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第四十三話 うつろうユーフォニアム −昼の日照りの朝曇り−

響け!ユーフォニアム ー 未来楽章 ー — www.pixiv.net · All chapters

第四十三話 うつろうユーフォニアム −昼の日照りの朝曇り−

じりじりと肌を焼くような、容赦のない陽光が宇治の街を包み込んでいる今、まさに盛夏といった感じだ。

学校の裏山からは、クマゼミの鳴き声がシャワーとなって押し寄せ、そこへアブラゼミのしつこい濁音が重なり、ときおりミンミンゼミの声が割って入ってくる。容赦なく鼓膜を震わせる虫たちの大合唱は、ただでさえ不快な夏の暑さを何倍にも膨らませているようだった。

七月も半ばを過ぎ、天気予報で”真夏日”という言葉を聞かない日はなくなった。最高気温が三十五度に迫る、あるいはそれをあっさりと超えていく毎日に、私たちは文字通り閉口している。

登校するだけで制服のブラウスが背中に張り付くから、ハンカチが手放せない。ハンカチだけでは間に合わないのか、フェイスタオルを肩にかけている女子も少なからずいる。周りの目がない時はスカートの裾をパタパタとあおいで、少しでも涼を取り込もうとしたり、ブラウスのボタンを一つ外しては、ハンディファンで風を送り込んで「あ゛〜〜」とか言っている人もいる。

そんなうだるような暑さの中で迎えた、七月十八日金曜日。この日の一学期終業式は、体育館の熱気も相まって、校長先生の話がいつも以上に長く感じられたものだった。けれど、終業式が終わって教室に戻り、ホームルームが終わったからといって、私たち北宇治高校吹奏楽部に”夏休み”という解放感が訪れるわけではない。

むしろ、ここからが本当の戦いの始まりだ。

エアコンが静かなうなりを上げてフル稼働している音楽室は、部員たちの熱気と窓越しの暑さで、室温が思うように下がらない。そんな溶けてしまいそうな空気の中、指揮台に丸尾先生が立ち、全体を見渡してから、おもむろに譜面台の両端に手を添える。

「では、まずはチューニングから。この暑さで管が温まってピッチが高くなりやすいので、各自いつも以上にしっかりコントロールするように。……オーボエ、音ください」

丸尾先生の指示に応えて、種崎先輩のオーボエが奏でる透き通った B♭ の音が音楽室に一本の芯を通すように響き渡る。

続いて、木管楽器、そして金管楽器へとチューニングの波が広がっていく。私はアンブシュアを意識しながら、自分の音を重ねた。

その時、私の右後ろから、トランペットパートが重ねる音が聴こえてきた。周囲と綺麗に調和した音……それなのに、私の耳は、その中に溶け込んでいるはずの未来のまっすぐな響きを、どうしようもなく敏感に拾い上げてしまう。

置いていかれたくない、遅れてはならない——。自分でも整理のつかない勝手な焦りが、私の体に余計な緊張を生み、アンブシュアを無意識のうちに硬くさせていた。

「ストップ!全体に高いです。今一度確認してください」

え?と思いつつマウスピースから口を離すと、左隣の藤村先輩がこそっと声をかけてくる。

「塚本ちゃん、ちょっとピッチ高ない? もう少し抜いた方がええんちゃう?」

「あ、はい」

先輩の指摘を受け、慌てて手にしているユーフォの抜き差し管をほんの少しだけ抜き、改めてマウスピースに息を入れてみる。

「うん、いい感じになった。ま、一人で吹いてたら気づかんこともあるわ」

「はい、すみません」

藤村先輩はふっと口元を緩めたけれど、視線は伏目がちで、どこか私の内側の”妙な硬さ”を探るような色を帯びている。いつもなら、もう少し冗談めかして笑い飛ばしてくれるはずの先輩だからこそ、その静かな視線が胸に刺さる。

ふと、藤村先輩越しに、珠里ちゃんがこちらをじっと見ているのに気付く。何か言いたそうな表情だけど、私の視線に気付くと、気まずそうにそのまま前に向き直った。最近、部の雰囲気やユーフォに慣れてきたのか、落ち着きのある彼女のあの静かな瞳は、私がどこか上の空で、いつになく気持ちが逸っていることを聡く察しているようだ。

「いいですか?では、もう一度頭から。オーボエ、お願いします」

丸尾先生が再度のチューニングを指示する。それに従い、種崎先輩のオーボエから始まり順に音を重ねていく。続いて、木管楽器、金管楽器へと音が重なっていき、全体の音が一つに溶け合う。うん、今度は大丈夫だろう。

