3-19.
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航は院長室の扉を静かに閉め、立ち止まる。それからふっと息を吐きつつ、横の満に向かって言った。 「……瀬戸がいなかったら、ヤバかったな」「ええ、よく帰らずにいてくれましたね」「あいつは、昔からそうなんだよ。櫂ファースト。しかし、いつまでも瀬戸頼りというわけにも……」「……そうですね」 先ほどまでの騒ぎが嘘のように、院長室内は静まり返っていた――が。 「……うわっ、なんだお前!」次の瞬間、航が違和感に気づき、そう大声を上げた。誉が応接用のソファーに平然と腰を下ろしていたのだから、無理もない。 それだけではない。 誉は勝手にコーヒーを飲み、同じく勝手に広げた菓子をつまみ、そして。 ――ぱきその手元で、そう乾いた音を響かせている。 「おまっ、何でフツーにいるんだよ!」航が思わず大股で近くに歩み寄り、そう声を荒げた。しかし、誉は航には目を向けずに、「そんな言い方なくない?呼ばれたからわざわざ来て差し上げたんだけど」そう不貞腐れた様子で答える。と、同時に。 ――ぱき と、またさっきと同じ音。 そして誉は、手の中のものをポイッと机に投げ捨てて、立ち上がりながら低い声で言う。「……帰る」「ああっ、待て。待て、待て!!」航はそれを慌てて引き止めた。 ――いけない。櫂の発作のいざこざで、すっかり忘れていた。 最近の櫂の様子と、祝賀会での対応の話をしたくてわざわざ呼び立てたのだ。 「そうだったよな!悪かった。俺が悪かった。だから、とりあえず座れ!」「……」 誉は横を向きながら、再びソファーに腰を下ろし直す。と、同時に、テーブルの上のボールペンを一本、その手に取った。――ぱき 「……出たよ、誉の破壊芸」その様子を見て、航が肩を落とす。 ――ぱき誉は返事をする前にまた同じ音を響かせた後、ボールペンを机に放る。それは、無惨にも真ん中からへし折られていた。また、誉の前の机上には、同じような残骸が何本も転がっている。それを見ながら、満が静かに言う。「……まだ治ってないんですね」「なにが」しかし誉は一切悪びれる様子もなく、次を手に取った。――ぱき対面に腰をおろした航が、それを見ながら眉をひそめる。 「久しぶりに見たな、それ。フェローの内示面談以来……、か」室内の空気が、ほんの少しだけ沈む。満もまた、わずかに目を細めた。 だが、当の本人は、「なにそれ」とだけ薄く笑って返すと、また握り拳に力を込めた。――ぱき そしてようやく何かに気がついた航が、額を押さえて、「……おい。お前、それ」と、机の上を指す。「祝賀会のノベルティのサンプルじゃねーか。お前、なんてことしてくれたんだ」 その言葉に、ようやく誉が顔を上げ航を見た。しかし、その目は全く笑っていない。次に発せられたその声は、普段の誉からは想像もつかないほど冷たかった。 「それは、こっちのセリフだよ」 ――ぱき 「お前こそ、俺のカイに何してくれてんだよ」 ーーそこを突かれると、痛い。 だから航は、敢えてそれには答えなかった。代わりに、バツが悪そうに頭をかき問いを重ねる。「……お前、いつからいた」「カイの泣き声が聞こえたあたり」「結構序盤じゃねーか」 誉は興味なさそうに肩をすくめた。そして、間髪入れずに――あの音。――ぱき新たに犠牲になったもう一本を机に投げ、新たなペンをサンプルの束から抜き取る。 「……でも、君が許可するまでカイとの接触は避けろとか言うし。まあ、瀬戸さんのことも立ててあげないと、と思って」 その声音は、ぞっとするほど平坦だった。だが、その奥にあるものは明らかに穏やかではない。 ――ぱき 「すぐにでも駆け寄って抱きしめてあげたかったのを、俺は理性を以ってちゃんと我慢してたわけ」あっという間にもう一本が、その手の中で歪む。「……むしろ、褒められて然るべきだと思うけど」航が額を押さえた。ため息をつく。「ああ、そうだな。配慮と心遣い、痛み入る」「心がこもってないな」「こもるわけねーだろ、ったく。てか、お前、それマジで櫂の前でやるなよ」「何の話?」「その、物に当たるやつ」「やれやれ、君には言われたくないな」 また、誉の手の中のペンが新しいものに入れ替えられた。