第二十七話 冬来りなば春遠からじ −お手入れは大事−
第二十七話 冬来りなば春遠からじ −お手入れは大事−
数年に一度という寒波に見舞われている、近畿地方。ここ宇治市は、京都市内よりかは幾分寒さが緩いと言われるけど、これだけ寒ければほとんど違いはないと思う。しかも、学校があるこの地域は少々標高があるということは、道路は基本坂道。最低気温がかなり低い時は……ところどころ路面が凍っていたりする。時々、ブラックアイスバーンみたいなところで滑って転倒しケガをする人がいるそうなので、この寒い時期はみんな足元に注意して登下校している。
ここ視聴覚教室の窓の外は、北寄りの風が強く吹きつけ、ときどき窓ガラスがギシギシと音を立てて、強風に懸命に耐えている。
窓ガラスの内側は、エアコンで調整しているとはいえ、お世辞にも暖かいとは思えず、一言で言うと、寒い。特に足元が寒く足指先は冷たく、ユーフォを吹いていない時は、足指をぐーぱーと動かして冷たい感覚を誤魔化そうとしている。
「ちょっと、ペットだけで合わしてええな?」
未来が自身の前にある譜面台の楽譜ファイルを指でめくりながら、対面の私たちの方を一瞥してお伺いを立てる。
「いいよー、どうぞどうぞ」
「じゃあ、真帆ちゃんと紗和ちゃん、よろしいですか?」
「オッケーでぇす」
「いいっすよ」
今私たちは定期演奏会で演奏する曲の一つ、「トランペット吹きの休日」の練習をしている。編成としては、ペット3、ボーン2、ユーフォ1、チューバ1の7名と小編成で、しかも一年生だけだ。
と言うのも、今度の定演では、全員合奏を一部、二部とし、その間に学年ごとに3チームのアンサンブルを編成、学年それぞれで対バンする、と言う形となった。昨年12月の校内アンコン演奏会が概ね好評だったので、定演でもやってみよう、と。しかも、学年の縛りはあるけど掛け持ち可能、としたら、私は三つとも呼ばれてしまった。ユーフォは一人だし、メロも伴奏もベースもできると言われて……早い話が便利使いさせられている。
その内の一つの編成が、今練習しているチーム。名付けて『田中王国』。誰がこんな名前つけたんだろう?
「トランペット吹きの休日」は、未来がリクエストしたのは分かっていたが、真帆ちゃんと紗和ちゃんもリクエストしていたとは分からなかった。だもんで、この曲を演りたい三人が集まっているから、練習に熱が入ること、入ること。
「じゃ、いきましょう……ワン、ツー、スリー」
キーはB♭。テンポは154BPM。まず2小節は1stの未来から。次の2小節は2ndの真帆ちゃんが3度上、その次の2小節は3rdの紗和ちゃんがさらに上を吹いて、ユニゾンでファンファーレを明るく陽気に奏でる。小気味良い三人のユニゾンを聴きながら、私はユーフォを膝の上に置いて、旋律を聴きながら楽譜上のオタマジャクシを目で追っかけていく。私だけじゃなく、ボーンの高瀬くんとほのかちゃん、チューバの藤堂くんも同じように楽譜を追いかけていっているようだ。
この曲は3分にも満たない曲だけど、きらきらと輝く音の粒がたくさん詰め込まれているので、演奏する方としては結構楽しかったりする。ただ、ボーンとユーフォ、ペットとチューバ等々高速でユニゾンする箇所がいくつかあり、そこはピッタリ合わせてはおきたいので、緊張感を緩めることはNGだ。
ペット三人が一通り吹き終わると、なぜか未来は眉間に皺を寄せながら、口にマウスピース当てがわずにピストンを何度も押しては離し、をしている。何度か繰り返した後、首を右に30度くらい傾けた。その妙な仕草に、隣に座っている真帆ちゃんが不思議に思ったのか、未来に話しかけている。
「未来、どしたん?」
「いや……うーん、真帆ちゃんのペットちょっと貸してくれる?」
「ん?いいけど?」
未来は真帆ちゃんから銀メッキのトランペットを受け取ると、先ほどと同じようにピストンを何度か押しては離す、を繰り返している。そして、ありがとう、と言ってペットを真帆ちゃんに戻し、再度自分のペットのピストンを押しては離す、をやっている。
