パーフェクトスイート 第9話
パーフェクトスイート 第9話
第9話:冷たい雨と、後悔の涙
あの日以来、企画開発部のフロアには、重く息苦しい空気が居座っていた。
正宗は宣言通り、アレンに対する態度を徹底的に変えた。業務上の必要な会話は交わすものの、そこにはかつてのような抑揚も、僅かな感情の揺らぎも一切ない。まるでプログラミングされた機械のように、淡々と指示を出し、報告を受けるだけだった。
「羽柴さん、明日のコンペの資料ですが——」
「そこに置いておいてくれ。後で確認する」
「あの……羽柴さん」
「仕事以外の私語は慎むように。……次からは、松城を通してから持ってきてくれ」
パソコンのモニターから一度も目を合わせようとしない正宗の横顔。
その徹底した拒絶の姿勢は、アレンの心を真綿で首を絞めるように、ゆっくりと、しかし確実に削り取っていった。
(……自業自得だ。ボクが、あの人の一番柔らかいところを土足で踏みにじったんだ)
アレンは自分のデスクに戻り、膝の上でギュッと拳を握りしめた。
弁明する機会すら与えられない。圧倒的な仕事の有能さも、彼が喜ぶ甘いスイーツも、もう正宗の心の扉を開く鍵にはならない。アレンが計算尽くで積み上げてきたものは、自らの「嘘」によってすべて音を立てて崩れ去ってしまったのだ。
そんな二人の様子を、六条は自席から静かに観察していた。
数日後の、昼休み。
フロアの空気が相変わらず重い中、正宗のデスクに幸多が歩み寄ってきた。
「おい、正宗。ちょっと付き合え」
「……幸多?悪いが、今はこの資料を——」
「いいから。ほら、弁当持って。屋上行くぞ」
有無を言わさぬ幸多の勢いに押され、正宗は渋々立ち上がった。
秋風が吹き抜ける屋上のベンチ。幸多は自分の特製弁当を広げたが、隣に座る正宗はサンドイッチの包みを開けようともせず、遠くのビル群をぼんやりと見つめていた。
「……で。この間のフロアでの騒ぎ……何があったか全部は聞かねぇけどさ。いい加減にしろよ、お前」
「何の話だ」
「とぼけんな。アレンへの態度のことだよ。あの一件から、フロアの空気、最悪だぞ」
幸多は卵焼きを口に放り込みながら、ため息まじりに正宗を睨んだ。
あの日の午後、アレンが必死にすがりつき、正宗が冷酷に振り払った修羅場。同じフロアにいた幸多も当然見ていたが、正宗が低い声で告げたヘッドハンティングという核心の部分までは聞こえていなかった。ただ、アレンが何か重大な嘘をつき、正宗を決定的に怒らせたということだけは察している。
「……あいつへの業務上の指示は適切に行っている。問題はないはずだ」
「そういうこと言ってんじゃねぇよ。あいつが何かデカい嘘をついて、お前を傷つけたのは分かってる。でも、今のお前はただ意固地になってあいつを徹底的に排除しようとしてるだけに見える。アレンのやつも、見てて可哀想になるくらい落ち込んでるぞ」
「……」
「普段のお前なら、もう少し上手く立ち回るだろ。上に立つ人間として、私情を持ち込みすぎだ。他の社員のことも考えろ」
同期からの痛い指摘に、正宗は返す言葉が見つからなかった。
頭では分かっている。だが、どうしても顔を見ると、あの甘い言葉の裏にあった残酷な嘘を思い出してしまい、感情のコントロールが効かなくなるのだ。
「……悪かった。善処する。あいつのことも……」
「ふーん……」
絞り出すような正宗の言葉に、幸多は少しだけ目を細めた。
「まあ、理由は深く聞かないでおくけどさ。お前が他人にそこまで乱されるなんて、よっぽど珍しいよな」
「っ……」
「裏切られたって顔してるけど、それって裏を返せば、お前がそれだけあいつのこと、特別に信じてたってことだろ」
「……違う。俺はただ……っ」
反論しようとした正宗の言葉は、秋風にかき消された。
