第三十三話 ようこそユーフォニアム −新人さんいらっしゃい−
第三十三話 ようこそユーフォニアム −新人さんいらっしゃい−
4月17日金曜日の放課後。ここ北宇治高校北棟4階の東端にある音楽室は、久しぶりに人がいっぱいいて活気があり、話し声笑い声に様々な楽器の音も加わって結構賑やかだ。
今日この音楽室では、先週入学してきた新入生の部活体験期間が終わり、正式な入部と担当楽器決めという、吹部にとって今年度最初の重要イベントが行われている。
今年の入部希望者は20名。大半が中学からの楽器経験者だが、希望者のうち5名が高校から始めたいと言う初心者で、学校の授業以外に楽器を触ったことがないとか。……こういった人達も、練習を重ねていくとコンクールに出られるようになってくるという、その過程を見守るのが結構好きな私です、って上から目線だな。
入部希望者に向けた楽器紹介を、金管、パーカス、木管の順で行った後、ほどなく楽器決めの時間へと移っていく。
ほとんどのパートは募集定員がすぐ埋まり、担当楽器が決まった一年生はピアノの側にいる山岡部長と藤村副部長に報告しに行っているのだけど……ある一角だけは、しんと静まり返っている。ええ、そうなんです。不人気楽器の集合体、低音パートです。
低音パートは、ユーフォニアムとチューバとコントラバス等中低音を担っており、北宇治サウンドを支えている重要なパートだけど、トランペットやクラリネット、フルートと比べたら華やかさは少なく、演奏するフレーズは地味であることが多い。時々、高速なパッセージもあるんだけどねぇ。
中でも、ユーフォはメロディもハモリもベースも担当できるので、吹奏楽の中では重宝がられている楽器。昔、とある吹奏楽を取り上げたアニメと宇治市がコラボしたときは、名前が知られてユーフォ人口も増えたのではないか?と言われたことがあったんだけど、今ではすっかり地味な楽器に戻ってしまっている。こんなにいい音するのに〜っ。
低音パートが避けられる理由の一つに、その楽器自体の大きさと重さがあるかと思う。ユーフォは3キログラムから4キログラムの間で、まぁまぁだけど、チューバやコンバスは10キログラムから15キログラムと、人一人が支えるにはかなり重量級。……それを使いこなすから、カッコ良いのになぁ……。須崎先輩は、あのコンバスをクルクル回すことができるし……カッコ良いの意味が違うか。
低音パートの楽器ごとの人数は、現在コンバス2名、チューバ2名、ユーフォ2名となっている。コンバスは楽器が2つしかないため、マイ楽器の人がいない限り、2名のままとなるのは致し方ない。後、チューバは1名、ユーフォは1名応募してきて欲しいけど……。
机を2つ寄せて、その上に楽器室でずっと眠っているユーフォと私のユーフォを置き、ほのかちゃんが使っているコンバスの弓を置く。チューバーは大きすぎるので、ベルを下にしておき、とりあえず楽器を展示してみる。
誰か来ないかなぁーと教室を見回していたら、入り口の引き戸が開き、副顧問の高田先生が入ってきた。挨拶に来るには早すぎるよな、と思っていると、山岡部長のところで少し笑ってからこちらの方へやってきた。
「お疲れ様です。先生、ずいぶん早くないですか?」
低音パーリーの須崎先輩が高田先生に声をかけると、先生は苦笑いする。
「北宇治は人数多いから、楽器決めに時間かかるってことすっかり忘れててね。職員室に戻るのも何だから、しばらく邪魔にならない所で見学させてもらうよ。いいでしょ?」
「もちろん、いいですよ」
「ありがとう」
そう言うと、先生は入り口から対角線上にある教室の隅の方に移動していった。
「あの〜、チューバ希望です」
「え?」
「おっ!」
「ほほぉ」
私が驚くより先に、チューバの中原先輩や藤堂くん、そしてパーリーの須崎先輩が反応する。声がする方に振り向くと……これまた、中原先輩や藤堂くんに似たような、つまり縦横にでっかい男子がいた。
「小田垣と言います。中学でチューバを吹いてましたが、高校でも続けたいので来ました。よろしくお願いします」
必要なことしか話さないと言う感じの男子だけど、そういうタイプは低音には既に2人いるので、もう見慣れている。
「よく来てくれた。歓迎します」
「よろしく、頼む」
「はい」
「これでチューバ3人体制が維持できたか……一安心やな……」
