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第四十一話 受け継がれしモノ −吹奏楽コンクール2043京都府大会オーディション結果発表−

響け!ユーフォニアム ー 未来楽章 ー — www.pixiv.net · All chapters

第四十一話 受け継がれしモノ −吹奏楽コンクール2043京都府大会オーディション結果発表−

七月最初の金曜日。梅雨明けするにはまだ遠く、空はどんよりとした灰色をまとっている。体にまとわりつく湿気も日に日に増してきており、髪もまとまらず指を通すたびに広がってボサボサに見えてしまう。

髪をヘアゴムで束ねようかどうしようか考えている時、教室では夏休みの計画を立てる声があちこちから聞こえてくる。つい先ほど、一学期の期末考査が終わったばかりなのに、ちょっと気が早いんじゃない?

「プール行こや」

「買い物行かんの?」

「塾の夏期講習どうする?」

「オープンキャンパスかぁ」

私の前の席でも数名がそんな楽しげな相談をしていて、話の折々に相槌を打っていると、決まって返ってくるのはあの一言だ。

「あんた達はずっと部活やろ?」

……まぁ、そうなんだけど。

自分で選んだ道とはいえ、ほんの少しだけ羨ましくなるのも正直なところ。

思い返してみると、私の夏休みはほとんど吹奏楽のために存在していて、どこかへ家族旅行をした記憶なんてほとんどない。小学校低学年の時、東京の親戚の家へ行き、ついでに浦安の夢の国に連れて行ってもらったきりだ。

仕事の都合上、父は夏にまとまった休みが取れても、母の長めのお休みが取れるのが二月頃、という感じだったから……。

でも、いいんだ。夏は私にとって、吹奏楽にどっぷり浸かる季節なのだから。

そんな期末考査明けの午後、部活動再開に伴い、吹奏楽部では重要なイベントが行われる。未来と美波と連れ立ち、途中先輩方や後輩達と合流しながら、音楽室へ歩いていく。

昼下がりの音楽室では、もう机と椅子が端っこに追いやられていた。真ん中には広いスペースが確保されているが、私の胸の奥はやけに狭いままだ。

その理由は、先週の金曜と土曜の二日間にわたって行われた、二〇四三年度全日本吹奏楽コンクール京都府大会のメンバー選考オーディションの結果が発表されるからだ。嫌が上にも緊張してしまう。

音楽室にはすでに多くの部員が集まっていて、全員が立ったまま、落ち着かない様子で出入り口の方を気にしていた。もうすぐ決められた集合時間となり、結果を携えた副顧問の高田先生が入ってくる瞬間を待っている。

音楽室のエアコンはついているはずなのに、冷たい風は湿気に押し返されてしまうようで、空気は重く、ゆっくりとしか流れていない。そのために湿ったままの空気のせいなのか、それとも胸の鼓動のせいなのか、呼吸が少し浅くなる。

周りを見渡すと、それぞれの緊張が静かに形を持っていた。隣の未来は、珍しく口数少なく微動だにしない。美波は穏やかな表情を保っているけれど、視線が床と扉の間を行ったり来たりしていて、落ち着かないのが分かる。

少し離れたところにいる陽菜は胸の前で両手を組み、まるで祈っているみたいに親指同士をこすり合わせている。千紗は背筋を伸ばして立っているものの、足先だけが小刻みに揺れている。凛々は肩がほんの少し強張っている。ここにいる誰もが、言葉を発しない。でも、その沈黙は決して重苦しいものじゃなく、同じ方向を向いている仲間の沈黙だと思う。

静寂の中、誰かが小さく咳払いをした瞬間、私の心臓もドキリと跳ねる。……やっぱり緊張してるな、私。

扉の向こうでかすかな足音がすると、ガラガラと建て付けがイマイチの引き戸が開き、高田先生が入ってきた。その瞬間、部屋の空気がすっと変わる。誰もが自然と背筋を伸ばし、立ったまま固まる。教室内の湿った空気が、さらに重く感じられた。

