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1-8.

うさぎさんは、おおかみさんと檻のなか — fujossy.jp · All chapters

1-8.

カイはソファーに下ろされそうになると、イヤイヤと首を横に振った。誉のシャツを強く掴んで離そうとせず、断固拒否の姿勢である。 何か気をそらすものは無いかと、誉があたりを見渡すと、手前のカフェテーブルにカイのカバンが置いてあるのを見つけた。その蓋を片手で器用に開けてみる。狙い通り、中でカイが大切にしているウサギのぬいぐるみがお留守番をしていた。それを抜き取って抱かせてやると、カイは反射的にギュッと抱きしめて大人しく誉から離れた。 「ちょっと待っててね」  そう言われると、素直にコクンと頷いて、ネブライザーの準備をする誉の背中を大人しく目で追う。呼吸がまだ浅く、少しぼんやりしている様だった。 やがて誉がソファーに戻ってくると、流れるように膝に乗って、その胸に頬をすりつける。 小さく空気が抜ける音がして、細かな霧が立ち昇った。続いてカイの苦手な、しゅう、しゅう、という湿った音と、薬剤の独特な匂いが室内に広がった。予想通り、カイがわずかに眉を寄せる。けれども、誉がマスクを近づけると拒むことなく受け入れた。  最初は誉のなすがままだったが、やがて左手を伸ばしてマスクに触れ、最後は自分で持つようになる。だから誉はカイの細い指にそっと自分の指を添え、角度を整えてやった。 カイは時折眉を寄せながらも、懸命に霧を吸い込もうとする。だが、吐くタイミングが上手く掴めないらしく、呼吸が引っかかってしまう。 そこで、その背中を上から下に撫でながら自分の腹を意識的に動かしてみせる。すると、つられるようにカイの呼吸が少しずつ整い始めた。 カイの腕から、ウサギがポロリと膝に落ちた。誉はすぐに拾い上げてもう一度抱かせてやるが、その腕の力は緩慢で、またするりと抜け落ちてしまう。けれども今度は、落ちきる直前に自分でその耳をムズっと掴んで引き寄せた。 「おわったよ」 誉がそう告げてマスクを外してやると、カイはくぁっと大きな欠伸をした。先ほどまで気になっていた喘鳴音は、もう聞こえない。 そのままカイは、マスクを片付ける誉の手を追うようにそっと手を伸ばした。触れた指先が、ポカポカと温かい。 誉はその手を包み込んで、大切に撫でた。指の付け根が内出血を起こして赤紫に変色している。特に中指の根元には、血が滲んだ痕があった。――早く手当てをしてやらないと。 けれど、消毒液の匂いも、ガーゼやケアテープの感触も、今のカイには刺激が強過ぎる。せっかく落ち着いたところを、また不用意に揺さぶる必要はないだろう。誉はそう思い直し、カイが眠りに落ちるのを待つことにした。 案の定、すぐにカイの動きは緩やかになっていった。重ねた指先の力も、もう完全に抜けている。「眠たいね」「……ん」 その頭をゆっくり撫でると、カイはついと顔を上向けた。そのままゆっくり頬と顎下を撫でてやる。すると心地よさそうに目を閉じ、また一つ大きなあくびをした。「カイ、今日はたくさん頑張ったもんね……」 するとカイは瞳を開けて、誉を見る。「しゅじゅつ……すごかった……」「そうだね。カイ、君がいてくれて本当に……」 「さすが、ほまれだね」  そして眠気に滲んだ声でそう言ってフフッと笑うと、また誉の胸に頬を擦りつけて瞳を閉じた。「…ほまれのとなりにいられて、よかった。ありがと」  違う。礼を言いたいのはこちらの方だ。――とは、結局言わせてもらえぬまま。カイはそのままスヤスヤと眠りについてしまった。「……敵わないな、君には……」 誉はゆっくり息を吐いて、人知れずそう呟く。