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第四十二話 私のユーフォニアム − 夢と希望と現実と −

響け!ユーフォニアム ー 未来楽章 ー — www.pixiv.net · All chapters

第四十二話 私のユーフォニアム − 夢と希望と現実と −

暑い〜……先日、“近畿地方は例年よりも早い梅雨明けとなった模様”と発表された途端に、京都の街は茹だるような暑さのシーズンが始まった。夏は嫌いじゃないけど、暑すぎるのはダメ、ノーサンキュー。宇治は京都市内より少しは過ごしやすいとは言うけど、真夏日を超えるような暑さだともう誤差の範囲内に違いない。

さて、先日、期末考査の成績が発表された。私はかろうじて、現状維持。他の仲間も部活で忙しかった割には、みんな希望通りの結果を得ることができて、安堵しているようだ。

今年も一つのハードルをこえ、次は夏休み!……と順調に事が運ぶ事もなく、次に待っているハードルは、担任の大林先生との二者面談だ。ここを通過しないと、安心してコンクールに向けての吹部の練習に集中することはできない。

「……で、塚本さん。進路の希望ですが、今はどう考えてますか?」

椅子の脚が床を擦る音と一緒に、大林先生の低く落ち着いた声が降ってくる。

外気の暑さがここ二年六組の教室内の空気を熱しているため、エアコンの風もこの教卓の周りまでは十分に届いていない。額にじんわりと汗が滲み出てくるような中で、私の手元に広げられた進路希望調査のプリントには、”未定”と私が書いた二文字が居座っている。その二文字が、なんだか私に向かって冷笑しているようで、ゾクっと背筋に冷や汗すら感じてしまう。

「あ、ええと……まだ、これと言って……。とりあえず現状維持というか、今の成績を落とさないようにだけはしているんですけど……」

前回の面談の時と、ほとんど変わらない返事をしてしまう私。大林先生は、ふむ、と顎に手を当ててプリントを見つめた。

「成績に関しては、言うことはありません。塚本さんは日頃からコツコツやっているのは、評価しています。ただ、二年生のこの夏をどう過ごすかで、選択肢の幅は大きく変わってくるでしょう。部活が忙しいのはよくわかっていますが、そろそろ、その先のイメージの解像度を上げておくほうがいいですよ」

「はい……」

解像度、と言われても、私の頭の中の未来予想図はまだぼやけたままだ。将来、自分が何をしたいのか。周りのみんなが少しずつ「自分はこっちの方面に行こうと思って」と、自分の歩くべき道を見つけ始めている中で、私だけがスタートラインで足踏みをしているような、そんな焦りがじわりと胸の奥を焦がす。

「ただ、前回の面談の時、音楽に関する仕事をしたいと言ってましたが、それに変わりは?」

「あっ、はい。それはそうなんです。ですが、範囲が広すぎて、まだ絞り込めていなくて……」

「まぁ、焦る必要はないです。しかし、焦らなければならない時期に少しづつ近づいて来ているのだけは、覚えておいてください」

「はぁい」

「夏はコンクールもあることだし、まずは目の前のことに全力投球ってところですかね」

「はい、わかりました」

私の焦りを受け止めてくれるような、大林先生の優しい口調に救われた私は深々と頭を下げた。

解放されて教室の引き戸を閉めると、廊下の熱気がむっと肌にまとわりつく。どっと押し寄せてきた疲労感にため息をひとつ吐き出し、私は重い足取りで個人練をする教室へと続く廊下を歩き始めた。

音楽室へと繋がる階段を一段一段登りながら、考える。

将来か……私は一体何をしたいんだろう。何をすればいいんだろう。

確かに前回の三者面談の時、音楽に関する仕事をしたいと考えていることには変化はない。というか、私は音楽と共に今まで生きて来ていると自覚している。それは、ひとえに両親のおかげだと思っているし、私が今まで出会って来た人たちのおかげでもある。そして、その人たちからいただいた色々なものを、今度は私が誰かに渡さなければならない。そこまではわかっている。じゃあ、どうすれば。と、そこから先が、深い霧のようなもので阻まれてよくわからないんだ……。

