LNCrawler

1-5.

うさぎさんは、おおかみさんと檻のなか — fujossy.jp · All chapters

1-5.

院長である航の号令を合図に、それぞれが持ち場へと散っていく。航の取り成しにより、あれだけ怒りを顕にしていた部長もすっかり士気が上がっていた。上位者3人での最終確認を終えた後、誉は顔を上げる。 櫂が航の執務机の前でまた何かに"引っかかっている"のを見て苦笑いを浮かべた。それに航が続く。「あ、やばい、アイツ」そして、櫂の手の中の冊子に気づいて頭を抱えた。「新器材の取説、しまっておくのを忘れた」「あれはもう、完全に"入った"ね」「どうするんだよ、準備」「いや、寧ろ大人しくていいんじゃないかな」 誉はそう言うと、取説を熟読しているカイの顔を覗き込んで「うん」とだけ改めて呟いて、躊躇なく抱き上げた。櫂の反応はないが、気にせずまっすぐに彼の個室へ向かい歩き始めた。その後を追う航が、恨めしげに言う。 「お前がそうやって甘やかすから!」すると誉は、一瞬だけ足を止めて振り返り、「違います。この子の特性に合わせた配慮です」と、さも当然のことのように返した。航は呆れたように一つ息を吐き、肩を竦める。 「……あぁ、そうだ。更衣室から手術用スクラブを取ってきてもらえますか」 「そこのワードローブにある」「ジャストサイズの新品じゃ、駄目。ワンサイズ大きく、極力着古したものを。後ろのタグは切ってください」「……人使いが荒いな」「院長先生なら既知かと存じますが、櫂くんのパフォーマンスを左右する大切なことです。くれぐれも宜しくお願いします」「……お前、最近、俺への当たりが強くないか?俺、何かしたか?」誉は即座に横を向いた。「……別に」  首を捻りながら執務室を出ていく航を尻目に、誉は櫂をベッドに下ろした。そして、慣れた手つきでオーバーベッドテーブルを出す。「カイ、お手々、ここね」「……うん」促してやると、櫂はそこに取説を置き視線を落とした。同時に身を乗り出すので、誉はそれを戻してやりながら、上着を脱がせる。 それから、乱れかけたその三つ編みを解いた。サラリと銀糸のように艷やかな髪が櫂の細い肩に落ちる。誉は滑らかなその手触りを密かに楽しみながら、優しく声をかけた。「キャップを被るから、髪の毛上げちゃうよ?」「……うん」 するとその時、航が戻ってきた。誉がわずかに肩を落とす。「おーい、持ってきたぞ」「……やけに早かったですね」「三上がそこまで持ってきてくれていた。"これなら櫂先生でも大丈夫ですぅ〜"、だそうだ」「……さすが、三上さん。気が利きますね」「あぁ。とても優秀なナースだ。櫂の扱いも上手い。彼女には何かと助けられてるよ」「……」 誉は曖昧に頷いて、櫂のワイシャツを脱がせた。少しごそついた素材の触感に眉を寄せた後、三上が用意した柔らかなスクラブを着せてやる。一方で、当事者の櫂はされるがまま。相変わらず黙々と取説を読み続けていた。「そうだ、櫂。ネブライザー、吸って行け」 櫂の着替えがあらかた終わると、思い出したように航が言った。内ポケットから先程使い損ねたアンプルを取り出す。「櫂、ネブライザー」「……」  驚異的なスピードで読み進められた取り扱い説明書は、既に三冊目。その残りも、あと数十ページだった。 誉は即座に判断する。まず、ネブライザーは時間がかかる。取説を読み終えたら櫂はこちらに"戻ってくる"。そうしたら、きっと強いイヤイヤが始まるだろう。大切な手術前に、繊細な彼の心を乱してはならない……ならば。 「カイ、吸引しとこうか」「吸引?いや、胸の音、結構おかしいぞ」「この感じなら、サルブタモールでいいよ。術中は持つ。それに今はこの子、ネブライザーは吸わないと思うよ。だって、ほら」誉はそう言うと櫂の背中をトントンと軽く撫でた。「カイ、吸って。止まってるよ」「……ん」「呼吸忘れるって……。ほんと極端だよな」「それだけ集中してるってことです。長所だよ」「短所とも言える、紙一重だな」「いいから、さっさと用意して」「全く。お前くらいだよ、俺を顎で使うのは」「院長先生におかれましては、人の上に立つ者として、下々の気持ちを理解するために、そういう経験もしておいたほうが宜しいかと」「よく言う」 ため息交じりに航は返しつつも、手際よく用意を済ませた。しかし、いざ櫂の口にマスクを当てると、眉を寄せながら首を横に振ってイヤイヤされてしまう。同じ事を3回も繰り返しているのを見かねた誉が、航から一式を取り上げた。 そして暫く様子を伺い、櫂がページをめくり始める瞬間を見計らってマスクをその小さな口に当て、トントンと背中を撫でながら声をかける。「はい、1回。深く吸うよ」すると櫂はスムーズにスッと薬剤を吸い込んだ。「よし。おしまい、お利口」「……こいつ。マジでお前なら何でも言うこと聞くな。返事もするし」「タイミングだよ。君はいつも間が悪い」「はあ?!子供じゃあるまいし。そもそもな。もう、コイツもいい大人なんだぞ」「そうだね。随分手がかからなくなったじゃないか」「……ついていけねえ、その感覚」「ついてこなくていいです、別に」「……なあ、お前。やっぱり俺への当たり強くないか?」「……」「横向くな」「……さて、カイ。