「だよなぁ〜……どうしよう……」
「どったの?」
「3番ピストンの戻りが、どうも引っかかる」
「引っかかる?」
「うん、こう、普通はピストンが指に吸い付いたみたいに動いてくれるやんか。でも、3番だけが……少し遅れる」
「それって、突然?」
「うーん、……多分、今吹いていて、やと思うけど……ひょっとしたら、前から変だったのかもしれんけど……いやいや、それやったらわかるわ。オイルはちゃんと差してから練習始めたんやから、オイル切れとは思えんし……」
「ちょいアタシに貸して、未来のペット」
「いいよ」
紗和ちゃんが未来の前に来て、未来のゴールドラッカーのペットを受け取り、未来がするようにピストンを動かしている。
「あ……言われてみれば……いや、……ゴメン、アタシ違いがわからんわ」
ペットを未来に返し、自席に戻った紗和ちゃんは自分のペットのピストンを動かしては、首を傾げている。
「未来、どうする?練習中断する?」
私が声をかけると、うーん、と喉を鳴らしたあと、中断しない、と返事した。
「ピッチとかは変になってないから……音は大丈夫。ちょっと引っかかる分、意識すればいいんやし。続けよう」
すると、静かに様子を見ていた藤堂くんが落ち着いた低い声で提案してきた。チューバはただでさえ大きい管楽器なのに、藤堂くんが構えているとそれほど大きく見えないほど、彼は上に横に十分大きい人だ。
「田中、トランペットに違和感あるんやったら、明日楽器工房の人が学校に来てくれるから、言うてみたらどうや?」
「明日?」
「ああ、部長言うてたやんか、今月のスケジュール周知の時。……ほら、プリント見てみ?明日の昼過ぎに予定入ってるやん」
ボーンの高瀬くんが、自身の楽譜ファイルから予定表らしき紙を一枚抜き取って、ひらひらと見せている。
「え……?」
楽譜ファイルをペラペラとめくる未来。あるところで手が止まり、赤縁のメガネを軽く指で押し上げてはじっと見ている。
「あ、ほんまや」
「何?そのマンガみたいな展開」
「定期的に来て、マイ楽器も含め吹部の楽器一通り診てくれるって言うてたやん。その時に、状態説明したらええんちゃうか」
「そうやなぁ……うん、そうするわ。藤堂くん、ありがと」
未来がペコリと頭を下げると、大きな体の割には小さい声で、うん、と答えていた。
「それなら……気を取り直して、みんなで頭から合わせたいやけど。みなさん、準備はよろしいですか?」
「「はいっ」」
「じゃあ、行きましょう。……ワン、ツー、スリーっ!」
翌日の放課後、未来に付き添って楽器室の引き戸を開けると、そこには厚手のワークエプロンを着用した見知らぬ……いや、どこかで見たことがあるような気もする……見るからに体が大きそうな男性と少ぉーしふくよかで柔らかそうな女性が一人ずついらして、なにやら作業をしているところだった。男性は窓際に置いてある机に向かって、備品のアルトサックスを大きいクロスで拭いており、女性はその隣でタブレットの操作をしている。
「こんにちは」
「はい、こんにちは。お邪魔してます」
最初に返事をしてくれたのは、見るからに優しそうな女性。その方が、私たちを見てはニコニコしている。
「楽器のメンテナンスですか?」
「あ、は、はい。私のトランペットを見てもらいたいんですけど、よろしいでしょうか?」
「もちろん。どれですか?」
「これなんですが」
未来は手に持っていたトランペットのハードケースを、近くの長机に置き、バックルを外して上蓋を開け、いつものクリアラッカーのペットを取り出した。だいぶん年季が入っているようだけど、それが逆に楽器の貫禄になっている。
「三番ピストンの戻りが遅いと私は思うんです。なので、早いパッセージだとピストンがほんの少し戻り切らずに次の音が出るという……そのため音のアタックが緩いような感覚がしているんです」
「なるほど、そうなんですね。では、ちょっと預かります」
その方はトランペットを未来から受け取り、ピストンをしばらく動かすと男性の方にペットを渡した。