階段を上り切ったところで、またもやため息をひとつ吐き出す。

すると、離れたところから、廊下をこちらへ向かってくる、背筋の伸びた独特の足音が響いてくる。スリッパの軽い音のはずなのに、一歩一歩が床を捉えるような、不思議な緊張感をはらんだ足音。

「ん?」

思わず顔を上げると、廊下の向こうから歩いてくる女性の姿が目に飛び込んできた。

黒い髪をなびかせ、背筋をピンと伸ばしたその圧倒的な佇まい。一目で、ただ者ではないと分かるオーラを全身から放っているのは、私の憧れでもある人だった。

「あっ、麗奈さん!」

思わず声が上ずってしまった。私の母の大親友であり、世界を相手に活躍するプロのトランペット奏者、高坂麗奈さんだ……って、何だか久しぶりだから説明っぽいな。自然と私は麗奈さんのところに駆け寄っていく。

「あら、瑠美子。久しぶり、元気やった?」

「はい。今日はどうしたんです?それに、順菜さんは?」

いつだって麗奈さんの傍らにはもう一人、偉大なプロドラマーであり、麗奈さんのパートナーでもある井上順菜さんの姿があるはずだった。いつもセットで行動している麗奈さんが、今日は珍しく一人だったから、私は純粋に不思議に思ったのだ。

「順菜は、ツアー中でね。今週は東北や北海道を巡ってるよ」

「へぇ〜、そうなんだ」

麗奈さんは、大人の、そしてプロとしての冷徹さと洗練さを帯びた笑みをかすかに浮かべて言った。けれど、その鋭い眼差しは、私を通り越してその先にある何かを射抜こうとしているようにも思えた。

「でも、一人なんて珍しい。吹部の練習を見に来てくれたんですか?」

「ん?ちょっとね、確認したいことがあって来たんやけど……トランペットの彼女ってどこにおるか、わかる?」

その一言に、私の心臓が小さな警鐘を鳴らす。

麗奈さんの言う”トランペットの彼女”が誰のことなのか、私に分からないはずがない……田中未来のことだろう。以前、サンプルで録音していた未来の音を麗奈さんに聞いてもらったことがあるし、時々吹部の練習を見に来てくれた時、指導をしている姿を見かけたことがある。

「未来なら……さっき担任の先生との二者面談に行っていたから……そろそろ終わる頃だと思うけど……」

「ありがとう。教室は……瑠美子、六組って言ってたよね」

「そ、そうだけど」

「ちょっと探してみるわ。今日はごめん、また今度、家でゆっくりと話すね。久美子にもよろしく言っといて」

「は、はい」

麗奈さんは短くそう言うと、迷いのない足取りで私が来た方へと歩き去っていく。

その背中を見送りながら、私は自分の胸の中に、妙に冷たい澱のようなものが沈んでいくのを感じていた。

プロとして、音楽の「本物」だけを追い求めてきた麗奈さん。彼女がわざわざ一人で北宇治に足を運び、真っ先に未来を探している。それが何を意味するのか。

茹だるような暑さの廊下で、私だけ冷たい風にさらされているような気がした。

大林先生との面談を終え、廊下で麗奈さんとすれ違ってから、私の頭の中はどこか上の空だった。

楽器室に入り、棚から自分のユーフォのハードケースをおろし、ゴールドラッカーのユーフォを取り出す。母が使っていたものを譲り受けて使っている、このユーフォ。よく触るところのラッカーが剥げてきて、随分くたびれているように見えるけど、演奏するには全く問題はなく、とてもよく響く私のユーフォ。

