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1-9.

うさぎさんは、おおかみさんと檻のなか — fujossy.jp · All chapters

1-9.

「胸、苦しくない?」「うん」「目、痛くない?」「うん」「頭とお耳は、痛くない?」「うん」「お手々の傷、シャワーで染みなかった?」「うん」「ワイシャツ、擦れて痛くない?」「うん」「スカーフ、気にならない?」「……うん」「三つ編み、きつくない?」「…………うん!大丈夫!!もう、ほまれ、うるさい」カイはそう言うと、ムスッとした顔で誉を振り返った。「おや。スカーフ、ちゃんと結べてるじゃないか。 お利口さんだね」「……直してるくせに、よく言う」「ふふ、カイは赤が似合うね。本当に可愛い」「また聞き流してるし」 恨めしそうに見上げてくるカイの頬を、誉は楽しげに人差し指でツンとつつく。すると、カイは益々頬を膨らませた。 昨日の様子から、その体調を心配していたのだが――どうやら杞憂だったらしい。今日のカイは、朝からやけに調子がいい。  薬を素直に飲んだ。 朝食を残さず全部食べた。 入浴もひとりで済ませた。   年に数えるほどしかない、快挙である。 「もう、ほまれは過保護過ぎ。オレはもう、子供じゃないんだからな」「はいはい、そうだね。カイはもう立派な大人だね」 誉はそう言いながらもカイの前に回り込んで、その襟元や袖口を整える。カイは天を見上げ、小さくため息をついた。 そして諦めたように誉に促されるまま、兄に誂えてもらったばかりの黒いジャケットに袖を通していく。「わあ、スーツもよく似合うね。……可愛いなあ」「……」  「おーい、櫂。そろそろ出るぞ」そのタイミングで、奥の部屋から兄の大声が飛び込んでくる。誉は名残惜しそうにカイの肩から手を下ろして、「市長との懇談会だってね。……無理、しないんだよ」と、少しだけ声を落とし言う。「うん。大丈夫だってば」カイは、最後に誉からいつもの赤い眼鏡を受け取った。そしてそれを掛け、胸を張って言う。 「いってきます」「……あ、あぁ……いってらっしゃい」 普段は言わない言葉だったので、誉は一瞬、返事を遅らせてしまった。一方、櫂は気にする様子はない。足取りも軽く、そのまま兄の執務室へと向かう。 そして、内扉をくぐる直前にふっと誉を振り返り、「待っていてくださいね、誉先生」と言い残して、その向こうへ消えて行った。 ★ 昼下がりの医局は、午後のカンファを前に穏やかな空気に包まれていた。昨日行われた緊急手術の結果は良好、本日は急変もない。 そしてそんな和やかな空気を壊すのが、コツ、コツという廊下から響く乾いた足音である。窓辺で談笑していた研修医たちは慌てて自席に戻り、佐々木と山川は入り口のドアに目をやる。 誉もまた顔を上げたその時、引き戸が開いた。すぐに白き麗人が姿を現す。が、見慣れたスクラブ姿ではなく、フォーマルなスーツに身を包んでいたので、医局職員一同が息を呑んだ。彼がこの姿で医局に現れたのは、初めてだ。「ちょ、ちょちょ、どこの王子?」「え、如月先生?……スーツ?ヤバ……」「全然印象違うんですけど」 真っ白な身体とは対照的な漆黒のツーピーススーツ。クラシカルチェック柄の赤とベージュのスカーフが彩りを添える。いつもは前に流している緩めの三つ編みも、今日は固く編んだローポニーテール。明らかに育ちの良さが滲む、その上品な出で立ちに医局が一気にざわめいた。  ところが櫂は全く気にする様子もなく、いつも通り室内を一瞥する。ブランドが落とされ、日差しを遮る準備が整った所で、室内に一歩を踏み入れた。そのタイミングで、誉が向こうの席から声をかけた。「おつかれさま、櫂先生」すると櫂はぴたりと足を止め、そちらを向いた。 そして、「……ごきげんよう、誉先生」と、速やかに返して頭を下げたので一瞬、まわりの空気が止まった。「ごきげんよう?」「挨拶がごきげんよう統一って、最早貴族じゃん……」「てか、誉先生って言ったよね?! どういう風の吹き回しよ」「昨日の手術がうまくいったからかしら」「あぁ、噂の新手法ってやつね」「相当リスクあるのに、如月先生がゴリ押ししたって噂聞いたよ。誉先生のおかげで成果上げられてご機嫌なんじゃない?」 ひそひそとした声が波のように広がる中でも、櫂はまるで気にする様子もなく静かに歩を進める。そしていつも通りまっすぐ自席に行く……かと思いきや、山川の方へと進路を変えた。 「ひっ、こっち来るッス。 昨日のこと、絶対怒られるッス」「……まあ、そうビビるなって。 ウサギはブタを取って食ったりしねえよ」「先輩、さりげなく酷いッス〜」 櫂が目の前まで来ると、佐々木は口元を緩め、「寝込まずに済んで良かったな。安心したよ」と、まずはその体を気遣った。すると櫂は、ちろりと佐々木を見上げた。 「……昨日は取り乱し、申し訳ありませんでした。十分に休息を取りましたので、本日は問題ありません」 そう返すとすぐに半分佐々木の後ろに隠れ怯えている山川の方を向く。そして、「山川先生。