第四十四話 まなつのクロスウインド ~ 2043年度京都府吹奏楽コンクール ~
第四十四話 まなつのクロスウインド ~ 2043年度京都府吹奏楽コンクール ~
二〇四三年八月六日、木曜日。
いつもの時間、いつもの列車、いつもの座席。
朝の六時を過ぎたばかりの京阪宇治駅始発の列車内は、通勤の人や学生らしき人はぱらぱらといるだけだ。
今日は、京都府吹奏楽コンクール兼関西吹奏楽コンクール京都府予選、高等学校の部Aの二日目。
高校の部A自体は昨日から始まっているが、私たち北宇治高校の演奏は、今日二日目の十三時四十五分からだ。楽器の積み込みや最終調整のため、今朝もこうして始発の電車に揺られている。
この日のために、私たちはどれだけの息を楽器に吹き込み、どれだけの時間を積み重ねてきただろう。引き返せない本番の朝を前に、胃の奥がキュッと絞られるような緊張と、静かな覚悟が胸を満たしていた。
高校の部が行われる一週間前は、中学校・地域ユースの部も行われ、弟の瑛斗は大吉山北中のテナーサックスで出場し、金賞そして京都府代表という結果を掴んだ。
瑛斗はさも当然という風にうそぶいていたが、内心かなり喜んでいて、父や母、もちろん私も嬉しいし、何しろ幸先がいい。ただ、瑛斗に負けるわけにはいかない、と余計な力が入ってしまうのは否めない。
それにしても、冷房の風が心地よいはずの車内だが、羽織ったブレザーの中に熱気がこもり、じわりと汗が肌に滲んでくる。
コンクールに出る時は、学校の正式行事でもあるので、制服着用義務がある。合物用の制服であるけど、それほど通気性がいいものではない。エアコンの吹き出し口の下に行こうかと思案していると、電車が滑り込むように三室戸駅に停まり、プシューと音を立ててドアが開いた。
ムッとした夏の湿気が流れ込み、その向こうから未来が乗り込んできた。手には通学バッグとトランペットケース、そして大事そうに抱えた大きめの紙袋。
「おはよう」
声をかけると、未来は私を見つけてホッとしたように目を細めた。
「おはよ」
「……ねえ、その紙袋、何が入ってるの?」
「これ? ブレザーを入れてん。今朝も朝からむっちゃ暑いやろ? とてもやないけど着てられへんし」
「ああ。そっか、私もそうすればよかった」
私が自分の胸元を見下ろして小さく溜息をつくと、未来は紙袋の口をポンと叩いてみせた。
「じゃあ今、上着脱ぎ。この袋に入れたげるで」
「お願い。それなら、私が紙袋持つよ。未来はケースも持ってるし」
「そうやね、お願いしよっか」
私がさっとブレザーを脱ぎ、畳んで紙袋へ潜り込ませると、未来からその紙袋を受け取って膝の上へ乗せた。肩の荷が下りたような解放感に、思わずふう、と息が漏れる。
『次は、黄檗です。電車とホームの間が空いています。ご注意ください』
黄檗駅のホームで待っていたのは、千紗と陽菜の二人。ドアが開くと、千紗が手をひらひらと振りながら乗り込んできた。
「おはよ~」
「おっはよ」
千紗の後ろから、ピンと背筋を伸ばした陽菜が続く。そのどこかしゅっとした立ち姿を見て、未来が可笑しそうに口元を緩めた。
「おや、今朝は張り切ってるやん」
「何言うてんの。今日張り切らんかったら、いつ張り切るんや」
陽菜が胸を張って言い返すと、千紗が「そりゃ、そうだ」と肩をすくめて笑った。
『木幡、木幡です』
ホームで待っていた美波は、乗り込んでくるなりハンドタオルで額の汗を丁寧に拭った。
「暑いねぇ……おはよう」
「「おはよう」」
ふぅと吐息をつきながらつり革に掴まる美波を見て、私は膝の上の紙袋をトントンと叩いて見せた。
「美波、そのブレザー預かっとこうか?」
「えっ、みんなの分、持ってんの? でもええわ、荷物になるやろし」
美波は驚いたように目を丸くしたが、申し訳なさそうに首を振る。
「いやいや、私は大丈夫だよ」
「ありがとう、もう少ししたら汗も引くだろうから、あたしは構わんよ」
たたんだタオルをバッグのポケットに仕舞いながら美波が微笑むので、「……ん、わかった」と私も苦笑いして引き下がった。
『六地蔵、六地蔵です』
車内アナウンスを合図に、私たちはホームへと降り立つ。冷房の効いた車内から一歩出ると、ぬるま湯のような空気が瞬時に全身へまとわりついてきた。
構内の階段を下り、スマホをタッチして改札口を抜けると、壁に寄りかかっていた凛々がこちらに気づいて手をあげた。彼女もまた、首筋の汗をハンカチで拭っている。
「おはよ~」
どこかトロンとした目元の凛々を見て、陽菜がニヤリと口角を上げた。
「おや、眠そうやん。まさか緊張して寝られんかったん?」
「ん~、否定しない」