最後に髪の毛結うよ」「おい、お前まで無視すんな」 誉はカイの髪をすくい上げ、丁寧に三つ編みを作る。そしてくるくると巻いてから、後頭部の真ん中にお団子のようにして留めた。航が感心したように言う。「お前、ホント器用だよなあ。オレには無理」「一応、脳外科医やらせてもらってるので」「いや、髪結いはまた別技能だろ」「似たようなものだと思うけど」「全然違うってば。なんだよその謎理論。大体、その髪だって邪魔だから切ればいいものを、俺がいくら言ってもイヤイヤの一点張り。結局、お前がフェロー行ってから1ミリも切れてないんだ」「うーん。ここまで伸びちゃうと、逆に切らない方がこの子は楽なんじゃないかなぁ。乾かすのに時間がかかるのはネガだけど、結ってしまえば顔へのかかりも調節できるし、散髪の回数も減らせる。もし定期的に長さを整えるとしても、切るポイントを顔元から離せるしね。そして何よりも、かわいい」「かわいいって……」「かわいいでしょ。最高にかわいい。……それに、よくよく調べるとヘアケアって奥が深くてね、すっごく楽しいよ。この子のお陰でまた新しい世界が広がったって感じ」「……はあ、ついていけない。その感覚。俺には無理、面倒過ぎる」「だから、ついてこなくて結構だってば」 そのタイミングで櫂が取説をパタンと閉じた。ふうっと息を吐いて、ゆっくり吸った後、大きな瞳をパチクリとさせる。「胸、治りましたね。あれ、お着替えも済んでいる?いつの間に?」「……お前、いい加減にしろな?」 頭を抱える航とは反対に、誉は笑みを零しながらそんな櫂の背を撫でて立ち上がる。「さて、俺はそろそろ自分の準備を始めるよ。カイはもう少ししたら、前室においで。キャップとマスクをつけてあげるからね」すると櫂は誉を見上げて、口を尖らせながら返す。「お構いなく。本手術は、あなたが要です。ご自身のことに集中してください」 誉は「どの口が」と言いかけた航を即座に制し、目を細めて微笑みかける。そして、「俺がやりたいんだよ。頼むね」と言い残して、静かに部屋から出ていった。  航は肩を竦め、その背を見送った後、櫂に向き直り尋ねる。「で、器材の使い方は理解したのか?」櫂は航を見もせずに、即座に答えた。 「問題ありません」「……リハなしの初稼働だ。念のため、新器材の使用に長けたガイドナースをつける」「不要です」「まあ、念には念を、だ。無用な口出しはしないよう、伝えておく」「……」「なぁ、櫂」  そして兄はそう言うと、一拍を置いて弟の前に跪いた。それから櫂の右腕を撫でて、一段声色を落とす。「俺がしてやれるのは、ここまでだ。お前が泣いて悔しがった、あの日の雪辱を果たせ」そして最後に、兄は唇を引き噛み締め、言った。 「やれるな」「……当然です」 強く頷く櫂の瞳には、兄の姿と共に、凛とした強い光が宿っていた。  ★「お前、ラッキーだぞ」「へ?」 新第三手術室前、更衣室。キャップを直しながら、ふと佐々木が山川に言う。「急変がラッキー?先輩、さすがに不謹慎ス」緊張した面持ちの山川はそう言うと、佐々木の横で肩を落とした。「ちげーよ、そっちじゃねえよ!」一方佐々木は、落ち着いた様子でマスクをつけ、呟くように言った。「……またあの2人の手術に立ち会えるとは思わなかった」「あー、今朝誰かが言ってたツートップ云々ってやつスか?てか、如月先生、ゼコゼコしてましたけど、体調大丈夫なんスかねー。それに、緊急カンファの時の先生、特にエグいヤバさでしたよね」「はあ。お前、語彙力うっすいなー。調子狂うわ」ため息交じりに肩を落とす佐々木に、山川は声を潜めて畳み掛ける。「てか、副部長。あの人も大概様子がおかしかったッスよね。如月先生を見る目、なんかこう、ただの部下を見る目じゃなかったッスよ。あれ、何だろ、そう……弟?息子?」「だから言ったろ、昔からそんな感じだって」「何なんスかね。副部長もめちゃくちゃ家柄良さそうですし……あ。幼なじみ……とか?」「それはない。昔、同郷だって盛り上がったことがある。まさかあの如月兄弟が瀬戸内育ちとは思えんだろう」「それはそうッスね……」 するとその時、前室のドアが開閉する音がした。間を置かず誉と櫂が前室に姿を現し、そのまま部屋の中央で向き合って立ちながら、話をし始める。「じゃぁ、キャップとマスクをつけようか」「自分でできま……」「カイはSSサイズだね。これはさすがに大きめってわけにいかないからなぁ……」「……Sです」「SSだよ。……ちょうどいいね。かわいいよ」「……聞いてます?」「うん、聞き流してるよ」「……留めてください」そもそも佐々木と山川の存在に気づいていないのか、それとも敢えて無視をしているのかわからないが、誉と櫂だけの世界が広がっている。言い表せない居心地の悪さを感じながら、二人は息を殺して支度が終わるのを鏡越しに見守った。「私、先に入りたいです。 新しい器材を見ておきたいので」「そうだね。じゃぁ、俺も」 そして誉がスクラブアップに向けてゆったり歩き出すと、櫂はその後を子ウサギのようにちょこまかと追って行った。 ドアが閉まるや否や、山川が佐々木に言う。「……先輩が"可愛い"って言ってた意味、今何となく分かったっス」佐々木は眉間を手のひらで押さえ、深いため息をつきながら返した。「……だろ」