LNCrawler

3-18.

うさぎさんは、おおかみさんと檻のなか — fujossy.jp · All chapters

3-18.

発作がくると悟った瞬間。急激に呼吸が乱れ始めた。吸えない。吐けない。――昔から、何も変わらない。本当にこの身体が嫌になる。 「……っ」無理やりにでも浅い呼吸を繰り返し、何とか発作に繋がる前にやり過ごそうとする。 落ち着け、落ち着け――まだ間に合う。 だが、その集中を欠かせるものがある。指先に貼り付けられたままの小さなセンサー。そして、それを固定しているテープ。その感覚に、すべての意識が集まっていく。――だめだ、気にするな。櫂はそう自身に言い聞かせながら息を詰めた。これ以上気にしても、悪くなるだけだと分かっているのに、どうしても離れない。「……っ」不意に指を動かしてしまった、その瞬間。テープが皮膚を引いた。指先から、ぴり、とした痛みが走る。ほんの些細な刺激のはずなのに、まるで神経を直接なぞられたみたいに、体全体に鋭く響く。「……い、っ」 ――痛い。いやだ、痛い。我慢できない。 それから逃れたい一心で、もう一度指を動かした。また、テープが引っ張られる。――痛い、無理だ。こんなの、耐えられないそう思った次の瞬間、櫂は反射的に指先のセンサーを掴んだ。そしてそのまま、勢いよくそれを引き剥がす。センサーと共に、テープが引きずられていく。 さっきよりもぴり、とした強い痛みが走った。「い……っ」あまりの痛みに櫂はそう声をもらす。ともかく早くこれを取らなければ。じゃないと、このまま腕が引きちぎられてしまう。そんな妄想に囚われながら、勢いのままにケーブルごと振り払った。機器がベッド脇にぶつかり、軽い音を立てる。その瞬間、にわかに櫂は正気を取り戻した。 ――やった。やってしまった。 急に、認知がはっきりする。三上が、来る。迷惑が、かかる。 「……っ」そう思い当たった刹那、鼓動が早まった。思う通りに息が吸えず、強い焦燥にかられる。なんて言おう。どうやってやり過ごせばいい。どうしたら――。  するとその時、恐れていた通り、カーテンの向こうから足音がした。「……櫂先生?」そして静かな声とともにカーテンが開き、三上が入ってくる。彼女はベッド脇で歩を止めて、まずは距離を保ったまま様子を見回す。すぐにベッドの端っこで固まっている櫂を見つけて、静かに尋ねてきた。「……どうされましたか」櫂は息を乱しながら、やっとの思いで答える。 「……なんでもない」三上は、そんな櫂の言葉を否定しなかった。ただその視線をゆっくりと落として、即座に状況を把握する。 外れたセンサー。ケーブル。そして、空になった櫂の指先。「……外れてしまいましたね」それは、穏やかな声だった。 「大丈夫ですよ」そう言いながら、少しずつ距離を詰めてくる。「すぐに付け直しますね」櫂に向かい、その手が伸びてきた。その瞬間、櫂はそれが非常に恐ろしいもののように見えた。――触れられる。そう思った瞬間、さっきの痛みが脳裏に蘇った。即座に体が強張る。「やだ……」思わずそう、声が漏れた。それに反応して、三上の手がぴたりと止まる。「……失礼しました」 そして、その手が一瞬だけ引かれた。しかし櫂がほっと息をついたのも束の間、またゆっくりと近づいてくる。「少しだけ、触れますね」その手が、櫂の指先に触れかけたその瞬間。「やだ!」とうとう櫂は、大声を出して拒絶それをした。「落ち着いてください、大丈夫ですよ」 しかし三上は慣れた様子でそう言って、櫂のすぐ横に落ちていたセンサーをまず拾った。テープを切る音が響く。三上がセンサーを装着する準備をする姿を見つめながら、櫂はもう一度声をあげた。 「やだって言ってる……!」「ええ、聞こえてます、大丈夫です。すぐに着けますからね。怖くないですよ」しかし三上は一切動じることなく、櫂の横に跪いてその手を取る。