凛々が小さく欠伸を噛み殺しながら頭をかくと、「おいおい、大丈夫なの?」と美波が心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫大丈夫、ストラップしてサックスを手にしたら目が覚めるし」
そう言ってポンと自分の肩を叩いて見せる凛々に、みんなからどっと笑いが漏れた。
「頼みますよ」
これで、六人揃った。
駅舎を出ると、容赦のない朝の日差しが眩しく目を射る。
道路の脇、黒い寒冷紗で一面覆われた茶畑を横目に、私たちはじっとりと汗ばむ肌を感じながら、学校へと続く坂道を一歩一歩上りはじめた。
到着すると、私たちは上履きに履き替え、まっすぐ音楽室へと向かう。
「「おはようございまーす」」
音楽室では、山岡部長や藤村副部長、東山DMと種崎さんがピアノの周りに集まって、軽く打ち合わせをしていたようだった。
「おはよう、あんたたち早いな」
「はい、本番当日ですし」
「うん、頑張ろうな。みんな揃う頃に、楽器運搬のトラックが来るから、それまで待機しといてや」
「わかりました」
しばらくして集合時間となったころ、顧問の丸尾先生、副顧問の高田先生、それに部員全員が揃ったことが確認された後、各自手分けしての楽器の運び出しとトラックへの積み込みが始まった。
楽器の積み込みを終えたトラックが先発し、部員たちを乗せたバス2台が北宇治高校の校門前から出発する。目的地は、北山にある京都コンサートホール。京都の吹奏楽部員にとって、数々の歓喜と涙が染み付いた聖地だ。
バスの車内は普段の時だと、これからの期待やワクワクした雑談でざわめいているものだが、今日の空気はどこか違っていた。エンジン音とタイヤが路面を捉える低い唸りだけが響き、車内は静まり返っている。誰もが大声で話す気になれないようで、それぞれの胸の内で本番への緊張感と戦っているようにも感じる。
隣の席に座る未来も、スマホの画面を見つめたまま一言も話さない。イヤホンからは、今日演奏する曲の音源がかすかに漏れ聞こえ、彼女の指先は、膝の上で無意識にトランペットのピストンを押さえるような細かな動きを繰り返していた。
窓の外を流れていく真夏の景色は、どれも色を失ったようにただ通り過ぎていく。頭を空っぽにしようとしているのに、思考は勝手に今日の楽譜の難所を巡りだす。
はっと気づけば、私は自分の膝の上で両手を痛いほど固く握りしめていた。それに加え、背筋を冷たいものが駆け抜け、全身の血の気が引いていくような強烈な緊張感が、じわじわと身体の奥のほうへ染み渡っていく。
ダメダメっ、心を落ち着かせないと。会場に到着する前から、緊張で心や体が凝り固まってどうするんだ。この状況で心の凝りをほぐすには、……深呼吸だ。鼻から吸って、細く長く息を吐く。これを何回か繰り返そう。そうすれば、自分が見えてくるはずだから。
そうこうしていると、バスは会場に到着する。下車した瞬間、むっとする熱気が全身を包み込む。すでに会場周辺には、他校の生徒や保護者、吹奏楽ファンらしき人々でごった返している。
先着していたトラックから、自身の楽器や各種パーカス機材を下すのを手伝い、北宇治の集合場所として指定されたエリアに楽器たちを持っていく。すべて持ち運んだころ、大会本部に立ち寄っていた丸尾先生が今大会のプログラムを手に戻ってきた。
丸尾先生は幹部の方たちと話していた高田先生を手招きし、プログラムを挟んで何か話し出した。すると「えっ!?」という高田先生の驚いた声があがったかと思うと、今度は部長、副部長、そしてDMが呼ばれる。五人で何やら話し合いがはじまり、時折部長たちの驚きの声が上がるのが妙に引っかかる。
「……どしたんやろ?」
「まずいことでもあったんかなー」
周りから口々に心配の声が上がった頃、先生たちは頷き、話し合いが終わったかと思うと、部長がみんなの前にやってくる。
「なんかあったの?」
「うん……」
エスクラの吉倉先輩が山岡部長に尋ねるが、部長はどこか上の空のような声で、返事する。
「確認やけど、うちらは今日の十二番目、演奏開始は十三時四十五分。……そして、立華高校は十四番目……」
「立華が十四番……うちらの二つあとやね」
「立華がどしたん?」
部員たちから小さな声が漏れる。立華高校といえば、”水色の悪魔”と称されるマーチングの強豪であり、近年は座奏のコンクールでも京都府内で代表争いを繰り広げる、いわゆるライバル校だ。学校が距離的にもそれほど離れていない、というのもあるのかもしれない。
「順番は別にええんよ。くじ引きみたいなもんやし」
藤村副部長が、掠れた声で言った。彼女の指先が、プログラムの特定の行を指さす。
「驚いたのは……そこじゃなくて、立華の自由曲……」
部長と副部長の妙な様子に、周囲の部員たちが集まってきた。
