パーフェクトスイート 第7話
パーフェクトスイート 第7話
第7話:焦りと、苦いコーヒー
出張から戻って数日。企画開発部のオフィスには、いつもの慌ただしい日常が戻っていた。
しかし、アレンと正宗の間には、あの夜のベッドでの出来事を引きずるように、見えない熱を帯びた空気が漂っていた。業務連絡で資料を手渡す際、指先が僅かに触れ合うだけで、正宗がさっと視線を逸らす。その少し赤みを帯びた耳たぶと、分かりやすい動揺を見るたび、アレンの胸の奥で甘い優越感と、それ以上の「焦り」が渦を巻いた。
「……なるほどね」
少し離れたデスクから、六条凜空はその二人のやり取りを静かに観察し、小さく息を吐いた。
六条の鋭い目は、二人の間に流れる空気の決定的な変化を見逃さなかった。出張前までの正宗は、アレンに対して明確な「上司としての壁」を作っていた。しかし今は違う。アレンを見つめ返す正宗の瞳には、戸惑いと、無自覚な熱が微かに混じっている。
二人の間に、確実に「何か」があった。それを察知した六条の瞳が、静かに細められた。
アレンのスマートフォンに、本国(アメリカ)の父親――巨大外資系ホテルのCEOからメッセージが入ったのは、そんな日の午後だった。
『日本の優秀な人材のリストアップは進んでいるか? 来月の取締役会までに、引き抜きの本命を一人決定しろ』
無機質なテキスト画面を見つめながら、アレンは奥歯を強く噛み締めた。
元々は、その目的のためにこの部署に潜り込んだのだ。だが今はどうだ。羽柴正宗という男を引き抜いて、本国の椅子に座らせたいわけではない。ただ、彼を自分の腕の中に閉じ込め、あの甘い笑顔を独り占めしたいだけだ。
ビジネスの目的と、抑えきれない恋心。絶対に相容れない二つの感情の板挟みになり、アレンのスマートな思考回路に僅かなノイズが走った。
それが、決定的なミスの引き金となった。
「……仁淀。来秋オープン予定の新規ラウンジの件だが」
正宗の低く、鋭い声がフロアに響いた。
「来月、メディアとVIP投資家を集めて行う『モックアップ(先行展示)イベント』に使う特注家具の発注書……なぜ納期が来月末になっている?これではイベントに間に合わないぞ」
「え……っ」
アレンはハッとして自分のタブレットを確認する。本国からのメールに気を取られていた際、業者の確認フローを一つ飛ばして、誤ったスケジュールのまま仮発注をかけてしまっていたのだ。
本番のオープンは来秋でも、来月のVIP向けイベントは、このプロジェクトの命運を握る重要な先行投資の場だ。
「っ……すみません!完全にボクの確認漏れです。すぐに業者に連絡して、納期の短縮交渉を——」
「今からじゃ遅いって!その業者は海外の工房だろ、船便の手配がもう終わってるはずだ」
アレンの言葉を遮るように声を上げたのは、教育係の幸多だった。幸多は隣に座るアレンのタブレットを素早く覗き込んだ。
「マジか……。正宗、とりあえず国内で似たデザインの代替品を至急手配しよう。俺、ツテのある業者に片っ端から電話かけるわ!」
「頼む、幸多。……仁淀、君は今の海外業者に連絡し、追加料金を払ってでも一部だけでも航空便への変更が可能かすぐに確認しろ。費用はこちらで持つ」
指示を飛ばす正宗の声に、一切の焦りはなかった。
私情を完全に切り離し、ただ「上司」として冷徹なまでに的確な判断を下す。出張の夜に見せた、あの甘く無防備な顔など微塵もない。そこには、完璧な仕事人としての係長の姿があった。
「……はい、すぐに対応します」
アレンは血の気が引くのを感じながら、震える手でスマートフォンを握りしめた。
その後は、まさに戦場だった。
幸多の奔走と、正宗の神懸かった調整能力により、なんとか来月のイベントに間に合う国内の高品質な代替品を確保。元の海外発注分は、来秋のグランドオープン時の通常営業に合わせて納品されるよう、無駄なくスケジュールを引き直すことができた。
被害は最小限に食い止められた。すべては、正宗と幸多の完璧なカバーがあったからだ。