丸尾先生の手の合図により、一瞬にして教室が静寂な空間に戻ると、先生は頷き譜面台のスコアをめくった。

「はい、OKです。それじゃあ、課題曲を通していきます。本番まで二十日間を切っています。大体のところは固まっていますが、これからは表現力に、より重点をおいた練習をしていきます。細かいところまで指摘していきますので、そのつもりで」

「「はいっ!」」

「では、始めましょう」

丸尾先生がタクトを構える。その動きに合わせて、部員全員の楽器が一斉に持ち上げ、タクトの動きを注視する。振り下ろされるのに合わせて、課題曲Ⅱ”風花の詩"が始まる。

ピアニッシモのフルートがふわりと浮かび上がると、三度上の音でオーボエが寄り添っていく。淡い色をした花びらがやさしく舞い上がる風に乗り、ひらひらと舞っているかのような情景が頭に浮かぶ。

そんな木管楽器の繊細な導入に、低音パートがそっと、ぬくもりのある土台を敷くように加わる。

私のユーフォニアムも、その流れに乗って音を滑り込ませた。

楽譜通り。指も動いている。ピッチも、大丈夫。けれど、吹いている私自身の胸のうちは、冷や汗が出るほどに寒々しかった。

……浅い。音が、響かない……。

いつもなら、自分の息が太く豊かな響きとなって体に戻ってくる感覚がある。しかし今は、まるで乾いた板の表面を滑っているように薄っぺらい。

”音が走る”のを警戒するあまり、拍を意識しすぎて、今度は音が硬くなってしまっている。周りの音と協調しているように聞こえても、その実はただ合わせにいっているだけの、主体性のない音……。

合奏自体は、私の微小な不調を置いてきぼりにしたまま、淀みなく流れていく。

丸尾先生のタクトも止まらない。誰の目にも、私の演奏は”無難にこなしている”ように映っているだろうけど、私にとってはダメダメな演奏だ。

何より、右後ろから聴こえてくるトランペットの響き……未来の吹く、一寸の迷いもない伸びやかな音が鼓膜に届くたび、私の息の支えは弱くなり、低音パートとしての誇りが、指先からぽろぽろとこぼれ落ちていくような錯覚に陥った。

「はい、そこまで。……うん、全体の形としては悪くないですが、内声部と低音の受け渡しがまだ少し硬いですね。お互いのブレスのタイミングを、もう少し意識してください。では、個別に指摘していきます」

「「はい!」」

各パートで先生の指摘事項にしたがって修正しつつ、何回か通しを繰り返したところで丸尾先生はタクトを下ろし、この日の合奏練習は終了となった。

楽器を片付ける音楽室の中は、終業式が終わり夏休みが始まる解放感と、来月のコンクールへの期待感で、どこか浮き足立った雑音に満ちていた。

けれど、私はユーフォニアムを膝上に置いたまま、深い溜め息をのみ込んでいる。

「塚本ちゃん、お疲れさん。調子はどう?」

隣で楽譜ファイルを扇子代わりにぱたぱたと仰いでいる藤村先輩が、声をかけてきた。

「どうって……?」

「なんか今日、息の入りがちょっと安定してへん気ぃしたし、どうしたんかな思って」

「あ、すみません……。ちょっと、今日は力んじゃってたみたいで」

「ま、そんな日もあるわ。イマイチやなーって思う時は、早めに帰って、早めに寝るんが一番やで。な?」

藤村先輩はニカッと笑みを浮かべ、私の肩をポンと叩いて音楽室を後にした。

その後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐く。

「瑠美子、お疲れ様!」

不意に、背後から明るい声がしたので振り返ると、トランペットを抱いた未来が笑顔で立っていた。その額にはほんの少し汗がにじんでいるけれど、疲れを感じさせないいつもの未来だった。

「あ、未来。お疲れ様」

「瑠美子、今日はピッチが落ち着かんかったやん、大丈夫?」

未来の口から出たのは、核心を突いた静かな一言だった。やっぱり、気づかれていた。私の音がどれほど内側で萎縮し、逃げ腰になっていたか。未来の耳を、誤魔かせるはずがなかった。

「あ……うん、ちょっとね。力んじゃってたみたいで。……未来の音、邪魔しちゃったよね。ごめん」

俯きかける私を見て、未来は小さくかぶりを振る。その瞳には責めるような色は一切なく、純粋に私のことを心配してくれているのが伝わってくる。未来は私の実力を疑うことなんてしない。今日の不調も、きっとただの寝不足か、この酷暑による夏バテのせいだと思っているのだろう。