手に黒いファイルを持っている先生は、引き戸を閉め、部員の前で足を止めた。

「部長さん、みんな揃ってます?」

「はい、全員来ています」

山岡部長の声が、張り詰めた音楽室に凛と響く。

「うん、わかりました。えー、まずは期末考査、お疲れ様でした。準備をしていた人、そうでない人と様々だと思いますが、来週返ってくる結果を真摯に受け止めて、今後どうあるべきかをしっかり考えるようにしてください」

「「はいっ!」」

部員全員の張りのある返事に満足したのか、頷きながら先生は手にしていたファイルを広げた。あのファイルに、府大会メンバーのリストが記されている。

音楽室の空気が、ピンと張った一本の糸のように静まり返ると、先生の落ち着いた声が部屋の隅々まで届いた。

「それでは予定通り、先週の府大会メンバーオーディションの結果を伝えます」

誰もが息を潜めている。上履きが擦れる音すら許されないような、密度の高い沈黙。

「五十五名を読み上げます。呼ばれた人は返事をしてください。まずは……トランペットから」

今、トランペットは七名。全員が呼ばれてほしい。私は祈るような気持ちで耳を澄ませた。

「三年、山岡翔子」

「はい!」

「三年、川口智也」

「あ、はい」

「二年、田中未来」

「はいっ!」

「二年、井ノ口真帆」

「はいっ」

「二年、桐生紗和」

「はぁい」

「一年、斉藤結菜」

「はいっ!」

「一年、山中駿」

「おう……じゃなくて、はいっ」

普段ならクスリと笑いが起きるようなやり取りなのに、今は誰も反応できない。完全に緊張が勝っている。ともあれ、トランペットは全員合格だ。心の中で小さく息を吐く。

「以上七名がトランペットです。次、ホルン。三年……」

名前が次々と読み上げられ、呼ばれた人たちがほっと肩を落とす気配が伝わってくる。

三年、二年は順当に名を連ね、経験者の一年生も次々と食い込んでいく。

今年の一年生は、中学でも吹奏楽部だった子がほとんどだ。入部式からの一ヶ月間、一年生だけの別メニューで北宇治の練習法を、幹部の人たちに混ざり私もレクチャーをしたけど、その時点で「一線級の技量を持つ子が何人もいる」というのは、先輩方の間でも噂になっていた。その実力が、今の結果発表にも繋がっているのだろう。

「次、低音パート。ユーフォニアムから」

ドクン、と胸が跳ねた。隣の藤村先輩は表情を硬く引き締め、逆に一年生の珠里ちゃんは妙に落ち着いているように見える。

「三年、藤村里美」

「はい」

返事のあと、先輩は小さく胸をなでおろすように息を吐いた。

「二年、塚本瑠美子」

「はいっ」

自分の声が少し上ずった気がしたけれど、なんとか返事を飲み込まずに済んだ。

「一年、太田珠里」

「え……?」

予想外だったのか、自分の名前を呼ばれた珠里ちゃんは、そのままフリーズしてしまったので、私はそっと彼女の肘をつついてみる。

「太田さん、返事は?」

「あ、はいっ!」

「以上、ユーフォニアム三名。続いてチューバです」

ようやく我に返ったらしい珠里ちゃんは、信じられない、とでも言いたげに潤んだ瞳をこちらに向けて、消え入りそうな声で囁いてくる。

「受かりました……」

「おめでとう」

「はい……ダメだと思ってたのに……嬉しい……」

中学時代はアルトサックスのパートリーダーだった彼女は、くじ運のいたずらでユーフォに転向することになり、最初は随分と戸惑っていた。それでも、誰の目にもわかるほど、ひたむきに努力を積み重ねてきたのだ。その成果が今こうして実を結んだことが、自分のことのように嬉しかった。ほんと、よかった……。

「以上、五十五名の発表を終わります。このメンバーで来月の府大会に臨みます」

「「はいっ!」」

「名前を呼ばれなかった一年生のみなさん。春から楽器を始めたばかりですが、同じ境遇でも楽器の難易度に関係なく、コンクールに出られるほど上達した人がいます。しかし、これは絶対的な差ではなく、相対的な差です。次のオーディションでは評価が変わることも十分あります。努力を止めないでください」