ケースだけを棚に戻し、楽譜スタンドとファイルと、ユーフォを持って低音パートの教室へ行く。今は個人練の時間なので教室の隅っこを陣取り、自分のスペースを作る。とりあえず、マウスピースだけでバズィングをしてみるものの、頭の中のモヤモヤのせいでアンブシュアが安定しない。ブーブーと情けない音が響くだけで、唇から抜ける息ばかりが虚しく空回りしてしまう。

……麗奈さんが、未来を探していた。

トランペットのトッププロ奏者が、現役の高校生、それも私の親友である未来にわざわざ会いに来たのだ。それが何を意味するのか、私に分からないはずがない……。

未来の吹くトランペットは、伸びやかで艶があり、いつ聴いても鳥肌が立つほど特別だ。だけど、まさかあの麗奈さんが自ら動くなんて。……麗奈さんは、いつもそうやって優秀な奏者を探しているのだろうか。それとも、未来だけを探していたのだろうか。

「どうしたんですか?瑠美子先輩」

頭上から降ってきた声に驚き、慌てて顔を上げる。

「ああ、珠里ちゃんか」

「冴えない顔をしてますよ。体調が良く無さそうですけど」

「いやいや、私はいつも冴えないよ。今日は朝から暑いから、嫌だなぁと思っていただけ」

「そうですか……熱中症になってはいけないから、お水買ってきますね」

「あー、水なら持ってるから。ありがとう、気にかけてくれて」

「そうですか?」

「ほら、練習練習。苦手フレーズは少しでも減らしていかないと」

「はーい」

少し不満そうな表情で、自分の席に戻っていく珠里ちゃん。私とは反対方向に陣取っており、隣には藤村先輩がいる。席に戻っては、藤村先輩と耳打ちしているようだけど……確かにさっきから考え事が続いている……顔に出ていたのだろうか、二人には気を使わせてしまっているようで申し訳ない。いけない、私も練習しなきゃ。

時計の針は無機質に進んでいき、全体練習の時間が近づいてくる。

少し早いけど音楽室へ移動しようかと、ユーフォを抱えて立ち上がったその時、廊下から引き戸を開けて未来が入って来た。

「瑠美子、ちょっとええかな」

「うん、何?」

「いや……ここやなくて」

私の袖口をくいくいと引っ張るので、ユーフォを机に置き、未来に従って教室を出る。少し廊下を歩き、屋上へとつながる階段の踊り場のステップに並んで腰を下ろす。大切な話をするときは、いつもここだ。屋上へ繋がる扉は封鎖されているため、ここに人は滅多に来ないし、夏でもそれほど暑くならない。

未来はいつも通りの、柔らかくて、どこか人を安心させる微笑みを浮かべていた。けれど、その手には、学校のプリントとは明らかに質の違う、ずっしりと厚みのある上質な紙で作られた冊子が二冊握られている。

表紙には、誰もが一度はその名を聞いたことがある、東京の国内最高峰の芸術系大学の名前があり、また別の冊子は、京都市内の伝統ある芸術系の大学の名前があった。

「未来、それ……」

「これ、高坂先生から……。さっき、面談が終わったあとに呼ばれて、これ渡されたん」

未来はそう言って、持っていた冊子を傍に置いた。

普段ならどんなに長い練習の後でも背筋をピンと伸ばしている未来だけど、今は背中を丸め、自分の膝に頬杖をついている。その姿が、なんとなく彼女の心の中の動揺を映しているようにも見えた。

「高坂先生……は、なんて?」

「うん……『あなたには、こっちの世界に来る資格がある』って……。音楽の道や、大学での授業について、すごく熱く語ってくれてん。現役のプロとして世界で戦ってる人の言葉やから、一言一言の重みが全然違って……。うち、圧倒されてしもうて、気の利いた返事何もできひんかった」

