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1-4.

うさぎさんは、おおかみさんと檻のなか — fujossy.jp · All chapters

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色とりどりのペンが、応接テーブルに散らばっている。キャップは全て開いたままだ。その机にかじりつき、一心不乱に描き続ける櫂の姿は、明らかに"異質"だった。 遅れて院長室に駆けつけた部長を始め担当メンバーたちは、畏怖の念を浮かべながら、それを見つめている。ただ、横に寄り添う誉だけは違った。まるで子供のお絵かきを見守る父親のように穏やかな眼差しを向けている。  山川が、佐々木の耳元でコソコソと話す。「さっき、新手法という言葉が聞こえたッスが……」「あぁ。言ってたな」「あまり前例、ないんスよね?」「無いねえ。少なくともこの病院ではない」「副部長が執刀……するんスよね?」「そりゃそうなるだろ」「自分、気になって論文DLしたんスよ。 あれ、相当やばいっスよ」「俺も加藤先生と見た。先生、吐きそうになってた」 「あー……。それでさっきからずっと目が死んでるんスね、あの人」「言ってくれるな。俺たちは内科の判断だったと言い訳が立つが、内科は逃げ道がない」「あれ、外科医マターかと思ってたんスけど、キモは内科医スよね」「だから評価が限定的だったんだろ。本来は内科側で出すべき案件だ」 その時、いきなり櫂が顔を上げた。手元の紙面は、いつの間にか三枚にも及ぶ大作になっている。櫂は誉の方を真っ先に見て、それらを突き出した。誉はそれを受け取ると、顎を触りながら手早く目を通す。そして、迷いなく頷いた。 「三上さん、人数分コピーを。緊急カンファを始めよう」 櫂のメモを手に取った皆は、一様に困惑が隠せなかった。首を傾げながら、紙を逆にしてみたり、くるりと回したり、何度もページをめくったりする。少しの沈黙の後、おずおずと山川が手を挙げた。それを合図に皆から疑問の声が噴出する。「えっと……どうやって見るんスかコレ。どっちが上なんです?」 「右端のウサちゃんの耳の方が上だろ、普通」「真ん中が結論か? いや違うな、矢印が右に伸びてる」「赤が重要なポイントってわけでもないな?青?緑?どっちだ?」「あ、ちょっと待て。わかった」佐々木はそう言って紙を持つ手を伸ばし、少し距離を取って全体を見直した。「これ、真ん中から右回りだ。真ん中が摘出後の処置――つまり結論だな」「あ……、そうか。病床へのアクセスを遡って書いてるのか」「てか、この真ん中の図……やばくないですか」「手描きだぞ」「え、マジすか。CT貼ってんのかと思った」「馬鹿か、輪郭が青線のCTがどの世界にある」「……確かにそうッスよね。エグいッス」するとその時、部長が会話に割り込んだ。「筋が通っているのは分かる。しかし、リスク評価が全くないんだよ。この手術で想定される合併症、しくじった時の対応が書かれていない。作戦としては不十分だ」更に彼はタブレットに視線を落とし、スワイプを繰り返している櫂の方を見ながら語気を強める。「困るんだよ、如月くん。君のような、現場を知らない人間が放つ机上の無責任な絵空事で――。現場が、我々が、どれだけ掻き乱され、迷惑を被るか分かっているのか」 その言葉に、ようやく櫂がゆらりと頭を上げた。ヒッと山川が声を上げて佐々木にしがみつく。佐々木は眉間を指でおさえながらため息をつき、肩を竦めた。 しかし、一同の予想に反して、櫂から怒りの感情は全く読み取れなかった。「……?」  むしろその真逆で、小首を傾げ、キョトンとした顔をしながら言う。 「術中に起こりうる事象は、本資料内にすべて記載しました。紫色の箇所です」 そんな櫂の飄々とした態度に、部長の苛立ちが募る。思わず立ち上がり、モニターの資料を指さしながら、半ば怒鳴るような声で言う。「いや、だから。それをリスクと言うんだよ」対する櫂は、未だ腑に落ちない顔をしたまま淡々と返した。「執刀医の前提は卯月副部長です。ですから、これらはリスクに値しません。全く賢明ではありませんが、執刀医を変えますか?それならば、抜本的な組み直しが必要です。」  重苦しい沈黙が、院長室に落ちた。とうとう誉が口を挟もうとしたその時、「おいおい。お前たち、揉めている場合か」 執務席で急な電話対応をしていた院長が、呆れ顔で戻ってきた。そのままモニターを数秒確認し、櫂に向き直る。「……櫂、やれるのか」 櫂は真っ直ぐ院長を見据え、断言した。「可能です」 院長はふっと息を吐き、「分かった」と頷いた。そして、内ポケットからスマホを取り出すと、慣れた手つきで発信する。すぐに相手は出たようだ。落ち着いた声で話し始める。 「俺だ、如月 航だ。はは、悪い悪い。お陰さまでこちらも小忙しくてな……。またその辺は今度食事でもしながら。……それでだ」 そして親密そうな挨拶とは打って変わり、院長の声が一段低くなる。「脳外の緊急症例だ。至急、富田に来てほしい。あぁ、そうだ、麻酔科部長の。1時間後、うちの新第三手術室に直入りで構わない。