「なになに? 立華の曲、すごいの?」
「現代曲? それとも難曲?」
山岡部長は息を呑み、静かに、しかし控えエリア全体に聞こえる声で呟いた。
「立華高校の自由曲……『リズと青い鳥』」
その曲名を聞いた時、その場にいた北宇治高校吹奏楽部員全員の動きが、一瞬止まった。
「……え?」
誰かが呟いた。
「リズ……? 嘘でしょ?」
『リズと青い鳥』。それは、北宇治高校吹奏楽部にとって、単なる一曲ではない。ストーリー性が強く、特にオーボエとフルートの掛け合いが印象的な難曲。随分昔、当時の顧問の先生がコンクールの自由曲として取り上げた曲で、その時のオーボエ担当の方が覚醒し、現在世界を股にかけて活躍するプロとなるきっかけの曲として、私達の間で語り継がれている。その意味もあって、定期演奏会で毎回演奏をしているほどだ。北宇治のアイデンティティそのものであり、まさに”北宇治の鉄板曲”。
それを、よりによってライバルである立華高校が、今年のコンクールの自由曲として取り上げているのだ。
「瑠美子先輩、”リズ”はこの前教えてくれた曲ですよね。今年の定期演奏会でも演奏した曲だ、って」
隣にいた珠里ちゃんが、こそっと聞いてくる。
「うん、そうなんだけど……」
私以外、ほぼみんなが少なからず動揺している。
「なんで、立華が『リズ』を……」
「北宇治の曲じゃないの!?」
動揺が波紋のように、部員全員へ広がった。すると、自分のパートにいた未来と美波が、こそっと私のそばに近寄ってきた。
「瑠美子……、瑠美子のお母さん、何か言うてた?」
未来が小声で尋ねてくる。未来や美波は、私の母が立華吹部の座奏コーチをしていることを知っているからだ。母が立華の部員達と一緒に、この会場のどこかにいるはずだということも。
「……いや。私、何も聞いてない……」
私は首を左右に振るしかできない。
『お母さんは先に出るけど、気を付けて行ってらっしゃい。精一杯頑張ってくるんだよ』
今朝、そう言って私より先に出かけて行った母は、立華が『リズ』を吹くなんてこと一言も言わなかった。
「そっか、何も聞いてないんか……」
美波が腕を組んで眉をひそめる。しかし、美波はすぐに息を大きく吐き出し、パチンと両の手で自分の頬を叩いた。
「まあ……何演奏してもええやけどね。選曲は自由やし!。立華が何を吹こうが、あたしらに関係ないっしよ!」
「美波の言う通りやな」
未来も自分を落ち着かせるように胸に手を当てた。
「うちらが演奏するのは、うちらの曲。立華が『リズ』を吹こうが吹くまいが、北宇治の音楽が変わるわけやないもんね」
「……うん」
私は頷いたものの、胸の奥で小さなざわめきが消えないのを感じていた。
……なぜ、今年、立華は『リズ』を選んだだろう。
音出しとチューニングのため大ホール地下一階の指定されている楽屋へと移動すると、合奏形態で椅子がずらりと並べられている。部屋の広さや本番での機材セッティングの段取りの都合上、パーカスの器材は持ってこれないけど、それ以外のメンバーは任意の席に着席し、まずはチューニングから。
ロングトーンを繰り返し、楽器が軽く温まったところで、チューナーの音を聞く。この時の体調や気分でピッチがずれたりするから、慎重にピッチを合わせていく。吹きながらチューナーのインジケータを確認する。そして、インジケータが中央に来ないときは抜き差し管を調整し、また吹いてチューナーを確認して、を繰り返す。
みんなの顔には、まだ先ほどの”立華の『リズ』”に対する動揺がかすかに残っているようだ。そのためか、チューニングのピッチが一様に高めに感じる。
中央の指揮台に立った丸尾先生は、タクトを持たずに部員たちをじっと見渡し、そして、ゆっくりとした口調で語りかけた。
「……みなさん。他校の選曲について、色々と考えている人もいるかもしれません」
みなハッとして丸尾先生を見る。先生は柔らかく、しかしブレない瞳で部員一人ひとりと目を合わせた。
「ですが、他校がどんな曲を演奏しようと、審査員が評価するのは『今、目の前で演奏している北宇治高校の音』だけです。私たちが今日まで積み重ねてきた練習、作ってきた音楽は、他校の選曲によって価値が変わるような軽いものではないはずです」
先生は手を後ろに組み、話を続ける。
「いつも通りの演奏ができれば十分です。私は、皆さんの演奏が素晴らしいことをよく知っています。私たちの音を、精一杯あのホールに響かせましょう」
その言葉は、冷や水のように部員たちの頭を冷やし、同時に胸の奥にじんわりと温かい灯をともした。
そうだ。他の学校が何を演奏しようと関係ない。自分たちが吹き込んできた息の量、刻んできたリズム、重ねてきた合奏の時間――それだけが本物なんだ。……そういえば、ついさっき、未来や美波も先生と同じようなことを言っていたな。……うん、気持ちを切り替えよう。