大男3人が手を取り合っているシーンを見ながら、須崎先輩がそう呟いた。
「ちょっとちょっと、瑠美子」
「ん?」
背中の方から私の肩をトントンと叩かれたので振り返ると、凛々ちゃんと一人の女子が一緒に立っている。二人とも表情に固さが見られ、女子の方は私と目を合わそうとしてくれない。
「凛々ちゃん……と、……えー、太田さんだっけ。どうしたの?」
「うん。この子ね、ユーフォ希望だって、一応……」
「あれ?そうなの?」
思わず口から出た言葉のせいなのかどうかはわからないけど、太田さんはそのまま俯いてしまった。
4月13日月曜日、放課後の楽器室。
私はパート練習の前に個人練を1時間ばかりするため、楽器室にユーフォニアムを取りにきた。スチール棚から、ユーフォくんをハンドルにぶら下げたケースを引っ張り出す。床に置いてケースを開け、ゴールドラッカーのユーフォを取り出して一旦机にごとりと置く。
いつもの練習場所に行ってからすればいいのに、この時私は何の気なしにポーチの中のマウスピースを取り付け、ユーフォを抱き抱え、マウスピースに唇をつける。そして、ゆっくり目にふーっと息を入れると、ベルからはユーフォ独特の柔らかい音が吐き出され、その音は意思を持ったかのように楽器室の中を駆け巡った。
「うん」
マウスピースに唇をつけたままユーフォに息を入れ、これも何の気なしに”響け!ユーフォニアム”を吹いてみる。柔らかく、やさしく、そしてどこか切なさも感じるフレーズ。もう生まれる前からずっと吹き続けているような、そんな妙な感覚が頭の奥の方で感じる。
前半のフレーズで演奏を止めマウスピースから唇を離すと、タン、という足音らしきものが聞こえた。
「ん?」
どうやら入り口の方から聞こえたようなのでそちらを見ると、一人の女子が立っている。
「ひえっ?!」
「ええっ!?」
私はまだ誰もいないと思っていたので人がいて驚いたら、その女子も驚きの声を上げた。しかも、彼女の顔を見て、頭の中の人名帳をめくってもめくっても、該当するページが見つからない。ということは、聞くことは一つ。
「あ、あの、どちらさまですか?」
「あの、いえ、素敵な曲だなと思いまして……」
少し茶色がかり、肩のあたりで少しほわっと癖毛っぽくなっている髪の彼女の胸元には、深い緑色のリボンが付けられている。あ、彼女は一年生なんだ。
「ひょっとして、吹奏楽部の見学、ですか?」
「そ、そうです……授業が終わって、すぐ音楽室に来たら、まだ誰もいらしてなくて。すると、そのユーフォの音が聞こえて、綺麗な音だったのでつい聞き入ってしまいまして……」
音を褒められるなんて、ちょっと気恥ずかしくて、身悶えしそうだ。
「どうもありがとう。えーっと、見学希望だと……今からの時間は個人練習の時間で、その後パート練といって、クラリネットばかりとか、ホルンばかりとかで集まって練習するという時間だけど、……その前に、楽器の経験者ですか?」
「あ、はい、一応……」
「何を吹いているんです?」
「アルトサックスです」
「おお、いいねぇ。なんなら、サックスパートの誰かが来るまで、ここで一緒に待ってようか」
サックスパートなら、たいてい凛々ちゃんが最初に顔を出すだろうし、彼女が案内する方がベターだな。
「いえ、そこまでしてもらうには」
「いいって、いいって。もうすぐしたら来るはずだから……どうぞ、中に入って。こっちで待ちましょ」
「は、はい……」
恐る恐る楽器室に足を踏み入れる彼女を椅子に座るように促し、自分も抱いていたユーフォのベルを下に向けて床に置き、隣の椅子に座る。
凛々ちゃんが登場するまでの少しの間話をしていると、北中吹部の出身で、名前も太田さんということを聞いた。
北中の吹部でサックスだったら、瑛斗と同じじゃん。知ってるかな……いやいや、弟が北中の吹部にいてサックスのパーリーをしている、という情報は今は必要ない話だから、特段言うこともないか。
「やっほー、瑠美子、おっつかぁれさーん」
「お疲れさん」
「まだ楽器室に居るなんて、珍しいやん」
するとそこに、凛々ちゃんが千紗や陽菜と一緒に楽器室に入ってきた。
「あ、お疲れ様。あのね凛々ちゃん、早速で申し訳ないんだけど、お願いがあるんだ」
「何でしょ?瑠美子の頼みなら、何でも聞くよ」
「こちらの太田さん、サックスパートの見学希望なんだって。案内してあげてくれないかな」
「何と!」
