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第四十話 ある女子高生のあがた祭り − まだまだ内緒 −

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第四十話 ある女子高生のあがた祭り − まだまだ内緒 −

六月五日の夕方、空がゆっくりと藍色に沈みはじめた。湿った風が頬にまとわりつくように吹いてきて、肌の表面に薄い汗がにじむ。風が通るたび、公園の木々がざわりと揺れ、その音が胸の奥のざわつきと同じリズムで響いてくる。

ここは、大吉山北中からの坂を下り通学路から少し外れたこぢんまりとした公園。中学卒業まではよく立ち寄っていたこの公園も、こうやって来るのは久しぶり。この前来たのは五月の連休の時だったから、大体ひと月ぶりだと思う。

東屋のベンチは夕方の湿気を吸って少し冷たく、座るとその冷たさがじわっと太ももに伝わってくる。その感触が、落ち着かない気持ちを余計にくすぐる。

あたしはそのベンチに一人座り、待ち人が来るのをドキドキしながら待っていた。

平日はほとんど毎日、吹奏楽部の練習三昧の日を過ごしているのだけれど、なぜかあがた祭りの日は部活はお休みになる。

「随分昔から、あがた祭りの日は休みになるんだって」

そう、師匠が……いや、同じパートの先輩が教えてくれた。一部の三年生は予備校に行くらしいけど、部員のほとんどはお祭りに参加するため、放課後はそそくさと下校し制服を着替え、お祭りへ出かけていくのだそうだ。

あたしも16年近く宇治市民をしているので、あがた祭りはほぼ毎年参加しているが、今回はちょっと勝手が違っている。いつもだと仲の良い友達同士で一緒に出かけるとかしてたし、今年はクラスメートや吹部の仲間から「一緒に行こう」とお誘いを受けていたけど、先約があると言ってお断りしてしまっている。

先約……あがた祭りの話が聞こえてきてすぐ約束を取り付けたから、春頃にはもう決まっていた約束。……ひょっとしたら、浮かれているのは自分だけかもしれないけど。

制服では行かない方がいいと聞いていたので、今日はチュニックにストレートパンツというほんとうに普段着。でも、浴衣を着た方がよかったかな、と少し後悔している。滅多に着ないけど、持ってはいるし。でも、気合いを入れすぎたら引かれるかもしれない……その方が怖い。だから、やっぱりこれでよかったのかも。髪もいつも通り。……うーん、高校生なんだし、もう少し考えた方がよかったのかな。あー、悩ましい。