「それじゃあ、山岡さん。部長として、何か声をかけてください」
「はいっ!」
山岡部長がみんなの前へと出る。彼女の顔からは、先ほどの動揺は完全に消え去っていた。部長としての覚悟に満ちた、凜とした表情だ。
「……今年、私たちが挑む曲は、卯田百合子先生の新曲です。初めて楽譜を手にした日、その複雑なリズムと途方もない要求に、みんな圧倒されたと思います。こんなの本当に吹けるようになるのかなって、不安で押しつぶされそうになった夜が、私にもありました」
山岡部長の言葉に、何人かの部員が静かに頷く。
「何度も音を外し、何度もパート練習でぶつかり合って、指が痛くなるまで、唇が切れるまで譜面と向き合って……そうやって私たちは、一音一音、この曲に命を吹き込んできました。この曲の難しさや美しさを誰よりも知っているのは、他でもない、ここにいる私たちです」
部長は一瞬言葉を切り、力強い眼差しで部員全員を見渡した。
「今日まで重ねてきた苦労も、悔し涙も、全部この曲の響きに変わっています。だから、何も怖がる必要はありません。私たちが積み上げてきた努力と、お互いを信じて、最高の音楽を奏でましょう!……やってやろう!」
「「はいっ!」」
「それでは、ご唱和ください!北宇治ファイトーっ!!」
「「オーーっ!!」」
全員、拳を天へ突き出す。一丸となった声が、熱量が、部屋に充満し、ビリビリと空気を震わせた。
「――続きまして、プログラム三十二番、京都府立北宇治高等学校です」
私たちの一つ前、丹波尚美高校の演奏が終了し、ステージ上手から退場していくのと同時に北宇治の紹介アナウンスが場内に響き渡る。下手から薄暗いステージへと進み、それぞれ決められた自分の持ち場へと移動する。
「課題曲、Ⅱ。自由曲、卯田百合子作曲、”風紋譚〜四つの風が織りなす物語〜”、指揮は丸尾祐一郎です」
椅子に浅く腰を掛け、周りの足音が聞こえなくなると、アナウンスの声と共にステージには眩い光が頭上や前面から放たれる。熱い光に囲まれステージ上以外は何も見えなくなるこの瞬間、緊張と高揚感がぐるぐると混ざり合い何とも言えない気持ちになる。
丸尾先生が指揮台の横に立ち、客席に向かって一礼すると、天井から降ってくるような拍手が沸き起こった。頭を上げ、指揮台へと上がり、私たちをぐるっと見渡すと、ごく僅かに口角が上がったように見える。
ほんの少しの間静寂がホールを支配すると、タクトが上がり、全員が息を整えて楽器を構える。一呼吸おいてタクトが振り下ろされると、静まり返った空間に一筋の光が差し込むように課題曲Ⅱ”風花の詩"が始まる。
ピアニッシモのフルートに寄り添うオーボエ。春のように吹く風の中で、花びら達がひらひらと舞っているかのように、優しくふわりとした音がホール内を飛び回る。
木管楽器の繊細なフレーズに、低音パートが静かに支える。私もその支えの一つとして、みんなと心を合わせてマウスピースに息を吹き込む。
――あ、重い。
それは息の苦しさじゃない。自分の吹き込んだ息がマウスピースを通じてユーフォの筐体を震わせ、ホールという巨大な空間を押し広げていく、圧倒的な手応えだった。
フルートからオーボエ、そしてクラリネットへ。この曲の要である木管のソロとアンサンブルが、まるで一つの生き物のように滑らかに旋律を紡いでいく。ひとつひとつの音が交差するたび、音色の透明感が重なり合い、ホール全体に柔らかな光の粒子が充満していくのが分かる。低音は決してそれを邪魔することなく、けれど確かな温もりをもって、その美しい旋律たちの足元に柔らかな絨毯を敷き詰めていく。
曲が中間部へと差し掛かり、テンポが僅かにたゆたう。
静けさを破るように、金管パートが重厚な音の壁を打ち立てる。右後ろから鼓膜を突くのは、未来の吹くトランペットの音だ。
一寸の迷いもなく、どこまでも遠くへ、一直線に空気を切り裂いていく完璧な音色。先日の練習のとき、その伸びやかな音を聞くたびに自分の息が弱まり、低音としての誇りが指先からこぼれ落ちていくような錯覚に襲われた。
けれど、いまは違う。
彼女の音が空を切る鋭い一陣の風なら、私たちのユーフォニアムはその風を抱きとめて広げる、豊穣な大地。未来の音が高く跳躍するために、私は誰よりも深く、誰よりも揺るぎない土台になればいい。あの時の恐怖感は疾走感へと変わり、ピストンを押さえる指先が信じられないほど軽やかに動く。
曲は後半へ向けて徐々に熱を帯び、穏やかな風は大きな音のうねりとなって膨らんでいく。全員の息が重なり、クレッシェンドとともにホール全体が鳴り響く。ステージの床を通じて、足の裏に心地よい振動が伝わってきた。