「櫂が見たら、怖がる」「やるわけないでしょ。カイといたら、苛つくことなんて何一つないからね」「……こちらも重症ですね」満もため息交じりにそう言い、眼鏡を押し上げた。 誉は背もたれに体を預け直し、足を組む。そして、ボールペンを指先でクルクルと回し遊ばせながら続ける。「俺なら、もっと早く上手に櫂を落ち着かせられる。というか、そもそも発作なんて起こさせない」「……でしょうね。ですが、今回はそれでは意味がないので」誉の手が、一瞬だけ止まった。「……どういうこと」誉の目の色が、すっと変わる。満にかわり、航が続けた。 「櫂が自分をコントロールできるように、仕込む」 ――ぱきまた、音が鳴る。「そのために、ある程度自分の振れ幅、その時々の気持ちの整理の仕方を学ばせる必要がある」「……あなたが居ると、櫂は頼ってしまいますから」「ふうん」 誉は歪んだボールペンに視線を落としながら、曖昧に頷き、目を細めた。「で、その結果があれ?」そして、小馬鹿にするように鼻で笑いながら言う。 「大失敗してるじゃん」 ――航が小さく息を吐いた。「……だから、お前を呼んだんだ」誉の視線が、ゆっくりと航に向く。「おや。君たちの崇高な作戦に、俺はいらないんじゃなかったの」それを嗜めるように口を挟んだのが、満だった。「いい加減、ご機嫌を直しなさい。子供じゃあるまいし、もう十分でしょう」「……」 即座にふいっと横を向いた誉に、肩を竦めて見せる。そして何も言わずに、机上の残骸の山を片付け始めた。 その横で、航は腕を組みながら続ける。「高校、大学、国試……。思い返すと、櫂の特性を考えればすべてほぼ絶望的な節々のイベントを、お前は卒なくこなさせてきた。――そのやり方を、教えてほしいんだ」「なんでだよ、いやだよ」対する誉は、即答でそう断り、「瀬戸さんに聞けば」と、更に追い打ちをかけて横を向いた。「……瀬戸には、無理だ」引き下がれない航はそう低く言い、短く首を振る。「瀬戸は、確かに発作後の対応には長けている。だが、発作を防ぐことについては、お前の方が上だ。ましてや、あいつに何かをやらせることにかけては……」そして航は目を伏せて一拍待ち、言った。「お前の右に出る者は、まずいない」「……」 誉と航の視線が、交わる。櫂に向けるそれとは真反対の、冷たい目だった。――ああ、完全に怒ってるなこれ……。 航はやりにくさを感じながらそう心中で一人ごちる。しかしここで誉の助けがなければ、おそらく望む成果は得られない。――仕方ない、余計怒らせる気がしないでもないが、ここはきちんと話そう……。そう腹を決めた航は、一つ咳払いをして、言う。 「来週、ウチの祝賀会に櫂を出すことになった」その途端、空気が静かに張り詰める。 誉は何も言わない。それに構わず、航は真っ直ぐ誉を見ながら続け、「櫂が、自分の意思でやりきりたいと言った。……成功させてやりたいんだ」 そして、真摯に頭を下げた。 「――頼む」 数秒の、沈黙。 ――ぱき 誉が握っていたボールペンが、また音を立てて歪んだ。 「……はあ」 誉が、小さなため息をつく。そのまま手にしていたボールペンを静かに机に置く。次のペンに、その手は伸びなかった。 それから、背もたれに深く身を預けると、足を組み、天井を一度仰いだ。その後、ゆっくりと視線を航へと戻した。 「……めんどくさ」そして、低くぶっきらぼうにそう言う。だが、その声には先ほどまでの棘はもうない。 「で?」誉は腕を組みながら、航に向かい軽く顎をしゃくった。「その祝賀会とやらで、君はあの子に何をさせるつもり?」「……櫂の、縁談が始まる」航は、短く言う。「祝賀会で、当主……お祖父さまから、正式にその旨が発表されることになっている」誉は一瞬その目を大きく開き、すぐに細めた。「……それで?」「櫂は、全部それらを断りたいと言っている。もちろん、自分の言葉で」 場の空気がすっと冷えた。しばらくの重い沈黙の後、誉が口を開く。 「……言いたいことが、二つある」 航はゴクリと喉を動かして、次の言葉を待った。「まず、縁談は君も含めて如月家の総意?」