「謝らんでええよ、そんなん。毎日こんなに暑いんやし、誰だって調子悪い日くらいあるって。ちょっと疲れが出ただけやろ?」

未来はぶっきらぼうながらも、本当に私の体調を心配そうに覗き込んできた。

「今日無理した分、家帰ったらしっかり休みな。明日は自由曲やる言うてたし、瑠美子のいつもの音が聞けへんと、うちのトランペットも調子狂うし」

未来はそう言って、私を安心させるようにほんの少しだけ口元を緩めた。けれど、そのまっすぐな信頼と温かさが、今の私には却って痛かった。

未来は、何も悪くない。

麗奈さんに認められ、声をかけられた未来。その未来に対して、一人で勝手に劣等感を募らせて、音を曇らせている自分。未来が私を信じてくれるほど、私の内側にある醜い感情が自分自身への棘となる。

「さ、片付けて帰ろ。もう、みんな待ってると思うで」

「ごめん、未来。……私、ちょっと先生に質問したいことがあって。今日は、先に……帰っててくれる?」

「……ん、わかった。あんまり遅くまで残ったらあかんで。無理しなや」

彼女の足音が廊下に消えていくのを、私はただじっと聞いていた。

「質問がある」なんてその場の言い訳で嘘をついてしまった手前、すぐに片付けて帰るわけにもいかない……誰もいなくなった、西日の差し込む音楽室で、私はしばらくぽつんと佇んでいた。さっきまでの合奏の残響が、嘘のように消え去った静寂が、私の小さな嘘を責め立てているようで息苦しかった。

やがて重い腰を上げ、楽器室でユーフォをケースの中へと片付ける。パチン、と留め金を留める乾いた金属音だけが、静まり返った部屋にやけに寂しく響いた。

山岡部長から預かっていた鍵で音楽室を施錠し、職員室で書類整理をしていた丸尾先生に鍵を返却する。先生は「お疲れ様。気をつけて帰りなさい」と短く声をかけてくれたけれど、私はそれすらもどこか申し訳ない気持ちで受け取るしかなかった。

誰もいなくなった廊下を、とぼとぼと歩く。時折、上履きのキュッという音が廊下中に響き、耳に真っ直ぐ突いてくるように聞こえる。

校舎の外に出ると、夕暮れ時の宇治の街は、まだ熱気が地面からねっとりと這い上がってきていて、私の足取りをさらに重くさせる。

「はぁ……なんでこんな事になっちゃったんだろう」

独りごちて、足を引き摺るように坂道を下り始めた。

翌日、夏休み初日。北宇治高校吹奏楽部の練習は、朝から熱を帯びていた。

この日のメインは、自由曲の合奏練習。曲の中で、前半がオーボエとフルートのソリ、そして後半にトランペットとユーフォニアムのソリという重要な局面が存在する。そのためか、指揮台に立つ丸尾先生の表情は、昨日よりも一段と厳しい。

「では、自由曲を詰めていきます。特に二箇所のソリは、この曲の要です。ただ技術的に音が並んでいるだけでは、聴衆の心には届きません。お互いの息を完全に融合させて、一つの音楽として完成させてください」

「はい!」

「まずは、通しでいきます。ミスがあっても止めませんので」

緊張感が音楽室を埋め尽くす。丸尾先生がタクトを構えると同時にみんな一斉に楽器を構え、私はマウスピースに唇を当て深く息を吸い込んだ。

一呼吸おいて、タクトが滑らかに動き出す。

低音木管、チューバ、そしてユーフォニアムによる深く静かなハーモニーから、この物語は幕を開ける。地面の下で冷たい風がうごめく気配が立ち上がり、ついでクラリネット群が薄い三和音を置くと、音楽室の空気がゆっくりと回転し始めるのが分かった。

ここで最初のソリが静かに舞い上がる。

東山先輩のフルートが春の光を含んだ細い風のようにきらめき、そのすぐ横で種崎先輩のオーボエが寄り添い、初春の湿度を音にしていく。二人のソリは、春の風が舞い、語り、揺れながら進む様子を完璧に描き出していた。二人のあいだに流れる絶対的な信頼感が、音の粒子となって音楽室を満たしていく。