「はいっ」

「それに、補欠という位置付けです。合奏練習は全員で行いますから、そのつもりでいてください。いいですか?」

「はいっ!」

今回は選に漏れた一年生たちの引き締まった返事を聞きながら、私は少しだけ胸をなでおろした。一年生指導係を受け持っているから、彼女らの様子はとても気に掛かる。今回の結果も前向きに捉えてくれているにみたいなので、一安心だ。

大丈夫、府大会の次の関西大会がある。

……そのためには、選ばれた五十五人が団結して、府大会を突破しなければ。

五十五名の発表の次、本当の緊張はここからだ。高田先生が一度ファイルをめくり、まっすぐに私たちを見つめる。

「では、続いてソロとソリパートの発表をします」

先生の静かで落ち着いた声は、音楽室の空気を一瞬で凍りつかせるような響きを持っていた。

「課題曲、クラリネット。三年、坂本航平」

「はい!」

「フルート。三年、新田結衣」

「はいっ」

「オーボエ。一年、佐藤莉子」

「……はい?」

微かに、教室の空気が揺れる。

「佐藤さん、返事を」

「はい……」

「うん」

少し教室の空気に揺らぎがある中、高田先生は発表を続ける。

「では、続けます。自由曲のソリです。フルート。三年、東山佳奈」

「はいっ」

「オーボエ、三年、種崎美雨」

「はい」

ここまできて、空気の揺らぎは治まった。オーボエのソロとソリとの担当を分けたのだろうと皆が納得したところに、また次の動きがあった。

「トランペット。二年、田中未来」

「……はいっ!」

未来の返事は、いつもより少し高く、そして微かに震えていた。 その声が響いた瞬間、音楽室の空気が確実に揺れた。トランペットパートの視線が、一斉に未来へと突き刺さる。

そして、ファイルをめくる先生の手が、ほんの一瞬だけ止まったように見えたとき、それは告げられた。

「ユーフォニアム。二年、塚本瑠美子」

「え……は、はい……」

自分の名前を呼ばれた瞬間、頭の中が真っ白になり、未来とは対照的に、私の返事はか細く、けれど静まり返った部屋に確かに響いてしまった。

「ソロ、ソリパートは以上です」

その言葉が落とされた瞬間、音楽室は静寂を通り越し、大きなざわめきが湧き起こる直前のような、奇妙で痛いほどの緊張感に包まれた。

誰も動かない。動けない。

高田先生でさえ、ファイルを閉じたまま、しばらくその場に立っていた。まるで、この沈黙が持つ意味を、部員たち自身に消化させる時間を与えるように。

トランペットパートの方へ目をやると、部長の山岡先輩は笑顔だ。でも、それは私が今まで見てきたどの笑顔とも違う。口角だけが上がって、目はまるで笑っていない。隣の川口先輩はきつく唇を噛みしめ、真帆は未来を見つめたまま、まばたきひとつしない。紗和だけが、そっと未来の背中を庇うように視線を落としていた。

私はふと、去年のことを思い出していた。当時一年生だった未来が、自由曲「三日月の舞」のオーディションで、三年の先輩を破ってソロを勝ち取った時のこと。あの時も、今と同じような、痛いほどの静寂が音楽室に満ちていた。

一年前と、同じことが起きている。

山岡先輩の顔に浮かぶ笑みが、今日という日だけのものじゃないのだと、私はその時初めて気づいた。

そして、我がユーフォニアムパートも同じだった。

副部長の藤村先輩は、いつもの柔らかい笑みを浮かべてくれている。だけど、その口元が浮かべる形と、目の奥にあるものが、どうにも一致していない。ほんの一瞬……本当に瞬き一回分くらいの間……先輩の喉がかすかに動いた。何かを飲み込むように。それを見てしまった私は、嬉しいという気持ちは跡形もなく消え去っていった。