そして穏やかな寝息を立てるカイの髪に、そっと唇を落とした。 カイが胸が、規則正しく上下している。 ――大きな発作に至らなくて、本当に良かった。  誉は心からそう思いながら、カイの長い髪を解いてやる。白髪がさらりと肩に落ちた。その様子が本当に儚く、美しくて思わず指が止まる。  ――そろそろベッドに下ろしてやらないと。 頭ではそう分かっているのだが、名残惜しくて踏み出せない。 この重さも、温かな体温も、こうやって触れるのも、何だかとても久しぶりに思えた。  ――もう少し。もう少しだけ……。そう自分に言い聞かせながら、誉は穏やかな余韻に浸っていたのだが――。 二人の静かな時間は、遠慮のないドアの開閉音と、「お、生きてたか〜」という場違いな明るい声によって、突然破られた。誉は反射的にカイを抱き直し、振り返る。声の主が誰なのかはわかっているが、その名を呼ぶ気にはなれなかった。「いやぁ、ご家族からもかなり感謝されたぞ!術時間は最短、患者さんの意識も戻りつつあるそうだ。お前、フェローでまた腕を上げたなあ!」「……」 誉はため息をつきながら、口元に人差し指を当てて見せる。航はようやく状況を理解したようだった。 「なんだよ、寝てんのか」 罰が悪そうにそう言いながら、誉の方へと寄ってくる。「三上がさ、'櫂先生がめっちゃヤバいんです〜!"って山川みたいな事を言ってたから心配した。……失礼」 それから俄に表情を引き締めそう言うと、カイの顔をのぞき込み、白衣のポケットから聴診器を取り出した。誉がわずかにカイの体勢を整えてやると、慣れた手つきでスクラブの襟首から胸に当てる。  「……大丈夫だな」ほっと安堵の息をつく航。一方、誉はカイを抱き直して、上下する胸にそっと触れ言った。 「まあ……ネブライザー、出来たからね」「えっ。それは……大変だったろ」「いいえ。自ら進んで。『誉が背中をなでてくれるなら喜んで』ってね」「……喜んでは、ない。盛ったな」「……」「おい、横向くな」「それより、その声の音量どうにかならないの?折角気持ちよく寝てるのに、無神経な兄の声で起きたら可哀想でしょ」「お前、やっぱ俺への当たり強いよな?!」「シッ」相変わらず釣れない態度の誉に、航は肩を竦めて返し、その横に腰を下ろした。  「あの論文をお前が出したとき……」そしてカイの寝顔を見つめながら一段声を潜めて、おもむろに話し始める。 「櫂は大喜びしたと、思ったらすぐに泣き始めて。しまいには怒りだして、それはもう大変だった」 カイの胸を撫でていた誉の指が止まった。 「……まぁ、そうだろうね。あれは、出すべきじゃなかった」 その言い方がひどく誉らしくなく、航は言葉を詰まらせた。「あの時の僕は、どうかしてたんだ」「いや」予想外の返しに調子が狂った航は、罰が悪そうに頭を掻く。「"これは凄い理論と技術だ、革命だ"ってうるさくてな。俺は専門じゃないから、詳しいことはわからんと言ったんだが……」航はそう言いながら、ポケットから四つ折りの紙を取り出し、誉に差し出した。しかし誉は視線を向けるだけで、手に取ろうとはしない。「そうしたら『勉強しろ』と、これを」 だから航は、もう一度それを誉に見せつけながら、顎を少しだけ上げて促した。誉はやっとそれを受け取り、広げる。「……っ」そして、すぐに息を呑んだ。 それが、まさにあの論文そのものだったからだ。表一面、赤文字で解説が書かれている。見間違えるはずがない、カイの筆跡だった。  これは、誰からも顧みられなかった論文だった。それなのに、こんなにも読み込んでくれていたなんて……。  それだけで、誉の胸はいっぱいになる。 そんな誉を尻目に、航が続けた。「櫂"先生"から直々にご指導頂いたおかげで、俺もこの分野には随分詳しくなった。今日のご家族への説明にも役立ったよ」誉は航の話を聞き流しながら、紙を捲った。