第四十五話 はじけるスプラッシュ − 夏はプールだ! −
第四十五話 はじけるスプラッシュ − 夏はプールだ! −
立秋を過ぎたとはいえ、京都の夏は、まるで沸騰した湯気の中に校舎ごと閉じ込められたかのような、容赦のない熱気に包まれていた。
遮るもののない青空から夏の太陽が照りつけ、北宇治高校のグラウンドからは揺らめく陽炎が立ち上っている。
京都府大会を突破し、今月三十日に行われる関西大会という大きな壁に向かって、北宇治高校吹奏楽部の練習は連日熱を帯びている。この日も厳しい合奏練習が昼過ぎまで続き、丸山先生の指示に応えようと全員が汗だくになって音を重ねていた。
合奏練習後は、お盆休み前日ということで使用している教室等の大掃除となった。音楽室から始まり、楽器室、廊下、それぞれのパート練習室を清掃する。制服では汚れてしまうので、ジャージにTシャツ、もしくは学校指定の体操服に着替える者がほとんどだ。
教室の一方に机や椅子を集め、空いたところからモップを使って乾拭きをする。これを何回か繰り返して、それぞれの場所を清潔に保つ。「こんな暑い日にしなくても」と思わなくはないけど、毎年の行事の一つなので、粛々と手を動かして早く終わらせてしまおう。
部員みんなが粛々と自身の担当作業を進め、ようやく終了の空気が漂い始める。低音パートの練習部屋、三年三組の教室にも、なんとなく清潔感を感じ、そのためか心地よい疲労感が感じられる。
半袖、ハーフパンツという体操服姿の私は、ふう、と額の汗を拭いながら、教室の後ろのスペースにパイプ椅子に腰掛けて一息ついていると、他の場所の掃除を終えた仲間たちが、吸い寄せられるように自然と三年三組の教室へやってきて、私の周りに集まってくる。みんな、体操服や部活Tシャツ姿のままだ。
と、その時、勢いの良い声が、廊下から三年三組の中へ入ってくる。
「よーーしっ! 大掃除もこれにて全行程終了〜! 明日から待望のお盆休みやで〜っ!」
廊下から風のように飛び込んできたのは、未来だった。体操服の袖を大きくまくりあげ、頭は何故かタオルを姉さんかぶりをし、手には雑巾とバケツを持ったまま、掃除の完了を全身でアピールしている。
未来はバケツを入口の隅にトンと置き、私のそばにあった別のパイプ椅子を広げトスんと座ったかと思うと、両腕を天井に向けてぐーっと高く突き上げ伸びをした。
学校指定の体操服とハーフパンツ姿であっても、西日に照らされた彼女のシルエットは、同世代の女子から見ても溜息が出るほどスタイル抜群だった。私はその眩しいプロポーションを見上げて、心の中で「ほんと、体操服着ててもスタイル良すぎ……」と小さく羨望の息を吐いた。
「未来、声が大きいよ。バケツもちゃんと流しに戻してきな」
美波が困ったような笑みを浮かべて、未来をたしなめる。
「あとで戻すって〜! それより明日十三日から十六日までの四日間は、部活動一切なしの完全オフやで? この猛暑の中で連日吹いて、最後に大掃除まで頑張ったんやから、羽伸ばさな絶対に損やって!」
「まあ、確かにね。関西大会前の唯一の息抜きだし、羽目を外しすぎない程度には楽しみたいかも」
私が応じると、みんなが一斉に顔を突き合わせる。
「で、例の件だけど……」
千紗が声を潜めると、凛々がニヤッと白い八重歯を覗かせた。
「プールは明後日十四日決定でええな? 太陽公園のファミリープール」
「うん、さっき天気予報チェックしたけど、十四日はバッチリ快晴やって」
陽菜がスマホの画面をみんなに見せながら、静かに頷く。
「よし! じゃあ十四日の朝九時に、京阪の宇治駅に集合して、そこからバスで太陽が丘へ向かうってことで……」
「あの……瑠美子先輩?」
作戦会議がまとまりかけたその時、不意に少し離れたところから控えめな声が響いた。