珠里ちゃんはといえば、信じられないものを見るように目を丸くして私を見つめている。「え、瑠美子先輩が……?」という心の声が、そのまま顔に書いてあった。

低音パートの後ろの方では、チューバやコンパスの先輩たちが小さく息を呑む音が聞こえる。

何かが、決定的に変わろうとしている。

未来と私が選ばれたあの瞬間、音楽室に流れる空気は、これまでの伝統を塗り替えるような、新しく激しい風へと変わった。

それは、北宇治高校吹奏楽部が本気で世代交代を始めた瞬間であり、三年生の先輩たちが、私たち後輩にバトンを託す覚悟を迫られた瞬間でもあった。

私は、自分の名前を呼ばれてから一度も、藤村先輩の顔をまともに見られていないことに気づいた。

高田先生が静かに告げる。

「この結果に異議を唱えることは許されません。贔屓することなく公平にメンバーを選出しました。ただ、選考理由が知りたい人は、個別に対応はしますが、決定を変えることはありませんので、そのつもりで」

高田先生の通る声に、意見を出そうとするものはいない。

「それでは、以上で発表を終わります。今日はこれで解散。お疲れ様でした」

「「お疲れ様でしたっ」」

高田先生が音楽室を出ても、しばらく誰も動かない。動き出したのは、たぶん一番最初に自分を取り戻した山岡先輩だった。

「よし、片付けするでー……って、いつまでボーッとしてんねん!机を元に戻すで!」

誰かが小さく笑い、その笑いが引き金になって、ようやく音楽室に人の動く音が戻ってくる。椅子を運ぶ音、机を並べる音。何事もなかったかのような喧騒。でも、私の胸の奥の動悸だけは、どうしても収まってくれなかった。

未来が、私の横にそっと歩み寄ってきた。赤縁の眼鏡の奥にある瞳は、発表の瞬間の緊張から解き放たれ、むしろワクワクするような、でも少し戸惑いがあるようにも見える。

「……瑠美子」

「ん……?」

「……やっぱり、うちらやったな」

未来は一度、深く息を吸い込んでから、微笑んだ。その声は微かに震えていたけれど、それは武者震いのような高揚感のせいだとすぐに分かった。

「トランペットのソロはな、最初からうちがやるつもりで……いや、山岡先輩の音をうちが引き継ぐんやって思って吹いてた。誰かに遠慮して手加減できるような相手やないからな。……でも、いざ名前を呼ばれると、やっぱり心臓に悪いわ」

「未来は……去年もそうだったもんね」

思わずそう口にすると、未来の表情がわずかに揺れ、一瞬だけ未来の本音を覗いた気がした。

「……よう覚えとったな、そんなん」

「覚えてるよ。あの時も、音楽室はこんな空気だった」

「……あん時はな、正直、選ばれた嬉しさより先に、怖さの方が大きかったんよ。一年の分際で三年生を押しのけて、って……でも、あの時はただ、突っ張ることしかできんかった。でも今は……うちらの代が、次の北宇治を引っ張っていく番やろ?一人で意地張るんやなくて、みんなで上に行くために、うちはうちの最高の音を吹く。そう決めてたんよ」

未来はそこでふっと視線を落とし、少しだけ声を低くした。

「でも、今回はな……去年よりよっぽど怖かったわ。山岡先輩、うちがずっとお世話になった人やから。……先輩じゃなくうちが選ばれたって思うと、素直に喜べる自分と、胸が痛む自分が、どうしても同時に存在してしまうんよ」

未来が、そんなふうに揺れる姿を見せるのは珍しい。だからなのか、彼女の中にある葛藤の重さが、私にもまっすぐ伝わってきた。

「未来は……やっぱり強いね」

言いかけて、言葉が喉の途中で止まる。続きを口にしようとすると、鼻の奥がツンとした。

「私は……無理かも。藤村先輩の顔、まだちゃんと見れてない。先輩がこの一年、どれだけ朝練に来てたか、どれだけ個人練の時間削って後輩の面倒見てくれてたか、私、全部知ってるのに。それを踏み台にして選ばれたみたいで……」

声が震えて、最後まで言い切れなかった。すると、未来が私の両の肩を強く掴み、真っ直ぐに私の目を見つめてきた。その視線には、一切の迷いがない。

「踏み台やない。瑠美子は、瑠美子の音で選ばれたんや。それを『踏み台にした』とか言うんは、藤村先輩だけやなくて、瑠美子自身がこの一年積み上げてきたもんまで、ついでに踏みにじってることになるで」