そして、即座に眉を寄せる。「……僕は、このデータを知らない」「だろうな。あいつがどうしても記載してある臨床データだけじゃ納得出来ないって荒れてさ。共著の内科医にいくらメールをしても完全無視されると泣くもんだから……。仕方なく俺がツテを使い内密に、な」「こんな……こんなことが……」「櫂も全く同じ反応だった。結果論だが、このデータを見る限り、病変の活動中心では、従来法と同様に"進む"ことも十分可能だった。論文掲載のデータは、それを隠すために敢えて統計処理がなされている……、だそうだ」 絶句する誉に、航は続ける。「誰だって目測を誤ることはある。けれど、それを隠すことは一番の禁忌だ。そんな不誠実な人間の元にお前を送ったのかと、櫂には随分責められたよ」「……」 誉は黙り込んだまま、カイの分析結果を指でなぞった。時折、文字が滲んでいた。よく見ると、涙の跡のようだった。 「最後には、お前の元に留学するとまで言い出した。まったく、退院の目処も立たないのに馬鹿を言うなと止めたら、もう大暴れ。そこの内側の扉は、3回も交換する羽目になった」  そこで誉の顔色が一気に変わった。論文をスッと下ろして、声色を一段下げ問い返す。「……カイ、入院してたの?」すると航は一瞬驚いた顔をして、ため息をついた。「――あいつ。そうか、言ってなかったのか……。そうだよ、お前が発ってすぐに体調を崩してな……」「聞いてない。君はいつも"うまくやってる"と言っていたよね。俺に隠してたの?」「いや……」「そうか、君の仕業か。……おかしいと思ったんだ。あの子が俺に全く連絡を寄越さないなんて……」 その時、誉の腕の中のカイが「ううん」と喘いだ。誉はハッとしたように口を噤み、優しくその頭を撫でてやる。するとカイは、むにゃむにゃと口を動かして、誉のシャツを掴み直す。そして、すぐに再び柔らかな寝息を立て始めた。 誉は、その頬を愛おしそうに撫でながら呟く。「知れていれば、すぐにでも帰国したのに。やっぱり、フェローなんて行かなければよかった。この子を犠牲にしてまで、行く必要はなかった……」「……なるほど。だからか」「どういうこと?」  ――誉は、本当に分かっていないようだった。だから航は肩を竦めて、ため息交じりに返す。「俺じゃない。……理由は、本人に聞くべきだろう」そして誉の手から紙を引き取り、少しだけ声の調子を落として続けた。「……論文の評価なんて、どうでもいいじゃないか」誉がわずかに顔を上げる。「事実として、この新しい手法で救えた命がある。それだけで十分だろう」「……」「確かにこの論文には余白がある、完璧じゃない。けど、新しいことをやったんだ、当然だろ」航は、誉の方をまっすぐ見た。「お前は今日、あの日から一歩前に進んだ」次に、穏やかな表情で眠るカイへと視線を落とす。「そして念願叶ってその一歩を支えたのが、こいつ。……散々暴れて、人を振り回しておいて、この顔だ。まったく、手がかかるやつだ」そう言って、指先でそっとその鼻先をつつくと、カイの眉がきゅっと寄るのを見て口元を緩ませた。 「お前のこの論文があったからこそ、こいつは今日まで踏ん張れた。じゃなきゃ、今も病室のベッドの上だっただろうよ」 更に一拍置き、航は続ける。 「この論文は、必要だった。患者のためだけじゃない。……お前のためにも、櫂のためにも」  誉は何も言えないまま、ただカイの体を抱く手に力を込めた。航は、そんな誉の肩を軽く叩いて静かに立ち上がる。「……お前も今日はもう上がれ。疲れたろ」 内扉に向かう航の背に向かい、誉が静かに告げる。「……今夜は、この子に付き添います。起きた時に一人だと……寂しがるでしょうから」 航は振り返らずただ左手を軽く挙げて応え、扉の向こうへ静かに消えて行った。