「ひょっとして、ピストンケーシングがおかしくなっているかも……」
「どれ……お、YTR-850か。懐かしい……昔、香織先輩が使っていたな……」
男性はトランペットを受け取ると、各ピストンを何度か押しては離す、の動作を繰り返し行なっている。
「どう?」
「うん、確かに3番だけ微かに違和感を感じる。指に気持ちが集中して、ようやくわかるという程度やけどな。……梨子、リーマーを取ってくれるか」
「はい」
その、梨子と呼ばれた人は、足元にあるツールボックスらしきケースの蓋を開け、中からT字形の道具を取り出し男性に手渡す。
男性は、ピストンキャップを開け、ピストンを引き抜く。ここからはよく見えないけど、ライトの光をあてたりして内側をチェックしているようだ。
「このトランペットはマイ楽器ですね」
男性の作業を見守りながら、梨子さんは未来に話しかける。
「はい。マ……いえ、母から受け継いだものです」
「へえ〜、そうなんですか。では、お母様もこのトランペットで……吹奏楽ですか」
「はい……母もこの学校で吹いていたそうです」
「親子二代ですか?それは素敵なことですね」
「おばちゃんとこも、そうやんか」
「ヒェッ!」
いきなり背後から低い声がしたので、驚いて振り返ると藤堂くんが楽器室の入り口を封鎖していた……じゃない、立っていた。きっちりと締めているネクタイが、相変わらず窮屈そうだ。
「あら、大雅。久しぶりやねぇ」
「正月に会うたやんか」
「おう、大雅か。元気しとるか?」
「してるしてる」
藤堂くんは梨子さんのところへと歩み寄り、親しげに話し始める。作業をしていた男性が振り向いて、梨子さんと藤堂くんの会話に加わっていく。でも、その手は休むことなく動き続けている。
私たちは、その場で一体何が起きてるのか理解不能な状態が続くので、藤堂くんに解説を依頼することにした。
「あのぉ……藤堂くん、こちらの方とは、どう言ったご関係で……」
「ああ、叔父さんと叔母さんなんや。叔父さんの一番上の姉が、僕の母親っていうわけ」
「とすると、お名前は……」
「うん、母親の旧姓が”後藤”やってん。で、卓海兄ちゃん……僕の従兄弟が去年北宇治を卒業して、東京の楽器リペアの専門学校に行ってるわ、家業を継ぐ言うて」
「ははぁ」
「しかも、この吹部でチューバ吹いてたから……後藤家はチューバ一色やもんな」
「ふふふ、まぁ、そうやね。梨央もチューバ吹いているし」
「梨央、やっぱり今年ここ受けんの?」
「そうやって。あの子の希望通りになってくれたら、嬉しいんだけどね」
「梨央やったら大丈夫やない?」
「さぁー、どうだろ。私としては心配しかないわ」
「あの〜……」
楽器室の雰囲気が、徐々に”後藤家のリビング”にスライドし始めているので、戻ってきてもらいたくて声をかけるも、どうもその声が届かない。
「僕が受かっとんやけん、大丈夫やろ。梨央は頑張ってるやろうし」
「だといいけどね」
「それはそうと、卓海兄ちゃんからメール来てたで」
「ふーん、なんて?」
「今度、大阪で楽器フェアがあるから、一度帰るって」
「あら、そうなの?」
「あの〜、もしもーし」
なんか私たち、すっかり蚊帳の外になっているな。
「東京開催の時は行けんかったから、大阪のに見に行くって。で、僕誘われてな」
「ええやん、行ってくれば」
「あのっ!!」
未来が珍しく声を張り上げる。皆の注目が未来に集まったところで、ようやく部屋の雰囲気がリビングから楽器室へと戻ってきた。
しかし、藤堂くんってこんなに喋る人だったとは。いつもは寡黙に楽器と向かい合ってるのに、意外だった。
「それで、あの、私のペットはどうでしょうか」
「ああ、スミマセン。三番ピストンが極々僅かに変形していたので、それを調整しました。これでとりあえず大丈夫でしょう」
後藤さんは慎重にトランペットを組み立てていき、最後にクロスで全体を拭いて、お待たせしました、と未来にトランペットを手渡した。
「あ、ありがとうございます」
「どうぞ、試してみてください」
「はい」