あがた祭りのある日は雨が多いのに、今年は薄曇り。風がひとつ吹き抜け、木々の葉がざわりと揺れた。その音に、少しだけ気持ちが落ち着く。

足をぶらぶらさせながら考え事を続けていると、左前方からこちらに向かって走ってくる気配がした。胸が一気に跳ねる。どうやら、待ち人が来たようだ。

「珠里さん、スミマセン!お、お待たせしました!」

はぁ、はぁ、と肩で息をしながら、私に頭を下げる瑛斗くん。……一ヶ月ぶりの瑛斗くんだ……。時々連絡は取り合ってるけど、こうして会えるのは、……やっぱり嬉しい。

逸る気持ちを必死に抑え、できるだけ冷静に返す。

「いや、あたしも今来たとこだけど……走ってきたの?」

息を落ち着かせようと胸に手を当て、深呼吸を繰り返しているがなかなか収まらないようだ。

「あの、……実はさっきまで堀や牧野達と一緒だったんですよ。用事があるから帰るって言うたのに」

「ああ、クラの堀くんとペットの牧野くん?」

「はい。『祭りやのに、俺らほっといてどっか行くんは怪しい』とか言うて離してくれんかったんで、あがたさんの交差点で”ここで帰る!”って言って、逃げてきたんですよ」

「大変だったね、それは……連絡くれれば良かったのに。そっち優先してくれてもよかっ……」

”そっちを優先してくれてもよかったのに”と言いかけた瞬間、瑛斗くんの声が重なった。

「いや、珠里さんとの約束が先なんで」

「でも」

「いやいや、珠里さんとの約束が最優先ですよ。だって、しばらく会えなかったから会いたいですし、やっぱり」

その笑顔を見た瞬間、胸が急に高鳴り、身体中の血が沸騰したみたいに熱くなる。頬が火照って、息まで苦しくなる。

……ずるい、瑛斗くんはいつもそう言って、あたしをいい気にさせようとする。この人は、ほんとずるい。

嬉しいけど、ちょっと怖くもある。内心慌てふためきながら、紅くなっているであろう顔を両手で覆う。

「え……あ……う、うん。ありがとう……嬉しい……です」

「ん?どうしたんですか?顔を隠したりなんかして」

……顔を覗き込まないで。今は、恥ずかしいから……。

「な、なんでもない。なんでもないから……ちょっと待って」

そうだ、一旦落ち着こう。ここは深呼吸だ。何回かすれば、落ち着くはず。

吸って、長ーく息を吐いて……もう一度……よし、落ち着いてきた。

深呼吸を何度か繰り返して、ようやく頬の熱が落ち着いてきた頃、瑛斗くんが「行きましょうか」と優しく声をかけてくれる。あたしが落ち着くまで、じっと待っていてくれたんだ……。

「うん……行こっか」

立ち上がると、東屋の屋根に当たっていた風がふっと抜けて、湿った空気が肌にまとわりつく。

二人並んで公園を出てゆるい下り坂を歩いていると、坂の下の煌々とした辺りから、低くまとまったざわめきが風に乗って届いてきた。多分、今の時間が最も人が多い頃だと思う。

「人、多いね」

「ですね。さっき来た時より、一段と増えたみたいです」

縣神社のある交差点にやってくると、人の波がうねっているようにも見える。

「あがたさん、お参りしましょう」

「うん、そうしよ。あがた祭りは、まずここからだしね」

さっきまで堀くんや牧野くんと回っていたと言っていたけど、お参りはまだしていなかったらしい。

石段を上がると、湿った風が木々を揺らし、葉のざわめきが耳に届く。

参拝の列に並ぶと、前の方から鈴の音が時折聞こえてきた。並んでいる人たちは、浴衣姿の家族連れや学生たち、年配の夫婦などほんとさまざまだ。みんなそれぞれの願いを胸に、この列に並んでいるのだろう。

「毎年、ここはこんな感じです?」

「うん。今日はお祭りだから特に多いけど、普段は静かなところだよ」

「……なんか落ち着きますよね、ここ」

「うん……」

瑛斗くんの言葉に同意はするものの、本当は胸のドキドキが収まっていないから、全然落ち着けてないんだけど。

列が進み、拝殿の前に立つ順番がやってきた。灯籠の明かりが揺れ、年季の入った木の香りがふっと鼻をくすぐる。

お賽銭を入れ、からんからんと鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼。手を合わせたまま目を閉じると、周りのざわめきが少し遠くなる。

今年も無事に過ごせますように。

みんなが元気でいられますように。

吹部の練習、頑張れますように。

ユーフォが上手くなりますように。

全国大会に行けますように。

えーと、それからそれから……。

このまま一緒にいられますように……。

そんな当たり前の願いが、自然と浮かんできた。目を開けると、瑛斗くんも静かに目を閉じ両手を合わせている。その横顔はいつもより少し大人びて見え、また胸がどきりとする。

