第三十六話 ステップ バイ ステップ − 着実に一歩づつ −
第三十六話 ステップ バイ ステップ − 着実に一歩づつ −
5月中旬の頃は、風薫る季節。開いた教室の窓から見える宇治の街並みは、幾分コントラストが強調されているように見える。例年より多めに降る雨のおかげで、校舎の裏山の木々は生い茂り濃い緑色となっている。時折吹く少し強めの風が、裏山を駆け抜ける時若葉の放つ香りを含み、校舎の中をくぐり抜け、私が座っているところまでその青々とした香りを運んでくると同時に、楽譜スタンドに置いた楽譜ファイルのページを強制的にめくろうとする。
「気持ちいい風……」
ふと呟いた言葉。それは意図したものではなく、無意識に口から出たもの。……それに気づいた時、私はこの季節の風が一年で最も好きな風なんだと言うことを改めて認識した。
そんな風を肌で感じながら、膝の上に抱えたユーフォの重みをそっと確かめる。丸みを帯びた金属の肌は、外の光を柔らかく受け止めて、淡い金色の影を教室の床に落としている。胸のあたりに寄せると、ひんやりとした感触の奥に、どこか体温のような温もりが潜んでいて……まるで、私の呼吸を待っているかのようだ。
息を吹き込めば、深いところから静かに立ち上がる独特のあの響き。派手さはないのに、不思議と心の真ん中にだけはまっすぐ届いてくる音。誰かの気持ちをそっと包み込むような、低くて柔らかな響きを思い出すだけで、胸の昂まりと心の静まりという心地よい矛盾を感じてしまう。
そうか、さっきの風と同じだ。そんなに強く主張しないくせに、気づけば世界の輪郭を優しく整えてくれる。私がこの楽器を好きな理由は、きっと今の季節の風とどこか似ているところがあるせいなのかもしれない。
「……アレ、吹こうか」
風に乾いた唇を軽く擦り合わせ湿り気を取り戻してから、マウスピースに唇を当てアンブシュアを整える。一拍タメて、運指は0番のまま息を入れ、唇を震わせB♭2の音を気持ち長めにベルから教室内へと放つ。
指先が、覚え込んだ順番をなぞるようにピストンを押し、あわせて息を吹き込む。
0番〜、1と2、1と3、0番、
1と3〜、1と2〜、1番、0番、
0番〜……
今は意識して、ゆっくりと、ピストンを押す指を確認しながら丁寧に吹いていく。
”響け!ユーフォニアム”
その題名の通り、今腕の中で抱いているゴールドラッカーのユーフォニアムの暖かく柔らかい音で、教室内の空気を響かせる。そういえば、ついさっきまで校舎のあちらこちらで個人練習をしている音が聞こえていたんだけど、この曲を吹き出してからそれが聞こえなくなった。ひょっとして、教室内から放課後の中庭へと溢れ出たユーフォの音を聞いてくれてたりして……いや、たまたまだろう。
Bメロに入ると、微かにトランペットの音が聞こえ出した。あの音は未来のペットだ。今日は天気がいいから渡り廊下にいるはずと思っていたら、私の吹くフレーズにオブリガートを重ねてきた。もう〜、と思いつつもフレーズを吹き続け、最後はハモって終了。
苦笑いしながら適当にB♭4を短く強く”ぽうっ!”と吹くと、同じ音で”ぱうっ!”と返してきた。しょうがないなぁ。すると、今度は校舎の下の方から同じ音で”ぷおっ!”とホルンが聞こえた。あれは、おそらく陽菜の音だ。そういえば、ホルン隊の数名は中庭で練習していたな。私が吹く”響け!ユーフォニアム”のフレーズに未来が重ねてきたのを、聞いていたのだろう。
「いつものあの曲、吹いていたんですね」
教室の外へ席を外していた珠里ちゃんが戻ってきて、私の斜め前の椅子に着席するのを目で追いながら、抱いていたユーフォを膝の上に横置きにする。個人練をする時天気がいいと屋外の日陰ですることが多い私だけど、珠里ちゃんと練習をする時は低音パートの練習教室とは別の教室に陣取って、練習を積み重ねている。
「お帰り」
「私も早く吹けるようになりたいです」
「大丈夫、すぐ吹けるようになるよ。でも、焦らない焦らない。基礎をしっかりと身につけてから、だからね」
「はい。がんばります」
珠里ちゃんがユーフォを吹き始めて、もう一ヶ月になる。先月はサンフェスでのポンポン係の練習もあったので、じっくりとユーフォを構えての練習時間はあまりとれなかったが、今月になってからは、初心者用の合同練習以外の個人練の時間は、私が彼女に付きっきりでユーフォの練習をしている。ゴールデンウィークの間も吹部は普通に練習をしていたし、個人練に時間を多めに割り当てることができたので、じっくりと一つ一つ覚えていってもらった。