そして手際よくテープを巻き始めるのだ。「なんで……聞いてよ……」カイの視線が揺れ、声が震えた。「やめてよ……いたいの、やだ。やめて」「わかりました。少し緩めますね」それでも三上は処置をやめる素振りはなくそう言って、センサーを指先に挟んだ。その瞬間走った、さっきと同じ鋭い痛み。 「やめろ、さわんな!!」櫂はそう強く言い放ち、乱暴に手を振り払った。乾いた音がして、三上が弾かれる。再び呼吸が乱れ始め、視界が揺れた。 「やだ……やだ……」櫂はそう繰り返しながら頭を抱え、首を振る。 「いらない」続いてぽつりとそうこぼすと、そのまま、はっきりと言い切った。 「もうやだ。おまえも、いらない」 その言葉に、三上の動きが一瞬止まった。しかし、櫂にはもうその姿すら見えていない。必死に何かを探すように視線を彷徨わせながら、 「……じい……」と、震えた声で呟いた。 「じい……じいがいい」次第にその声が大きくなっていく。 「じい、どこ。……じい!!!」――その瞬間、内扉が勢いよく開いた。「何の騒ぎだ?」航がそう言いながら、焦った様子で入ってくる。外れたセンサー。床に落ちた機器。取り乱している櫂。真っ先に目に飛び込んできたそれらから、一瞬で状況を把握した航は、「……すまない」と、まずは短く三上に頭を下げた。 「ありがとう。怪我はないか?」「はい。……院長、申し訳ありません」「なら、良かった。君が謝ることじゃない。後は、私が」「……お願いします」航は三上からセンサーを受け取ると、そのままベッドへ近づいた。そして、 「ほら、手を出せ。つけてやる」と、いつもの軽い調子で言う。しかし櫂は震えながら、何か恐ろしいものを見るような顔でそれを見つめ、か細い声で返した。「……やだ」航はため息をつきながら、それを無視して櫂の手を勝手に掴み取った。右の掌を上に向けさせて、慣れた手つきでセンサーを装着していく。 「兄さん……やめて……」櫂がそう言いながら、首を振る。「やだ、いやなの……」「そうか、わかった。終わったら、落ち着くまでぎゅっとしてやろうな」 「ちがう、それいやなの。兄さん、カイのおはなし、きいて」「ああ、聞いてるよ。大丈夫だ」櫂は赤い目を大きく見開いたまま、ひくりと喉を鳴らした。そうしている間にも、航によって手際よくテープが巻かれていく。全く有無を言わせぬ兄に絶望し、櫂は俯いた。 「じい」そして、ポロポロと涙を零しながら呟く。 「じい、どこ……」航の手が、一瞬止まった。わずかに顔を上げる。 「じい、たすけて」「どうした、大丈夫だ。ほら、兄さんがいるだろ」そう言って航がその頬に手を伸ばすが、櫂は首を振りながら強い拒絶を見せる。 「やだ!兄さん、やだ……!」そしてぎゅっと布団を握りしめて、「じい……じい……!」と、再び瀬戸を呼びながら泣き出した。しかし、いくら呼んでも瀬戸は現れない。   「じい、なんで」次第にその声に、怒り込められていく。「じい、なんでこないの。カイが、よんでるのに……!」そして、とうとうその感情が爆発し、叫んだ。 「じい!!」――航は小さく息を吐いた。それから一拍を置き、言葉を選びながら努めて淡々と告げる。 「瀬戸は、来ない」  その言葉に、櫂の動きがぴたりと止まった。航は構わずに続ける。 「……もう帰しただろ」 ――櫂の視線が揺れた。「……じい……」それは今にも消え入りそうな、か細い声だった。 「じい、なんで。なんでカイをおいてかえったの……」 航は眉をひそめ、「お前がそう命じたんだろ」そう当然のことのように言った。「じいも……」櫂の表情が、みるみるうちに歪んでいく。「カイのこと、嫌いになっちゃったの……?」「……違う。なんでそうなるんだ」――思考が飛躍し始めた、まずいな。  それが症状とわかりつつも、航は敢えてそう毅然と返した。