課題曲Ⅱ『風花の詩』……山岡部長の選曲理由が頭をよぎる。そうか、これが“風の始まり”なんだ。これから挑む自由曲という壮大な物語へ、聴衆の心とこのホールの空気を連れていくための、最初の風がこの曲なのか。本番で演奏して何かわかったような気がする。
丸尾先生のタクトが大きく弧を描き、盛り上がった北宇治サウンドが収束へ向かう。
ラストのフレーズ。あれほど豊かに鳴り響いていた音が、まるで春の風に散る花びらが、穏やかな余韻を残して静かに地上へと吸い込まれていくように削ぎ落とされていく。
デクレッシェンド。減衰していく音の最後の一粒まで、全員の神経が研ぎ澄まされていた。フルートの消え入るようなフレーズに、低音の残響が静かに寄り添い、そして消えていく。最後の一音がホールの高い天井に吸い込まれ完全な静寂が訪れると同時に、丸尾先生の指先が空中ですっと止まり、空間が完璧な無音で満たされる。
息を吸うことすら忘れるような、わずか一瞬の静寂。胸の奥で、熱く静かな確信が確かな手応えとなって結実した。最高の“風の始まり”を吹き切ったという思いが、そこにあった。
課題曲の余韻が天井の木壁にしっとりと沈み込み、ホール全体が固唾をのんで次の瞬間を待っている。
丸尾先生が一旦タクトを軽く下げ、ほんの数秒、胸の深くで息を整えた。
楽譜をめくる紙の音すら、今の緊張感の中でははっきりと聴こえる気がする。課題曲で解き放たれた”風の始まり”を受け継ぎ、ここからは卯田百合子先生が描いた”風の物語”へと繋がっていく。
丸尾先生の腕が静かに上がり、そしてゆっくり降りおろされると、ステージ上でホールに緊張が走る。
コンパスやチューバ、バスクラリネット、そして私のユーフォニアムが下支えする、地鳴りのような静けさを含んだ重低音。地の底から蠢く冷ややかな気配が立ち上がり、クラリネット群の重ねる淡い和音が、ホールの空間をじわじわと侵食していく。
その静寂を打ち破るように、最初の対話が紡がれ始めた。
東山先輩のフルートが放つのは、陽光を孕んだ柔らかで透き通る響き。そこにそっと寄り添う種崎先輩のオーボエが、湿り気のある豊かな音色で旋律を優しく抱きかかえていく。
二人のソリが描くのは、目覚めの季節を告げる温かな風の息吹。互いの存在を確かめ合い、慈しむように音を交わすその姿は、あの『リズと青い鳥』の切なくも美しい関係性をどこか彷彿とさせた。積み重ねてきた確固たる信頼感がきらめく波動となり、客席の隅々まで染み渡っていく。
けれど、この物語が魅せる表情は優しさだけにとどまらない。
突如、打楽器の鋭い一撃と重厚な金管の強奏が、空間を切り裂いた。
目まぐるしく拍子が入れ替わり、複雑に入り組んだリズムが押し寄せてくる。夏の猛練習のなかで何度足元をすくわれ、悔しさに唇を噛み締めたかわからない、あの難所だ。
だが、今の私たちに迷いはない。
目まぐるしい旋律の渦のなかで、私の指は吸い付くよう素早くバルブを押し返している。恐怖はとうに吹き飛び、スリリングなフレーズの絡み合いが快感となって全身を駆け巡る。
個々の音が精密に組み合わさり、疾走する音の奔流となってホール内を突き進む。ステージ上の熱量がぐんぐんと跳ね上がっていくのを、肌で感じていた。
やがて息を呑むような一瞬の静けさを挟み、曲は最大のハイライトへと突入した。
突き抜けるような一音――西風。
斜め後ろから放たれたのは、未来の吹くトランペットだ。刃のように研ぎ澄まされたアタック、一切の怯えもない鮮烈な存在感。未来の音が放たれた瞬間、ホールの空気がビリビリと震えるような衝撃を覚えた。
「うちの隣でユーフォ吹いてくれる相棒は、最初からずっと瑠美子だけや」
あの日背中を押してくれた未来の言葉が、全身を熱く巡る。
未来のトランペットが放たれた瞬間、鋭い一音がホールの空気をまっすぐ切り裂いたその直後、巨大な空間の残響がわずかに揺れ、ホールの木壁が一瞬だけ震える。
事実としてそこにある“響きの変化”が、未来の音の強さをはっきりと示していた。
私は深く息を溜め、その揺れを受け止めるようにベルの奥へ吹き込むと、ユーフォニアムの響きが、未来の鋭い風を包み込むように広がる。
そこから先は、もう言葉ではなく音の対話だった。
未来の放つ西風が鋭く跳ね上がり、私の冬風がそれを抱きとめて押し広げる。交差し、ぶつかり、絡み合いながら、二つの風は互いを押し上げるように高まっていく。水と油ではない。高め合い、信じ切った二つの響きが、眩い光の渦となってホールの天井へ駆け昇っていく。
未来の音と私の音が、寸分違わず重なり合い、確かな手応えとなって響き渡った。
いよいよ全パートの息吹が合流し、北宇治の鳴らす巨大な「嵐」となってエンディングを目指す。