彼女は元々アルトサックスをやっていて、中学ではパーリーを務めていたと言う実力者。北宇治に来て、運命のイタズラかユーフォへの転向となり一からの再スタートとなってしまったが、楽器の演奏面以外では北宇治吹部のルールなど真綿に水が染み込むように覚えていっている。ただ、読譜については、アルトサックスのinE♭ で慣れていたので、ユーフォのinCだと時々首を傾げていたりしてるが、それも早々に慣れていくことだろう。それ故、ユーフォがまだ彼女のものになっていない現時点では、気持ちにもどかしさを覚える事もあるようだが、焦る必要などないと言うことを、押し付けがましくならない程度で彼女に繰り返し伝えるようにしている。
珠里ちゃんは忍耐力があるので、私が提示する基礎練も面倒くさがらず……本心はわからないけど……黙々とコツコツと取り組んでくれている。その成果は早速現れてきており、結構高い音でも一発で当てられるようになっている。……音を当てるという感覚については、サックスでもフラジオを難なく吹いていたそうだから、その点はわかってくれているのはよかった。基礎練の曲も、時々運指がもつれたりするが、ゆっくりしたテンポだとまずまずと言った具合。
ここまでを振り返ると……総じて上達が早い。このベースだと、私なんかあっという間に追い越され、今年のコンクールのオーディションに落選してしまうかも……いや、正直可愛い後輩でも負けるわけにはいかない。もっと言うと、先輩にも負けたくはない。これは、ユーフォニアムプレイヤーとしての私のプライドでもあるから……取るに足らない小さいプライドだけどね……。
「じゃあ続き……リップスラーをやろうか」
「はい」
珠里ちゃんの表情が曇る。無理もない。基礎練のメニューの中で、彼女がまだ一度も成功していないのが、このリップスラーだ。リップスラーは息を吹くスピードだけで音を変える奏法なのだが、なかなか口で説明するのが難しい。
「息を止めないで、ずっと吹きっぱなしにして……そのまま、息の速さを少しだけ変えると、音が階段みたいに上がったり下がったりするんだけど……」
珠里ちゃんは真剣な表情で頷くけど、目には不安の色が残っている。
「……どうしても音がひっくり返っちゃうんですね、わたし……」
「うん。たぶん、サックスの癖が出てしまうんだと思う」
一呼吸おいて、私は話を続ける。
「サックスって、ベルが前を向いているように息を前に押し出すでしょ。ユーフォは、息を“下に落とす”の。お腹の奥に向かってストンって。息が前に行くと、唇の振動が浅くなってスラーが安定しないんだよ。ユーフォは音が上から抜けていく構造だから、息を下に落として体でどっしりと構える、という感じ」
「うーん……」
珠里ちゃんは、息を“前に飛ばす”感覚が身体に染みついている。それが、今は逆に足を引っ張っている。
「こんな感じね」
私はユーフォを抱き起こして、マウスピースを口に当て、リップスラーを実演する。
指は0番のまま息を入れ、B♭の音をベルから放つ。そして、少し舌を持ち上げてFの音へと変化させてマウスピースから口を離した。
「そうだなぁ……今のはB♭からFへ、第2倍音から第3倍音へと完全5度上の音を出したんだけど、B♭の時は、口の中に一口サイズの饅頭が丸々入っているみたいに広くしておいて」
「お饅頭ですか?……鶴屋吉信のとか……」
「いや、特に指定はないんだけど。……えー、そこからFに上がる瞬間に、舌の真ん中をそっと持ち上げて、息の通り道を狭くするんだよ。発音で言うと”ア”から”イ”。そうすると、息が勝手に速くなって、音を押し上げてくれるから」
説明をしていると、珠里ちゃんはなんだか遠い目をし出した。
「お饅頭かぁ……岡山の大手まんじゅう、美味しいんですよねぇ〜。うちの母が好きだから、時々高島屋の地下で買ってくるんですよ」
「あ、食べたことある。あれはおいしかった。あんこがスッキリしてて、ひやっと冷たさを感じる甘さなんだよね……いやいや、お饅頭に拘らないで。……例えがまずかったかな……」
「スミマセン……お饅頭、大好きなんで、つい……」