「違う、少なくとも俺は違う」「けど、お祖父さまを止めはしない、同じだよね」「……っ」「誉、如月当主は、あなたが思うよりもずっと」「如月帝国の治外法権なんて、俺は知らない。関係ない」「ですが」「いや、満、いい。誉の言う通りだ。祝賀会では如月家の総意として、櫂の縁談開始が宣言される。その事実に変わりはない」「どうせ俺との婚姻届騒動を経て、櫂に結婚の意思ありとか逆手に取られたんでしょ?」「……」――図星だった。 航が何も言えずにいると、誉は小さく息を吐く。「……まあ、いいや」そして軽く首を振り、まるでカンファでの発言のように、ハッキリとした口調で続ける。「君は、いつもそうだ。家と俺たちの折り合いを、小手先の二枚舌で何とかしようとして失敗する」 航の指先が、わずかに強張った。「では、二つ目」 思わず視線をそらしそうになる航を、逃さないとばかりに鋭く睨みつけながら、誉はゆっくりと言い切る。 「君は自分の失敗の責任を、櫂に取らせるの?」またしても、航は何も答えられなかった。わずかに視線を逸らし、口を開きかけて閉じる。 喉の奥で言葉が引っかかる。うまく出てこない。「……いや」それでも時間をかけ、ようやく返事を絞り出した。「本来は、俺がやるつもりだった。……でも、あいつが」だが、すぐに言葉に詰まってしまう。それを誉が、大して間を置かずに拾う。 「君のことだから、どうせカイに言わせたんでしょ。……"自分でやりたい"って」航は、ギクリと肩を揺らす。 そして誉に目を合わせられぬまま、「……誘導はしていない」と、歯切れの悪い返事をした。「選ばせたんだ」「同じことでしょ」一切の容赦なく、誉は切り捨てた。「“本人が決めた”って形にして、自分は一歩引いた場所に悠々と立ったわけだ」それからそう言うと、航を射抜くように見る。「でも実際には、選択肢は最初から君の思う通りになるよう、絞られている」「……」「逃げ道を塞ぎ、“自分で選んだ”と思わせてるだけ」もはや航は、何も言えない。誉の言葉は辛辣だが真実で――否定できない。「経営者としては素晴らしいマネジメント力だけど、兄としてはどうなの、それ」その重くなり続ける空気の中で、誉はふっと息を吐いた。「……まあ、それも別にもういいや。今すぐ君に答えが出せるとは思えないし。――でもさ。仮にカイが自ら選んだ、君は優しい兄としてそのフォローを約束したとしよう。で、その結果が、さっきのあれ?」 その瞬間、誉はわずかに口の端を歪ませた。「あんなに泣いて、助けを呼んでた」 航の瞳が、わずかに揺れ始める。誉はそれを見逃さず、「君さ」と、静かに言う。「カイをわざと苦しめて、試してるの?」「……違う」それには航も間髪入れず、否定し返した。「そんなつもりはない」「じゃあ、何」誉はさらに語気を強めながら、即座に被せる。「守ってるつもり?」「……」「それとも、育ててるつもり?」そして誉は、吐き捨てるように言った。「――どっちでもいいけど、さ君は、端からやり方を間違えてるんだよ」そして目を伏せ俯いた航を見つめながら、続ける。「……ねえ、航。君は、どこを向いているの?お祖父さま?如月家?跡取りの椅子?」その一歩踏み込んだ言葉に、航が視線を上げる。「それとも……カイ?」――それは航にとって、まるで鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。「俺は……」そう反射的に口を開いたが、後に繋げられない。 そして訪れる、沈黙。それは、思ったよりもずっと長く続いた。航は眉を寄せたまま、ただ誉を見つめている。 ――葛藤している。そう悟った誉は、目線を落とし人知れずふっと笑った。 そしてすぐに顔を上げる。それを見た満は目を細め、同じように小さく口元を緩ませた。 「……今まで、君は。カイを見てるつもりで、見てこなかったんだと思うよ。それじゃ、うまくいくものも、いかない」 誉は立ち上がり、机に手をついて身を乗り出し、そのまま航の肩に手を置いた。強張っていた力を、すっとほどくように撫でながら言う。「――例えば。君が、如月家の跡取りじゃなくて。カイの兄として何とかしてやりたいと思うのなら。……協力してやっても、いいよ」そうして微笑んだのは、親友でーー誰よりも優しい弟の恋人、"卯月 誉"そのものだった。