たくさんお願いした割にお賽銭が少なすぎたかなと思いつつ、拝殿から降り、参拝の列から離れたところに移動する。

「よし、参拝完了。これで心置きなく楽しめるね」

「はい。じゃあ……どこ行きます?」

「そうだねぇ……やっぱり、一通り屋台をぐるっと見てまわろっか」

「了解です。さっきアイツらと回ったとき、気になる店があったんですよ」

「へえ、どこどこ?」

「行きながら話します」

鳥居を潜って石段を降りると、そこは再び賑やかな屋台の並ぶ通り。人の流れはさっきよりもまたまた増えていて、屋台の明かりが人々の顔を照らしていた。

「ちょっと歩いたところにあった、焼きとうもろこしの屋台がめっちゃいい匂いしてたんですよ」

瑛斗くんが指差した先には、炭火でとうもろこしを焼く屋台があった。醤油が焦げる香ばしい匂いが、風に乗って漂ってくる。

「確かに……これはおいしそう」

「行きましょう」

列に並ぶと、炭火の熱気がじんわりと伝わってくる。屋台のお兄さんが手際よくとうもろこしを回し、醤油ダレを塗るたびに、じゅっと音がして香りが広がる。

「焼きとうもろこし、好きなの?」

「好きですね、あまり食べたことないけど」

「なんで?」

「焼きたてを食べられる機会って、お祭りでしかないじゃないですか。焼き芋だったら、スーパーとかでよく売ってるんですけど、焼きとうもろこしは見かけないでしょ?普段」

「確かに」

屋台のお兄さんから、焼き立てを受け取る。大きさを選ぶことができたので、この先も色々食べてみたいから、あたしたちは小さいサイズをチョイスした。

屋台の隣にスペースがあったので、ここでいただくことに。とうもろこしの黄色とこげの黒のコントラストが美味しそうだ。ガブっとかじると、甘さと香ばしさが口いっぱいに広がり、思わず笑みがこぼれる。

「これは……ほんとおいしい」

「うん、うまい」

「最初に美味しいものが食べられるなんて、幸先いいね」

「はい、いいのが発見できてラッキーですね」

食べ終わった軸を屋台のゴミ箱に入れ、次の屋台へと移動する。

次に目についたのが、ヨーヨー釣り 。水面に浮かぶ色とりどりのヨーヨーが、提灯の光に反射して揺れているのを見ると、なんだか無性にやりたくなった。

「懐かしいなぁ……小学生のとき、毎年やってた」

「去年やりましたけど、全然取れなくて」

「じゃあ、今年はリベンジだね」

紙縒りの釣り針を屋台のお姉さんから受け取り、水面にそっと近づける。ヨーヨーがふわっと寄ってきた瞬間、瑛斗くんが慎重に引き上げる。

「……おっ、いけた!」

「おー、やるじゃん」

「いや、これは運ですよ」

そんなやり取りをしながら、次はかき氷の屋台へ。氷を削るシャリシャリという音が心地よく、シロップの甘い香りが漂ってくる。

「何味にする?」

「抹茶にしようかなぁ」

「へぇ、地元に還元するんだ。いいねぇ」

「珠里さんは?」

「あたし、みぞれにしよっかなー」

「おお、通っぽい」

「うそ、イチゴにする」

「なーんだ」

「えへへっ」

たわいもない会話を交わしながら、二人でかき氷を食べる。冷たさが舌に染みて、さっきまでの熱気がすっと引いていく。

「そうだ、珠里さん。練習は順調です?」

「何の?」

「ユーフォですよ。この前、押さえるピストンをよく間違えるってヘコんでたじゃないですか」

「ああ、あれねぇ」

カップの中の氷をストローでザクザクとさらに小さく砕き、ずずっとストローで吸う。ストローの先のスプーンでイチゴと氷を同時にすくって、パクリ。いかにもと言ったイチゴの味だけど、雰囲気に乗せられ美味しく感じる。

「何とかなってはきてる。でも気を抜くと、まだ間違ってしまうんだけど」

「それって、課題曲かなんかですか?」

「課題曲も間違えるところあるし、自由曲だってまだまだ間違えるんだよぉ」

「そうなんですか」

「あ〜、今はその話やめて。悔しいのを思い出してしまうから」

そう言った先から、昨日吹けなかったフレーズのことを思い出してしまう。ああ、悔しいなぁ、と赤く色付いたかき氷を口へと運ぶ。

「それなら、俺も一緒ですよ。ダブルタンギングが不安定になるフレーズがあって、成功率がまだ低いんです」

「あ、北中は課題曲と自由曲、何になったの?」

「気になります?」

「そりゃ、そうでしょ。あたしの母校でもあるもん」

「課題曲は、 IIの”風花の詩”」

「北宇治と同じやん。自由曲は?」

「それがですね〜……”地獄のオルフェ”です」

「へぇ〜、鉄板曲演るんだ。かえって大変そう」

瑛斗くんはカップに残った氷たちを、ざらざらと口に流し込んでから話しだした。

「そうなんです。今はまだ、曲の終盤になると息切れをすると言うかスタミナ切れ?と言うか……明らかに音圧が弱くなるんですよね。ん〜、まだまだ練習しないと」

「こっちも似たようなもんだよ。自由曲は結構難しくて、中盤あたりに各パートが折り重なるような連符が続いているところ、なかなか成功しなくて……」

「……今は練習するしかなんですよね」

「そうだね」

そのあとも、屋台が並ぶ道を人の波に従って歩いていく。屋台を一巡した頃には、公園で待ち合わせてから二時間近く経過していた。

射的の屋台で、そろそろ締めにしようかどうしようかと思案し、瑛斗くんの方に振り向いた時、視線の先に周りより背が高く、見覚えのあるメガネをしたシルエットが見えた瞬間、胸が一瞬だけ強く跳ねた。

