3-12.
3-12.
一度は顔を出したものの、櫂は何かを言いかけて、また内扉の向こうに引っ込んでしまった。 航は、すぐにその方へ向かっていく。一方、満は手際よく散らばったクッションを拾い上げて元の場所へと戻していった。「どうした、どこか痛いのか?」 閉じかけた内扉をもう一度開いてやりながら、航が優しく声をかける。櫂は自信なさげに視線を床に落としたまま、首を横に振った。「……本」そして次に、そうポツリと言う。「……本を、読みたいなって思って……」「あぁ、分かった。どの本だ?すぐに用意しよう」「ええと……」会話をしながら、カイは促されるまま応接室ソファーに腰を下ろす。すぐに満が、ぬるめのミルクティーとお菓子を出してくれた。カイ好みの軽くて甘い、スノーボールクッキー。「お、うまそ」「これは、櫂専用です。あなたはそちらの固いビスケットをどうぞ」「いやこれ、固すぎるだろ。乾パンレベル」「あなたは食べすぎるから、これでいいんです」 そんないつもの兄たちのやりとりに、緊張がほぐれたカイは、少しだけ笑ってしまった。その様子を見ながら、満がカイクッキーを勧めてくれる。気持ちが解けたカイは、言われるがまま手を伸ばした。口に入れた瞬間、ほろりと崩れ、粉砂糖の甘さが舌に溶けた。そして、すぐにその出どころが分かった。――誉の、味。カイの喉が、わずかに動く。 顔を上げると、満が小さく微笑んで口元に人さし指を当てた。カイはテーブルの上置かれた小皿を見つめた後、またもう一つ摘む。「で、どんな本がいいんだ?」向かいに座ったせっかちな航は、スマホを軽くスワイプし、モニターに画面を映し出す。次々と切り替わる表示に、カイの視線は全く追いつけず、圧倒されてしまう。 カイは眉を寄せた後、目を閉じてこめかみを抑えた。そして、小さな声で言う。 「ちがう、選びたくて……」「おう、どれでもいい。気になるのを言え。俺がすぐに取り寄せてやる」「ちがうの、あの……」「航、あなたは少し落ち着いて。ちゃんと最後まで、櫂の話を聞いてやりなさい」 とうとう見てられないといった様子で、横から満が口を挟む。そして、カイの肩を軽く撫でながら、 「あの慌てん坊は気にしなくていいですよ。櫂がどうしたいか、教えてください」と、穏やかに声をかけた。 カイは小皿の上の粉砂糖を指先でなぞりながら、小さく言った。「見て、決めたい、から……。……院内に図書室、あるでしょ。行ってみたら、だめ……かな」そして、伺うように兄を見上げる。 「いや、流石にまだそれは」「いいんじゃないですか」 航の言葉を途中で遮り、満が頷く。「能動的な欲求が出てきたのは、よい傾向です。図書室、いいと思いますよ。行ってみましょうか」「おい、満」「……ほんと?」カイはパッと顔を明るく、声を柔らかくして問い返す。「ええ。航がついていきますから、安心して行ってらっしゃい」「なっ、しかも俺かよ?!」 満はカイに優しく微笑みかけると、白衣のポケットからスマホを取り出した。そして航の顔を見ながら、それを軽く指先でトントンとつつく。察した航が、自分のスマホをモニターから切り離したタイミングで、満からメッセージが届いた。 精神科棟の図書室がいいでしょう。 あそこには、刺激の強い本はありません。 あらかじめ、人払いをしておきます。 ――頑張ってくださいね、"兄さん"「……」うらめしげな視線を向けてくる航を尻目に、満はニコニコと微笑みながらカイを立たせた。 「さあ、そうと決まれば早くいきましょう。あそこはその格好だと冷えますから、ガウンを出してあげましょうね」 そして去り際に航を一度だけ見下ろすと口元をわずかに緩めて、そのままカイと共に向こうの病室へと戻っていった。航は深いため息をつき、仕方なくネクタイを締め直して立ち上がる。 数分後、再び内扉が開いた。「お待たせしました」戻ってきたカイを見て、航は思わず眉を上げる。 「……どうしたんだよ、それ。やけに大きくないか」 カイが着ているガウンは、完全にサイズが合っておらず、ブカブカだった。