そう言うと、目を輝かせて太田さんの目の前に駆け寄った凛々ちゃんは、彼女の手を取り、上下に振る仕草をする。
「北宇治吹部サックスパートへ、ようこそ!アルトのセカンドやってます、山下です!いや〜、わたしに後輩ができるなんて、めっちゃ嬉しい」
「は、はい、ありがとうございます」
「あの子、凛々ちゃんに気押されてない?」
「初対面だもん、しょうがないよ」
「そのうち、慣れるやろ」
私たちは彼女が喜んでいる姿を微笑ましく見ていると、凛々ちゃんは楽器棚に来て、自分のサックスのケースを取り出した。
「さっそくやけど、サックスチームの練習部屋に行こう。色々と紹介したいし」
「は、はい、よろしくお願いします」
「それじゃみなさん、お先に。Ciao!」
そう言うと、凛々ちゃんは戸惑う太田さんを従えて、意気揚々と楽器室を後にした。
「なんか、えらく張り切ってるね」
「仲間が増えるって、やっぱ嬉しいからやない?」
「まぁ、そうやろうね」
千紗と陽菜も、自身のクラリネットのケースやホルンのケースを棚から取り出し、陽菜はケースからホルンを出そうとしている。
「クラは一年生結構来るとは思うけど、ホルンはどう?」
「うーん、最低でも2名は来て欲しいけどね。そう言う低音は?」
私が陽菜に尋ねてみると、逆に痛い質問で返されてしまった。
「う〜〜、どうなんだろ〜。最低でも一人来たら御の字じゃないかなぁ……去年が異例だったって先輩言ってたもん。ユーフォにチューバにコンバス1名づつ入ったって言うの、奇跡だって」
「瑠美子に藤堂くんにほのか、か。確かに奇跡やね」
「そのおかげで低域が安定したんじゃない?うちのパーリーがそう言うてたけど」
「渡邉先輩が?」
「うん。低音パートは多い方が重厚感が出る、って」
「ふ〜ん、やっぱりそうなんだねぇ。多過ぎもだめだろうけど……ってことは、ますます低音パートへの勧誘を頑張らないと。永続的に低域が安定するためにも」
「がーんばーれ、瑠っ美っ子っ。明日の北宇治のた〜めっにっ!」
「選挙ポスターみたいな文句に、節をつけて歌うんじゃないよ」
不貞腐れたように返事をすると、千紗と陽菜はケラケラと笑いながら「じゃ、また帰りに」と言って、個人練の場所へと歩いて行った。
「ああっ、じっと見てる場合じゃない。私も練習に行かないと」
そうそう。月曜日に太田さんが見学に来て、その後も毎日のようにサックスパートに顔を出していた、と言うのを凛々ちゃんから聞いていたのだけど、その彼女がなぜここに?
すると、凛々ちゃんは彼女に背を向けるようにして私の側にくっつき、ひそひそ声で話し始めた。
「あのね、早い話が太田さん落選しちゃったんよ」
「え?そうなんだ!?」
「アルト2名とテナー1名が募集枠だったところに、応募者が4名来て」
「うん」
「4人ともアルトが第1希望で、第2希望がテナー、さらにみんなマイ楽器で、中学からの経験者で。応募者みんな同じ条件だったものだから、じゃんけんで決めるってパーリーの渡邉さんが言ったんやわ」
「うーん、じゃんけんになったのは仕方ないよねぇ。希望者多数ならそうなるかもって部長言ってたし」
「そしたら……アルト枠のじゃんけんで太田さん負けて……そして次のテナーの枠のじゃんけんにも負けて……じゃんけんに弱いのかな、彼女」
「まぁそういうことあるけども……そこで、なんでユーフォなの?」
凛々ちゃんのひそひそ声がもう一段小さくなる。
「入部届けって、第3希望まで入力するやんか。彼女、ユーフォニアムって入れてたんよ」
「えっ!?」
「なぜユーフォって入れたかは聞いてないんやけど……なんか彼女の落胆ぶりがすごくて……わたしも最初に見学来たのが太田さんで、後輩ができるって舞い上がってしもうたもんやから、責任感じてて……でも、もう枠は即戦力の一年生で埋まってるし……瑠美子、どうしよう。このままだと、太田さん吹部に入らないって言いかねん……折角来てくれたのに……この事のせいで、音楽が嫌になったりしたら、サックスパートにも棘が残りかねんし、そうなるとわたし辛いし……」
「うーーん……」
そうなんだ……。どうしよう。
思案していると、視界の端でサックスパーリーの渡邉先輩が須崎先輩のところに来て何か話をしている。今度は藤村先輩が呼ばれ、三人が頷いている。
すると、須崎先輩が私のところに来て耳打ちする。
「この件、塚本ちゃんに任せる」
