パーフェクトスイート 第5話
パーフェクトスイート 第5話
第5話:出張と、痛恨の予約ミス(出張編・前編)
一週間前の役員プレゼンは、二人の完璧な連携により、見事な大成功を収めた。
企画開発部全体が喜びに沸く中、正宗とアレンは休む間もなく次のステップへと駒を進めていた。新規ラウンジの具体的なコンセプト設計と家具の選定のため、一泊二日で関西の有名ラグジュアリーホテル群を視察する出張へと向かっていたのだ。もちろん宿はラグジュアリーホテルを予約している。
新幹線の窓を流れる景色を眺めながら、正宗は密かに深呼吸を繰り返していた。
隣の席では、アレンがタブレットを開き、今日回る予定のホテルのリストと移動経路を素早く整理している。
仕事中のアレンは、相変わらず非の打ち所がない有能な部下だ。プレゼンを成功に導いた彼の功績は疑いようがない。
しかし、正宗の脳裏には、プレゼン前夜の二人きりのオフィスでの出来事が、未だにこびりついて離れなかった。
(……ただのからかいだ。あれは海外特有のフランクなコミュニケーションの一環で、深い意味はない。……ないはずだ)
自分の唇の端についた欠片を指で掬い取り、そのまま舐め取ってみせたあの色気を孕んだ仕草。そして、帰り際に渡された小袋。両手で優しく包み込まれた時の、火傷しそうなほど熱い掌の感触。
そう自分に言い聞かせるものの、アレンと視線が合うたびに、心臓が早鐘のように脈打つのをごまかすのに必死だった。
正宗のそんな内心の動揺を知ってか知らずか、アレンはタブレットから顔を上げ、ニコリと人懐っこい笑顔を向けてくる。
「羽柴さん。最初の視察先を出た後、近くに有名な和菓子屋があるみたいなんですけど、寄ってみます?ここの抹茶パフェ、絶品らしいですよ」
「なっ……!い、いや、我々はあくまでラウンジの視察であってだな……」
「もちろん、ラウンジで提供する『和スイーツのリサーチ』ですよ?競合他社の味を知っておくのは、マーケティングの基本ですよね」
「……そうだな。リサーチなら仕方がない。スケジュールに組み込んでおこう」
「ふふっ、了解です」
もっともらしいビジネスの理由を並べられ、スイーツという甘い誘惑を前に、正宗の理性の壁はいとも容易く崩れ去る。
普段はあんなに仕事に厳しいのに、甘いものとなると途端に素直になる。そのあまりにも可愛らしいギャップを特等席で見つめながら、アレンは愛おしさで胸がいっぱいになり、たまらず目元を綻ばせた。
——そして、最初のホテル視察を終えた後。
二人は予定通り、路地裏にある風情豊かな和菓子屋へと足を踏み入れた。
運ばれてきた濃厚な抹茶パフェを前に、正宗の瞳は隠しきれない歓喜にキラキラと輝いている。彼がスプーンを手に取り、至福の表情で一口目を頬張った瞬間だった。
カシャッ。
静かな店内に、スマートフォンのシャッター音が鳴った。
「なっ……!仁淀、お前今、何を撮った!」
正宗が慌てて顔を上げると、向かいの席でアレンがスマートフォンを片手に涼しい顔をして笑っていた。
「なぜです?せっかく美味しそうなパフェなんですから、記念に撮らないともったいないです。ね?」
「パフェだけならともかく、レンズが完全に俺の方を向いていただろう!消せ、すぐに!」
「えー。パフェと一緒に写る羽柴さん、すごく良い笑顔だったのに」
「いいから消せっ!」
「分かりましたよ。じゃあ、後で画像を送るので、羽柴さん自身の目で確認して、それから判断してください。……ということで、プライベートの連絡先、交換しませんか?」
「は……?」
「出張中の緊急連絡網としても必要ですし。ね?」
もっともらしい理由と、人懐っこい笑顔。
正宗は渋い顔をしながらも、「……変な写真だったら絶対に消去させるからな」と唸り、まんまと自身の連絡先を教える羽目になった。
(やった。プライベートの連絡先、ゲット)
画面に保存された、パフェの前でとろけるように笑う愛おしい男の写真。アレンはそれを誰にも見せる気など端っからないまま、心の中で小さくガッツポーズをした。
その後再開した現地での視察は、驚くほどスムーズに進んだ。
アレンの圧倒的な語学力と情報収集能力、そして正宗の長年の経験に裏打ちされた鋭い分析力。プレゼンを経てさらに強固になった二人の息は完璧に合い、予定していた以上の濃密なデータを集めることができた。
