パーフェクトスイート 第1話
パーフェクトスイート 第1話
第1話:完璧な上司の、完璧じゃない隙
日本有数の大手ホテルチェーン『グランリュクス・ホテルズ』日本支社。その中枢を担う企画開発部のフロアは、今日も絶え間ない電話のコール音と、キーボードを叩くタイピング音に包まれていた。
新規ホテルのコンセプト立案から、既存ホテルのレストランやラウンジのリニューアル、果てはテナントの誘致まで。華やかなイメージとは裏腹に、泥臭いリサーチと緻密な調整が求められる激務の部署である。
仁淀アレン——本名、水澄アレンは、手元の企画書に視線を落としながらも、斜め前のデスクでパソコンに向かう男を静かに観察していた。
羽柴正宗。三十八歳。企画開発部の係長。
端正な顔立ちは常に冷静さを保ち、無駄のない動きで次々と案件を捌いていく。トラップのように複雑なコンペの要件定義書も、彼の手にかかれば瞬く間に美しいフローチャートへと変換されていく。
(……うん、やっぱり優秀だ。うちの親父が欲しがるだけのことはある)
アレンの真の目的は、海外にある自社——巨大外資系企業へと、日本支社の優秀な人材を「引き抜く」ことだった。海外の提携先ホテルからの出向という名目でこの部署に潜り込んで数日、アレンは完璧な「愛想の良い帰国子女の新入社員」の仮面を被りながら、ヘッドハンティングのメインターゲットである正宗の能力を見極めていた。
仕事のスキルは申し分ない。あとは、どうやって彼を籠絡し、自分たちの陣営に引きずり込むか。
ゲーム感覚でそう思考を巡らせていたアレンだったが——そのビジネスライクな目的は、昼休みの訪れと共に静かにノイズが混じり始める。
「正宗ー! ちょっとこれ見てくれよ、今日の弁当のおかず、俺の自信作なんだわ!」
昼のチャイムが鳴るなり、アレンの教育係でもある松城幸多が、正宗のデスクへとやってきた。手には立派な曲げわっぱの弁当箱が握られている。
「……幸多。お前、また朝からそんな手間のかかるものを作ったのか。少しは寝ろと言っているだろう」
「いいのいいの! うち、彼女と共働きだからさ、俺が弁当担当なのよ。料理はストレス発散にもなるし。ほら、食ってみ? 正宗の好きな甘めの味付けにしといたからさ」
幸多が躊躇いもなく、自分の箸で卵焼きをつまみ、正宗の口元へと差し出す。
アレンはコーヒーをすする手をピタリと止めた。
普段、部下たちには一切の隙を見せず、的確かつ冷徹に指示を出す正宗。その整った顔立ちには常に理性が張り付いているはずだった。
しかし、同期である幸多を前にした正宗は、微かに肩の力を抜き、あろうことか差し出された卵焼きを自然にパクリと咥え込んだのだ。
「……ん。美味いな。出汁がよく効いてる。じゃあ、俺のも何かひとつやるよ。唐揚げでいいか?」
「おっ、サンキュー! もらうわ」
「ほら」
正宗が自分の弁当箱から唐揚げをつまみ、幸多の口へと運ぶ。
男同士の、あまりにも自然な『あーん』の応酬。
正宗が『俺』という一人称を使い、完全に気を許して目元を和ませている姿に、アレンの胸の奥で、カチリと何かが噛み合わないような、不快な音が鳴った。
(……なんだ、今の)
ただの気の置けない同期だとは分かっている。松城幸多という男が、裏表のない陽気な性格であることも理解している。
だが、あの氷のように冷徹な係長が、あんなにも無防備な顔を他の男に見せているという事実が、アレンの中に正体不明の焦燥感を生んでいた。
「羽柴、少し時間はいいか」
不意に、オフィスの空気が引き締まるような、低く落ち着いた声が響いた。
声の主は、企画開発部のトップである村雨豪部長だった。
その声を聞いた瞬間、正宗の背筋がピンと伸びる。先ほどまでの幸多に向けられていた気の抜けた雰囲気は一瞬で消え去り、正宗は村雨の方へと素早く向き直った。
「はい、村雨部長。ちょうど昼食を終えたところですので、問題ありません」
「すまないな、休憩中に。午後のコンペの資料について、少し確認しておきたい箇所があってな」
「とんでもないです。すぐにお持ちします」
村雨を見上げる正宗の瞳は、純粋な尊敬と絶対的な信頼に満ちていた。
普段の毅然とした彼からは想像もつかないほど、素直で忠実な部下の顔。村雨の言葉一つ一つに真剣に頷くその姿は、見ようによっては、飼い主の指示を待つ忠犬のようにすら見える。
少し離れた席では、先輩社員の六条凜空が、そのやり取りを静かに見つめていた。六条の瞳には明らかな熱が宿り、虎視眈々と正宗の隙を窺うような光を放っている。彼もまた、正宗という男に強い執着を抱いていることは、アレンの目には明らかだった。
松城にはあんなに気を許して、甘い顔を見せる。
村雨部長にはあんなにも忠実で、素直な顔を見せる。
なのに——。
「羽柴さん、午後の会議の資料、ボクの方で一部修正しておきました」
昼休み明け、アレンがわざと人懐っこい笑顔を作って書類を提出した時のことだ。
正宗は書類を受け取ると、一切の感情を交えない、氷のように冷たい瞳でアレンを見返した。
「確認する。……仁淀、ここのグラフの数値だが、前年比のデータが少し古い。最新のものを反映させてから再提出してくれ」
「あ、すみません。すぐやります」