図星だった。有能な部下として、いや……それ以上の存在として、自分は確かに仁淀アレンという青年に惹かれ、心を許しかけていたのだ。その事実を突きつけられ、正宗は自らの愚かさにギリッと奥歯を噛み締めた。
そんな正宗の痛々しい顔を見て、幸多は小さく息を吐いた。
「ほれ、これでも食べて元気だせ」
幸多は自分の弁当箱から、黄色く艶やかな卵焼きを箸でつまみ、正宗の口元へと不意に突き出した。
「……っ、おい、幸多」
「いいから。お前の好きな甘いやつだぞ。あーん」
有無を言わさぬ幸多のペースに巻き込まれ、正宗は渋々口を開いてその卵焼きを咥え込んだ。
出汁の効いた優しい甘さが、冷え切った口内にふわりと広がる。
「……どうよ」
「……甘すぎる」
「ははっ、文句言いながら食うなっての」
不器用な同期なりの慰めに、正宗はほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
——さらに数日後の夜。
その日は朝から、季節外れの冷たい雨が降り続いていた。
残業を終え、疲れ切った足取りでオフィスビルを出た正宗は、エントランスで傘を開こうとしてため息をついた。心労と自己嫌悪のせいか、ひどく体が重い。
「羽柴さん。お疲れ様です」
不意に背後から声をかけられ振り返ると、六条が柔和な笑みを浮かべて立っていた。
「……まだ残っていたのか」
「ええ。羽柴さんこそ、最近少し働き詰めじゃないですか?顔色、あまり良くないですよ」
六条はスッと正宗の隣に並び、その青白い顔を覗き込んだ。
「……大したことはない。少し寝不足なだけだ」
「強がらないでください。……もしよかったら、少しだけ付き合ってもらえませんか?この近くに、落ち着いて飲めるバーがあるんです。愚痴くらいなら、いくらでも聞きますよ」
普段なら、丁重に断っていただろう。
しかし、激しい孤独感と、行き場のない感情に苛まれていた今の正宗には、六条のその優しげな声が、どうしようもなく身に染みた。
一人きりの静かな部屋に帰りたくない。
正宗は力なく頷き、傘をさし六条の後をついていく。
——オフィス街の裏手にある、照明を落とした静かなバー。
琥珀色のグラスを傾けながら、正宗はポツリ、ポツリと六条の問いかけに応えていた。アレンの名前こそ出さないものの、自分がどれだけ愚かで、他人の好意を簡単に信じ込んでしまったのかを、自嘲気味に語る。
「……俺は、人の本質を見抜く目には自信があったんだがな。見事に曇っていたようだ」
「羽柴さんは、優しすぎるんですよ。その優しさにつけ込む人間が許せない」
六条はそう言って、カウンターに置かれた正宗の手に、自らの手をそっと重ねた。
「え……」
「羽柴さん。僕はずっと、あなたのことを見てきました。あんな奴のことは、もう忘れてください。僕なら、絶対にあなたを傷つけたりしない」
六条の端正な顔が、ゆっくりと近づいてくる。
振り払わなければならない。そう頭では分かっているのに、心が芯から冷え切った正宗は、拒絶する気力すら湧かず、ただ目を伏せてその瞬間を待つことしかできなかった。
自分の心はもうボロボロで、誰かにすがりついてしまいたいという、甘い逃避の誘惑。
しかし——。
唇が触れ合う直前で、六条の動きがピタリと止まった。
「……六条?」
恐る恐る目を開けた正宗の視界に映ったのは、ひどく悲しそうな、そして自嘲するような六条の顔だった。
六条には分かってしまったのだ。目を伏せた正宗の表情が、これ以上ないほどに傷つき、無理をして心を殺している顔だということに。
ここで強引に唇を奪えば、この人は決定的に壊れてしまう。
「……だめですね、僕は。結局、いい人ぶることしかできない」
六条はゆっくりと顔を離すと、重ねていた正宗の右手をそっと両手で持ち上げた。
そして、その白い手の甲に、敬愛を込めるように静かに口づけを落とした。