夜。視察を終えた二人は、路地裏にある落ち着いた佇まいの割烹へ立ち寄った。上品な出汁の香る鱧の湯引きや、とろけるような舌触りの生湯葉、美しい霜降りの和牛の炙りといった美食に舌鼓を打ち、地酒を軽く堪能した後、今夜の宿泊先であるホテルへと向かった。
フロントでチェックインを済ませ、カードキーを受け取った正宗は、少し疲れたようにネクタイを緩めた。
「ふぅ……。流石に一日歩き回って疲れたな。明日に備えて、今日は早く休むとしよう。部屋は最上階の角部屋だ。眺めも良いはずだぞ」
「楽しみですね。手配、ありがとうございました」
エレベーターで最上階へと上がり、ふかふかの絨毯が敷かれた廊下を歩いて部屋の前に到着する。
ピッ、という電子音と共に重厚な扉を開け、二人は室内へと足を踏み入れた。
「おお……流石、素晴らしい部屋ですね。……って、あれ?」
先にリビングスペースを抜けて寝室を覗き込んだアレンが、不思議そうに声を上げた。
正宗もそれに続いて寝室に足を踏み入れ——そのまま、石像のように硬直した。
間接照明に照らされた広々とした寝室の中央。
そこに鎮座していたのは、二人が別々に寝るためのツインベッドではなかった。
シーツにシワひとつない、キングサイズの巨大な『ダブルベッド』が一つだけ、堂々と置かれていたのだ。
「えーっと……羽柴さん?」
「な……ぜ、だ……?」
正宗は顔面から血の気が引いていくのを感じながら、慌ててスマホを取り出し、宿泊予約の完了メールを確認した。
そこにははっきりと、『エグゼクティブ・ダブルルーム(1名〜2名様ご利用)』と記載されていた。
(バ、バカな……!俺がツインとダブルを間違えるなどという初歩的なミスを……!?)
完璧な仕事人間として知られる羽柴正宗、痛恨の極みであった。
本当は、動揺を隠すためにも別々のシングルルームを取りたかったのだ。しかし、今回の出張の目的はラグジュアリーホテルの視察も兼ねている。会社の経費規定内で最高級の『エグゼクティブルーム』に泊まるには、二人で一部屋のツインを利用して一人当たりの宿泊費を抑えるしかなかった。
仕方なく同室のツインを選んだつもりが、どうしてこんなことに。
心当たりがないわけではない。この出張の予約を取ったのは数日前。ちょうど、あの夜のオフィスでアレンに翻弄され、心臓が爆発しそうなほど動揺したままパソコンに向かった結果、無意識のうちに間違ったプランをクリックしてしまっていたのだ。
「す、すまない、仁淀!完全に俺のミスだ。今すぐフロントに電話して、ツインの部屋が空いていないか確認を……」
「あー、来る時フロントで聞こえましたけど、今日は大きな学会があって満室らしいですよ?」
アレンの言葉に、正宗は絶望の表情を浮かべた。
やらかした。あの羽柴係長が、あろうことか一回りも年下の部下と同じベッドで寝る手配をしてしまったのだ。
「……仕方ない。俺はこっちのソファで寝る。君はベッドを使ってくれ」
正宗は上司として責任をとるべく、荷物を持ってリビングのソファへと向かおうとした。
しかし、その腕をアレンがガシッと掴んで引き止めた。
「何言ってるんですか。羽柴さん、今日一日中歩き回って、さっきから足痛そうにしてたじゃないですか。そんな硬いソファで寝たら、明日仕事になりませんよ」
「だが、同じベッドで寝るわけには……」
「キングサイズですよ?男二人が寝ても全然余裕ですって。ボクは気にしません」
「俺が気にするんだっ……!」
つい本音が漏れた正宗に、アレンは少しだけ目を丸くした後、面白そうに口角を上げた。
「なんでですか?……もしかして、ボクと同じベッドだと、何かマズイことでもあるんですか?」
「っ……」
からかうような、それでいてどこか見透かすようなアレンの視線。
ここで意固地になってソファで寝れば、それこそ『俺はお前を過剰に意識している』と認めるようなものだ。
「……分かった。ベッドを使わせてもらう。いいか、寝るだけだからな。俺は右端で寝る」
「ははっ、小学生の修学旅行みたいですね」
アレンは楽しそうに笑いながら、正宗の腕を解放した。
(……本当に、無防備すぎる)
アレンは自らのネクタイをゆっくりと引き抜きながら、不器用な上司の後ろ姿を見つめた。
「寝るだけだ」と宣言して安心しているようだが、好きな相手と同じベッドに入って、このまま大人しく引き下がるつもりなど微塵もない。
同室、そして同じベッドという最高のお膳立て。
アレンの胸の奥で、この愛おしい男を自分の腕の中に閉じ込めたいという気持ちが、静かに、しかし確実に熱を帯び始めていた。