「私も好きだけど……ゴメン、今はとにかくそこから離れよう」
「はい」
「コホン。えーと、なんだっけ?あ、そうそう。……Fに上がる瞬間に、あえて意識をお腹の底に向けてみて。”ア”から”イ”へと変化した時、舌が持ち上がって口の中が狭くなると、空気の抵抗が強くなるでしょ? その抵抗に負けないように、下半身でグッと息を支え直すの。口の中が"狭く"なるのと同時に、お腹を"深く"するイメージだよ」
ちょっと喋りすぎたかもしれない……珠里ちゃんは軽く首を傾げているが、「やってみます」と言い、ユーフォを構えた。
深く息を吸い、まずはB♭。この開放音も、音が出せるようになった最初の頃は音がよろよろしていたけど、今はすーっとまっすぐの音が出るようになった。
そして、次のFへ上がろうとした瞬間――音が”ぴょっ”と裏返る。
「……っ」
悔しそうに眉を寄せる。
もう一度B♭。……またひっくり返る。
三度目は、息が止まって音が途切れた。舌の上げすぎだろう。ここの具合は、なかなか伝えることができない。何度も繰り返して、これ、と言うのを探してもらうしかない。
四度目。……音がひっくり返る。
五度目。……音が止まる。
六度目。……音がひっくり返る。部屋の空気が、少しだけ重くなるような感じがする。
でも私は、焦らせるようなことは言わない。だって、そう言うものだから、楽器の練習って。上達への最短は、ひたすら基礎練習だ。
最高の音っていうのは、一生に一度しか出せない。しかし、最高に近い音を繰り返し出すことは、練習を積み重ねたらできるようになる。楽器が上手な人は、その最高に近い音を必要な時にいつでも出せるよう、練習によって場数を踏んでいるんだと思う。
同じ気温、同じ湿度、同じ場所、同じ状況、同じ時間、同じ体温、同じ体調、同じ指の力、同じ息の強さ、同じ口の形、同じ気持ち、それからそれから……これらが揃うことなんてまず無いけど、練習を積み重ねればそれらを近いものにすることはできる。だから、練習頑張ろう、と思っている。……母や父、顧問の先生方や先輩たち、動画配信で見た楽器セミナーの先生方に教えてもらったことの受け売りなんだけど……。
「大丈夫。息は前じゃなくて……下。胸じゃなくて、お腹の奥に向かって流す感じ。唇は動かさないで、息のスピードだけでね」
珠里ちゃんは、小さくうなずいて、もう一度だけ深呼吸をすると、肩の力がふっと抜けたのが分かった。
ぽうっとB♭が鳴る。さっきまでよりも、少しだけ芯のある音。
そのまま……息を止めずに、舌を動かして、息のスピードをほんのわずかに上げる。
その瞬間。
音が、自然につながった。
ひっくり返らず、揺れず、ただまっすぐに。B♭からFへ、滑らかに階段を上がるように。
「……えっ」
彼女の口から漏れる、驚きの声。私も思わず目を見開いてしまう。
ユーフォらしい、丸くて柔らかいスラー。教室の空気が、ふっと明るくなった気がした。
「今の、すごく綺麗だったよ」
私は、自然と笑っていた。
「息、ちゃんと下に落ちてた。ほら、できるじゃん」
珠里ちゃんの頬が、ゆっくりと赤くなる。緊張がほどけて、胸の奥で何かが温かく広がっていくのが私にも伝わってくる。
「……ほんとに、できた……」
その囁くような声は、ユーフォの音よりもずっと優しく響いた。
珠里ちゃんは、ベルの先をじっと見つめている。今までできなかったことができるようになり、静かに喜んでいるのだろう。その横顔を見ていたら、なんだか私まで胸が熱くなる。
「今の感覚、ちゃんと身体が覚えるようになるよ。大丈夫」
そう声をかけると、珠里ちゃんは小さく笑った。その笑顔は、さっきまでの不安を全部溶かしてしまうような、柔らかい光を帯びていた。
「もう一度、やってみようか」
頷いた珠里ちゃんは、マウスピースに息を吹き込む。B♭からFへとスムーズに音が繋がる。
「もう一度」
B♭からFへとスラーになっている。ちゃんと、できてる。それなら一つ進もう。
「じゃあ、B♭からFそしてB♭と、上げて下げる、をやってみよう。……やってみるよ」
ユーフォを構え直し、マウスピースに息を入れ、ゆっくりとB♭、F、B♭とスラーで吹いてみる。
「こんな風に。どうぞ」
「はい」
マウスピースに唇をつけ、まずB♭。そしてすうっとF。さらにふわっとB♭、と珠里ちゃんのユーフォのベルから柔らかくても芯のある音が出ている。
