パーフェクトスイート 第3話
パーフェクトスイート 第3話
第3話:したたかな先輩の宣戦布告
数日前の夜。幻の新作マロンタルトを抱えて見せた、あの無防備でとろけるような笑顔。
あの一件以来、アレンの中で羽柴正宗という男の存在は、明確に『ビジネスのターゲット』から、『どうしても自分だけのものにしたい特別な人』へと変わっていた。
(あの顔、早くまた見たいな……)
オフィスでのアレンは、相変わらず「人懐っこい帰国子女」の仮面を被りながらパソコンに向かっていたが、その視線はチラチラと斜め前の正宗のデスクへ向けられていた。
今日も正宗は、一糸乱れぬ完璧なネイビーのスーツを着こなし、涼しげな目元でスピーディにキーボードを叩いている。引き結ばれた唇にも、無駄のない所作にも、隙だらけだったあの夜の面影は微塵もない。
だからこそ、いい。あの分厚い鉄壁を崩して、自分にだけ甘く溶かしてしまいたくなるのだ。
「羽柴さん。先日のラウンジ改装案の資料、最終確認をお願いできますか?」
そんなアレンの熱を帯びた視線を遮るように、一つの影が正宗のデスクの横に立った。
アレンより社歴は一年先輩だが、年齢は同じ二十五歳の六条凜空だった。柔和で優しげな笑顔を浮かべ、綺麗にファイリングされたプリントを正宗へ差し出している。
「ん、六条か。……ふむ、予算の割り振りも問題ないな。このまま進めてくれ」
「ありがとうございます。あ、すみません羽柴さん、もう一点だけ」
「ん?」
六条はそう言うと、ふいに身を乗り出し、正宗が手に持っている資料の一点を指差した。
「ここの数字なんですけど、今朝少しだけ業者から微調整が入って……」
「ああ、ここか。どれ……」
細かい数字を確認しようと、正宗が資料に顔を近づける。それに合わせるように、六条もスッと自然な動作で正宗のパーソナルスペースへと入り込み、二人の顔が至近距離まで近づいた。
無防備に資料を見つめる正宗。その横顔を、六条が微かに熱を含んだ瞳で見つめているのを、アレンの鋭い目は見逃さなかった。
「……うん、影響は軽微だな。これなら通るだろう」
「分かりました。……あっ」
確認を終え、六条が身を引くために顔を上げたその瞬間だった。
「あれ? 羽柴さん、何かついてますよ?」
「え?」
驚いて動きを止める正宗の首筋——シャツの襟足のあたりに、六条の白く細い指先がそっと触れる。そのまま、何か見えないホコリをつまみ取るような仕草をした。
「はい、取れました。糸くずかなにかですかね」
至近距離で微笑む六条。仕事の確認という大義名分から流れるように行われた、計算し尽くされた自然なボディタッチ。
正宗は少し戸惑ったように瞬きをしたが、すぐに「……ああ、悪いな。気付かなかった、ありがとう」と短く礼を言って、再びモニターへと視線を戻した。
(——は?)