袖は指先を隠すほど長く、裾も膝下まである。 航の疑問には、満がさらりと答えた。「今朝、クッキーと一緒に差し入れがありまして」「差し入れ?」「ええ、やけに料理上手な足長おじさんから」「足長おじさん、ねえ……」 航は呆れたように言った後、ふと気がついたように前屈みになった。「……なんか出てるぞ」無意識に口元にやったモコモコの袖をスンスンしていたカイの動きが、ピタリと止まる。 「え?」 全員で揃って見ると、ガウンの胸元から白く細い布がちょこんと覗いていた。「あっ」カイが慌てて両手で胸元を押さえるが、袖が長すぎて、余計にもたつく。「おや、いけない。しまって、しまって」「ん……っ」 満が手伝ってやって何とか中に押し込めたものの、今度は不自然に胸のあたりが膨らんでいるので、航は思わず噴き出した。「何でそんなところに、うさちゃんが潜んでるんだよ」すると、満は至って真面目な顔で答える。「カイとうさちゃんは、一番のお友達なので」「説明になってねえ。つーか、中、どうなってんだ?」「……!」航が半ば興味本位で、ガウンの前をぺろんとめくった、次の瞬間。「えっち!」ばしん、と袖越しに手が飛んでくる。「エッチってなんだよ!!」「急に開けないで!」 顔を真っ赤にしてガウンを押さえるカイ。その胸元には、しっかりと固定されたうさちゃん。妙に丁寧な作りの抱っこ紐に包まれて、きれいに腹部に収まっている。航は一瞬ぽかんとし、それからまた盛大に噴き出した。 「何だこれ、抱っこ紐か?!」「ええ。やけに手先が器用な足長おじさんの力作です」「お前、さっきからおじさんを連呼してるけど、それ言ったら同級の俺たちもだからな?」「……兄さんのえっち」「エッチじゃない!」院長室に、久しぶりに笑い声が広がる。カイはぶすっとした顔のまま、胸元をぎゅっと押さえた。だが、その緊張はすっかり解けて身体の力がいい感じに抜けている。――これなら、一旦は大丈夫。満はその様子を見て、静かに思う。そして、「さあ、図書室でしたね。兄弟仲良く行ってらっしゃい」と、航とカイの背中を押すと、一気に院長室から押し出す。そして、扉を閉める直前に、航に囁いた。「祝賀会の作戦、うまく話してきてくださいね」そのまま航の返事を待たず、扉は閉じられてしまう。航は、隣に立つ大きなガウンに包まれた弟を横目で見て、ため息をひとつ。すっかりご機嫌なその横顔に、もはや文句を言う気持ちも失せる。「……ったく」ぼそりと呟き、頭を搔きながら歩き出す。「お友だち、落とすなよ」「うん!」カイもまた頷いて、その背中をちょこまかと追って歩き出した。 静かな廊下を二人でしばらく歩いてから、航がふと思いついたように問う。「ところで、なんで急に本なんだ」カイは少し考える素振りを見せた後、答えた。「……勉強、したくて」航はそんなカイを、横目で見ながら続ける。「何の?」「愛について」「……愛を?本で?」「うん。本には、何だって答えが書いてあるでしょ」カイは、お腹のウサギをガウン越しに撫でながら、自信ありげに深く頷いた。 「だから愛についても、本を読めばきっとわかる」航は、思わず足を止めそうになるのを堪えた。――完全に、ずれている。愛は、教科書で学ぶものじゃない。 だが、同時に別の思いが胸をよぎる。 愛とは何か。夫婦とは何か。家族とは何か。この子を取り巻く大人たちは、誰も教えなかった。いや、それだけではない。学問、道徳、世の中の仕組み――。 この子には、誰も教えてこなかったのだ。誰にも顧みられることがなく、身体が弱く、たった一人で家の中に閉じ込められた少年は、本の中で世界を知った。――そして今も、尚。一人で、本の中にその答えを探そうとしている。 航は、喉の奥がひどく乾くのを感じた。自分に、この子のやり方を否定する資格は、ない。 「……そうか」だから、それしか言えなかった。図書室の扉が見えてくる。「……いい本があると、いいんだけど……、な」それは肯定でも、否定でもない。ただの、祈りだ。 