未来は自嘲気味に少し笑って、その高級なパンフレットの端を指でそっとなぞった。

「芸術系の大学なんて、今までの進路希望には一回も書いたことなかった。うちン中では、ずっと遠い別の世界の話だと思ってたし」

「うん」

「うちはもともと、人を助ける仕事がしたいって思ってたん。お母さんは弁護士やし、ママは看護師やろ?いつの頃からか、じゃあうちも……って漠然としたイメージだけはあった。具体的にどう、とかはないんやけど」

「うん」

「でも……高坂先生に真っ直ぐ目を見つめられて、資格があるって言われたとき、なんだか強い手でぐいっと引っ張り上げられるような感覚になって」

未来の言葉が、階段の踊り場という空間にぽつり、ぽつりと落ちていく。

「話を聞いていて、少し……怖かった。自分のこれからの人生が、全然違う方向に猛スピードで動き出すんやないかって。……でもな、それと同時に、すごくワクワクしたんよ。うち、トランペット下手くそやのに、あんな凄い人の背中を追いかけられるかもしれんて、思ってもみんかったし」

未来の瞳は、戸惑いに揺れながらも、奥の方では小さいけれど熱い光を宿らせていた。恐怖と高揚。その両方に挟まれて、未来は今、胸の奥で静かに沸き立つ熱い感情の渦に、呑み込まれそうになりながらも踏みとどまっている。

その未来の横顔を見ていたら、胸の奥がチクリと痛んだ。けれど、それは決して嫌な痛みじゃなかった。一番近くで未来の努力を、未来のトランペットにかける情熱を見てきたのは、間違いなく私だ。未来がどれほど特別で、どれほどこのプロへの切符にふさわしい人間か、私が誰よりも知っている。

「未来……」

私は立ち上がり、未来の正面に立って、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。

「すごいじゃん、未来。怖いかもしれないけど、それは未来が本当にそれだけの才能を持ってるってことだよ。麗奈さんがわざわざスカウトに来るなんて、普通の高校生には絶対にあり得ないことなんだから。……未来なら、絶対にやれるよ!」

努めて明るく、精一杯の熱量を込めて私は親友の背中を押した。未来の進む道が、どんなに眩しくて遠い場所だとしても、私は彼女の最初の一歩を笑顔で応援できる友人でありたいと思った。

「瑠美子……」

「もし未来がその道に行きたいって思うなら、私は全力で応援する。だって、未来のトランペット、本当に世界一かっこいいもん。自信持ちなよ!」

私の言葉に未来は一瞬驚いたように目を見張ったけれど、やがて視線を和らげて、本当に嬉しそうに、張り詰めていた肩の力をふっと抜いた。

「ありがとう、瑠美子。瑠美子にそう言ってもらえると、なんだか本当に大丈夫な気がしてくるわ。……もうちょっと、自分でもちゃんと考えてみるけどね」

「うん! じっくり悩んだらいいよ」

そう言って笑い合う私たちの間に、いつもの温かい空気が戻ってきた。未来はパンフレットを大切そうにバッグに仕舞い、私たちは全体練習へと向かうために立ち上がった。

けれど、未来に並んで歩き始めた瞬間、私の胸の奥で、未来には決して気付かれてはならない、冷たくて暗い影のようなものが、じわりと静かに広がり始めた事も、気付かずにいられなかった。

全体練習が始まり、音楽室には”北宇治吹部の音”に満ち満ちていた。

私の目の前には、いつもと変わらないユーフォニアムパートの楽譜。ユーフォのピストンに触れている指は自分の意思を通さずとも勝手に動き、息を吹き込めばそれなりの音をそのベルから吐き出してくれる。長年続けてきたからこそできる、無意識の演奏。

私の右後ろには、トランペットパートのファーストで、誰よりも真っ直ぐな音を教室に響かせている未来がいる。

未来の音は、さっき麗奈さんから言葉を掛けられたためか、まるで新しい命を吹き込まれたかのように、さらに強く、どこか遠くまで届くような輝きを増しているように聞こえた。