アレンの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
ボクが資料室で近づいた時は、あんなに警戒して突き放したくせに。なんで六条先輩のあんなわざとらしいスキンシップは、素直に受け入れてるんだよ。
(本当はホコリなんか付いてなかったくせに。……あの人、完全に狙ってやってるだろ)
六条のしたたかな計算を察知したアレンの奥底で、冷たくドス黒い嫉妬がふつふつと湧き上がる。
六条が正宗から離れ、自分の席へと戻ろうと踵を返したその瞬間——二人の視線が空中でバチリと交差した。
六条はアレンの鋭い視線に気づくと、柔和な笑みを崩さないまま、口パクで『な・に・か?』と煽るように微笑んだのだ。
ブチッ、と。アレンの中で、理性の糸が一本切れる音がした。
「……六条先輩」
アレンは満面の笑みを貼り付けたまま席を立ち、六条のデスクへと歩み寄った。
「さっきの改装案の資料、ボクも見せてもらってもいいですか? 勉強のために」
「ええ、いいよ。仁淀くん、熱心だね」
六条が余裕の態度でファイルを手渡す。アレンはそれをパラパラと捲りながら、周りに聞こえないよう、うんと声を潜めた。
「先輩。……さっきの、随分わざとらしかったですね」
「何のことかな?」
「ホコリなんてついてなかった。羽柴さんに触るための口実ですよね?」
単刀直入に切り込んだアレンに対し、六条は悪びれる様子もなく、ふふっと肩を揺らして笑った。
「仁淀くんこそ。資料室で羽柴さんに随分強引なことしたんじゃない? 僕、たまたまコピーをとりに行った時に、羽柴さんが怒って出てくるの見ちゃったんだけど」
「っ……」
「そういうのはね、時間をかけて外堀から埋めていくんだよ。君みたいな強引なやり方は、羽柴さんには通用しないんじゃないかな」
六条の目は一切笑っていなかった。
柔和な笑顔の裏に隠された、明確なライバルに対する牽制。絶対に彼を渡さないという、強い執着の表れだ。
「……先輩こそ。あんな小賢しいスキンシップで、落とせると思ってるんですか?」
「少なくとも、君よりはリードしてると思うけどね。僕は彼の手綱の握り方を、君より一年長く学んでるんだから」
同い年同士、絶対に相容れないバチバチとした火花が散る。
表向きは「熱心な後輩に資料を教える優しい先輩」の図を保ったまま、二人の間には氷点下の冷たい空気が流れていた。
(……上等だ)
アレンはファイルをドンッ、と六条のデスクに返し、ニッコリと笑った。
「勉強になりました。でも、ボクはボクのやり方でやらせてもらいますね。……強引な方が、案外あの人の隠してる可愛いところを引き出せるかもしれないし」
「……」
六条の顔からスッと笑みが消えるのを横目に、アレンは踵を返した。
そのまま自席には戻らず、一直線に正宗のデスクへと向かう。
「羽柴さん!」
「ん?どうした、仁淀」
正宗が怪訝そうに見上げる。アレンは周囲の目を少しだけ気にしつつ、正宗の耳元へと顔を寄せた。
「今日の仕事終わり、空いてますか?」
「は?いや……今日は特に予定はないが」
「なら、ボクに付き合ってください。新規ラウンジのテナントリサーチを手伝ってほしいんです。すっごく美味しいって評判の、モンブラン専門店を見つけたんで」
「モ、モンブラン……!?」
『モンブラン』という単語を聞いた瞬間、正宗の冷静な瞳が、隠しきれない期待でキラッと輝いた。
「はい。しかも今日からの期間限定で、和栗を丸ごと使った特別なやつらしいですよ」
「……っ!それは、企画開発部として至急リサーチに赴かねばならないな。……定時で行くぞ」
「はい!」
完全にスイーツに釣られて決断を下した係長に、アレンは内心でガッツポーズをした。
遠くから六条が忌々しそうにこちらを睨んでいるのが分かる。
そしてその隣のデスクでは、アレンの教育係である幸多がコーヒーマグを片手に、ニヤニヤと楽しそうにこちらを見物していた。
(若いのは元気でいいねぇ。なんか面白いことになってんなー)
水面下でバチバチと繰り広げられている若手同士の争奪戦。当の正宗だけがそれに全く気づかず、頭の中をモンブランでいっぱいにしているという構図に、幸多は一人密かに肩を揺らして笑うのだった。
外堀から時間をかけて埋める?そんな悠長なことはしていられない。ボクは最短距離で、あの人の一番甘いところを奪いに行く。
六条の牽制を受けたことで、アレンの胸の奥で燻っていた『彼を独り占めしたい』という負けず嫌いな執着心は、いよいよ本格的に燃え上がろうとしていた。