「うん」小さく笑うその横顔は、やけに落ち着いていた。 図書室の扉を開けると、ひんやりとした空気が流れた。満が気を利かせてくれた通り、人払いがなされており、柔らかい照明に照らされた室内は静まり返っていた。 そんな中、カイは迷わず一番奥の棚へ向かう。 心理学と掲げられたコーナーに並ぶ本の背表紙を指先でなぞると、呟いた。「……ここ」 航はその少し後ろで腕を組み、本たちのタイトルを目でなぞる。「専門書より、まずはあっちの方がいいんじゃないか」そしてそう言うと、他の本棚へと赴き、数冊を抜き出してすぐ戻ってきた。そのままカイに差し出したのは、やや薄めの本だ。愛について語る、いわゆる自己啓発系のもの。 カイは眉を寄せながら一瞬その表紙に目をやったが、受け取ろうともせずに、また専門書に向き直った。そして静かに、淡々と言う。「それは、経験談でしょ“こうしたらうまくいきました”っていうn=1」「それの何が悪い」「効率が悪い」その言い方に、航が思わず眉を上げるが、気にすることなくカイは続ける。「愛って、たぶん絶対評価じゃない」本棚の心理学の文字に視線を戻す。「官能評価みたいなものじゃないかな」「……は?」「人によって基準が違うでしょ。兄さんや、父さんと母さんを見ていると、正解が固定されてないように思う。だったら、サンプル数を増やさないと傾向が見えない」そしてもう一度、航が持つ啓発本をちらりと見た。「それは、その作者が"こうやったらうまくいきました"って話だよね。つまりn=1。それだけを深く読み解くのは、サンプル取得方法としては、非常に効率が悪い」 航はため息をつき、呆れたように声を上げた。「……お前、愛を統計で理解しようとしてるのか」「うん」カイは、いとも簡単に頷いた。「どんなことだって、必ず何かしらの傾向がある」「……」あまりの感覚のずれ方に、航は言葉を失う。しかし、当のカイは迷いもなく続けるのだ。「絶対評価じゃないなら、分布を見るしかないでしょ。サンプルの母数を増やして、共通項を抽出して、外れ値を除いて……そうすれば、だいたいの輪郭が見える」 航は小さく息を吐いた。――ツッコミ所は満載だが、否定ばかりしていてはこのズレた堅物への理解は進まない。仕方ない、もう少し付き合ってみるかと腹に決め、問いを重ねる。「愛に外れ値なんてあるかよ。失礼な話だ」カイは視線を落としたまま、冷静に答えた。「もちろん、あるでしょ。本人が“愛だ”って思っていても、構造が歪んでるケース。例えば刷り込みとか、支配とか……依存とか」そして手に取った本の端を、指で押さえた。 「……だから、オレは怖いんだ。もしも、オレのこの気持ちが……外れ値だったらって」そこまで言った途端、その声がどんどん頼りなく、小さくなっていく。航は、すぐに気がついた。 「もしも、ただの錯覚だったらどうしようって」 ――カイの指先が、わずかに震えている。 「だから、確かめたいんだ」航は何も返さなかった。さっきまで統計だの母集団だの小難しいことを言っていたのに、結局、そこにあるのは根拠のない不安だ。――不器用にも、ほどがある航は、目を伏せる。――でも、そう育ててしまったのは、俺たち……、か。 ならば尚更、この子のために、何ができるだろう。航は、真剣に考え始めていた。"再教育"という言葉が、その脳裏にちらつく。 カイの能力は、間違いなく高い。だが、使い方を知らなければ、それはうまく世界と噛み合わない。膨大な知識が余計な不安を煽り、心を揺さぶることもある。……今のカイは、少なくとも、そう見えた。 再教育の核は、その力の扱い方を一つずつ教え、実際に経験させ、体に馴染ませること。 ならば、あの場も――誰かに立たされるのではなく、自分で選ばせるべきだ。良くも悪くも、きっと次につながる。 祖父の思惑とは、違うかもしれない。けれど。 ――やるしか、ないんだろうな。 航はそんなことを思いながら、カイがつま先を上げ、懸命に手を伸ばしている先の本を黙って取り、渡してやった。