ペットを手にし、ピストンを押したり離したりを繰り返すと、ニッと口角を上げ頷いた。
「ピストンの感触が戻ってます。よかったぁ〜」
「よかったじゃん」
「うん、よかった……音、出していいですか?」
「もちろん、どうぞ」
「では」
未来は、手にしていたトランペットを胸の前へ持ち上げた。左手の親指は1番抜差管のサムフック、中指は3番のリングへと自然に収まる。右手の人差指、中指、薬指がそれぞれ1、2、3番ピストンの上に軽く触れ、小指はフックに入れず、自然に浮かせたまま。
背筋はまっすぐ、肩は力を抜いて自然に落とし、胸を軽く開く。足は肩幅に開き、重心は左右どちらにも偏らず、あくまでも中立を保つ。
ベルはほんの少しだけ上向きで、これは未来が音を遠くへ飛ばす時の、いつもの角度だ。
マウスピースを唇に当てる瞬間、表情がふっと引き締まる。上唇と下唇のバランスを整え、息の流れを確かめるように静かに息を吸い込む。
ベルから放たれた最初の一音は明るく張りがあり、楽器室の空気を震わせながらまっすぐ伸び、壁に当たって柔らかく跳ね返り、部屋中に深い余韻を残した。
未来は続けて、お得意の超高速スケールを吹き始める。高音へ上がる時も音が細くならず、むしろ伸びやかにベルから飛び出していく。……やっぱり、未来のペットは調整してもらうまでは機嫌が良くなかったのかもしれない。調整してもらうだけで、こんなに音がまっすぐで、澄んだものになるなんて。
……未来の奏でるトランペットの音、私は大好きだ。
スケールを吹き終えマウスピースを唇から離し、未来はふーっと静かに息を吐いた。
「……うん、いい感じ。ありがとうございます。気になっていた3番ピストンの違和感はほぼなくなりました」
「ほぼ?」
私が疑問に思って未来を見ると、ちょっと苦笑いしている。
「うん、一箇所が良くなると、他のイマイチな箇所が色々と表に出てきたっぽいんよ」
「あらら」
「そうなると、オーバーホールをしてもらわんとねぇ」
梨子さんがそういうと、後藤さんも頷いている。
「使い込まれている楽器は得てしてそういうものでね。そのトランペット、さっき言ったオーバホールはしたことあるかな?」
うーん、と首を傾げて過去の記憶を辿っているようだ。
「いえ、私が使うようになってからは無いと思います。何年もほぼ毎日使っているから……」
手で抱え持っている、以前自分の分身みたいだと言っていたトランペットをギュッと抱きしめている。
「なるほど、そうですか。そのトランペット、いい音を保ったまま長く使ってもらうためには、トランペットを分解して、パーツ全て掃除して、必要ならば部品交換し、丁寧に組み立てて、ということをした方がいいんだが。おそらく、注油とかの奏者の手でできるメンテナンスは十分だったけど、使っているうちに溜まってくる微細な不純物がなんらかの症状につながるということはよくあることでね。私たちみたいな専門家に、大掛かりなメンテナンスを頼んでもらう必要は、あるんですよ」
「やっぱそうですか……そのオーバーホールはどれぐらいの時間が必要ですか?それと、費用は?」
「うーん、頑張ってやっても、二週間はいただきたいかな。その代わり、しっかりと点検させてもらいます。費用は数千円から数万円と、幅があるのが申し訳ないところなんやけど」
薄々は知っていたけど、楽器をオーバーホールをするにあたって、相当の期間と費用が必要ということを改めて知った未来は、トランペットを抱いたまま、ほんの少しの間沈思していた。
「そうですか……費用がかかることですので、一度母と相談させてください。それから決めたく思います。多分、OKしてくれると思うんですが……ただその場合、二週間の間どうしよう。そこの備品を使わせてもらおうか……」
楽器室の棚に置いてある楽器のケースたちをチラリと見てそう呟くと、後藤さんが、それだったら、と話を続ける。
「うちのを貸してあげましょう。入荷したばかりの新製品で、うち用に下ろそうとしているのがあるんで、それでもよければ……」
「えっ!貸していただけるんですか?!」