自由曲、”風紋譚〜四つの風が織りなす物語〜”。“リズと青い鳥”の作曲者である卯田百合子さんの最新作だ。そのせいか、どこか“リズ”のオマージュを思わせる繊細な掛け合いが随所に散りばめられている。けれど、今の私には、その繊細さがかえって恐ろしかった。

曲は四つの風のモチーフを巡らせながら、中間部を経て、一気に激しい局面へと突入する。

——西風。未来のトランペットが放つ、鋭利な一音。

未来の音が音楽室の空気を切り裂いた瞬間、私の心臓がどくりと跳ねた。跳躍する激しい音型、一切の躊躇のないアクセント。未来のトランペットは、まさに荒ぶる風そのものとして、圧倒的な存在感で空間を支配していく。

……置いていかれる……。

恐怖に似た焦燥が指先を凍らせる。続く第四章は、私のユーフォニアムが受け持つ”北風”の導入。未来の鋭い残響を優しく包み込み、調和へと導くためのフレーズ。荒ぶる西風の熱量を、すべてを呑み込む冬の冷気さながらに、広く、深く受け止める雄大な響きの気流。

楽譜通りに息を吹き込み、ピストンを動かす。けれど、私の音は未来の放つ圧倒的な”光”に怯え、その足元でひたすら縮こまることしかできなかった。包容力のない、ただ冷たいだけの音。

そのまま曲は最大のクライマックス、二つの風が正面から衝突する緊迫のソリへと雪崩れ込む。

未来のトランペットが狂おしいほどの輝きで前へ突き進む。私は必死でその後ろを追いかけ、低音で支えようとするけれど、重なる音と音の境界線が、まるで油と水のように激しく弾け合っているのが自分でも分かった。合わない。響きが、溶け合ってくれない。

やがて嵐の渦が凪ぎ、春の風の残響が静寂の中に消えていくと、タクトが完全に静止した。

音楽室を満たす、部員たちの荒く熱い呼吸。

丸尾先生はタクトを下ろすと、すぐには口を開かなかった。譜面台のスコアをじっと見つめたまま、静かに眼鏡のブリッジを押し上げる。その沈黙の数秒間が、私の喉をからからに干からびさせた。

やがて、丸尾先生がゆっくりと全員を見回した。その瞳は、昨日よりも明らかに射抜くような光を宿している。

「……なるほど。この時点での、それぞれのパートが抱える課題が浮き彫りになりましたね」

先生の低く落ち着いた声が、静まり返った音楽室に響く。

「では、順に気になったところの指摘をしていきます。まずは前半の木管セクションから——」

丸尾先生の淡々とした、けれど一切の妥協を許さない声が音楽室に響く。

フルートパートのピッチのわずかなズレ、クラリネットのアーティキュレーションの甘さ。先生の口から淀みなく飛び出す的確な指摘に、先輩も同輩も後輩たちもみんな真剣な表情で頷き、スコアにペンを走らせて指示された内容を書き留めていった。

静まり返った室内で、自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。

他のパートへの指導が進めば進むほど、私の心臓は嫌な早鐘を打ち始めていた。次は金管か。それとも、低音パートか。いつ名前を呼ばれるか分からない息苦しさに、ユーフォを握る手のひらがじっとりと汗ばんでいく。

そんな逃げ場のない緊張感の中、ついに丸尾先生の視線が、私と、私の右後ろへと向けられた。

「次に、後半のトランペットとユーフォニアムのソリについて、です」

びくっ、と肩が跳ねそうになるのを必死で抑える。

「田中さんのトランペットは良いです。迷いがなく、この曲の求める”西風”の鋭さを表現できています」

未来の音が高く評価される。それは当然のことなのに、私の胸の奥をキリキリと締め付けた。未来は凄い。麗奈さんにスカウトされるだけのものを持っている。それに引き換え、私は……。

「ですが」

丸尾先生の眼鏡の奥の瞳が、真っ直ぐに私を射抜いた。

「塚本さん。あなたのユーフォニアムの音が、あまりにも引きすぎています。技術的なミスはありませんが、まるで田中さんの音に対して遠慮し、気後れしているように聴こえる。……もっと、前に出ることはできませんか?」

前に出る。その言葉が、私の頭の中でぐるぐると虚しく回った。

「ここは二つの風の衝突、そして対話のシーンです。あなたが一歩引いていては、田中さんの音を受け止めることはできません。自分の役割をもう一度整理してください」

「……はい」

やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほど小さく震えていた。

隣の藤村先輩が、心配そうにこちらを見ているのが視界の端に入る。右後ろの未来が、どんな表情で私を見ているのか、怖くて振り返ることなんて到底できなかった。

未来に嫉妬して、勝手に拗ねて、勝手に縮こまっている私の醜い内面。丸尾先生は音楽的な指摘として口にしたのだろうけれど、私にはそれが「未来の相手にふさわしくない」と宣告されたように感じられてならなかった。