未来の言葉は、いつもみたいにまっすぐで、容赦がなかった。だからこそ、逃げ場のない場所に立たされた気がした。

「……うん」

「……不安なのは、瑠美子だけやない。うちかて、山岡先輩の顔見るの怖い。……だから、二人でいくんや。うちと瑠美子で、北宇治に新しい風、吹かせたる。瑠美子の隣にはいつもうちがおる。その覚悟、うちらにはもうあるやろ?」

「……あるよ」

辛うじて絞り出した声に、未来はようやく満足そうに笑った。

「瑠美子先輩、帰らないんですか?」

「うん、ちょっと用事ができたんで。じゃあね」

音楽室の片付けが一段落し、部員達が音楽室を後にし出した頃、珠里ちゃんの声をよそに、私は藤村先輩の姿を探した。

廊下を端まで行ったところで、ふと思い音楽室に戻り、ひょとしたらという思いで楽器室に入ると、藤村先輩は楽器室の片隅で、自分のユーフォニアムを抱えたまま、ぽつんと座っていた。いつもなら愛おしそうに動いているクロスを持つ手が完全に止まっていて、ただ、自分のユーフォのベルを、魂が抜けたような虚ろな目で見つめている。

「……先輩」

声をかけると、先輩の肩がビクッと跳ねた。振り返った先輩の顔には、慌てて取り繕ったような、いつもの柔らかい笑みが浮かぶ。だけど、いつもは絶対に楽器を雑に扱わない先輩が、動揺を隠すためなのか、少し手荒にユーフォをケースに押し込むのが分かった。

「塚本ちゃん。片付け、終わった?」

「はい……あの、先輩」

次の言葉が出てこない。何を言えばいいのか、自分でも分からない。ごめんなさい、なのか。ありがとうございます、なのか。それとも、私が吹いていいんですかと、聞いてしまうべきなのか。

黙り込んだ私を見て、藤村先輩は小さく息を吐き、初めて少しだけ肩の力が抜けたような表情を見せた。

「正直に言うとな」

先輩の声が、いつもより少し低かった。

「悔しないって言ったら嘘になる。今までずっと、本番でソロを吹きたくて頑張ってた部分、ある。今年こそはって思ってた瞬間、なかったって言ったら、それも嘘」

初めて聞く、藤村先輩の本音。私は何も言えず、ただ立ち尽くしている。

「でもな、塚本ちゃん。……三月の定演、覚えとる?リズのソロ、うちと分担したやろ」

「……はい。覚えてます」

忘れるはずがない。前半を藤村先輩が、後半を私が吹いた、あの舞台。緞帳の奥で待っている間の緊張も、吹き終えた後の温かい拍手も、全部覚えている。

「定演のパート割りが決まった時、うち言うたよな。今のうちは塚本ちゃんには敵わんて。あれ、口先だけの謙遜やない……ほんまにそう思っとった。……だから、今日名前呼ばれた時の悔しさは、実を言うと、あん時からずっと覚悟しとった悔しさやってん。今日いきなり降ってきたもんやなくて、もう三ヶ月前から、うちの中では始まっとった話」

先輩は、足元のユーフォニアムのケースの方に視線を落とした。

「ウチが吹くソロやない。これは“今の北宇治”が吹くソロなんよ。その中心にいるのは、アンタと田中サン。だから、私に遠慮なんかせんで、胸を張って吹きな」

「……先輩は、それでいいんですか」

我慢できずに聞いてしまった。子供みたいな質問だと分かっていたけど、聞かずにはいられなかった。藤村先輩は、少し困ったように笑って、それから真っ直ぐに私を見た。

「よくはない。悔しいもんは悔しい……。やけど、悔しいんと応援できひんことは、別なんよ。それに、あの定演の時に、うちは一回、ちゃんと確かめさせてもろたから。あんたの音の隣で吹いて、ああ、もうこの子には敵わんって、心から思えたから。でも、先週のオーディションは、うちの全てを出したつもりやったんやけどな……まぁ、今日の結果は、うちにとっては驚きやなくて、答え合わせみたいなもんやってん」