木管も、金管も、パーカッションの轟音も、すべてが最高潮の熱量で響き渡り、ホール全体を圧倒した。自分という個の境界線が消え、ただ一つの大きな気流の一部になったような感覚。
極限まで引っ張られたフォルテシモの余韻の中、丸尾先生の右手が固く握りしめられる。
すべての音が寸分の狂いもなく断ち切られ、静寂が訪れる。
天井から降り注ぐ微かな残響と、ステージ上の五十五人が一斉に吐き出した熱い息の気配だけがホールを満たしていた。
丸尾先生の手がゆっくりと下り、私たちの紡いだ、十二分間の“風の物語”が幕を閉じた。
指揮台の上で静止していた丸尾先生は、両手で私たちに起立を求めてくる。
ガタ、と音を立てて全員が一斉に立ち上がり、丸尾先生も指揮台から降りて客席に振り返った瞬間、どっとホールを揺るがすような大拍手が押し寄せてきた。眩しいスポットライトの向こう側で、ぎっしりと埋まった客席の人々が、立ち上がりながら惜しみない拍手を送ってくれている。全力をすべて出し切ったという圧倒的な充足感が、全身の力を心地よく抜いていくようだった。
丸尾先生の一礼に続いて、私たちは列をなしてステージ上手へと歩みを進める。退場する私たちの背中を追いかけてくる万雷の拍手を全身で受け止めながら、私は大切な相棒であるユーフォニアムを、愛おしさを込めてぎゅっと抱きしめた。
私たちが描いた“風”は、このホールを、そして観客の心を残らず捉えて吹き抜けたのだという強い誇りを胸に、私はまっすぐ前を向いて舞台袖へと下がっていく。
舞台袖へとハケた瞬間、張りつめていた緊張の糸がぷつりと切れ、あちこちで小さな吐息や安堵の笑い声が漏れた。それぞれ自分の楽器を持ち、北宇治高校の待機場所へと列をなして歩いていく。
「瑠美子先輩、ソリ最高でした」
ユーフォを抱えた珠里ちゃんが、紅潮した表情で私の隣に並んでくる。
「ありがとう。珠里ちゃんこそ良かったよ。苦手箇所、難なくできてたよね」
「はい、できました。ありがとうございます」
ふと右横に視線をやると、トランペットを抱えた未来と目が合った。未来はあふれ出る感情を隠そうともせず、くしゃりと顔をほころばせると、小声で「やったね」と口を動かし、誇らしげに深く頷いて見せた。どこまでも晴れやかで眩しい笑顔だった。
「……うんっ」
私も声には出さず、込み上げる熱い塊を堪えながら、弾けるような笑みを返して力強く頷き返す。もう、私の心には迷いも悔いも一欠片すら残っていなかった。
途中、打楽器の片付けに追われる美波とすれ違う。美波は汗だくになりながらも、私に気づくと、満足そうに口元を緩めてそっとサムアップしてみせた。
「お疲れさま、最高だったよ!」
「お疲れさま!」
言葉を交わせたのはほんの一瞬だったけれど、互いの健闘を称え合うには十分だった。すぐ近くを歩いている他の部員たちも皆、汗に濡れた頬を輝かせ、誇らしい目を向け合っていた。
自分たちの足音が通路に響き、楽器ケースを置いていた待機場所に戻ってくる。まだ火照った体のまま楽器をケースに収め、手早く到着している楽器運搬のトラックへ積み込む手つきは練習通りシステマチックだ。けれど、誰もが無言のうちに目を合わせ、小さく頷き合っていた。自分たちはやれるだけのことをやった、という静かな熱量が、言葉にならなくても伝わってくる。
楽器たちをトラックに預け、ホール外の特設スペースへと移動すると、夏の日差しと青空の下でプロのカメラマンが待機していた。コンクール参加校が必ず通る儀式、集合写真の撮影だ。
「はーい、北宇治高校の皆さん、みんないい顔して! 笑顔固いよー!」
ひな壇に並び、カメラマンの陽気な声に促されて、みんなの頬がようやく緩む。さっきまでホールで鬼のような表情で打楽器を叩いていた部員も、ベルを握りしめていた金管パートも、カメラのレンズに向かって弾けたような笑顔を向けた。眩しいフラッシュが光り、この一瞬が写真という形に切り取られる。
写真撮影が終わると、パーカス隊や器材搬出係は一足先に楽器運搬トラックを追って学校へ戻り、残った私たちは結果発表まで長い自由時間となった。
先に学校へ戻る美波たちを見送った私は未来達と合流し、ホールのホワイエの隅にあるベンチへと身を寄せた。買ってきたばかりの冷たいスポーツドリンクをこくこくと流し込むと、乾ききっていた喉にすうっと染み渡っていく。
「……なんか、あっという間やったな」
千紗がポツリと漏らした言葉に、みんな深く頷く。
「ほんまにな。自由曲の変拍子とか、練習のときはあんなに怖かったのに、気づいたら一瞬で終わってしもたわ」
「ほんまそれ! でもさ、自由曲のあのソリ……瑠美子と未来、すごすぎたやろ!」