「ろく、じょう……」
「僕はいつでも、あなたの味方です。……たとえ羽柴さんが本当に必要としているのが、僕じゃなかったとしても」
六条のその言葉に、正宗の胸の奥がギュッと締め付けられた。
六条の誠実さと、自分の不甲斐なさに申し訳なさが込み上げる。
「……すまない、六条。俺は……」
「謝らないでください。今日は、もう帰りましょう。タクシー、呼びますから」
六条に深く詫びを入れ、正宗は一人で帰宅するために店を出た。六条は「少しここで飲んでいきます」と、あえて正宗を一人にしてくれた。
カラン、と静かな音を立てて店の扉が閉まる。
一人残された六条は、カウンターに置かれた自分のグラスを見つめ、ふうっと長く、重い息を吐き出した。
「……完敗だなぁ」
ポツリとこぼした声は、バーの静かなBGMに吸い込まれて消えた。
あんな、すべてを諦めたような酷く傷ついた顔をされたら、もう付け入る隙などどこにもない。時間をかけて外堀を埋め、大切に大切に手綱を握ろうとしてきた自分のやり方では、到底届かない。
あの生意気な後輩が、たった数週間で土足で踏み荒らして奪い去っていった、正宗の心のど真ん中には。
「……バカな人。あんな奴のために、あそこまでボロボロになるなんて」
六条はグラスに残っていた琥珀色の液体を、一気に喉へと流し込んだ。
アルコールの強い刺激よりも、胸の奥で燻る苦さの方が、よほど痛かった。
——カラン、と背後でバーの扉が閉まると、途端に街の喧騒と冷たい雨音が鼓膜を打った。
十一月末の夜の空気は、冬の気配をたっぷりと含んでいて容赦なく冷たい。正宗は身震いをして、羽織っていた厚手のウールコートの襟を立てた。吐く息は白く濁り、街灯に照らされた氷雨が、アスファルトを黒く濡らし続けている。
早くタクシーを拾って、帰ろう。
通りへ出ようとして、傘を開きかけた正宗の足が、ふと止まる。
店のすぐ横の路地裏。
こんな凍えるような寒さの中。傘も差さずに氷雨に打たれ、うずくまるようにしゃがみ込んでいる一つの影があった。
コートも羽織らず、仕立ての良いスーツは泥と雨で汚れきっている。ふんわりとした桃色の髪は、濡れて額にへばりついていた。
まるで、持ち主に捨てられた子犬のような、痛々しい姿。
「……仁淀……?」
信じられない思いで声をかけると、ビクッとその肩が揺れた。
ゆっくりと顔を上げたアレンの瞳は、いつも自信に満ちていた光が完全に失われ、今にも泣き出しそうに激しく揺れていた。
「羽柴さん……」
「お前、こんなところで何をしている。それに、その姿は……」
呆然とする正宗の前に、アレンはふらつく足取りで立ち上がった。
そして、雨だか涙だか分からないもので濡れた顔のまま、震える声でぽつりぽつりと紡ぎ出した。
「ごめんなさい……こんな……つけるようなことして。でも……店に入れなかった」
「……」
「六条先輩になら……あなたを渡してもいいんじゃないかって、思って……。だって、ボクは……ボクは、あなたをこんなに傷つけたから……っ」
エリート街道を歩み、欲しいものは何でも手に入れてきた御曹司の、プライドも何もかも投げ捨てた、ひどく無防備で惨めな姿。
氷のように冷たい雨の雫に混じって、アレンの頬を幾筋もの熱い涙が伝い落ちていくのが見えた。
「だから、ボクは……あなたに触れる資格なんて、ないのに……っ」
しゃくり上げるようにして顔を覆うアレンの姿に、正宗は手に持っていた傘を、思わず取り落としそうになった。
あんなに憎らしくて、嘘つきで、腹立たしかったはずなのに。
コートも着ず、凍える雨に濡れて震えるこの年下の青年を前にして、正宗の心に分厚く張られていた氷が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。