その後の合奏がどのように進んで、どのようにして終わったのか、正直ほとんど覚えていない。ただ、丸尾先生が「今日はここまで」と告げた瞬間、音楽室を包んだ部活終わりの騒がしさが、私の耳にはすべて自分をあざ笑う雑音のように聞こえた。

早く、ここから逃げ出したい。

楽譜ファイルをバサンと閉じ、ユーフォを抱えたままガタンと椅子から立ち上がる。その動作の荒さに、左隣の藤村先輩、右隣のホルンの松本先輩、後ろのボーンの宮崎先輩が「えっ?」と声を上げた気がしたけど、今の私にはそれを気にする余裕すらなかった。

「瑠美子、あのな、さっきのソリやけど——」

右後ろから、未来が声をかけてくる。いつだって、私を信じてくれている未来の声。けれど、今の私にはその優しさが一番つらい。未来の顔を見たら、本当に自分が惨めで、泣き出してしまいそうになる。

「ごめん、私、先帰るね」

未来の言葉を遮るようにそれだけ言うと、私は振り返りもせず、音楽室の入り口へと足早に向かった。背後から「あ、瑠美子……っ」という未来の困惑した声が聞こえたけれど、私はそれを振り切るようにして部屋を出た。

楽器室で棚からユーフォのハードケースを下ろしては、ユーフォを突っ込んで棚に戻し、自分のスクールバッグを持ち楽器室を飛び出した。

「待ちぃ!瑠美……」

みみちゃ……美波に呼ばれたような気がしたけど、聞こえないふりをして階段を駆け下り、昇降口から外へ出ると、夏の暴力的なまでの熱気が一瞬で私を包み込んだ。額から、顔から、首筋から、汗とも涙ともつかない水分がどっと流れ落ちる。

とにかく、一刻も早くあの場所から離れたかった。

視界が歪んでいく。涙を堪えるために奥歯を噛み締め、私は逃げるように走った。校門を抜けて、ようやく足の筋肉が悲鳴を上げ、肺がじりじりと灼けるような痛みを訴えたところで、ぷつりと糸が切れたように走るのをやめた……いや、もう走る気力すら残っていなかった。

アスファルトから這い上がってくる容赦のない熱気に足元を掬われそうになりながら、私はずるずると、ただ重い足を引き摺るようにして坂道を下っていった。汗が止まらず、汗ばむ肌にインナーが張りつくので、制服の裾からキャミの裾を引っ張る。

夕暮れの住宅街は、私の惨めさを嘲笑うかのように、ただただ暑かった。

「——瑠美子!!」

背後から、私の名前を呼ぶ声が響いた。

振り返るより早く、激しい足音が近づき、私の制服の肩ががしっと掴まれる。

「……美波?」

息を激しく切らせ、肩にかけたタオルごと上下させている美波がそこに立っていた。さっきの自由曲の合奏で、パーカスの要として丸尾先生に合格点をもらっていた美波だ。

彼女は私の顔を見るなり、すべてを察したように眉をひそめると、私の手首を迷いのない力強さで掴んだ。

「ちょっと、ついて来ぃ」

「え、ちょ、ちょっと待っ……」

拒絶する隙すら与えられないまま、私は美波にぐいぐいと引っ張られるようにして、住宅街の中にあるいつもの公園へと連れて行かれた。

美波は私を東屋のあるベンチに座らせると、「そこで待ち」とだけ言い残し、公園の入り口あたりにある自動販売機へと大股で歩いていった。ガタンガタン、と乾いた音が二回響き、美波が戻ってくる。冷たい麦茶のペットボトルが、私の涙で火照った頬にピトッと押し当てられた。

「ひゃあっ!」

「ほら、飲み。そんなに汗かいて、水分摂らんと倒れるで」

「うん……」

結露したボトルを両手で受け取る。けれど、キャップを開ける力すら入らない私を見て、美波は奪い取るようにしてキャップをひねり、再び私の手に握らせた。

「……んっ」

「あ、ありがと……」

促されるまま、冷たい麦茶を一口、喉に流し込む。かすかに香ばしい香りが鼻に抜け、冷気が胃へと落ちていく。けれど、硬く収縮してしまった胸の奥の塊は、それくらいではびくともしなかった。

