パーフェクトスイート 第8話
パーフェクトスイート 第8話
第8話:暴かれた素性と、冷たい拒絶
あの日、自身の確認漏れで引き起こした発注ミスから数日。
アレンの仕事に対する姿勢は、劇的な変化を遂げていた。
「愛想の良い帰国子女」という仮面は剥がれ落ち、持ち前の圧倒的な処理能力と語学力をフル稼働させ、新規ラウンジのプロジェクトを強烈に牽引し始めていた。海外の取引先とのタフな交渉も、本国で培った帝王学を存分に発揮し、正宗の負担を限界まで減らそうと粉骨砕身していた。
(……もっと。もっとボクが完璧にサポートすれば、羽柴さんは企画の根幹だけに集中できる)
もう、ヘッドハンティングのことなど頭の片隅にもなかった。
ボクはただ、あの人の隣で、彼が一番輝ける場所を守りたい。そんな純粋な想いだけが、今のアレンを突き動かしていた。
しかし、その「並外れた有能さ」と「不自然なまでの献身」は、かえって一人の男の疑念を確信に変えてしまっていた。
「羽柴さん。少し、お時間よろしいでしょうか」
その日の午後。アレンが業者との打ち合わせで外出している隙に、六条は正宗を人気の少ない小会議室へと呼び出していた。
「どうした、六条。プロジェクトの予算案なら、さっき承認したはずだが」
「いえ、仕事の話ではありません。……仁淀くんのことです」
六条の真剣な声音に、正宗は微かに眉をひそめた。
「彼がどうかしたか。最近の彼の働きぶりは目を見張るものがある。先日のミスを挽回しようと、必死にやってくれているよ」
「ええ。だからこそ、危険なんです。……羽柴さん、彼がどこの誰なのか、ご存知ないんですか?」
六条は手元のタブレットを操作し、ひとつの画面を正宗の前に差し出した。
そこに映っていたのは、世界中でラグジュアリーホテルを展開する巨大外資系企業『ウォータークリア・ホテルグループ』の経営陣のリストだった。
「CEOは、クロード・ミスミ。日系アメリカ人です。そして、その一人息子であり、次期CEO候補として帝王学を学んできた青年の名前は……アレン・ミスミ」
「……」
「僕の親族が、向こうのホテルグループの株主でしてね。少し無理を言って調べてもらったんです。……彼の実の姿を」
六条が画面をスクロールすると、一枚の公式プロフィール写真が表示された。
正宗の視線が、そこに釘付けになる。
写真に写る青年は、隙なく撫でつけられた艶やかな『金髪』で、仕立てのいいオーダースーツを完璧に着こなしていた。普段の『仁淀』のトレードマークである、遊び心のある『ピンク色の髪』とゆるふわの髪とは、受ける印象がまるで違う。
しかし、その整った顔立ちは、間違いなく自分の部下であるアレンだった。
(……クロード・ミスミの息子。もちろん名前は知っていたが、メディアへの露出が極端に少ないと聞いていた。まさか、仁淀が……)
あまりの事態に、正宗は息を呑んだ。
「……それが、どうしたというんだ」
「まだ分かりませんか?彼がなぜ、髪を染め、偽名を使ってまで、一介の新入社員としてうちの部署に潜り込んできたのか」
六条はタブレットをしまい、正宗の目を真っ直ぐに見据えた。
「彼の目的は、羽柴さん。……あなたのヘッドハンティングです」
「なっ……」
「彼が日本支社で優秀な人材をリストアップしているという情報を掴みました。そして、その最有力候補が、羽柴さんだということも」
ドクン、と。正宗の心臓が、ひどく冷たい音を立てた。
六条の言葉が、脳内でパズルのピースのようにカチリ、カチリと嵌まっていく。
新入社員とは思えない、経営陣のような高い視座。
ネイティブな英語力と、海外の交渉術。
そして——自分に対する、不自然なまでの距離の詰め方。
『ボクなら、仕事も、あなたの不器用なところも、全部丸ごと愛してあげられますよ』
出張の夜、暗闇の中で甘く囁かれたあの言葉。
熱を帯びた瞳と、深く重なった唇の感触。
あれはすべて、優秀な人材を籠絡し、自分たちの陣営に引きずり込むための「手口」だったというのか。
警戒心の強い自分を落とすために、有能な部下を演じ、甘いスイーツで気を引き、あまつさえ好意まで偽装して身体ごと絡め取ろうとした。
(……俺は、三十八歳にもなって。一回りも年下の青年に、良いように遊ばれていたのか)
急速に血の気が引いていく。
胸の奥で、チクッとした痛みが、やがて呼吸を忘れるほどの激しい自己嫌悪と屈辱に変わっていった。
「……報告ご苦労だった、六条。この件は、俺の中で預からせてくれ」
正宗はそれだけを絞り出すように言うと、震えそうになる足に力を込め、会議室を後にした。残された六条は、扉が閉まるのを見届けると、ふうっと小さく息を吐いた。
「……ごめんね、仁淀くん。これも勝負の世界だからさ」
六条の瞳には、一切の罪悪感はなかった。ただ、自分の狙う人を守り抜くための、冷徹な計算だけがそこにあった。
数時間後。