未来は、特別なんだ。

それはずっと分かっていたはずのことだった。出会ったときから彼女は上手だったし、トランペットにかける熱量も並大抵のものではなかった。だから、麗奈さんが未来を選んだことに、何一つ不思議な点はない。未来はあの眩しい世界に行くべき人だし、私はそれを心から応援している。そこに嘘はなかった。

……なのに。

合奏の合間、ふっと楽器を下ろした瞬間、私の心に冷たい棘がちくりと刺さる。

私には、声すら掛からなかったという事実の棘。

高坂麗奈という人は、音楽に対してどこまでも誠実で、同時に残酷なほど冷徹な人だ。本物しか見ないし、本物以外には興味を持たない。そう母から聞いていたし、自宅に来てみんなで話している時でも、そういう過去例をいくつも母や順菜さんの口から出て来るたび、本人は否定しなかった。

そんな麗奈さんが、私の目の前を通り過ぎて、未来の元へと向かった。私には「元気にしてる?」と挨拶をくれただけ。そこに、音楽家としての視線は、これっぽちも含まれていなかった。

それはつまり……暗に線引きをされたということだ。『あなたは、プロ奏者の人間ではない』と、言葉にすらされずに突きつけられたようなものだった。

確かに、自分自身、プロの音楽家になりたいなんて思ったことは、一度もない。大林先生との面談でも進路希望を『未定』としか書けなかったし、音楽で食べていこうなんて大それた夢は持ち合わせていなかった……はずだ。

なのに、どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。どうして、置いていかれるような、世界から一人だけ取り残されてしまったような焦燥感に、こんなにも息が詰まりそうになっているんだろう。

……自分に正直にいうと、一介のユーフォニアム奏者として、厳しくも華やかな世界に憧れなんかない、というのは……ウソだ。大勢の人に私の音を聞いてもらいたい、という夢は、極々僅かだけど心のどこかにはあった。

でも、それも完全に……潰えた。私が生まれた時から可愛がってくれていた、憧れの人によって。

練習が終わり、部員たちが片付けを始める喧騒の中で、私は一人、ユーフォニアムを抱えたまま動けずにいた。

……私のユーフォ。腕の中に収まる、くすんでいるところもあるけど、まだ艶やかにきらめくゴールドラッカーの管体。母から譲ってもらった、私が生まれる前から家にあるユーフォ。私の息を吸って、私の感情を音に変えてくれる相棒。

私は、なんでユーフォを吹いているんだろう。

プロになるわけでもない。未来のように、特別な誰かに見出されるような才能があるわけでもない。ただユーフォが好きで、ユーフォが好きだからずっと続けてきて、現状維持のまま、二年生の夏を迎えてしまった。

大林先生が面談の時に言っていた”その先の解像度”という言葉が、頭の中でぐるぐると回り始める。

進路が見つからない今の私は、ユーフォを吹く意味さえ見失いかけているのかもしれない。そう気づいた瞬間、目の前が真っ暗になるような、底知れない恐怖が足元から這い上がってきた……コンクールが近いというのに、私、どうしちゃったんだろう……。

すると、私の隣の、すでに立ち去っていた藤村先輩の椅子に、未来が移動して来た。

「瑠美子、どしたん?じーっと固まって浮かない顔して。まだ面談のこと、気にしてる?」

赤縁のメガネ越しに未来の濁りのない瞳が、私の顔を覗き込んでくる。彼女の優しさが、今の私には少しだけ眩しすぎて、直視するのが苦しかった。

「あ、ううん、なんでもないよ。ちょっと今日の合奏、集中しすぎて疲れちゃっただけ」

私は慌てて笑顔を作り、いつものトーンで嘘の返事をする。

「そっか。無理したらあかんで……コンクールまでもう時間がないんやし。 夏バテやったら尚更やん。今日は早く帰ろうや」

「うん、そうだね」

未来の背中に続いて教室を出る。廊下に充満している空気は少しだけ涼しくなっていたけれど、私の胸の中に居座った静かな葛藤は、じっと熱を持ったまま、消えてはくれそうになかった。