「……よし。これでなんとかなる。幸多、恩に着る」
「いいってことよ。アレンも、今回は冷や汗かいたな。誰にでもミスはあるってもんよ。次から気をつければいいさ」
幸多はそう言って、ポンとアレンの肩を叩いた。教育係としての優しいフォローに、アレンは申し訳なさと情けなさで胸が潰れそうになった。
「さて。……仁淀、俺と一緒に来い」
正宗がジャケットを羽織り、短く告げた。向かった先は、村雨部長のデスクだった。
「村雨部長。お時間をいただき申し訳ありません。来月のイベント用家具の発注の件で、重大なミスがありました」
正宗は事の顛末と、すでに対策を講じて被害を最小限に抑えたことを簡潔に、かつ正確に報告した。その間、アレンを庇うような言い訳は一切使わず、事実のみを淡々と伝えた。
そして。
「すべては、担当者の私の確認不足が招いた事態です。……大変申し訳ありませんでした」
正宗はアレンと並び、村雨に向かって深く、深く頭を下げた。
「なっ……羽柴さん……!」
アレンは驚愕に目を見開いた。
悪いのは100%自分だ。正宗の確認不足などではない。それなのに、正宗は「上司としての自分の責任」として、躊躇いもなく村雨に頭を下げたのだ。
村雨は静かにため息をつき、「発見とリカバリーが早かったのは評価する。次は気をつけろ、羽柴」とだけ告げた。
「はい。申し訳ありませんでした。……ほら、仁淀も」
「っ……申し訳、ありませんでした……」
アレンは正宗に促されるまま頭を下げたが、その屈辱と自己嫌悪で、視界が歪みそうだった。
生まれてから今まで、エリート街道を歩み続け、誰かに自分の尻拭いをさせたことなど一度もなかった。自分が一番かっこいいところを見せたい、惚れた相手に。よりにもよって、そんな彼に頭を下げさせてしまったのだ。
数十分後。
フロアを離れ、人気の少ない休憩スペースの自販機前で、アレンは一人、壁に背を預けて天を仰いでいた。
ネクタイを乱暴に緩め、自嘲気味な笑いを漏らす。
「……ダッサ。何やってんだよ、ボク」
ヘッドハンティング?どの口が言っているのだ。
彼の隣に立つ資格すら、今の自分にはないのではないか。
自己嫌悪の底に沈みかけていたその時、ふいに横から飛んできた冷たい缶コーヒーを、アレンは反射的に受け取った。
「うおっ!?」
「いい顔して落ち込んでるね、エリートくん」
声のした方を向くと、そこには六条が立っていた。
六条は自分の分のコーヒーのプルタブを開けながら、意地悪そうに、けれどどこか真剣な目でアレンを見据えた。
「六条先輩……。嫌味なら後にしてください。今はそういう気分じゃ……」
「羽柴さんに頭下げさせて、プライドズタボロってところ?」
「……っ」
「言っておくけど、羽柴さんはああいう人だよ。部下のミスは自分の責任。そういう責任感の塊みたいな人だから、みんなあの人についていくんだ」
六条はコーヒーを一口飲み、ふう、と息を吐いた。
「出張で何があったか知らないけどさ。君が落ち込むのは勝手だよ。……でも、僕のライバルがそんな無様な姿でへこたれてるんじゃ、こっちまで調子狂うから困るんだよね」
「先輩……」
「次、同じミスしたら容赦なく僕が羽柴さんの隣をもらうから。……せいぜい挽回することだね」
六条はそれだけ言い残すと、ひらひらと手を振ってオフィスへと戻っていった。
手の中に残された、ひんやりと冷たい無糖のブラックコーヒー。
アレンはそれを開け、一気に喉へと流し込んだ。苦味が口の中に広がり、モヤモヤとしていた頭をクリアにしていく。
(……そうだ。落ち込んでる暇なんてない)
六条の言葉通りだ。ここで立ち止まっていたら、本当に彼を奪われてしまう。
本国からの命令など、もうどうでもいい。ヘッドハンティングという名目を捨ててでも、ボクは羽柴さんの隣に立つに相応しい男になってみせる。
空になった缶をゴミ箱に放り投げたアレンの瞳には、先ほどまでの迷いは消え、新たな強い決意の火が灯っていた。