「えー!?」
「彼女をユーフォに入れるようにしてあげて。うまくいかないようなら、次はうちが。それでだめなら里美が説得するから。お願い」
「わ、わかりました……」
先輩達からも任されてしまった。これは責任重大だ。しかも、極々短時間で。ん〜〜、まずは側で彼女の気持ちを聞くことから始めよう。
「太田さん、こんにちは。私、覚えていてくれてるかな……」
「は、はい、塚本さんですね」
「うん、……ちょっとそこに座って、話をしてもいい?」
「……はい……」
今月末のサンフェス&ブラバンフェスのポスターが貼ってある壁際に置いていた椅子を太田さんに勧め、私も隣に座る。他のパートではワイワイガヤガヤしている中、この壁際だけが妙に静かだ。凛々ちゃんが一歩離れたところで、心配そうな顔でこちらを見ている。
「話は聞いたよ。その……最初の希望が通らなくて、あの……残念、だったね」
「申し訳ありません……私、想像が足りなくて……」
「ん?どういうことだろう」
ふ、と息を吐いて、太田さんはボソボソと話し出す。
「私、両親の影響でサックスが好きになって、小学校からずっとアルトでした。中学も吹部で、パーリーまでさせてもらって……去年は関西大会で金賞取れて……全国には行けなかったけど、サックスをこれからも演奏していくことに手応えを感じたんです」
「うん」
「そして、去年北宇治の学園祭にお邪魔して、皆さんの演奏に深く感動して……私もその一員になりたいと強く思って北宇治に来ました」
「うん」
「それなのにここまで来て、サックスできないってなって……何だか嫌われちゃったみたいで……まさか選に漏れるなんて想像してませんでした……私、何しに北宇治に来たんだろう……」
彼女の声から、何かに静かに怒っているような感情が伝わってくる。
「北宇治の吹部で、私の好きなサックスで皆さんと一緒に一つのことを成し遂げることに貢献できたら……それが、私が今まで夢見ていたことです。それが、たった今潰えました。まだ何にも始まってないのに……ははっ、なんか一人で舞い上がってて……バカみたい」
怒りを漂わせていた声色が、泣くのを堪えているような、震えているようなものに変わっていき、椅子に浅く腰掛け背もたれに体を預けている彼女は、ますます項垂れていく。
いけない、自暴自棄になっては。
沈んでいく彼女の心を、何とか引っ張り上げなくちゃ。でも、どうやって……。
あ、そうだ。
「太田さん……太田さん?」
「……はい……」
「入部届に、第3希望として、ユーフォニアムってあったんだけど、なぜかな……?」
ユーフォニアム、と言うとほんの少しだけ目線が上がったようだ。
「ずっとサックス一筋だった太田さんなのに、金管を入れたのはどうしてだろう、と少し不思議に思ったんだけど」
「あ……それは……」
太田さんの目が泳いでいる感じがする。ああ、これだ。心が沈んでいくのを止めるのは、ここかもしれない。
「よかったら、教えてくれないかな。体起こして私を見てくれたら、もっと嬉しいし」
「え……いや……そ、その……」
体を起こした太田さんの表情が、数秒前とは明らかに変わり、今度は何か恥ずかしがるような様子になった。ユーフォに何か思いがあるようだ。
「言わなきゃ、だめ、ですか……?」
「……そっか。よっぽど大事な思いがありそうだね。いや、いいんだよ」
「実は……」
何だ、言ってくれるんだ。
「昨年の学祭で皆さんの演奏を聴いた時……ユーフォの音がその後ずっと耳に残ってしまって……中学の時の仲間には申し訳ないけど、全然違う音で……それでユーフォの音が好きになったのもあって……」
「へぇ〜、それは嬉しい。先月卒業した先輩や藤村先輩のユーフォって、とてもいい音だし……私も大好きだな」
「それもあって……入部届を入力する時第3希望は無かったんですが、空欄は良くないなと思って好きな音のユーフォって入れたんです……」
なるほど、とりあえずの第3希望だったわけか。いや、それだけでもいい。太田さんはユーフォに関心があると言う事実がわかったから。
よし、それなら今から太田さんをユーフォに勧誘しよう。彼女の心の中にある音楽関係のノートに、ユーフォニアムのページを作るんだ。すでに作られているサックスのページに負けないぐらいのボリュームのものを、彼女に書いて欲しい。
まずは、太田さんも練習すれば先輩達のような美しい音が出せるようになる、ということがわかってくれれば。今はそれだけでいい。