私たちがビクッと肩を跳ねさせて声が聞こえた方へ振り返ると、体操服姿の太田珠里ちゃんと、オーボエの佐藤莉子ちゃんが、ややモジモジするような風に並んで立っていた。
「ああ、珠里ちゃんに莉子ちゃんか。ど、どうしたの?」
「あ、あの……声が聞こえたんですけど、先輩方、十四日にプールに行かれるんですか……?」
珠里ちゃんが瞳をキラキラと輝かせながら、見つめてくる。
「いいですね〜! プールですか! 夏って感じがします!」
莉子ちゃんも、体操服の胸元をパタパタとあおぎながら、嬉しそうに小さく拍手を打つ。
「あ、うん。二年生のこの六人で、太陽公園のプールに行こうか〜って話してて……」
私が答えると、珠里ちゃんは少しだけ下を向いた後、上目遣いで私を見つめてきた。
「あの……私たち一年生も、もしご迷惑じゃなかったら……一緒に行っても……いいでしょうか?」
「えっ!?」
私の驚いた声に、珠里ちゃんは自分が失言をしてしまったと勘違いしたらしく、慌てて両手をブンブンと振った。
「あ、すみません! 先輩たちだけで羽を伸ばしたいですよね! で、でしゃばったこと言ってすみませんっ! 今のなしでお願いしますっ!」
真っ赤になってペコペコと頭を下げる珠里ちゃんに、凛々がぽんぽんと肩を叩いて笑い飛ばした。
「何言っとんの珠里ちゃん。大歓迎に決まってるやんか。人数は多い方が絶対に楽しいに決まってるやろ」
「ほんまほんま! 珠里ちゃんたちも来なよー!」
未来も乗り気で身を乗り出し、サムアップしてみせる。
珠里ちゃんはパッと表情を明るくさせると、隣の莉子ちゃんと顔を見合わせて嬉しそうに微笑み合った。
「ありがとうございます……! あの、じゃあ……仲のいい一年生の子、あと何人か誘っても構いませんか?」
「ええよええよ! なんぼでも連れてき!」
未来の太鼓判に、珠里ちゃんは「ありがとうございます!」と両手を合わせて喜んでいた。
こうして、掃除終わりの三年三組の教室内でトントン拍子に話が進み、あとパーカスの一年生である後藤梨央さんと長野詩織さん、トランペットの斉藤結菜さん、バストロの安藤蓮さんの四人も加わることになり、これで二年生が六人、一年生が六人、総勢十二人という大所帯での「太陽公園のプールツアー」が、電撃的に決定したのだった。
着替えを終えて、校門を出た私たちはそれぞれの帰宅ルートへと散っていった。なんでも、千紗、陽菜、凛々、美波は寄るところがあると言って先に帰ってしまったので、久しぶりに未来と並んで坂道を下りていく。
西日に赤く染まる京阪電車の六地蔵駅前。アスファルトからは昼間に蓄えられた熱気がじんわりと立ち上り、首筋には生ぬるい夏の風がまとわりついてくる。
駅前の大きな交差点の赤信号の下で、私と未来は二人並んで信号待ちをしていたときだった。
「そうや、瑠美子〜」
信号が赤から青に変わる直前、隣に立っていた未来がひょいと私の腕に自分の腕を絡めてきた。
「ん? どうしたの?」
「明日、十三日の休み初日、買い物付き合ってくれへん?」
「買い物? 何買うの?」
「水着! 今持ってるやつ、プールの話が出た時に着てみたら、サイズが小さくなっててん。新しいの探したいんやけど、瑠美子に見立ててほしくて。朝九時半にJR宇治駅で待ち合わせて、一緒に京都行こうや」
買い物かぁ。明日は特に予定は入れてなかったから、ちょうどいいかも。
「うん、いいよ。JRの宇治駅集合ね」
「ほんま!? サンキュ! じゃあ明日、九時半に改札前な」
未来は満足そうに笑うと、信号が青に変わるのを確認して、前を向いて意気揚々と歩き出した。
私も遅れまいと慌てて後をついていこうとしたとき、自分の胸元へとそっと視線を落とした。
「水着かぁ……私も試着しておかないと」