術中頂いた、器材の取り扱いについての質問にお答え致します。遅れてしまい、申し訳ありませんでした」と詫びて、左顎の下でパンパン、と2回小さく両手をはたいた。 すると、即座に入り口扉が開く。そして次に上品な礼服姿をした初老の男性が姿を現したので、山川をはじめ医局職員は一斉に息を呑んだ。  しんとした空気の中、彼はスッと美しく完璧なお辞儀を披露する。そして上品な銀製のアンティーク調ワゴンを押し、ごく自然に室内に入ってきた。ワゴンが滑る微かな音だけが響く中、皆が固唾を飲んで次の展開を見守っている。 そして彼は櫂の横にワゴンを停めると、三人に向かって恭しくお辞儀をした。櫂はそれを見ることなく、「どうぞ」と、ワゴンの上に積まれた書類を手で指し示しながら山川に告げた。「な、何スかこれ?……あと、誰スかこの人?」 「……こちらは、新第三手術室で運用している器材全ての取り扱い説明書です。ご一読下されば、使い方は全てご理解頂けるかと。それから、こちらは爺、……いや、瀬戸です」「えっ、ええ?!コレ全部読むんスか?!あ、あと……。え?瀬戸……さん?だから、誰スか?」「……山川、取説はマジで全部読んどけ。それから、あの爺さんは一旦置いとけ。話がややこしくなる」 混乱する山川に、佐々木がそっと耳打ちをした。そのタイミングで後ろから、「瀬戸さん、ご無沙汰しております」と、誉の朗らかな声が響く。「卯月さま」 瀬戸はそう言うと、佐々木の横に立った誉にも恭しく頭を下げた。「ご帰国、並びにご着任おめでとうございます」「ありがとうございます。また、宜しくお願いしますね」「至極光栄にございます。こちらこそ、坊っちゃまをどうぞ宜しくお願い致します」「……爺、あの、職場です……。坊っちゃまは……その、ちょっと……」 するとその時、医局のドアが再び開いた。前置きも遠慮もなく入ってきたのは、院長の航だ。そして櫂の姿を見つけるや否や、弾丸のようにお小言が始まる。「櫂、やはりここに居たか!まったく、また探してしまったじゃないか。どうして勝手に動き回るんだ、お前は」 しかし、今日の櫂は黙ってはいない。即座に兄に言い返す。「午後カンファの時間が近かったので」「違う、そうじゃない。何故一言もなく姿を消すのか、と聞いている。行くなら行くと、先に言え」「聞かれなかったので」「いや、行動を共にしているのだから、普通は聞かれなくても言うだろう」「……?」「首を傾げるんじゃない。……って、瀬戸?何故こんなところに?櫂、さてはお前だな。瀬戸を顎で使うな。何だと思ってるんだ」「私の爺です」「……そんな役職はない。執事だ、うちの執事」 経営者兄弟のやりとりにすっかり呆気に取られた山川が佐々木に言う。「先輩」「何だ」「ちょっと情報量が多すぎて、どこからツッコめばいいか分からないッス」「これが如月家だ。ツッコんだら負けだ」「……エグいっす」 同じタイミングで、部長が数名の職員とカンファレンスルームから出てきた。院長を見つけるなり、こめかみの汗を拭いながら寄ってくる。「やや、院長。何かございましたか?」「いや。私も術後カンファに出席し、勉強させてもらおうかと。かなりの成果だったと聞いたぞ。神田部長の敏腕の賜物だな。感謝する」「そ、そんな。いやはや、恐縮です」 水を差すように、櫂がスッと挙手をして言う。「お言葉ですが院長、新手法に一番反対したのはこの人です。院長が感謝なさるべきは、誉先生かと存じます」「櫂先生、ここは部長に花を持たせてやるのが大人ってものだよ」誉は思わず苦笑いをしながら諭すが、櫂は気に入らなそうに目を据わらせて、部長を見やるのをやめようとしない。  ――慣れない市長との懇談で消耗しているかと思ったが……。どうやらこれも、誉の取り越し苦労だったようだ。  それにしても、今日の櫂は本当にどうしたというのだ。ここまで調子が良いと、後で大きな反動が来るのではないかと逆に心配になってきてしまう。長年、櫂の面倒を見てきた誉の悲しい性だ。 一方で、そんな誉の心など全く察さない櫂は、相変わらず気に入らなそうに口をとがらせながら、部長を睨んでいた。 そんな部長が珍しく上機嫌な声を張り上げて、「では皆さん、少し早いですが始めましょう。ご多忙な院長先生を待たせてはいけませんからな」と、カンファレンスルームのドアを開いた。  誉は取りなすように櫂に頷いて見せ、瀬戸には軽く会釈をしてから部長の後に続いた。不貞腐れながら櫂もそれを追おうとしたところで、佐々木に呼びとめられる。「……昨日は本当に助かった。サンキューな、櫂」櫂は少しだけ目を大きく開いた後、すぐにいつもの調子で淡々と返す。「いえ。……結弦くんこそ、素晴らしいフォローでした。ありがとうございました」「……へへ、また頼むな」「はい。必要でしたら、いつでも」「えぇっ!!先輩、如月先生とそんな仲良かったんスか!?マジでヤバいっすね!!!」「……ったく、いちいちお前はうるせえな。行くぞ」騒がしい二人を見送りながら、櫂はほんの一瞬だけ口元を緩ませた。そして瀬戸に下がるよう指示をして、先ほどよりも少しだけ軽い足取りで、皆の後を追ったのだった。