「頼む。君の処理能力の高さは評価しているが、ツメが甘いとクライアントの信用に関わるからな」
完璧に計算された、上司としての顔。
そこには、幸多に見せたような柔らかさも、村雨に見せたような熱も一切ない。ただただ『手のかかる年下の部下』として線を引かれているのが痛いほど分かった。
(……ムカつく)
自分に向けられるその鉄壁の態度が、アレンの中にいる負けず嫌いな『何か』に火をつけた。
ヘッドハンティングの対象としての興味はもちろんある。だが今はそれ以上に、あの隙のない顔を振り向かせたい。ボクにだけ、誰も知らないような気を許した笑顔を見せさせたい。
そんな青臭い意地のようなものが、アレンの胸の中で渦を巻いていた。
午後三時。
過去のプロジェクト資料を探すため、正宗が一人でフロアの奥にある資料室へと向かったのを、アレンは見逃さなかった。
周囲の目を盗み、静かに後を追う。
薄暗い資料室に足を踏み入れると、正宗が高い棚の上にあるファイルに手を伸ばしているところだった。
アレンは音もなく中に入ると、重い鉄の扉を静かに閉め——内側からカチャリ、と鍵をかけた。
小さな金属音が、静まり返った部屋に響く。
「羽柴さん」
アレンが声をかけると、ファイルを取り出した正宗が、肩越しに振り返った。
「仁淀か。どうかしたか? 何か分からないことでも……」
「いえ。ただ、少し気になって」
アレンはゆっくりと歩み寄った。
長身のアレンが影を落とすように近づくと、正宗は微かに眉をひそめ、無意識に一歩後ずさる。しかし、背中はすぐに冷たいスチール棚にぶつかった。
逃げ道を塞ぐように壁際へと追い込むと、正宗の整った顔に戸惑いが浮かぶ。
「……近すぎないか。何をしている」
「羽柴さんって、人によって随分見せる顔が違うんですね」
「何の話だ」
「松城先輩や、村雨部長には、ボクには見せない顔をする」
アレンはゆっくりと手を伸ばし、正宗の綺麗に結ばれたネクタイの結び目を指先でなぞった。
その瞬間、ビクッと正宗の肩が揺れる。
「おい、職場でふざけるな。離れろ」
正宗が低い声でたしなめようとした。いつもの、隙のない上司の顔だ。
アレンは口角を上げると、そのネクタイをグイッと強引に手前へと引き寄せた。
「っ……!」
抵抗する間もなく、二人の顔が吐息の混じり合う距離まで近づく。正宗の目が驚きに大きく見開かれた。
至近距離で交わる視線。アレンの瞳には、いつものチャラい新入社員の面影は薄れ、目の前の男の余裕を奪い、自分だけを見させたいという熱が宿っていた。
「ふざけてなんかいませんよ」
アレンは余裕のある笑みを貼り付けながら、正宗の耳元に唇を寄せ、甘く、低い声で囁く。
「ボクにも、もっと他の顔を見せてくださいよ。……ボクにだけ見せるようなやつを」
端正な顔立ちを微かに紅潮させ、戸惑いと僅かな羞恥に唇を震わせる正宗。
その完璧な上司の、完璧じゃない隙。
それを見た瞬間、アレンはもう、この男が自分にだけ気を許して笑うようになるまで、絶対に立ち止まれないことを自覚していた。
静寂に包まれた資料室。空調の微かな稼働音だけが響く中、正宗は息を呑んだ。
首元を拘束するように握られたネクタイ。見下ろしてくる瞳は、普段の「人懐っこい帰国子女」のものとはまるで違う。捕食者のような、ひどく剥き出しの熱を帯びていた。
(なんだ、この目は……)
三十八歳という年齢まで、それなりに修羅場もくぐってきた自負はある。だが、一回りも年下の部下に、ここまで有無を言わさぬ圧をかけられたことはなかった。
ドクン、と。胸の奥で、不規則な音が鳴った気がした。
「……離せ、仁淀」
どうにか理性を総動員し、正宗は震えそうになる声を低く保って言い放つ。
アレンの腕を掴み、その手を強く振り払った。
「からかうのも大概にしろ。ここは職場だ。君は海外のフランクな環境に慣れているのかもしれないが、日本企業では不用意なスキンシップは誤解を招く」
「誤解?」
「そうだ。……用がないなら戻るぞ。会議の準備がある」
正宗はアレンの視線から逃れるように顔を背け、足早に扉へと向かった。
鍵を開け、逃げるように廊下へと出る。
バタン、と重い鉄扉が閉まる音が、酷く大きく聞こえた。
薄暗い廊下で、正宗は小さく息を吐き出す。
冷たい手で自らのネクタイを整え直しながら、先ほどの至近距離で交わった視線を思い出し、ギリッと奥歯を噛み締めた。
(ただのからかいだ。……そうに決まってる)
海外帰りの新入社員が、堅物の上司をからかって面白がっただけだ。そう自分に言い聞かせても、アレンのあの熱を帯びた瞳と、「ボクにだけ見せる顔を」という囁きが、耳の奥にこびりついて離れない。
完璧にコントロールしていたはずの自分のペースが、たった数日の間に、あの年下の部下によって見事に乱され始めている。
その事実に、正宗は微かな苛立ちと、正体不明の焦りを覚えながら、足早にオフィスへと戻っていった。
一方、一人資料室に残されたアレンは。
振り払われた自分の手をじっと見つめ、ふと、口角を上げた。
「……意外と、可愛いとこあるじゃん」
鉄壁の係長が見せた、明らかな動揺。
ほんの少しだけ引き出せたその『隙』は、アレンの負けず嫌いな心に、さらなる火を注ぐには十分すぎた。