小さく呟きながら、私は明日訪れるであろうショッピングと、明後日のプールに思いを馳せ、少しの胸騒ぎと楽しみを覚えずにはいられなかった。
八月十三日、お盆休みの初日。
朝九時半のJR宇治駅は、いつもより少し賑やかで、夏の旅行鞄やリュックを背負った人々が行き交っていた。駅前のロータリーには強い日差しが降り注ぎ、駅舎の屋根の向こうには雲ひとつない青空が広がっている。
「瑠美子〜! お待たせ!」
改札前で待っていた私の元へ、人混みを縫うようにして走ってきたのは未来だった。白いリブ編みのノースリーブトップスに、深い藍色のハイウエストデニム、足元は白のミニマムスニーカー。薄いグレーのカーディガンを軽く羽織り、細めの黒いバッグを肩にかけている。
長い脚とすらっと伸びた背筋は、私服姿になると輪をかけて目立ち、構内を行き交う何人かが振り返るほどだった。
それに引き換え、私はラベンダー色の半袖ブラウスに、白プリーツスカート、白スニーカーそしてベージュのショルダー。髪もバレッタでまとめてるだけだし……地味過ぎたかなぁ。
「おはよう。私も今着いたところ」
「おはよう! ……ん?なんか、いつもの瑠美子と雰囲気違うやん」
未来は腕組みをして、私を上から下まで、じーっと舐めるように見ている。
「そ、そんなに違う?」
「なんか、……やんごとなき人のような衣服をお召し遊ばしていらっしゃるのでは、ございませんこと?」
「なに、理由のわかんないこと言ってんの。ほら、行こう。もうすぐ快速が来るよ」
「そやそや。それ逃したら、京都到着が十時超えてしまうんや。急ごう」
互いのファッションチェックもそこそこに、二人で自動改札にスマホをタッチしてホームへ下り、タイミングよく入線してきた上り快速列車へと乗り込んだ。
車内は帰省客や観光客で適度に混み合っていたが、運良く二人分の空席を見つけて並んで腰掛けることができた。カタンカタンと一定のリズムで揺れる車窓の外には、夏の強い光に照らされた宇治の街並みと青々とした茶畑が広がり、遠くの山々が眩しく照り映えている。
「あ〜、中は涼しい……。駅に歩くだけで汗だくになりそうやったわ」
「本当だね。今日も朝からすごい暑さだし……明日プールに行くのは大正解かも」
「せやろ?」
未来が我が意を得たりと言わんばかりに、ニッと笑う。
なんだか、先日プールの話が出た頃から未来はテンションが高いままだ。小さい子みたいに、いつも以上にはしゃいでいる気がする……よっぽど行きたかったのかなぁ。
とまぁ、そんな他愛もないおしゃべりをしているうちに、電車は十八分ほどで終点のJR京都駅へと滑り込んだ。
JR京都駅八番ホームから階段を上がり、巨大なガラスドーム状の大空間が広がるJR京都駅の改札を出ると、そこは予想通り結構な混雑ぶりだった。頭上の電光掲示板には殆どの列車に”満席”の赤い文字が並び、大きなスーツケースを引きずる家族連れや外国人の観光客グループが、寄せては返す波のように行き交っている。
「うわ〜……やっぱり京都駅はすごい人だね」
「そうやな。本当はポルタとかイオンとかも回ろうかと思ってたけど、この猛暑の中で外歩くのは無理やわ。さっさと伊勢丹の中に避難しようか」
「うん、賛成……! 伊勢丹なら未来にぴったりなのが見つかりそうだね」
未来に促されるようにして、私たちは京都駅ビルに直結している”ジェイアール京都伊勢丹”の自動ドアへと滑り込んだ。
ガラス扉をくぐり抜けた瞬間、全身を包み込んだのはひんやりとした強力な冷房の空気と、デパート特有の上品な香水や高級な化粧品の香りだった。思わず「涼しい〜……」と二人で同時に吐息を漏らし、顔を見合わせてクスッと笑ってしまう。
エスカレーターに乗り、賑やかな婦人服売り場をスルーして、目的の五階特設催事場へと向かう。
