パーフェクトスイート 第2話
パーフェクトスイート 第2話
第2話:甘い罠と新作スイーツ
企画開発部の定時は十八時だ。しかし、膨大な案件を抱えるこの部署において、定時退社など幻に等しい。今日もフロアには、残業戦士たちのタイピング音と、疲労の混じったため息だけが虚しく響き渡るはずだった。
「お疲れ様でした。明日の会議資料は共有フォルダに入れてあります。各自確認しておくように」
十八時ちょうど。
普段なら誰よりも遅くまで残り、部下たちの進捗を細かくチェックしているはずの羽柴正宗が、一切の無駄のない動作でパソコンをシャットダウンし、颯爽とオフィスを出て行ったのだ。
嵐のように去っていった係長の背中を、フロアの全員が唖然として見送った。
(……なんだ? まさか、デートとか?)
斜め後ろの席で、アレンはマウスを握る手をピタリと止めた。
資料室での一件以来、正宗はアレンに対してより一層の警戒心を露わにしている。必要最低限の業務連絡しか交わさず、見事なまでに上司としての分厚い鉄壁を築き直していた。
それなのに、あの定時ダッシュ。
あんなに急いで、一体誰に会いに行くというのか。
アレンの胸の奥で、正体不明のモヤモヤとした焦りが渦を巻く。気がつけば、アレンは「急用を思い出したんで!」と隣の幸多に言い残し、正宗の後を追うようにオフィスを飛び出していた。
大通りを早足で歩く正宗の背中を、少し距離を置いて尾行する。
海外の巨大企業で次期幹部候補として帝王学を学んできた自分が、よもや日本の街角で上司をストーキングすることになるとは思わなかった。だが、足は止まらない。
十分ほど歩き、正宗が吸い込まれるように入っていったのは、高級ブティックが立ち並ぶエリアの路地裏にある一軒の店だった。
ガラス張りの外観。アンティーク調の重厚な木の扉。レンガ調の壁面には緑豊かな蔦(つた)が這い、窓辺には可愛らしい鉢植えが並んでいる。
すっかり暗くなった夜の通りに、シャンデリアの温かく柔らかなオレンジ色の光をこぼしているその店は、女性客で行列ができるほどの超有名パティスリー『ル・シュクレ』だった。
(……は? ケーキ屋?)
アレンは店の向かいの街路樹の陰に隠れながら、ガラス越しに店内の様子を窺った。
客の大半が若い女性やカップルである中、高価なネイビースーツを着こなし、鋭い眼光を放つ長身の男が一人で並んでいる図は、どう見ても異質だった。
やがて正宗の順番が近づき、彼がショーケースの前に立つ。
店内のショーケースの中は、まるで眩い宝石箱のようだった。
艶やかなグラサージュが鏡のように輝く濃厚なオペラ。雪のような生クリームに真っ赤なイチゴが隙間なく並べられた、王道のショートケーキ。ピスタチオの緑と木苺の赤が美しい層をなす色鮮やかなムース。
そんなきらびやかな洋菓子たちが並ぶ陳列の端を覗き込んだ正宗の背中が、ピタリと止まった。
——その瞬間、アレンは目を疑った。
いつも自信に満ち、堂々と伸びているはずの正宗の広い背中が、みるみるうちに丸くなっていく。肩がガクッと落ち、目に見えるほどの哀愁が漂い始めたのだ。
どうやら、お目当ての品が売り切れていたらしい。
ショーケースの中の『秋の新作・限定マロンタルト(完売)』という札を見つめる正宗は、まるで迷子になって泣き出しそうな子供のように、痛々しいほどしょんぼりとしていた。
(……嘘だろ。あの羽柴係長が、ケーキがないくらいであんなに落ち込んで……?)