打ち合わせから戻ったアレンは、機嫌よく正宗のデスクへと向かった。手には、正宗の好きそうな、有名なカフェのテイクアウトカップが握られている。
「羽柴さん、戻りました!交渉、バッチリ上手くいきましたよ。これ、お土産です。甘いラテ、買ってきました」
「……」
人懐っこい笑顔で話しかけるアレンに対し、正宗はパソコンの画面から一切視線を外さなかった。
「……机の上に置いておけ」
その声は、北極の氷のように冷たく、感情の起伏が一切感じられなかった。
アレンの笑顔が微かに引きつる。
「羽柴さん……?どうか、しましたか?」
「水澄アレン君」
突然呼ばれたその真の名前に。
アレンは心臓を鷲掴みにされたように、息を呑んだ。
正宗がゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、かつて向けられていた信頼も、出張の夜に見せた動揺も、何一つ残っていなかった。ただ、得体の知れない詐欺師を見るような、絶対的な『拒絶』の光だけが宿っていた。
「……どうして俺が、その名前を知っているか不思議か?君の目的は、俺を本国へ引き抜くことだったそうだな」
「っ……!それは……っ!」
「有能な部下を演じ、俺の弱みにつけ込み、プライベートにまで踏み込んで情に訴えかける。……見事な手腕だ。まんまと絆されかけた俺が愚かだった」
「違います!!」
アレンは咄嗟に身を乗り出し、正宗のデスクに両手をついた。
周囲の社員たちが、何事かと驚いてこちらを振り返るのも構わず、アレンは必死に叫んだ。
「最初はそうでした!でも、今は違います!ボクは本気で、羽柴さんのことが——」
「黙れ」
静かだが、有無を言わさぬ鋭い声が、アレンの言葉を切り裂いた。
正宗はゆっくりと立ち上がり、アレンを見下ろした。
「君の言葉は、もう何一つ信じられない。……俺への接触は、今後一切、最低限の業務のみとさせてもらう。このプロジェクトが終わるまでに、身の振り方を考えておくことだ」
「羽柴さん、待って、お願いだから話を聞いて……っ!」
アレンがすがるように伸ばした手を、正宗は冷酷なまでに冷たく払いのけた。
バシッ、と乾いた音がフロアに響く。
宙を彷徨う自分の手を、アレンは呆然と見つめた。
正宗は立ち上がり、そのまま足早にオフィスを出て行った。
残されたアレンの耳には、周囲のヒソヒソとした囁き声も届かない。
自分のついた嘘が、一番傷つけたくない人を、最も残酷な形で切り裂いてしまった。その後悔が、アレンの胸を黒く、鋭く抉っていた。
——非常階段の踊り場。
逃げるようにフロアを出た正宗は、重い鉄扉に背を預け、荒い呼吸を繰り返していた。
完璧な上司としての仮面は、もう見る影もなくひび割れている。息苦しくて乱暴にネクタイを緩める手は、自分への怒りと、行き場のない情けなさでガタガタと震えていた。
熱いものが込み上げ、正宗が顔を両手で覆い隠そうとした、その時。
「……羽柴」
上の階から降りてきた重い足音が止まり、深く落ち着いた声が落ちてきた。
弾かれたように顔を上げると、そこには村雨豪が立っていた。
「村雨、部長……。申し訳ありません、お見苦しいところを」
「フロアの騒ぎは見ていた。……仁淀——いや、水澄アレンのことだな」
その言葉に、正宗はハッと息を呑んだ。
「ご存知……だったんですか」
「社長の知人の息子として預かっていたが……彼がクロード・ミスミの息子であることは、上層部の一部は把握していた。ただの研修名目だろうと高を括っていたが……まさか、うちの優秀な人材を引き抜くために潜り込んでいたとはな」
村雨は苦虫を噛み潰したような顔で、深くため息をついた。
「俺もそこまでは読めなかった。……すまない、羽柴。お前には辛い思いをさせたな」
「……いえ。部長が謝ることではありません」
正宗は自嘲気味に笑い、伏し目がちに呟いた。
「有能な部下だと浮かれ、あまつさえ……あんな男の甘言に、一瞬でも心が揺らいだ俺の落ち度です。……俺は、本当に滑稽な男だ」
堪えきれず、正宗の声が微かに震える。三十八歳の立派な大人が、まるで叱られた子供のように、必死に涙を堪えて唇を噛み締めていた。
そのひどく痛々しく、無防備な姿を見た村雨は、静かに歩み寄ると——着ていたスーツのジャケットを脱ぎ、正宗の震える肩にふわりと掛けた。
「え……部長?」
「俺の部下を傷つけた男が、どこの御曹司だろうが知ったことか。お前は何も悪くない」
村雨は有無を言わさぬ強さで、正宗の頭を引き寄せ、自身の広い胸元へと押し当てた。
「っ……村雨部長、あの……」
「隠してやる。今は泣け」
低く響く、絶対的な包容力を持った声。
完全に親鳥が雛を庇うような、あるいは飼い主が傷ついた忠犬を慰めるような、温かく包み込んでくれる純粋な優しさ。
「……っ、う……」
正宗はもう抵抗することをやめ、与えられた温もりにすがるように、村雨のシャツの胸元をギュッと握りしめた。