すると、美波はバックから真っ白なフェイスタオルを取り出し、「ほら」と言いながら私の額を軽く拭いて、肩にかけてくれる。

「それ、使ってへんやつやから」

「ありがとう……」

タオルを首の後ろに回し、流れる汗を拭き取る。……これ、洗って返さなきゃ。

しばらくの沈黙。

私はボトルの表面についた水滴を、親指の腹で意味もなく何度も拭い続けた。じっと手元を見つめる私の横に、美波は「よいしょ」と腰を下ろし、私を問い詰めるわけでもなく、ただ前を向いたまま、自分の長い脚をぶらぶらと揺らしていた。

木陰の向こう、夕暮れの宇治の街はまだうだるように熱い。セミの声が少し離れたところでシャワシャワと鳴いている。さっきからの沈黙が、逆に私の目頭をじわじわと熱くさせた。

「あの……丸尾先生の言うことなんて、気にせんでええ。……って言っても、無理か」

美波がぽつりと言った。その声には、不思議と棘がない。いつも笑いながら話をしているときの、私の大好きな美波の声だった。

「……私、ダメだった。音が、全然前に出なくて。……未来の音ばっかり、耳に響いて」

膝の上のボトルをぎゅっと握りしめる。声が震えてしまうのを止められなかった。

「今日、美波たちは丸尾先生に褒められてたのに。私だけ、未来の音に遠慮してるって、気後れしてるって言われて。……情けないよね。ちゃんと吹いてるつもりだったのに、先生には全部、見抜かれてた」

自嘲気味に呟いた私に、美波はふっと鼻で笑った。

「見抜くに決まってるやん、丸尾先生、めちゃくちゃ細かいし……でもな、瑠美子。先生が言ったんは『遠慮してる』やろ? 『下手くそやから吹くな』って言われたわけちゃうやん」

「それは、そうだけど……」

「あたしさ、パーカスやん? 一番後ろから合奏中、ずーっとみんなの後ろ姿見てるやんか。今日の瑠美子のユーフォさ、技術的なミスなんてどこにもなかったで。ピッチも昨日みたいに高めに出たりしてへんかった。……ただな、音の背中がな、ずっと泣きそうな顔して丸まってたんや」

美波の言葉が、私の心臓をドクリと揺らした。一番後ろから、私の迷う背中を美波はずっと見ていてくれたんだ。

「打楽器と違って、管楽器は心の迷いがそのまま音の響きに出やすいしな。……瑠美子、あんた何に怯えてるん。あたしには言えへんようなこと? それとも……未来にしか、言いたくないこと?」

未来、という名前を美波の口から聞いた瞬間、私の胸の奥の堤防が、みしみしと音を立てて崩壊を始めた。

……違う。未来には、一番言えない。未来だから、言えないんだ。

「未来にしか言えへんことなら、言わんくていい。それでも構わん……あたしは瑠美子が好きやし、瑠美子の好きなようにしたらいいと思う。それで、瑠美子が転びそうになった時、支えたげるから。あたしも、そのためにがんばるしな」

……同じクラスで、私のことをずっと見ていてくれた人が、ここにもいる。誰よりも理解しようとしてくれる美波の温かい視線が、私の頑なだった心をゆっくりと、優しくほぐしていく。

「美波……私、私ね……」

口を開いた瞬間、冷たいボトルを握る指先が震えた。もう、隠し通すことなんてできなかった。

お茶をもう一口飲み込もうとしたけれど、喉の奥が狭くなって、うまく落ちていかない。代わりに、喉の奥から、ずっと澱んでいたドロドロとした感情が、堰を切ったように言葉となって溢れ出した。