あまりの落差に、アレンが呆気に取られていたその時だ。
店の奥から、恰幅の良いパティシエ——おそらく店長が出てきて、しょんぼりしている正宗に気づいた。
店長は他のお客さんの手前、わざと少し声を潜めて、レジの端の方へ正宗を手招きした。
『羽柴さん。……もしかして、新作のマロンタルトですか?』
『店長……。はい、ですが出遅れました』
『ふふっ、やっぱり。絶対仕事帰りに来ると思って、実はナイショで一つだけ、奥に取り置きしておいたんです。他のお客様には秘密ですよ』
店長が奥から、こっそりと綺麗なケーキの箱を持ってくる。
それを見た瞬間だった。
正宗の顔に、パァッと花が咲いたような輝きが広がったのだ。
『本当ですか……!? ありがとうございます、店長。今日一日、このために仕事を頑張ったようなものなので……すごく嬉しいです』
少し目尻を下げ、愛おしそうにケーキの箱を受け取る正宗。
その顔に浮かんでいたのは、氷のように冷徹な上司の面影でも、幸多に見せる気の抜けた同期の顔でも、村雨に見せる忠犬の顔でもなかった。
甘いものに理性を完全に溶かされ、純粋な喜びに満ちた、とろけるような甘い笑顔だった。
ドクン。
ガラス越しにその笑顔を見た瞬間、アレンの心臓が、今まで経験したことがないほどの大きな音を立てて跳ねた。
うるさいほどの動悸が耳の奥で鳴り響く。
(なんだあれ。……反則だろ、そんなの)
三十八歳の大人の男が、ケーキ一つで子供のように顔を輝かせている。
その事実が、そしてそのあまりにも無防備で可愛らしい笑顔が、アレンの胸の奥を強烈に撃ち抜いていた。
優秀な人材? ヘッドハンティングの対象?
そんなビジネスライクな理由は、もはや塵一つ残っていなかった。アレンの頭の中を占めているのは、ただ一つ。
——あの笑顔を、ボクだけのものにしたい。
カラン、とアンティーク調のドアベルが鳴り、ホクホク顔の正宗が店から出てくる。
大事そうにケーキの箱を抱えた正宗は、足取りも軽く帰路につこうとした。
「あれ? 羽柴さんじゃないですか」
わざとらしく、アレンは街灯の下へと歩み出た。
突然名前を呼ばれた正宗は、ビクッと肩を跳ねさせ、声の主を見て完全に固まった。
「に、仁淀……!? お前、なぜここに」
「ボク、この近くに住んでるんです。羽柴さんこそ、どうしたんですか? 今日は珍しく定時ダッシュでしたけど」
アレンが人懐っこい笑顔で近づくと、正宗は焦ったようにケーキの箱を背中へ隠そうとした。しかし、すでにアレンの目はその箱のロゴをしっかりと捉えている。
「あっ、それ『ル・シュクレ』の箱じゃないですか! そこのケーキ、めっちゃ美味しいんですよね」
「……これは、その。取引先への……差し入れの、下見だ」
明らかな動揺。涼しげな目が分かりやすく泳ぎまくっている。
いつもなら一瞬で論理的な言い訳を組み立てるはずの頭脳が、スイーツのこととなると全く働かないらしい。
「へえ、こんな夜に下見ですか? すごく熱心ですね」
「あ、ああ。クライアントの好みは事前に把握しておくべきだからな」
「なるほど。……あ、もしかして秋の新作タルトですか?」
アレンが一歩距離を詰めると、図星を突かれた正宗はたじたじと一歩後ずさる。
「っ……なぜそれを」
「さっき、売り切れの札が見えたんで。羽柴さん、すごいですね! 幻の新作をゲットするなんて」
「……用事がないなら、俺は帰る。明日も早いからな」
逃げようとする正宗の腕を、アレンはスッと軽く掴んで引き止めた。
そして、少しだけ低い位置にある正宗の耳元へと顔を寄せる。
「ねえ、羽柴さん」
「っ、なんだ……」
「ボクもそれ、食べてみたいな。今からボクの部屋で一緒に食べませんか? この近くなんです。美味しいコーヒー、淹れますよ」
甘く囁くようなアレンの誘いに、正宗は顔をこわばらせた。
「断る。なぜ俺がお前と……」
「ダメですか? それとも……ここでボクに『あーん』してくれますか? 今日のお昼、松城先輩にやってたみたいに」
その言葉に、正宗の顔がボンッと音を立てるように真っ赤に染まった。
優秀な上司の仮面が音を立てて崩れ去り、ただの甘党で不器用な一人の男の素顔がそこにあった。
「ふざっ……お前、いい加減にしろ……っ!」
震える声で吐き捨てるように言い、正宗はアレンの手を乱暴に振り払って、逃げるように早足で駅の方へと歩き出した。その後ろ姿には、いつもの威厳など微塵もない。
アレンは追いかけず、その背中を愛おしそうに見つめたまま、夜の街角で一人、甘い溜息を吐いた。
「……あーあ。本気で可愛すぎだろ、あの人」
完璧な上司の、完璧すぎる弱点。
それを知ってしまったアレンの心には、彼を自分の腕の中に閉じ込め、誰にも見せないよう甘やかしたいという、熱く純粋な感情が静かに、けれど確実に満ち始めていた。