「ええ、その新製品は音の傾向もこのトランペットと似ているし。この850はどちらかと言うと、ジャズ向きでね。新製品もその方向性なので、そう違和感ないでしょう」
そう言いながら、後藤さんは足元に置いてあった黒いハードケースを机の上にあげ、バックルを開け、ケースの中からキラキラと光る銀メッキのトランペットを取り出した。
「今日たまたま他の楽器と一緒に持って来てるんやけど……これが、高坂麗奈モデル。ストックだけど、ヤマハの最高機種の一つやね」
「これ……高坂先生が作ったんですか?」
「そう、彼女とヤマハの共同開発というものだそうだ。うちで取り扱う楽器は、もっぱらスタンダードモデルなんやけど、このカスタムモデルは取り扱うようにしたんです。……ここだけの話だけど、京都府内ではうちが最初」
「それはまた、なぜですか?」
「僕は高坂さんのブラス・テクニシャンをやってて。彼女が半年に一度京都の音大で講師をする時、大体四本ほどペットやコルネットを預けに来て、彼女が京都滞在中にメンテして返却すると言うことを……もう十年以上はやってるかな」
「へえ〜」
「その関係でこれがここにあるんだけど……吹いてみます?」
「……いいんですか?」
「どうぞ、どうぞ。北宇治吹部の部員が吹くのは大歓迎やし」
後藤さんが両手で差し出した銀メッキのトランペットを受け取った未来は、上から下から横からとつぶさに観察した後、その銀色に輝くトランペットを構えた。
「そのマウスピースも高坂モデルで、そのまま使っていいですから」
「はい……では、吹かさせてもらいます」
スゥと、息を吸ってマウスピースにフーッと吹き込むと、ベルからは芯が太い音が飛び出し、その周りに豊かな倍音が幾重にも重なって広がっていく。未来はその出音の凄さに驚いた表情をしているから、私や藤堂くんかびっくりするのは当然のことなんだろう。一人で二人分の音がする、と言うのは言い過ぎじゃないと思う。
次に毎度お馴染みの高速スケールを吹き始めるが、キラキラとした音の粒が楽器室を満たしていくようだ。
そして、ほんの数秒ブレイクの後、未来が吹き始めたフレーズは、”三日月の舞”のトランペットソロ!
一切の濁りもない、倍音豊かな澄み切った音だが、その音の芯は強固で全くのブレがない。今まで何十回、何百回も未来のソロを聴いたけど、このソロの音は格別だ。この音を力不足だろうけど、私のユーフォで支えたい……そんな衝動に駆られるのをグッと堪える。
ソロ部分だけを吹き終えた未来は、構えを解き、改めてトランペットをまじまじと眺めてからニカっと笑った。
「いいね!最高!……でも、これはソリストのためのもので、今うち達がやっている吹奏楽の合奏では、音が強すぎて浮いてまうわ」
後藤さんは、未来の言葉を聞いて大きく頷いている。
「その通り。さっきも言ったけど、そのペットはジャズ寄りなので、合奏よりかは独奏向けではある。しかし、高坂さんは、そのペット一本で"チュニジアの夜"を吹くし、"アルヴァマー序曲"も吹くし、マーラーの5番第1楽章も吹く。さらには、京都競馬場のG1ファンファーレだって吹いている。練習を積み重ねていけば、トランペットを自由にコントロールできて、どんな曲でも吹けるようになるよ」
未来は後藤さんの言葉を聞き、小さく頷いている。そして力強く「はい」と答えていた。
「トランペット、お返しします。ありがとうございました。……では、オーバーホールの件はどうしましょう……先ほどもお伝えしましたが、一度母に相談してからご連絡したいのですが」
「うちの店の連絡先をお伝えしますね」
梨子さんが足元のツールケースからファイルを取り出し、そこからリーフレットを一枚抜き取って、未来に手渡しながら説明を始める。
「こちらの最後に連絡先が書いてあります。電話でもメールでもLINEでも、どれでも結構ですので、ご連絡していただければ、どのようにでも対応させてもらいます。もちろん、このトランペットを含め代替も用意しますから」
「わかりました」