「そうそう。近くで聴いてて鳥肌立ったもん。あんなんずるいわ、かっこよすぎて泣きそうになったわ」
「あはは、ありがとう」
「おおきに。かっこよすぎるってうちらだけちゃうで。ホルン、良かったよ。離れてても十分聞こえてた」
「クラもバッチリやったやん。さすがやな」
「サックスも、音が伸びやかだったじゃん。調子いいんだなぁ、って思ったよ」
「低音よかったやん! 足元からすっごく伝わってきたわ」
互いに互いの演奏を称え合っては笑い合う。緊張感から解放され、手に持ったペットボトルで喉の渇きを癒しながら、先ほどの演奏を振り返り、ああだこうだと会話が続く。
それでも、ふとした瞬間に会話が途切れ、視線がどこか遠くへ泳ぐ。いよいよ迫る結果発表への緊張が、じわりと胸の内に戻ってきたからだ。
隣に座る未来を見ると、彼女は空になったペットボトルをぎゅっと両手で包み込み、ゆっくりと息を吐き出しながらホールの天井を見つめていた。視線の先にある何かを追うようなその瞳は、きっと私と同じように、さっきまで響かせていた自分たちのソリの残響を聴いているのだと思う。言葉にしなくても、やり切った心地よい熱量が、彼女の横顔から静かに伝わってきた。
静かに時計の針が進み、気づけば結果発表の刻限が目前に迫っていた。
「そろそろ行こうか」
ベンチから立ち上がり、元の集合場所へと歩いていくと、山岡部長が声を上げて部員を招集しているところだった。
「北宇治、集合してください!」
山岡部長の呼びかけで、ホワイエのあちこちに散らばっていた部員たちが一斉に集まってきた。みんなの顔に、再びさっきまでの緊張が戻っている。
「もうすぐ結果が発表になるころです。うちらが代表で見てきますので、みんなはここで待っていてください」
京都大会では、代表者数名が掲示板に張り出される結果を見に行き、それを全体に持ち帰る段取りとなっている。
「それじゃあ、見てきます」
丸尾先生を先頭に、山岡部長と藤村副部長の三人が、貼り出し場所となっているホワイエの奥へと歩き出した。去っていく三人の背中を、私たちはただ祈るような心地で見送るしかなかった。
残された部員達には、重苦しい静寂が立ち込めていた。誰も一言も喋らない。自分の心臓の鼓動が、ドク、ドク、と耳の奥で嫌なほど大きく鳴り響いている。隣に立つ未来の手元を見ると、彼女の指先がかすかに震えているのが分かった。私はそっと息を呑み、胸の前で両手を固く組んだ。
一分が、一時間のように長く感じられる。
どれくらい待っただろうか。奥の方からこちらに戻ってくる三人の影が見えた。
丸尾先生はいつもの穏やかな無表情のまま。藤村副部長は俯いていて、表情が見えない。そして、真ん中を歩く山岡部長のその顔は、固く強張っているように見えた。
……駄目だったの……?
胸の奥が冷たく冷えていく感覚に襲われた。部員たちの間に、引きつったような緊張が走る。
三人は私たちの目の前まで歩み寄り、足を止めた。緊張で息をのむ私たちを前に、山岡部長の口元が、わずかにピクリと動く。強張っていたはずの彼女の顔に、フッと不敵な笑みが浮かんだ。
ニヤリと口角を上げた彼女は、まるで勝利を確信していたかのように、堂々と胸を張って宣言した。
「……北宇治高校、ゴールド金賞! そして……京都府代表!」
一瞬の静寂のあと、歓声が辺りに響き渡った。
「やったぁっ!!」
「本当!? 本当に行けんの!?」
あちこちでハイタッチを交わし、飛び跳ね、肩を組み合って喜びあう部員たち。
全国金賞という大きな目標からすれば、ここはまだ最初の関門に過ぎない。けれど、緊張から解放された安堵と、積み重ねてきた日々が報われた嬉しさが胸を満たしていく。
藤村副部長も強張っていた顔を緩め、山岡部長としっかりと手を握り合っていた。丸尾先生だけが、満足そうに小さく頷きながら、柔らかい笑みを浮かべていた。
「瑠美子先輩、やりましたね!」
「うん、ホッとしたよ」
「……あたし、すごく嬉しいです!」
珠里ちゃんも、笑顔でこの結果を喜んでいる。ユーフォを始めて四ヶ月の彼女、短期間でこの喜びと安堵を経験するなんて、珠里ちゃんは”持っている”人かもしれない。
「瑠美子!やったね!」
自分たちのパートの集まりにいた千紗や凛々、陽菜達が、ワッと私に抱きついてきた。さっきまでの冷たい緊張が一気に吹き飛び、全身に熱いものが駆け巡る。目頭が熱くなり、視界が涙で歪んでいく。
ふと視線を外すと、少し離れたところで未来が胸に手を当て、深く深く息を吐き出していた。その肩が、安堵でかすかに震えている。
そんな未来と目が合った。
彼女は潤んだ瞳のまま、私に向かって、今まで見たこともないような眩しい笑顔で小さく頷いて見せた。