“夏の特別水着フェア”と書かれた華やかなポスターが掲出された売り場に足を踏み入れると、そこには色鮮やかな夏の世界が広がっていた。
百貨店の催事場とあって高級ブランドも並んでいるけれど、一角にはカジュアルブランドや、手頃な価格帯を集めたコーナーも併設されていて、私たちと同世代の女の子たちで賑わっていた。
季節的には夏も後半とはいえ、この催事場にはまだまだ沢山の商品が陳列されている。色とりどりのビキニ、シアーな素材のラッシュガード、パフスリーブ水着、シックなワンピ風水着……。ずらりと並べられたラックの間を、若い女性客や仲の良さそうなカップルが行き交い、独特の華やいだ活気に溢れている。
「うわぁ…… めっちゃ種類あるやん! どれ見たらええか迷うなぁ」
未来はパッと目を輝かせると、吸い寄せられるように水着のラックへと歩み寄った。ハンガーにかかった色鮮やかな水着を、まるで宝探しでもするかのように手際よく繰っていく。
「未来は背が高いしスタイル抜群だから、大人っぽいハイレグ系とか、胸元が大胆に開いたビキニも似合いそうだけどね」
私が横から声をかけると、未来はハンガーを止めて「う〜ん」と眉をひそめた。
「いや〜、プール行ったらしっかり泳ぎたいし、スライダーもやりたいやん? あんまりフリフリしたやつとか、胸元がパカパカして脱げそうなやつは困るねん……あ、これどう思う?」
未来がラックから引き抜いたのは、スタイリッシュなネイビーとアースカラーの切り替えが映える、スポーティーなセパレートタイプの水着だった。首元までしっかりカバーするハイネック風のトップスだが、ウエストラインがキュッと引き締まって見えるデザインで、背中側は大胆にクロスストラップになっている。
「うん、いいね! スポーティーだけど洗練されてて、未来の雰囲気にぴったりだよ」
「ほんま? よっしゃ、瑠美子の目利きを信じて、とりあえずこれ試着してみるわ」
未来は嬉しそうに頷くと、店員さんから試着室の番号札を受け取り、フィッティングルームの白いカーテンの中へと消えていった。
私は姿見の前のパイプ椅子に腰掛け、未来が出てくるのを待つことにした。売り場に流れるトロピカルなBGMを聞きながらぼんやりと待っていると、数分後、「瑠美子〜、できたでー」という声とともにカーテンがシャラッと開いた。
そこに立っていた未来の姿を目にした瞬間、私は思わず「……おおっ!」と声を詰まらせてしまった。
鏡の前に立っていたのは、どこかのスポーツブランドのグラビアモデルそのもの。
すっと長く伸びた手足。腹式呼吸と日頃の姿勢の良さによって引き締まった、贅肉一切なしのお腹。ハイネックデザインによって際立つ首筋の美しさと、背中の健康的な肩甲骨のライン。
「完璧! これ以外考えられないくらい似合ってる」
「ほんま!? へへへ、瑠美子にそう言ってもらえると安心するわ。よし、うちはこれにする! ……で、次は瑠美子の番な」
「えっ? 私は……去年のがあるから買うつもりないよ?」
首を振る私に対し、未来はニヤニヤと意地悪で楽しそうな笑みを浮かべた。
試着室で自分の服に戻した未来は、再びカジュアルコーナーのハンガーから一着の水着を手にして、私の胸元に「はいっ」と力ずくで押し付けてきた。
「何言っとんの! 去年から体はちょっと変わった、って言うてたやんか。それにこれ、セールになっててめっちゃお買い得やで! 絶対に新しくした方がええって。ほら、つべこべ言わずにこれ着てみ。これ、瑠美子に絶対似合うと思って、目をつけといてん!」
強引に背中を押され、私は手に水着を抱えたまま、隣の試着室の中へと押し込まれてしまった。
シャラッと白いカーテンが引かれ、姿見のついた試着室に静寂が訪れる。手の中に残された水着を見つめながら、私は溜息をついた。