「じゃあ、ユーフォには興味があるんだ」
そう尋ねると、静かに、ゆっくりと彼女は頷いた。よし。
「どれなら、どうだろう。やってみない?」
「……でも……私はサックスしか、リード楽器しかやってきてませんし、リップリードの楽器はやったことがありません。今から始めたとしても、自分のものにできるとは到底思えません……やはり無理だと思います……」
「そんな早々に結論づけなくてもいいんだよ。それに、今までだって、高校に入ってからユーフォを始めたんだけど、本腰を入れたのが2年生になってからなのに、3年の時に関西大会で金賞を取ったと言う方が実際にいたんだから。何しろその方は、中学まではギターをしていたそうだよ」
「……そうなんですか?」
「うん。それと……中学では漫画部で高校に入ってユーフォを始めた人もいたとか」
「ははぁ……」
以前母から聞いた話を、いかにも自分が見てきたかのように話す私……太田さんを動かすためだから、許してください。
「その点、太田さんは楽器は違えども、吹奏楽をやってきているのだから大丈夫だよ。時間は必要だけど、それもやってみないとわからないし」
「……ん〜……でも、ですよ……?……自信ないです……」
また俯き、首を左右に振って返事する。悩むのは無理もない。今までやってきたことを横に置いておいて、新しいことをやろうと言われているんだから。今までの経験が無駄になる、過去の自分を捨てることと同じ、と思ってしまうだろう。
ん〜、何か決定打みたいなものはないのだろうか。
「それなら、まずは聞いてもらったらどうかな。間近で」
「あ、高田先生」
いつの間にか、高田先生が低音パートのところに移動してきていた。
「大体のところは話を聞かせてもらいました。太田さん、踏ん切りがつかないかな?」
先生が柔らかい声で尋ねても、いまいち反応が薄い。
「じゃあ、聞いてから考えてみて」
「はい?」
「このユーフォ借りていいかな?」
先生は、机の上にとりあえず展示しているユーフォを指差し、腕組みをして私たちの様子を見ていた須崎先輩にそう尋ねると、先輩は「いいですけど」と返事する。一体、何をする気なんだろう?
高田先生はポケットからマウスピースを取り出し、元からついていたマウスピースと交換する。そして、ユーフォを抱き抱え、マッピに息を吹き入れている。すると、ベルからふわっとB♭が湧き出し、そのままB♭からFまでクロマチックに下ろしていく。一音一音が柔らかくて澄んだ音……。
「うん、だいぶんラッカーが剥げているけど、しっかりとメンテナンスされているね。懐かしいな……さて、塚本さん、準備して。最初は私がメインを吹きます。Bメロはあなたがメインを吹いてください、私が合わせますから」
「吹くって、何をですか?」
「北宇治のユーフォといったら、アレしかないでしょ?ほらほら、ユーフォ持って」
「は、はい」
先生の意図していることがまだ掴めない中、私は机に置いている自分のユーフォを持ち、マッピに軽く息を入れた。
「できました」
「OK。じゃあ太田さん、聞いてくださいね。では」
ニコッと笑い高田先生がユーフォで奏で始めたそのフレーズは……
”響け!ユーフォニアム”
しかも、これ……エチュードとして今吹部に伝わっているものと違って……私が正調と思っているバージョン。つまり、オリジナルの”響け!ユーフォニアム”だ。
先生が吹き始めると、それまでざわざわしていた音楽室が急速に静かになっていき、みんなの視線と耳が先生に向けられた。優しく温かく柔らかく、そして芯がしっかりとしているユーフォの音……なんだか、ひどく懐かしい……何となく、母が吹いていた音と似ている気がするせいかもしれない。
Aメロが終わると私にアイコンタクトを送ってきたので、私も心を込めて私のユーフォに息を吹き込む。
私が吹くBメロに先生のユーフォが寄り添ってくる。メロディに優しくオブリガードが重なってきて……なんて綺麗なハーモニーだろう。吹いている私が心地よい。ユーフォって本当にいい。
……私、アルトサックスも好きだよ、吹けないけど。テナーも好き、吹けないけど。瑛斗が吹いているけど。バリサクだって好き。でも、どうだろう。このユーフォの音、いいでしょ?吹けるようになってみない?
このユーフォのこの音、今の太田さんの心に届いて!