「それじゃあ、お名前を教えてくださいな」
「はい、一年の田中未来と言います」
「たなか、みらい……さんですね……うん?」
梨子さんは未来の名前を聞いて、タブレットに記録した後、じっと未来の顔を見ている。
「あの、なんでしょう?」
「……ああ、ごめんなさい。田中さん、赤縁のメガネをされているから、ちょっと人を思い出したもんで」
「そうでしたか」
「……高校時代、一つ上の先輩にそんな赤縁のメガネをした田中さんて方がいてね。随分お世話になったから……」
あっ!という顔をした未来は、次の瞬間私を見てニヤッとした。あれは、よからぬことを考えた時の顔だ。
「あの〜、……まさかその田中さんって、こんな人でしょうか?」
「?」
「カモーン、ジョイナ〜スっ!」
「え!」
「我が低音パートの練習は、ここで行いまーす!別名、3年3組!」
「ええ?!」
以前私のお母さんから聞いていた、高校生時代の自身のお母さんのセリフを、身振り手振り付きで声真似をする未来。特徴を捉えてて、よく似ていると思うな。私は思わず、ぷっと吹き出してしまった。
「さあ、会場に私たちの三日月が舞うよ!」
「うんうん、言ってたなぁ」
「あっれぇー?黄前ちゃんじゃなーい?!」
こらこら、私を巻き込むな。……未来の声真似を見てた梨子さんと後藤さんは、あっけに取られているようだ。
「ええ〜、何で知ってるんですか?そんな昔のこと」
「しかし、ということは……あなたは田中さんで、そのメガネで、あのトランペット持ってるってことは……もしかして……かい?」
「あはは、お見苦しいところ申し訳ありませんでした。そのもしかして、です」
後藤さんは、恐る恐ると言った感じで尋ねている。
「あすか先輩の……そして、香織先輩の……娘さん……?」
「はい、そうです。いろいろ事情がありまして、母が二人おります。今後ともよろしくお願いいたします」
「そうなんや〜、あすか先輩の……よかった、元気にしてたんやね……やだ、涙が……出てきちゃった」
梨子さんは両手で顔を隠し、俯いてしまった。
「そうなんか……いや、俺らはあすか先輩や香織先輩には当時、随分とお世話になったから……感謝しても仕切れんぐらい……じゃあ二人には、後藤がよろしく言っていた、と伝えてください」
「はい、承知しました」
そう言った後藤さんは、黒縁のメガネを外し手の甲で両方の目尻を擦った後、梨子さんの肩を手で軽くとんとんと叩いていた。
「大丈夫か……それじゃあトランペットのオーバーホールの件は、親御さんに相談していただいてまた連絡ください」
「わかりました。改めて連絡させていただきますので、その時はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
未来はハードケースに自分のトランペットをしまい、バックルを二箇所バチンバチンと止めて、ケースを左手に持った。
「ありがとうございました。これで失礼します」
「失礼します……藤堂くんはまだいる?」
大きな体でじっと楽器棚の前で佇んでいた藤堂くんは、ビクッと体を震わせてから答えてくれた。
「あ……もうちょっとおってから、教室に戻るわ」
「わかった……じゃあ、後で」
「うん」
そのまま楽器室から廊下に出て、一礼をしてから引戸をカラカラと鳴らしながら閉めた。
今はまだパート練の時間なので、私たちはそれぞれのパートの教室へと廊下を歩き始める。
「瑠美子、ついてきてくれてありがとう。でも、よかったん?自分のユーフォ見てもらおうと言ってたんやないん?」
「あ、そうだった。未来の話をずっと聞いていたものだから、忘れてたよ……もう一度行ってくる」
「今度は、瑠美子が瑠美子のお母さんのモノマネをする番やね。うち、それ見てみたいから、もう一度ついていこう」
「いいって、しないから」
そう答えると、あははと未来は笑った。
廊下の窓の外は今日も北寄りの風が強く吹きつけ、窓ガラスが時折ぎいぎいと音を立てている。
早く暖かくならないかな。
こんなに寒いと、そればかり考えてしまう今日この頃。