次の月曜日のこと。相変わらず茹だるような暑さが続く宇治の街の夕暮れどきに、私と未来は部活の居残り練習を終え、通学路途中にある公園のいつものベンチにいた。

茜色の空が、じわじわと夜の色に染まっていく。

未来は、手元にある例の大学のパンフレットを静かに見つめていた。数日前、麗奈さんから話を聞いた時、未来の瞳にあった戸惑いの色は、もうそこにはなかった。

「うちな、あの後、お母さんとママに家族会議の時間をとってもらって、このことを話したんや、高坂先生に声をかけてもらったこと」

「うん」

「そしたら、二人ともえらい驚いてん。でも、最後に言ってくれたんは、『未来が本当に進みたい道なら、どこに進むのであっても全力で応援するし、サポートする。自分の人生を決めるのは、他の誰でもない未来自身や。未来が本当に“その道”で最後まで突っ走るなら、やけどね』って」

未来はそう言って、パンフレットを大事そうにスクールバッグに仕舞った。その横顔には、自分の可能性を信じ、恐れることなく一歩を踏み出そうとする確かな覚悟が読み取れた。

「うち、やっぱりまだ怖いんよ。でもな、高坂先生が見せてくれるあの眩しい世界に、自分のトランペットがどこまで届くのか、試してみたいって思った。だから、少しずつだけど、前を向いて歩いてみようと思う」

未来の言葉は、夕暮れの風に乗って真っ直ぐに私の胸に届いた。その瞬間、私の心の中でくすぶっていた冷たい影が、すっと消えていくのを感じた。

未来の歩む道は、きっと私とは違う。彼女は選ばれた特別な人で、私は選ばれなかった凡庸な人間だ。

でも、それがどうしたっていうんだろう。未来が前を向いて走り始めるなら、私は嫉妬なんてしている暇はない。私は私の足で立って、私の道を見つけなきゃいけない。私だけの”その先の未来”を。

「……うん。やっぱり未来はかっこいいや。置いていかれないように、私もがんばんなきゃ」

「何言うてるん、瑠美子。置いていくわけないやんか。うちらは、ずっと一緒やけんな」

未来が屈託のない笑顔で、私の肩を小突く。その温かさに、胸の奥がじわりと熱くなった。

……うん、私の手を離れていったどんな夢よりも、いま私の腕に馴染んでいるユーフォニアムが愛おしい。誰かに見出されるような特別な何かはなくても、私がユーフォを愛している気持ちに嘘はない。ユーフォと一緒に重ねてきた時間は、誰も奪えない私だけの大切な宝物だ。

「ねぇ、未来。コンクールでは、私たちの最高のソリを演ろう」

「もちろん。誰の心にも残る演奏を、な」

未来はそう言って、悪戯っぽく笑いながら、愛おしそうにトランペットケースを触っている。どんな時もトランペットを手放さない彼女のその眼差しには、もう迷いはないようだ。

私たちはベンチから立ち上がり、家路へと歩き出す。夕暮れの坂道を下る風はまだ少し熱を孕んでいるけれど、不思議と胸のすくような心地よさがあった。

未来の目指す場所は、きっと私よりもずっと高くて、遠い。

だけど、この夏、北宇治のステージでソリを響かせる瞬間だけは、私は彼女の完璧な相棒でありたい。私にしか吹けない、誰の心にも残る最高のユーフォニアムを届けてみせるんだ。

茜色から群青色へと移り変わっていく夜空の下、私は未来の歩調にぴたりと合わせる。

坂道の向こう、宇治の街にぽつりぽつりと灯り始める街灯を見つめながら、私たちは明日へと続く一歩を、まっすぐに踏みしめていった。