その笑顔には、もう作られたところがなかった。悔しさを消したわけじゃない。ただ、その悔しさごと抱えて、それでも前を向くと決めた人の顔だった。

私の胸の奥にあった、行き場のない罪悪感が、少しずつ形を変えていく。それは、藤村先輩から確かに託されたものへの……「責任」という重みに。

「……はい。胸、張って吹きます」

「うん。それでええ」

先輩の言葉を噛みしめるように深く頭を下げ、私が楽器室の一歩外へ足を踏み出すと、少し離れた廊下で、山岡先輩と未来が向き合っているのが見えた。二人の間には、まだ何か言い切れていない、ひりつくような空気が漂っている。声をかけるのも躊躇われて、私はただ壁際に身を潜めるようにして、その様子を見守るしかなかった。

「田中なぁ」

山岡先輩の声が響く。それは、さっき音楽室でみんなに向けていた作り笑いの声とは、明らかに違っていた。どこか低く、地を這うような生々しい響き。

「アンタが呼ばれた時、正直、頭が真っ白になった。今度こそ、うちがソロを吹くんやって、どっかで疑ったことなかったから。……悔しいなんてもんやない。情けないとも思った」

未来は何も言わず、じっと山岡先輩の言葉を正面から受け止めている。

先輩の背中が、わずかに震えているように見えた。握りしめられた両手の爪が、手のひらに白く食い込んでいる。それでも先輩は、部長として、先輩としてのプライドだけでその震えをねじ伏せるように言葉を続けた。

「せやけどな。実を言うと、これが初めてやないってことも、うちはずっと分かっとった。去年アンタが、真緒先輩から”三日月の舞”のソロ持っていった、あの日から。いつかまた、こういう日が来るやろなって、心のどっかで身構えとった」

山岡先輩はそこで一度、自嘲するように小さく笑った。

「今年に入ってからのアンタの音、聴いてて分かっとった。プロの人にまで褒められる音や、うちらみたいな素人が抜かされへんわけないやろって、頭では分かっとってん。……それでも、いざ自分の番になると、こんだけ堪えるとはね」

山岡先輩は一度、深く息を吸い込んだ。悔しさを飲み下すみたいに。そして、まっすぐに未来の目を見つめた。

「頼んだよ」

その一言に込められているのは、三年生としての、そして部長としての重みだろうか。未来は怯むことなく、山岡先輩の視線を真っ正面から受け止め、誇りと敬意を込めて、深く、ゆっくりと頷いた。

「はい。北宇治のトランペット、うちが絶対に全国まで引っ張っていきます」

未来への言葉を終えると、山岡先輩は小さく息を吐き、こちらへと歩いてきた。

壁際にいた私に気づくと、先輩はふっと足を止め、いつもの「部長の顔」に戻って私の肩をぽんと叩いた。

「塚本ちゃん。……頼んだで。しっかりな」

「あ、はい……っ」

咄嗟に返事をして、先輩の顔を見上げた瞬間、私は息を呑んだ。すれ違いざま、至近距離で捉えた先輩の目は、痛々しいほど真っ赤に充血していた。

さっき音楽室を出てからの短い時間、誰にも見られない場所で、どれほどの涙を流してきたのか一目で分かってしまうほどに。

山岡先輩は楽器室から出てきた藤村先輩と、目を合わせた。言葉は交わさずに、ただ互いに微笑んで、そのまま音楽室へと入って行った。

先輩達の後ろ姿を見ていると、気づけば未来が私の隣にやってきていた。すると、未来は私の手をとり、強く握りしめてくる。

「瑠美子。うちら、やるで」

「……うん。やろう」

繋いだ手のひらから、未来の覚悟がジンジンと伝わってくる。私もそれに応えるべく強く握り返し、音楽室を背に歩き出した。

この夏、私たちは……北宇治の新しい風となって、私たちの物語を奏でるんだ。

託された誇りと、託してくれた人たちへの敬意を両方の手のひらに抱えて、私たちは夏の光の中へ、確かな一歩を踏み出した。