「未来に……嫉妬してた。未来が麗奈さんに認められて、羨ましかった。あんなに凄い音を吹いて……置いていかれるのが怖くて……」

「うん」

「なのに、未来は私のこと、ずっと信じてくれてて……。それが、すごく痛くて、苦しくて、辛くて……」

「ん……」

「せっかく声をかけてもらったのに、おめでとうも言えない自分が本当に醜くて、嫌で……」

「うん」

「『私なんか』って勝手に拗ねて、勝手に逃げて……もう、どうしたらいいか分かんなくて……」

白状した。私の内側にある、一番見せたくなかった汚い部分を、全部、洗いざらい吐き出した。

言い終えると同時に、視界が完全にぼやけてしまい、熱い涙が次から次へと溢れては止まらなくなった。

「……アホやなぁ」

美波のぶっきらぼうな声が聞こえた。

呆れられたと思った。見捨てられた、とも思った。

けれど次の瞬間、美波は前を向いたまま、私の肩を自分の方へぐいっと引き寄せた。

「……ほら」

美波の細い肩に、私の頭がぽん、と預けられる。

美波はそのまま、横から私の背中にそっと手を回すと、溢れ出してしまった私の涙ごと受け止めるように、何度も何度も優しくさすってくれた。

「何が『私なんか』や。瑠美子は、あたしらには絶対必要な人なんやし。瑠美子のユーフォはな、北宇治に絶対必要やし。未来のトランペットを支えられるんは、瑠美子しかおらん。……嫉妬したってええやんか。それだけ真剣に吹奏楽やってる証拠やろ。みんな何かに嫉妬してるやんか、瑠美子だけちゃうで。だから……自分を醜いなんて言うたらあかん。あたしは、そんな瑠美子を置いていったりせえへん」

美波の言葉が胸の奥深くに響き、私は美波の肩に頭をうずめたままその制服の袖をぎゅっと握りしめて、子供のように声をあげて泣いてしまった。美波は、私の涙がその肩を濡らすのも厭わずに、ただ静かに、私のすべてを受け止めるように寄り添い続けてくれた。

……どれぐらいの時間、泣いていたんだろう。しばらくして私の涙がようやく引いた頃、美波は私の顔を覗き込んでニカッと笑った。

「どう?すっきりした?」

「うん……」

鼻をすすりながら小さく頷くと、美波は「よし」と短く言って、私の肩にかけられていた白いフェイスタオルで私の目元を優しく、とんとんと拭ってくれた。

「じゃあ、帰ろうか」

そう言って美波が先にベンチから立ち上がり、私に向かって右手を差し伸べてくる。私はその手をぎゅっと握りしめ、引っ張られるようにしてゆっくりと立ち上がった。

「うん……ねぇ、美波」

「ん?」

歩き出そうとする美波の制服の裾を、私はもう一度だけ小さく引いた。美波が不思議そうに振り返る。夕暮れのオレンジ色の光が、彼女の輪郭を優しく縁取っていた。

「ありがとう」

「……うん……」

美波は少しだけ照れくさそうに視線を泳がせ、それから嬉しそうに、はにかんだような笑みを浮かべた。

「行こ」

うーん、と大きく伸びをした美波の後ろを追うようにして、私は公園の砂利を踏みしめ、駅へと向かって歩き出す。まだ熱気の残る夕風が、涙の跡がわかる私の頬を涼しく撫で通り抜けていった。

美波と二人並んで京阪の六地蔵駅まで歩き、改札を抜けてホームで電車を待っていた時のことだった。

階段の方から、複数の足音が騒がしく響いてくる。ふと目をやると、息を切らせた未来とその後ろに千紗、陽菜、凛々達が一緒にホームへと駆け込んできた。

「あ、やっぱりいたよ」

千紗が真っ先に声をあげる。

「もー、みんな歩くの早すぎ……っ」

陽菜が膝に手を突いて、大きく肩で息をした。

「……見つかってよかった」

凛々が額の汗をぬぐいながら、小さく息を吐き出す。

そして、彼女たちに背中を押されるようにして、未来が一歩前に踏み出した。

「瑠美子……っ! 美波!」

夏の暑さのせいで真っ赤になった未来の顔は、今にも不安で決壊しそうな表情になっていた。私のために、音楽室からずっと追いかけてきてくれたのだろうか。

私たちは他のお客さんの邪魔にならないよう、ホームの端の方へと移動する。

私は未来と向かい合って、未来のひたむきな瞳を見た瞬間、私の胸にまた申し訳なさが込み上げてきたけれど、今度は逃げなかった。ぎゅっと拳を握りしめ、涙をまた少しにじませながら、未来の目を真っ直ぐに見つめた。

「未来……ごめん。 私、未来にずっと嫉妬してた。麗奈さんとの話を聞いた時から、未来が遠くに行っちゃう気がして、勝手に気後れして、拗ねて……。そんな私のせいで、合奏の音を曇らせて、今日だって嘘ついて逃げて、本当にごめん……!」