響いて!
私はいつもより丁寧に吹き、最後の一音を薄いヴィブラートをかけてフェルマータで伸ばし、先生とアイコンタクトで吹き終える。
ふーっと息を吐くと、音楽室全体がうわーっ!と声をあげ、拍手喝采となった。
「高田先生、すごい!」
「うまい。聞き惚れるって、このことやんな」
「いいもの聞かせてもらったぁ」
先生はユーフォを机の上にベルを下にして置き、マウスピースを抜いて、側で拍手している藤村先輩に声をかけた。
「藤村さん、出過ぎた真似をしてごめんなさい」
「とんでもないです。耳福です、すっごく嬉しいです。それに、きっと彼女に響いていると思います」
「ならいいけど……塚本さん、さすがやね。やっぱり、カエルの子は……かな」
「え?何ですか?」
「ふふ……なんでもないですよ。先生の音、随分久しぶりに聞けて、私も嬉しかった……それはそうと、太田さんどうでした?」
そうだ、太田さんだ。
抱いていたユーフォを机に置いて、太田さんを見ると……両手の指を組んで、目にいっぱい涙を溜めていた。さっき凛々ちゃんに連れられてきたばかりの暗い表情と比べると、雲泥の差だ。
「はい……ユーフォって、こんなに美しいんですね……感動しました……」
私は頷き、改めて聞いてみる。
「どう?やりたくなった?」
「私、吹けるようになれるでしょうか?」
「なれるよ。私が教えてあげるから。それこそ、ユーフォで知っていること全部余さず、ね」
すると太田さん、手の甲で目元を拭った後、笑顔になり私に向かって一礼した。
「はい、お願いします!私、先輩の弟子になります!」
「え?弟子?いやいや、太田さん、そんな大袈裟な……」
「先輩、私のこと、珠里でいいです。太田珠里です。ユーフォパートの一年生になります」
「うん、決定だね。これからよろしく」
「よろしくお願いします」
「じゃあ、早速だけど。ピアノのところにいる山岡部長に報告してきてもらえるかな。どうやら、最後らしいし」
「あ……申し訳ありませんでした。では、行ってきます」
太田さんは部長のところに報告に行くと、そこでは周囲から歓迎の拍手を受けているようだ。
「高田先生、ありがとうございました」
近くにいた先生に対し、私は最敬礼をする。
「いえいえ、塚本さんの気持が彼女に届いたんですよ……さすがね。お疲れ様」
そう言うと、先生は私の肩を叩いて、また教室の隅の方へと移動していった。
先生の後ろ姿を目で追っていたら、「瑠美子!」と凛々ちゃんが私に抱きついてきた。
「うおっ……凛々ちゃん、何とかなったよ」
「ありがとう〜、ほんま、ありがとう〜。もうどうなるんやと、自分では何も出来んかったのに……太田さん立ち直ってくれてよかった。ほんとよかったよ〜」
涙声で話す凛々ちゃん。そんな彼女に軽くハグし、とんとんと背中を叩く。
「いやいや、高田先生のおかげだよ。先生がユーフォ吹かなかったら、彼女あのまま辞めていたかもしれないよね」
「でも瑠美子だったから、先生も協力したんかもしれん」
「何で?」
「……そうやね、何でやろ?」
ハグを解いた私たちは、頭の上に現れた疑問符を払い除けようとした時、教室の前の方で、ぱんぱんと手を叩く音が聞こえた。
「はーい、注目ーっ!!」
「あ、わたし戻るね。ありがと、瑠美子」
こそこそと身を屈めて、サックスパートの方へ戻っていく凛々ちゃんを見送り、振り返ると須崎先輩が私の前に居た。
「塚本ちゃん、ご苦労様。お陰で将来有望な仲間が増えて、低音パートは今年も盤石だよ」
「瑠美子ちゃん、お疲れ様でした」
ほのかちゃんから労いの言葉をもらうと、男子達からもサムアップをもらった。どうやら、役に立てたようだ。
「では、新入部員は真ん中に集まってください。それ以外は適当に!」
「なんだよ、それ」
「扱いが雑やねー」
山岡部長の指示に対し、皆笑いながら文句を言っている。
「瑠美子っ」
「あ、未来」
教室の真ん中あたりにいたトランペットパートから、未来が教室の端の方に移動してきていた。
「お疲れ様。何か大変だったようやね」
「……未来だけに言うけど……大変だった。説得に失敗したらどうしよう、とばかり考えてた。ほんと、足震えてたよ」
「でも、すごいわ。一人の有望な奏者を救ったんでしょ?瑠美子はやっぱ……なんか持ってる。うちが思っている通りや」
「なんか、未来にはなんでも見透かされているような気がする」
「ふっふっふ」