渡されたのは、深みのあるネイビー地に控えめなボタニカル柄があしらわれた、ビスチェ風のデザインセパレート水着だった。胸元はしっかりとホールド感のあるビスチェタイプで、お腹まわりをカバーしてくれるハイウエストのボトムがついている。
「……着るだけ、着てみるか」
独りごちながら私服のブラウスとスカートを脱ぎ、姿見を背にして手渡された水着へと着替えていく。ヒヤッと冷たい水着の生地が肌に触れる感触に身をすくませながら、なんとか着替えを終える。
おそるおそる壁一面の姿見の前に立ち、そこに映った自分の全身を見た瞬間——私は思わず両手で顔を覆ってしまった。
「な、なにこれ……!?」
お腹まわりを隠してくれるハイウエストのボトムのおかげで、ウエストがキュッと絞られたのはいいけれど、そのぶん胸元やお尻のラインが想像以上に強調されてしまっている。
ビスチェ風のデザインだから露出自体は少ないはずなのに、鏡の中にいるのはいつもの私ではなく、なんだか”大人っぽくなりすぎてしまった”自分だった。
色合いは落ち着いたネイビーだし、柄も上品なはずなのに、全身を見るとどうしても胸の存在感が目立ってしまう。そりゃあ、去年よりかは胸のサイズは少し変わったけど、水着を着るとこんなにハッキリ出てしまうんだ……。
「無理無理無理! やっぱりこれ、恥ずかしすぎるって……!」
顔が耳まで熱くなるのを感じながら、私は試着室のカーテンをほんの少しだけ開け、外で待っている未来へと声をかけた。
「ねぇ……未来。やっぱりこれ、ちょっと大人っぽすぎるというか……私には似合わない気が……」
「いやいや、ええから見せてみ」
「ええっ?」
未来がカーテンをザーッと開け、私を正面から見た瞬間——ピタリと動きを止め、目を見開いたままフリーズした。
「……」
「……未来? な、なに? なにか言ってよ……やっぱり変でしょ?」
数秒の沈黙の後、未来はフッと息を吐くと、感心したように腕を組んだ。
「……いや、全然変ちゃう。めちゃくちゃ似合ってるわ」
「えっ?」
「お世辞抜きで。ウエストのラインも綺麗に出てるし、上品でめっちゃ大人っぽい。瑠美子、これ大アタリやで」
ニッと不敵に笑う未来のまっすぐな目を見ていると、耳まで熱かった顔のほてりは引かないものの、胸の奥の不安がすーっと消えていくのが分かった。
「……本当に変じゃない?」
「変なわけあるかい。うちが自信持って保証したる。絶対これにしとき」
未来の堂々とした後押しに背中を押される形で、私は結局、そのネイビーのビスチェ水着を購入することを決めたのだった。
値札を見ると、予想外の出費……ま、いっか。お母さんに事情説明して、援助してもらおう……。
八月十四日、今日も雲ひとつない快晴。早朝から真夏の太陽がギラギラと照りつけ、街全体がまるで巨大な温室の中にすっぽりと閉じ込められたような熱気に包まれていた。
着替えやタオルの詰まったお気に入りのキャンバス地トートを肩にかけ、自宅マンションを出て宇治橋通り商店街を抜け、JR宇治駅前のロータリーへと向かう。”太陽公園行き”と案内板があるバス乗り場には、大きなビーチバッグやクーラーボックスを抱えた家族連れや中高生らしきグループが列を作っていた。
「先輩ぃー! こっちですぅー!」
バス乗り場から少し離れた日陰から手を振ってくれたのは、JR宇治駅組の一年生、長野詩織さんと安藤蓮さんの二人だ。三人で一緒に列に並んで少し待っていると、午前九時前に京阪宇治駅からやってきた、太陽公園行きの路線バスがロータリーに滑り込んで来た。
ブシューと開いた扉から乗り込むと、車内はすでに人でいっぱい。後方の席から未来や美波たち二年生組五人と一年生三人の合わせて八人が、小さく手招きをしている。
「こっちこっち。結局、立つことになってしもてごめんな」