あれは、トランペットの田中先輩だ。とすると、そばにいる人たちは……やっぱり、椹木先輩、細野先輩、山城先輩、山下先輩だ。そしてその真ん中にいる人は……。

「……あ、あれ?」

瑛斗くんも、認識したようだ。

「瑠美子先輩……」

「姉ちゃんやん」

珍しくポニーテールにしている瑠美子先輩が、手に赤いカップを持って笑っている。あたし達は同時に呟き、どちらからともなく手を取り合って、その場から離れることにした。

「……移動しましょう、こっちへ」

「うん」

別にやましいことをしているわけではないのだけど、今はまだ瑠美子先輩にこのことを知られたくない。

そそくさと人波をすり抜けるとすぐそばに細い路地が見えたので、そちらへと入っていく。すると、そこは路地ではなく小さなお堂だった。屋台の光がここまで届かず、二人の影だけがぼんやりと地面に伸びている。

あたし達は咄嗟に屋台が並ぶ通りの方に背を向け、両手を合わせて拝むポーズをとった。

そのままじっとしていること三分ほど……いや、そんなに経ってないかもしれない。お堂の前でしばらく身を潜めていたせいか、外のざわめきが少し遠く感じた。

さっきまで胸の奥で暴れていた鼓動も、ようやく落ち着いてきた気がする。

「もう行ったかな?」

そう言って屋台のある通りまで移動し、そっと周りを見渡すと、瑛斗くんも同じように周りを確認していた。

「気づかれてないですよね」

「うん。多分、大丈夫とは思うけど。それに、あの人たち歩くの早いから……もうずっと先に行ってると思う」

そう言いながら、胸の奥に残っていた緊張がふっと抜けた。

路地を出ると、再び祭りの明かりと人の流れが戻ってくる。

「じゃあ……帰ろっか。そろそろ時間だし」

「ですね。俺もそろそろ、です」

瑛斗くんは手を差し出してきたので、あたしはその手をきゅっと握る。何の気負いもなく、ごく自然に。そのまま、再び人の流れに従った。

縣神社の交差点まで戻り、そこから待ち合わせをしていた公園へと緩い坂道を上がっていく。祭りの熱気が少しずつ背中の方へ遠ざかっていく。

風が吹くたび、雑踏や屋台の呼び込みの声が薄れていく。

「今日は……楽しかったです」

瑛斗くんがぽつりと言った。

「うん。あたしも。すごく楽しかった」

それは本心だった。屋台を回ったり、くだらない話をしたり、ただ一緒に歩いているだけなのに、胸の奥がずっと温かかった。

公園へ戻る道は、来たときよりも静かだった。遠くでまだ祭りのざわめきが続いているけれど、ここまで来ると、風の音と虫の声の方が大きい。

「ここで……いいよね。あたし、こっちだから」

「はい。僕はあっちです」

指差した方向は、いつもの帰り道。

ほんの数十メートルの分かれ道なのに、今日は少しだけ名残惜しく感じた。

「じゃあ……また、連絡するね」

「はい。俺も、連絡します」

そう言って、瑛斗くんは軽く頭を下げた。その仕草がなんだか可笑しくて、あたしも小さく笑ってしまう。

「気をつけてね」

「珠里さんも、気をつけて」

そう言って、手を振りながらあたし達はそれぞれの家へと歩きはじめた。

背中越しに、祭りの灯りがゆっくりと遠ざかっていく。

――なんだ、なんの問題もなかったじゃないか。あたしは嬉しかったけど……瑛斗くんは、どう思ったんだろう。

そう思いながら、あたしは住宅街の夜道を早足で歩いた。