黒板の前では山岡部長と藤村副部長、そして東山先輩と幹部三人が並んで全体ミーティングを始めようとしている。
「えーと、みんな揃ってるかな。来てない人は、手を挙げて!」
「「…………」」
「ほら、部長。滑ってるで」
「うっさい!……おかしい、大爆笑のはずやったのに。えー、気を取り直して、全体ミーティング始めます!」
指揮台に上がった部長は、今一度背筋を伸ばし、まっすぐ前を見て語り始めた。
「まずは、新入部員の皆さん。今から私たちは、同じ音楽をつくる仲間です。さっき楽器決めも終わって、それぞれがどんな音を担当するのか決まりました。上手いとか下手とか、経験があるとかないとか、そう言った差は練習すればいくらでも埋めることができます。それよりも“これからどうなりたいか”を大事にしてほしいと思っています。
北宇治の吹奏楽部は、決して楽な部活ではありません。練習は多いし、うまくいかない日もあるし、悔しい思いをすることもあります。でも、その分、音がそろった瞬間の喜びや仲間と支え合える時間は、本当に特別なものです。
私たち二、三年生は、みなさんを全力でサポートします。だから、新入部員のみんなも、遠慮せずに頼ってください。そして、これから一緒に、北宇治の音をつくっていきましょう!」
「「はいっ」」
「副部長、何か言うことはあります?」
「ん〜、部長が全部言ってくれたので、私からはありません。とにかく、悔いを残さないようしましょう」
「「はいっ」」
「DMとしてはどうでしょうか?」
「はい、えっと……私からは一つだけ。これから合奏が始まると、みんなの“音”が本当に大事になります。上手いとか下手とかじゃなくて、自分の音をしっかり出すこと。それが合わさると、北宇治らしい響きになります。 また、今月の29日は太陽公園でサンフェス&ブラバンフェスがあります。そこでは、年に一度のマーチングをします。準備期間が短いですので、効率よく練習する必要がありますので、みなさん協力しあって頑張りましょう」
「「はいっ!」」
部員達の小気味良い返事に満足したのか、部長は大きく頷いた。
「では、次に全員に今月、来月のスケジュールを説明をしていきます。里美、データ送って……」
「もう送ったよ」
「あ、ありがとう。それでは、いま送りました予定表を見てください。4月、5月は結構イベントがありますので、体調管理にも気をつけてください。……今月ですと、26日日曜日は黄檗駅近くのお寺での演奏会、 29日のサンフェス&ブラバンフェスがあります。さっきもドラムメジャーさんも言うてましたが、ここで一年生はデビューをします…………」
新入部員は20名となり、北宇治吹奏楽部は総勢59名。いま、スケジュールの説明がおこなわれているが、今年も吹奏楽コンクールが終わるまでの半年間、かなり忙しいことになりそうだ。
スケジュールの説明が終わると、今年の吹部の目標を決める。その目標は、もちろん『全国大会金賞』だ。もう、四半世紀に渡って変わっていない、吹部の究極の目標。ほぼ恒久的になっているのに、なぜ毎年こうやって目標設定の説明をするかと言うと、吹部全員の意思を統一しておかなければならないからだ。人数が多いところだと目標に賛同できない人は違う目標に向かって活動してもらえるが、北宇治みたいに規定人数ギリギリで全国金賞を目指すところでは、一人たりとも足並みの乱れは許されない。今時、こんな古風なことをやっている部活って貴重な存在になってきているけど、目標を成し遂げた時の達成感や喜びは、そこに至るまでの過程の苦しさや辛さを大きく上回ると、私は信じている。だから、私はこの目標に賛同する。
山岡部長の説明を聞きながら物思いに耽っていると、もう今年の吹部目標の採択の時となっていた。
「それでは、吹部の目標に賛同してくれる方はご唱和願います!北宇治ファイトーーっ!」
「「おーーっ!!」
誰一人欠けることなく、みんな拳を天に突き上げている。この瞬間、吹部は全国金賞へ向けてスタートした。そう言えば、視界の端っこでは、高田先生も手を上に挙げてるのが見えたことが、なんだか嬉しかった。
「ありがとうございました。では、丸尾先生、一言お願いします」
先ほど教室に入ってきた丸尾先生は、部長と交代して指揮台に立ち、私たちに向かって話し始めた。
