすような声だった。「舞子は――知っての通り幼馴染で、物心ついた頃から許婚だった。お互い、いずれ一緒になるのだと疑うこともなく生きてきた」 カイが、ゆっくり顔を上げる。 「今でも忘れない。結納の前夜だ。満は、『彼女を、愛しているのか』とだけ俺に言った。俺は、――答えられなかった」航は暫くカイの赤い瞳を見つめた後、小さく息を吐いて、目を伏せた。「……正直に言えば、今でもよくわからない。でも、舞子を迎えてよかったと思っている。――俺は、個人の幸せよりも、役割を全うする人生を選んだ。家も、立場も、当然舞子も、子供たちも、全部ひっくるめてな。……だからといって、とりわけ不幸ってわけでもない。むしろ満足している。自分で選び決めた生き方だからな」 航はそこまで言い切ると、少しだけ間を置いた。そして次に、はっきりとした口調で、力を込めて続ける。「けどな、誉は違う。誉は、それが執着でも愛でも、きっと受け止めるだろう――信じられないくらい、優しいからな。お前が、個人の幸せを追求するか、役割を取るか、どちらを選んでも、俺は構わん。だが、後者を選ぶならば、これ以上誉を縛り付けるのはやめよう。誉の人生を、悪戯に巻き込んではいけない」 カイは、俯いたままだった。ウサギの耳を握る手だけが、わずかに震えている。 何か言おうとしてわずかに顔を上げて――やめる。それを何度か繰り返した。――その喉が鳴る音だけが、小さく響く。「……今すぐに、答えろとは言わない。すぐ出るもんでも、ないからな」航はカイの肩に軽く触れながら、ゆっくりと言う。「――ただ、そんなに時間はない。俺たちに残された猶予は、一ヶ月。そこで必ず、今回の件は結論を出す」 カイの頭の中で、誉の声や仕草や、これまでの時間がぐるぐる巡る。 ――誉への気持ちを、否定できない。 肯定も、できない。 次に航は、そんなカイの背中を軽く叩いた。そして、わずかに顔を上げたカイに、いつもの通りの頼もしい笑みを浮かべながら言う。「一人で悩み、背負い込まなくていい。いつでも相談には乗る。そして俺は、お前が出した結論を推す。兄としても、"跡取り"としても、全力で推す。例え他の皆が反対したとしても。ーー約束する」 やがて。カイは何も言わぬまま、小さく頷いた。 航は、ただ静かにその頷きを受け止めると、カップに手を伸ばす。 湯気はとうに消え、紅茶は冷たくなっていた。――それでも航は、一気に飲み干した。