一気に頭を下げる。駅のホームに、私の震える謝罪の言葉が響く。

しばらくの沈黙の後、こつんと靴の音が近づくと同時に、私の視界に未来のローファーが映る。

「……頭、上げてや、瑠美子」

顔を上げると、未来の目にも、じんわりと涙が浮かんでいた。未来は困ったように、でも、いつもの愛おしそうな笑顔を浮かべた。

「謝らんでええって。うちはな、高坂先生に褒められた時、一番にそのことを瑠美子に報告したかったんやで。瑠美子と一緒に、もっと凄いソリ吹きたいなぁって、それだけ思ってた。置いていくわけないやん。うちの隣でユーフォ吹いてくれる相棒は、最初からずっと瑠美子だけや。……うちの方こそ、瑠美子の気持ちに気づかんくてごめんな」

未来の言葉に、千紗、陽菜、凛々の三人も後ろで大きく頷いている。みんな、私のことを怒るどころか、心配そうに温かく見守ってくれていた。

「よし、ここは仲直りのハグやな」

隣で腕を組んでいた美波が、悪戯っぽく笑いながら私と未来の背中をぽんと押した。

私と未来は、少し照れくさそうに顔を見合わせ、それからお互い引き寄せられるようにぎゅっとハグをした。未来の体温が真っ直ぐに伝わり、いつも使っているシャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「未来、ごめん……」

「うん、もうええよ」

未来の腕にぎゅっと力がこもる。その温もりに包まれながら、私の胸の奥にあった冷たい澱は、跡形もなく溶けて消えていった。

翌朝。昨晩は早めに就寝したこともあり、すっきりした気持ちで、中書島行きの電車に乗り込んだ。昨日、心の中にあった”私なんか”という棘は、もうどこにもない。あるのは、大好きな仲間たちと、最高の相棒と共に、あのコンクールの舞台に立ちたいという、ただそれだけの純粋な熱量だった。

『右側の扉が開きます。ご注意ください』

三室戸の駅に列車が滑り込み、ドアが開くと未来が乗り込んできた。

「おはよ」

「おはよう。瑠美子、今朝の気分は?」

「ん?気分は上々だよ」

「……そっか。うちもや」

動き出した列車は二分ほど走ると、次の駅では左側の扉が開く。千紗と陽菜が眠そうな表情で乗り込んでくる。

「おはよ〜」

「おはよ……」

「千紗、陽菜、おはよ」

「おはよう」

「今日も暑くなるんかいな」

「今は曇ってるけどね」

「”昼の日照りの朝曇り”って言うし」

「あ〜、そのことわざ、聞きたくないなぁ」

また二分ほど走った列車は、再び左側の扉が開く駅に到着する。

「よっ、みんなおはよう」

「美波、おはよう」

「なんか、眠そうにしてんね」

「だって、暑くて寝苦しくて。小刻みに寝ては起きてを繰り返したわ」

さらに少し列車が走ると、学校の最寄駅、六地蔵駅に到着する。

みんなで降車して、構内の階段を下り改札口を抜けると、凛々がいつもの場所で待っていた。

「おっはよー」

「凛々、おはよう」

「おはようさん」

六人揃って、通学路を歩き出す。まだ朝早いし、空は雲で覆われているので、今のところ暑さで我慢できない、と言うほどではない。

「そうだ。美波に、これ返しておかないと」

私は隣にいた美波に話しかけ、バッグの中から昨日美波から借りた白いフェイスタオルを取り出し、手渡した。もちろん、ちゃんと洗濯し、丁寧に畳んで包装紙に包んである。

「ああ、忘れとった。……まぁ、きっちりと包装紙に包んでくれて……瑠美子らしいな」

「それに、昨日は……色々と、本当にありがとう。なんか、上手く言えないけど……とにかく、ありがとう。これからも、よろしくです」

そう言うと、美波は満面の笑みを返してくれた。

「あたしも、ありがとうな。いつもの瑠美子が戻ってきてくれて、ほんと嬉しいわ」

「そう?」

「うん……じゃあ、今日から気持ちリセットして、コンクール目指して頑張ろう」

「うん!」

歩調を合わせるように、未来がすっと私の隣に並び、悪戯っぽく笑って私の肩に自分の肩をこつんとぶつけてきた。言葉はなくても、それだけで伝わる。「おかえり」と、そう言ってくれているのだと。

ふと見上げると、朝の白かった雲がゆっくりと切れ、その隙間から、どこまでも突き抜けるような夏の青空が顔を覗かせ始めていた。じわりと汗が滲むような強い日差しが、私たちの行く手を眩しく照らし出す。

――昼の日照りの朝曇り。

私たちの、熱くて、絶対に譲れない夏が、今ここから再び始まる。