「はい、それでは少しだけ話をします。まず、新入部員のみなさん、ようこそ吹奏楽部へ。今日からみなさんはこの部の大切な一員となりました。そして、上級生のみなさん、新しい仲間を迎える準備をしてくれてありがとう。
今年の吹奏楽部の目標は、”全国大会金賞”と決まりました。これは簡単な目標ではありません。でも、みなさんが本気で取り組むなら、決して届かないものではないと私は思っています。ただし、ひとつだけ覚えておいてほしいことがあります。
“結果だけを追う部活”にはしない、ということです。
音を合わせること。仲間を信じること。自分の弱さと向き合うこと。毎日の練習を丁寧に積み重ねること。
その全部がそろって、初めて“北宇治の音”になります。その音が積み重なった先に、全国大会がある。私はそう考えています。
みなさん一人ひとりの力が必要です。経験者も、初心者も、関係ありません。今日ここにいる59人で、今年の北宇治の音をつくっていきましょう。
私も、できる限りのサポートをします。どうぞよろしくお願いします」
「「よろしくお願いしますっ!」」
部員全員が丸尾先生の言葉に対し、一斉に返事をした。
「ありがとうございます。では、高田先生からも、お願いします」
今度は、高田先生が指揮台にあがり、みんなを見回してから話を始める。
「はい、では私からも少しだけ。……新入部員のみなさん、入部おめでとうございます。そして、二、三年生のみなさんは、体験期間中の対応など、本当にお疲れさまです。 改めまして、この4月に北宇治に赴任して、副顧問を務めることになりました高田です。まだみなさんの名前も、顔も、まだ覚えきれてないのすが……今年の目標は“全国大会金賞”。大きな目標ですが、みなさんの表情を見ていると、きっとこの部なら目指せると思います。 練習のことでも、学校生活のことでも、ちょっとした相談でも、気軽に声をかけてください。 今年の北宇治がどんな音を響かせるのか、今からとても楽しみです。
どうぞよろしくお願いします」
「「よろしくお願いします!」」
全員で返事をした後、自然とみんなから拍手が湧き起こった。この拍手は、先生方の挨拶に対するものだけど、いまこの教室に集っているメンバーで、全国金賞を目指す一歩が踏み出されたことに対する拍手だと思う。
「高田先生、ありがとございます。それじゃあ……もう言うことなかったっけ?こんなもんだったよね?」
「指導係の紹介してないで」
「ええっ?してなかったっけ?それはマズイ!えーと、塚本ぉ!」
教室の端の方にいる私を見つけた部長が、手招きしている。
「塚本ちゃん、こっちへ」
「ほら瑠美子、部長と副部長が呼んでる」
「え?は、はい」
未来に肘で突かれてようやく状況が飲み込め、私は慌てて部長達のところに駆け寄っていく。
「悪かった、あんたの紹介まだしてなかった。改めて、どうぞ」
「いやいや、いいですよ。丸尾先生や高田先生の後って……そんな恐れ多い」
「一年生指導係のあんたが、一番接する時間が長いんやから、構へんのやって」
「え〜……」
「新入部員の皆さん、みんながスムーズに部に馴染んでもらうため、吹部には一年生指導係がいます。まずは、その指導係が中心となり、幹部もはいって吹奏楽の基礎や吹部の規律などを指導しますのでよろしくお願いします。では、塚本さんどうぞ」
部長に紹介されると、新入部員だけでなく全員の視線が私に集まってくる。尻込みしていると、凛々ちゃん、千紗、陽菜、みみちゃんは目で合図するし、未来は両手を胸の前でグッと握っている。頑張れ、と言ってくれてるのだろう。
えーい、やけだ!気合いを入れてから壇上に上がり、音楽室全体を見渡すと、皆の視線に怖気付きそうになるのをグッと堪える。
「……えー、高いところから失礼致します。ただいまご紹介に預かりました、塚本です。一年生指導係を仰せつかり誠に恐悦至極にございます」
微かに聞こえる失笑で、緊張すると堅苦しい言葉が出てしまうという悪い癖が出たことに気づく。いけないいけない。
「楽器初心者の方もいらっしゃいますし、経験者の方も多いと伺いました。まずは、当部での練習方法がありますので、そこをお伝えするところから始まります。そして……」
「塚本、長いって」
「ああ、す、スミマセン……では手短にします」
頭を掻き、ふっと息を吐く。そして、徐につま先を前に向け、息を吸い込み、私は腕を大きく広げた。
「何はともあれ、新入部員のみなさん。北宇治高校吹奏楽部へ、ようこそ!」