あの過酷な練習も、新曲への不安も、すべてはこの瞬間のためにあったんだ。
積み重ねてきた日々は、決して間違っていなかった。次のステージ――関西大会への切符を、自分たちの音で掴み取ったのだ。
ホワイエ内のあちこちでは、審査結果を知ったのか、抱き合って喜ぶ他校の部員や、うつむいて肩を落とすグループの姿が目に入った。その光景を見るたびに、胸の奥がキュッと締め付けられる。
そういえば、立華はどうだったんだろう。多分、私たちと一緒に次へと行けるとは思ってはいるけれど。
弾けたような喜びがようやく落ち着きを見せ始めると、周囲から向けられる他校の部員たちの視線や、次々に押し寄せる関係者の波に押されるようにして、私たちは荷物をまとめ、バスへと向かい始めた。
胸の奥を占めていた重苦しい不安は消え去り、代わりにじわじわと込み上げてくるのは、関西大会という次の舞台へ進める喜びだった。けれど、その喜びの中で、私の胸の内にはどうしても確かめておきたいことが一つ残っていた。
自分のバッグを肩にかけ、駐車しているバスに乗り込もうとしたとき、視界に藤村先輩の姿が見えたので、駆け寄っていき藤村先輩の背中に声をかけた。
「あの……藤村先輩」
「ん?あ、塚本ちゃんか。どしたの?」
「あの……立華は、どうでしたか?」
私の問いかけに、隣を歩いていた珠里ちゃんがチラッと私の顔を見てから、すぐに藤村先輩のほうを見た。すると、藤村先輩はふっと眉を八の字にして小さく息を吐いた。
「ああ、立華もゴールド金賞やった。で、ちゃんと代表に選ばれてたで。……ホンマ、あそこは強いわ」
やっぱり、と思った。立華は、母が座奏コーチとして関わっている学校。あの母が熱意を注ぎ、指導してきた立華が、関西への切符を逃すはずがない。母の教え子たちが結果を出したことに対する、誇らしさと安堵。またそれと同時に、次の関西大会ではその立華と競い合わなければならないという、ひやりとした緊張感が胸をかすめる。
藤村先輩は、少し遠くを見るような目で言葉を続けた。
「貼り出し会場で結果見てるときな、他校の顧問っぽい人が話してるのが聞こえてきてん。『今年の立華の自由曲、めちゃくちゃ仕上がってる』って。かなり評判良かったみたいやで……。まあ、うちらかて負けてへんけど、ライバルの出来が良いって聞くと、少々複雑な気持ちになるわ」
「そうですか……」
北宇治の代表曲と思っている、”リズと青い鳥”。それを、今の立華が完成度高く奏でている。母がどのような考えで彼女たちに助言を与え、音を作ってきたかはわからないけど、母の背中を追いかけているような誇らしさと、北宇治のユーフォ奏者として絶対に負けたくないという複雑な感情が、胸の中でせめぎ合う。
ふと横を見ると、珠里ちゃんは胸にそっと手を当てたまま、小さく息を吐き出していた。
「珠里ちゃんも、立華のこと気になってた?」
私が尋ねると、彼女はびくっと肩を揺らし、慌てて首を横に振った。
「あ、はい! いえ、その……やっぱり、立華は強豪ですし、リズを演奏した、と言うので気になってたというか……」
しどろもどろと返事をする珠里ちゃん。どこか言いにくそうに頬をかすかに赤らめる様子に、私は首を傾げつつも、深くは追及しなかった。彼女の中にだけある、誰にも言えない特別な想いやこだわりがあるのだろう。
「さ、みんな! バス乗るでー!」
山岡部長の晴れやかな声が、駐車場に響き渡った。
「「はい!」」
私たちは顔を見合わせ、バスのステップを上った。
車内に入ると、すでに席についていた未来が、窓際の席から私に向かって手を振っていた。
「瑠美子」
「うん」
未来の隣に腰を下ろすと、ふわりとクーラーの冷気が汗ばんだ肌を撫でていく。全員が乗り込み、ドアが閉まると、大型バスは静かにエンジン音を響かせて発車した。
窓の外を流れていく景色。夕暮れ時の淡いオレンジ色に染まり始めた京都コンサートホールの美しい外観が、ゆっくりと後方へと遠ざかっていく。
「……終わったな、京都大会」
未来がポツリとつぶやいた。その声には、まだ夢の中にいるような心地よさと、確かな達成感が滲んでいた。
「うん。でも、ここからが本番だね」
「当たり前やん。北宇治のトランペットとして、関西でも一番目立ってみせるからな」
冗談めかして笑う未来の瞳には、すでに次なる高み――関西大会の舞台を見据えた強い光が宿っていた。
母が手塩にかけて育てている立華高校をはじめ、関門の先には強豪たちがひしめいている。私たちが仲間と共に掴み取ったこの音を胸に踏み出す関西の舞台には、きっと今日以上の激しい風が吹いているはずだ。
私は未来の横顔越しに、遠ざかるホールの影を見つめていた。
熱く、愛おしく、そしてどこまでも厳しい私たちの夏は、まだまだ続いていく。