「そうそう、いいね、いい感じだよ。もう一度やってみよう」
「はい」
もう一度、B♭、F、B♭、ときれいに音が繋がっている。どうやら、コツを掴んだみたいだ。
「どうですか?」
「はい……口で言うのは難しいんですけど……なんとなくですが、わかったような気がしています」
珠里ちゃんはそう言いながら、そっと自分の唇に触れた。さっき音がつながった瞬間の感覚を、指先で確かめるみたいに。その仕草がなんだか可愛くて、私は思わず小さく笑ってしまう。
「うん、その“なんとなく”が大事なんだよ。言葉にできなくても、身体が覚え始めてるってことだから」
「……もう一回、やってみてもいいですか?」
「もちろん。むしろ、今のうちに何回かやっとこう。その感覚をはっきりと覚えるためにもね」
珠里ちゃんは深く息を吸い、再びマウスピースに唇を当てる。B♭が鳴り、すうっとF、そしてB♭。さっきよりも、さらに自然に。その音を聞いた時、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
ああ、こうやって人は上達していくんだ。ひとつの音がつながるだけで、世界が少し変わる。その瞬間に立ち会えたことは、先輩としての何よりの喜びなんだろう。
何度かB♭からF、そしてまたB♭へと往復するスラーを繰り返したあと、珠里ちゃんはそっとユーフォを膝の上に置いた。
肩で小さく息をつきながらも、その表情にはさっきまでの不安はもう残っていない。その代わり、胸の奥に灯った小さな光を大事に抱えているような、そんな穏やかな顔をしていた。
「……なんか、ちょっとだけ、ユーフォと仲良くなれた気がします」
ぽつりとこぼれたその言葉に、私は思わず目を細める。
「うん。さっきの音、ちゃんと“珠里ちゃんの音”になってたよ」
「えっ?……そんな、大げさですよ……」
照れたように笑いながらも、否定しきれない嬉しさが声の端に滲んでいる。その反応がなんだか可愛くて、私もつられて笑ってしまった。
「今日みたいに一つできるようになると、次の一つがちょっとだけ簡単になるんだよ。階段を一段ずつ上がるみたいに」
「……なるほど、そういうものなんですね」
「今のはF3までだったけど、もっと上までつなげられるようになるよ」
「もっと……上、ですか?」
「うん。例えば……」
そう言って、私は深く息を吸い込み、持っていたユーフォのマウスピースに息を吹き込む。B♭2が柔らかく鳴り、そこからF3、B♭3、D4、F4……と、階段を上がるようにリップスラーで音をつなげていく。そして、ほんの少しだけ息を強くして、D5。キツすぎず、ユーフォらしい丸さをぎりぎり残した、明るい音。珠里ちゃんは、目を丸くして私を見つめていた。
「……これくらいなら、練習すれば届くようになります」
「……すごい……でも、なんか……届きそうな気がします」
「それでは、今日のリップスラーはここまでにしましょうか。少し休憩挟んで、次はスケール。今日は少しテンポをあげてやってみよう」
「はい。よろしくお願いします、瑠美子先輩」
そう言って珠里ちゃんは自身の目の前にある楽譜ファイルを数枚めくり、カサカサとページをめくる音が教室の中へと消えていく。私も自分の楽譜ファイルを何枚かめくり、スケール練習のページを開いた。何回もこの辺りのページは開いているので、かなりシワが寄ってきている。新しくコピーを取り直した方がいいような気もしてきた。
抱いていたユーフォはベルを下にして床の上に置き、私は座ったままで両手両足を「うーん」と伸びをした。ふと意識が窓の外に向いた時、校舎のあちらこちらで個人練をやっているいろんな楽器の音が聞こえてくる。その中でも、未来のトランペットの音は飛び抜けている。今もコプラッシュのエチュードを演っている……負けてらんない。練習積み重ねないと、未来に置いていかれる。珠里ちゃんとのスケール練習が一通り終わったら、自分の時間を少しもらうことにしよう。
そんなことを考えていたら、また窓から風が入ってきて、楽譜ファイルのページをめくろうとしては去っていった。
……どんどんと上達していく人と一緒に練習すると、こうやって触発されるんだね。自分ももっともっと上手くなりたいって。
さぁ、練習練習!