話は通しておく。……ありがとう、助かるよ」 院長は手早く電話を切ると、一同に向き直った。「……富田部長って、記念病院の?」「他にいねえだろ」「あの権威の?相当忙しい方だと聞いてますが……。よく空いてましたね」「いや、空けたんでしょう……」「マジっスか……、院長ヤバい。本気過ぎる」コソコソと話しながら萎縮する医師メンバー。対して、真っ先に声を上げたのが、ナースの三上だった。 「院長、本日、新第三は終日ブロックされています!」「いや。空いてるんだよ、これが」「えっ?」「押さえているのは、私だからな」「院長が?!どうして?!」 院長は不敵な笑みを浮かべながら胸を張る。「リアルタイム頭蓋内圧・脳血流同時解析システムをセッティングさせてたんだ。新規導入だぞ。先程完了したと一報があった」  そこでようやく誉が口を開いた。「聞いてません」「言ってないからな!」航は誉に向き直りそう言って、口角を上げる。「サプライズだ。楽しいだろ」あまりのことに、思わず黙り込んだ誉の後ろから、山川が続けた。「……いや院長、それ全然楽しくねえっス」 そんなやり取りを他所に、またタブレットに向かっていた櫂が、不意に立ち上がった。「兄さん……」肝心の顔がやや下向きで表情が読めないが、その肩が小刻みに震えている。「流石に櫂先生、怒ったかな……」「冗談とか嫌いそうッスもんねえ」加藤と山川が竦み上がったその時、櫂が顔を上げた。 「アレ、買ってくれたんですか?!」それは予想に反し、明る過ぎる声色だった。航が、満足げに頷く。「あぁ。この前の夜、一緒に見たアレだ。お前があんまり欲しい欲しいと言うからな。速攻注文しておいたぞ」「やったぁ!兄さん、大好き!」「はは。喜んでくれてよかったよ。あぁ、こらこら、人前だ。後にしなさい」あまりの嬉しさに感極まったのか、櫂は兄にギュッと抱きついている。「え、櫂先生、そういう感じの人?」「完全に深夜テレフォンショッピングのノリだな」「弟のおねだりに幾ら使ったんだこの人」 呆れる一同を差し置いて、兄から離れた櫂はポンと手を打つ。そして「それなら!」と弾む声で呟いて、また机にかじりつくと、再び紙の上に勢いよく赤ペンを走らせ始めた。 「ここは問題ない。あとここも、……あ、ここも解決です」そんな弟の様子を優しく見守った後、航は誉の方を向いて続ける。「ついでにNeuroMap ARナビと、術中3D脳構造投影システムも入れといたぞ。お前のフェロー先では試用運転だったよな。うちは本日より本稼働だ」誉は目を細めて、呆れたように航を見やる。それを受けて航は、更にドヤ顔で胸を張った。「不足か?」「……出たよ、如月家」 誉はそうとだけ返すと、一度視線を落とした。人知れずふっと笑った後、顔を上げる。そしていつもの通り、自信に溢れた朗らかな口調で続けた。「院長、お力添えありがとうございます。とは言え、器材は器材。多く見積もっても成功率に対する寄与率は1割から2割といったところでしょう。本件について、僕は急変前の前提で、新手法での成功率は6割程度と申し上げました。急変のネガを考慮すると、上げは1割が関の山ですね」「そうだ。やはり従来法をとるべき……」「部長は黙っててもらえますか。うるさい」「!!」「その従来法では間に合わない可能性が高いので、櫂先生が提案を組み直したんだ。従来法は既に安牌ではない」食い気味にピシャリと返された部長が思わず黙り込んだのを尻目に、誉が櫂の方を向く。「櫂、君のその案は、加藤先生が内科フォローに入る前提だよね」櫂は、斜線だらけになった資料から目を離すことなく返した。「はい」「では、内科フォローに入るのが"君"だという前提に変えたら……どうなるかな?」「おい、何を言う。櫂は駄目だ。とても手術に耐えられるような身体では」 誉は即座にそう食って掛かってきた航を手で制しながら、黙って櫂の様子を伺う。 櫂は一拍を置き、声を震わせながら答えた。「……そっか。その発想はなかった」 そして、一番手前の赤色のマジックを手に取り、「その前提ならこれは消える。これも、これも!」とらまた勢いよくペンを走らせ始める。誉はゆっくりと頷いて、航に向き直った。「内科フォローは、如月 櫂先生を指名します。全責任は、僕が取ります」「なっ」そして誉は櫂の横に跪き、すっかりマーカーで汚れたその白い手を取った。櫂の赤い瞳が、誉を映す。「……カイ、君の導きが必要だ」それは、まるで祈りのようだった。 続けて誉は一段声を落とす。「俺を、助けてよ」「かしこまりました」  櫂は迷いなくそう言って、誉の手を取り頷いた。 「卯月副部長のご判断に従います」「……嘘だろ、如月先生が?!」「あの人、現場なんて立てるんスか?」「まあ、昔はバリバリやってたからなあ……」場の雰囲気が一気に高まる中、航が一歩前に歩み出た。 「……櫂。本当にいけるのか?」 櫂は航を見上げ、即座に返した。「問題ありません」 航は小さく肩を竦めると、分かったよと小さく呟いた。それから声を上げる。「ならば、全力でやり切れ。細かな事務ごとは私が全て引き受ける。君たちは準備に入れ!」  それを契機に、チームは緊急手術へと一斉に動き始める。