櫂はそれには答えずに首を振りながら、「じゃあ、なんでこないの」と、声を震わせながら呟く。 「じい……なんで……」そして、次の瞬間。 「うあ……っ」とうとう泣き崩れ、蹲る。まるで子どもの地団駄だ。マットレスを叩きながら泣き叫んで、もう手が付けられない。 「じい……じい……!」 それを目の当たりにした航は、もはやどうしたらよいかわからない。頭を掻いて、小さくため息をついたその時、にわかに背後から気配を感じた。満だった。彼は静かに一歩前に出て、手にしていた小ぶりの医療ポーチを静かに開く。「限界です。ここで切りましょう」  するとその瞬間。コン、と控えめなノックの音が響く。間を置かず、扉がスッと開かれた。「失礼いたします」そして響いた、低く落ち着いた声。 刹那、あたりの空気が確かに変わった。瀬戸は室内を一瞥し、櫂のもとへ一直線に迷いなく歩み寄る。そしてベッドの脇で足を止めると、そのまま静かに跪いた。「坊っちゃま。爺は、こちらに」 それはすっと耳に馴染む、低く安定した声だった。櫂が、勢いよく顔を上げる。涙で滲んだ視界の向こうに、見慣れたその姿を捉えた途端、「……じい」と、かすれた声が漏れた。しかしすぐに、「じい!なんで、いなかったの!!」と、張り裂けるような声で叫ぶ。そして震える手で瀬戸の袖を掴んで、「おれ、よんだのに。いっぱい、よんだのに!」と、怒りと恐怖がまぜこぜになったまま、必死に訴えた。 「なんで、そばにいてくれなかったの……!」――瀬戸は、その手を振りほどくことはしなかった。主の理不尽な怒りをただ静かに受け止めながら、袖を掴む櫂の手をそっと包み込む。「申し訳ございません」 それを聞いた櫂は、すぐにまた声を張り上げた。「じいは、オレのこときらいになったんだろ……!」   そして瀬戸の手を振りほどこうと、暴れ始める。しかしいくらそうしても、瀬戸は決してその手を離すことをしなかった。  「じいも、オレのこと、いらないって思ったんだろ!」対し瀬戸は、一切の間を置くことなく、それを明確に否定した。「いいえ。爺は、いつでも坊っちゃまのことをお慕いしておりますよ」その言葉を受けて、櫂の動きがぴたりと止まる。「……じゃあ……なんで……」次に零れたのは、今にも消え入りそうな弱々しい声だった。そして、まるで糸が切れた人形のように、そのまま瀬戸へと縋りつく。「じい……こわい……」櫂はそう言って泣きながら、瀬戸の胸元に顔を押しつけた。「やだ……いやだ……」瀬戸はそんな櫂を引き寄せ、そっと抱きしめ、「――ええ」と、穏やかに応じる。 「お一人で、大変怖うございましたね」――その一言で。櫂の中で張り詰めていた何かが、音を立てて崩れた。「……う、ぁ……」すぐさま、嗚咽が漏れ始める。「ひとりで、だいじょぶって、思ったんだ」そうして、しゃくりあげながら必死に言葉を繋ぐ。「……ほんとに、思ったんだよ」「ええ」「だって、じい、オレのせいで大変だし、つかれてるし。じいになんかあったら、オレ」「ええ」瀬戸はただ、櫂の背を撫でながら静かに頷いていた。  みるみるうちに落ち着いていく櫂の様子に、航は思わず満の方を見た。彼もまた、ポーチに手をかけたまま瀬戸の手腕に見入っている。――これは、瀬戸じゃなければ、無理だ。到底、そう思わずにはいられなかった。 「よく頑張られましたね」櫂の指先が、ぎゅっと瀬戸の服を掴んだ。瀬戸はそれに応えるように、丸まった櫂の背をもう一度撫でながら続ける。「坊っちゃまのお心遣いのおかげで、爺はよく休めました。……どうかご安心ください。爺は、これからもずっと坊っちゃまのお側におります」ついに、櫂の身体から完全に力が抜けた。 「うあぁ……っ」体重を預けるようにして瀬戸に寄りかかり、大きな声を上げて泣く。  瀬戸はそのまま静かに櫂を抱き留めた。そして、いつもと変わらぬ穏やかな声で締め括る。 「坊っちゃまは、爺の誇りでございます」