パーフェクトスイート 第10話
パーフェクトスイート 第10話
第10話:雨宿りと、本当の願い
雨に打たれ、泥にまみれ、ただ後悔に打ちひしがれて泣きじゃくるアレン。
その惨めで痛々しい姿を前にして、正宗の胸の奥で固く結ばれていた「拒絶」の糸が、するりと解けていくのを感じた。
「……バカか、お前は」
正宗は深くため息をつくと、しゃがみ込むアレンの腕を乱暴に、けれどどこか優しく引っ張り上げた。
「立て。こんなにずぶ濡れで……風邪を引くぞ」
「羽柴、さん……っ、でも、ボクは……」
「いいから。来るんだ」
すがるようなアレンの言葉を遮り、正宗は有無を言わさぬ声で告げた。
そして、自分が着ていた厚手のウールコートを脱ぐと、凍えているアレンの肩にすっぽりと被せた。
「え……」
「六条が呼んでくれたタクシーがすぐ来る。ここから俺の家が近いから、とにかく来い」
自分の温もりと匂いが残るコートでアレンを包み込み、正宗はまもなく到着したタクシーに、半ば強引に彼を促した。
正宗のマンションへ向かう道中、二人は一言も言葉を交わさなかった。アレンは正宗の大きなコートの中で、捨てられた子犬のように身を縮め、時折小さく肩を震わせていた。
——閑静な住宅街の中にある正宗の自宅マンション。
仕事人間の彼らしく、部屋はシンプルで無駄なものが少なく、どこか殺風景ですらあった。
「とりあえず、シャワーを浴びてこい。バスタオルはそこに出しておく」
「……はい」
アレンがバスルームに消えた後、正宗は濡れた自分のジャケットを脱ぎながら、大きく息を吐き出した。
なぜ、連れ帰ってきてしまったのか。自分を騙し、弄んでいたはずの男を。
しかし、あの雨の中で見たアレンの絶望に満ちた瞳は、決して嘘や演技には見えなかった。あの瞬間、正宗の心は確かに激しく揺さぶられていたのだ。
しばらくして、バスルームの扉が開いた。
正宗が貸したスウェットと大きめのTシャツに身を包んだアレンは、高級スーツを着こなしていた先ほどまでとは打って変わって、年相応の、どこかあどけない青年に見えた。濡れた桃色の髪をタオルで拭きながら、気まずそうにリビングの端に立つ。
「……こっちへ来い。温かいコーヒーでも淹れようと思ったが、今のお前にはこっちの方がいいだろう」
正宗はローテーブルに、湯気を立てるホットミルクのマグカップを二つ置いた。
アレンは恐る恐るソファに腰を下ろし、マグカップを両手で包み込んだ。温かいミルクの香りが、冷え切った二人の間に静かに漂う。
「……ありがとう、ございます」
「少しは落ち着いたか」
正宗の静かな問いかけに、アレンはコクリと頷いた。
そして、マグカップを見つめたまま、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……オフィスであなたが言った通りです。ボクの目的は、日本支社の優秀な人材を本国に引き抜くこと。そのターゲットが、羽柴さんでした」
事実を告げられ、正宗の肩が微かに強張る。
「最初は、ただのゲーム感覚でした。仕事ができる堅物のあなたを落として、本国に連れ帰ればボクの手柄になる。……でも」
アレンは顔を上げ、赤く腫れた瞳で真っ直ぐに正宗を見つめた。
「あのケーキ屋で、マロンタルトを見て笑った顔を見た時。深夜のオフィスで、誰よりも真剣に仕事に向き合う横顔を見た時。出張の夜、不器用な過去を教えてくれた時。……気がついたら、ボクの方があなたに落とされてた」
アレンの声が、震えを帯びる。
「もう、ヘッドハンティングなんてどうでもいい。ただ、ボクの隣で笑ってほしかった。他の誰にも、あなたを触れさせたくなかった。……やり方が強引で、最低だったことは分かってます。でも、あなたへの気持ちだけは……これだけは、もう……絶対に嘘じゃないんです」
必死に紡がれた、不器用で、けれどこれ以上ないほどに真っ直ぐな言葉。
ポロリと、アレンの瞳から再び涙が零れ落ち、マグカップを持つ手の甲を濡らした。
その涙を見た瞬間、正宗の中で燻っていた最後の疑念が、完全に消え去った。
「……本当に、お前は」
正宗は小さく息を吐くと、ソファの隣へと腰を下ろし、アレンの手からそっとマグカップを取り上げてテーブルに置いた。
そして、泣きじゃくる大きな子犬の背中に、そっと両手を回した。
「え……」
「お前は、本当に生意気で、手のかかる部下だ。……三十八の男をからかうから、バチが当たったんだ」
「羽柴、さん……」
正宗の静かで優しい声。
背中に回された腕の温もりに、アレンは堰を切ったように正宗の胸に顔を埋め、声を上げて泣き始めた。
正宗は何も言わず、ただゆっくりと、その濡れた背中を撫で続けた。
どれくらいそうしていただろうか。
泣き疲れて少し落ち着いたアレンが、おずおずと顔を上げる。至近距離で交わる視線。
アレンの瞳に、再び一人の男としての強い熱が灯るのを、正宗は確かに感じ取った。
「……羽柴さん」
「……」
「もう二度と、嘘はつかない。あなたを傷つけない。だから……もう一度……ここに触れてもいいですか?」
アレンの手が、正宗の頬をそっと包み込む。
出張の夜とは違う。熱に浮かされた衝動でも、強引な略奪でもない。ただ純粋に、互いを求めるための口づけ。
正宗は逃げることなく、ゆっくりと目を伏せ、その熱を受け入れた。
「ん……っ、……」
重なり合った唇から、甘い吐息が漏れる。
ただ受け身でいるだけでなく、正宗のほうからも、すがるようにアレンの胸元を握りしめ、背伸びをするように僅かに唇を押し当て返した。
その不器用で愛らしい無意識の誘いに、アレンはたまらないというように低く喉を鳴らす。
アレンの舌が、正宗の口内を優しく、けれど確実に隅々まで味わうように這い回る。何度も角度を変えて深く啄まれるたび、正宗の背筋にゾクゾクとした甘い痺れが走った。
「はぁっ……仁淀、んっ……」
「アレンって、呼んで。ボクも……正宗さんって、呼んでいいですか」
「……会社では、やめろよ……っ」
「ふふ、もちろん」
アレンは甘く囁きながら、正宗の体をゆっくりとソファへと押し倒した。
抵抗する力は、とうの昔に失われている。
「好きです……正宗さん……」
ソファに沈み込んだ正宗の片手を、アレンの大きな手がそっとすくい上げ、指の間に自らの指を滑り込ませてギュッと強く絡め合わせた。
隙間なく重なり合った十本の指から、互いの高鳴る鼓動と、狂おしいほどの愛しさが直接伝わってくる。
窓を叩く冷たい雨音は、もう二人の耳には届かない。互いの体温と、指先から伝わる甘く溶けるような深い熱だけが、部屋の静寂を静かに、そして熱く満たしていった。