美波の声に導かれるようにバス後方へと進む。JR宇治駅からの乗客が乗り込んだことで車内の座席は一瞬で埋まり、通路も立ち客で埋まり始めた。
「立ったまま太陽公園までは、結構堪えるね」
「ほんまにな。でも、あと一人乗ってきたらもっと大変なことになるで」
未来がニッと笑いながらスマホの画面を見せてきた。グループLINEには『市役所前のバス停、日陰がない!溶ける! バスまだー!?』という切実なメッセージが入っている。
「ああ〜、大変そうだな、珠里ちゃん」
予定より数分遅れで宇治市役所前のバス停に到着。プシューと扉が開くと、たたんだ日傘を手にした珠里ちゃんがステップを一段上がったところで、車内の人の多さに目を丸くし、どこへ進めばいいのか戸惑っている。
「うわぁ……どこ詰めたらええの……?」
「珠里ちゃーん、こっち! 手すり掴まって!」
乗客の隙間からなんとか手を伸ばして肩を叩き、私のいる場所まで引き引き寄せる。スミマセン、スミマセン、と人混みをかき分けてやってきた珠里ちゃんは、「暑かったです〜」と汗ばんだ額を拭いながら私の横の手すりにしがみついた。
これで、二年生六人、一年生六人。無事に全員が合流し、総勢十二人の大所帯となった私たちは、満員のバスに揺られながら、目的地である太陽公園へと向かって行った。
「それじゃあ、基地を確保して荷物も置けたし、恥ずかしがり屋の瑠美子を囲んでの移動も無事完了したので、いざ泳ぎに行きましょー!」
「「おー!」」
未来の爽やかでいけずな一言を合図に、私たちは日よけシェードの立ち並ぶ芝生エリアから、太陽の光で水面がキラキラと眩しく輝くプールへと向かう。留守番は、まず美波と梨央ちゃんのパーカス組にお願いした。
私は昨日買ったばかりのネイビーのビスチェ水着を着て、胸元を隠すようにピンクのペンギン柄の浮き輪をぎゅっと抱きしめて立ち尽くしていた。
「瑠美子先輩……! すごくスタイルが綺麗で、大人っぽくて素敵です!」
「いやいやいや、そ、そんなことないよ珠里ちゃん〜! 私、泳げないから浮き輪がないとダメだしさ……っていうか、それを言うなら珠里ちゃんこそ!」
照れ隠しにそう言い返すと、控えめなアイボリーのセパレート水着に身を包んだ珠里ちゃんは、「えへへ……本当ですか?」と恥ずかしそうに頬を緩めた。
華奢な体に、守ってあげたくなるような可憐な佇まい。思わず同性の私までキュンとしてしまう可愛らしさだ。
広大な公園内にある数あるプールのうち、私たちが最初に向かったのは巨大な岩壁から冷たい水が流れ落ちる”渓流プール”。
足首から膝ほどの浅瀬が続く段々畑のようなエリアで、川遊びのような涼しさに歓声が上がる。
「きゃあ〜っ、水が冷たくて気持ちいい!」
明るいビタミンカラーのセパレート水着からすっと伸びた手足を弾ませる莉子ちゃんと、パステルカラーのフリル水着に水しぶきをキラキラと輝かせる詩織ちゃん。
二人揃って弾けるような笑顔でパシャパシャと水を掛け合い、楽しそうな声をあげている。その眩しい雰囲気に、同じ女子の私から見ても思わず目を奪われてしまった。
続いて、目の前にパッと視界が開けるような、圧倒的な広さの”遊泳・トレーニングプール”へ移動。豪快に水が流れ落ちる立派な石壁や噴水がアクセントとなり、どこまでも広がっていくかのような開放感に満ちている。水深もしっかりと確保されたその広大な水面では、端から端まで力強く泳ぎ込む本格的なトレーニングから、浮き輪に乗ってのんびり漂う水遊びまで、誰もがそれぞれのペースで心地よい夏の時間を満喫できるようになっていた。
私がペンギン柄の浮き輪にすっぽりハマってプカプカ浮かんでいると、水泳経験者の陽菜が、すいーっと美しいフォームの平泳ぎで優雅に追い抜いていく。ミントグリーンのシンプルな競泳風ワンピースを着こなした陽菜は、すらりと伸びた無駄のない脚のラインが美しく、まるで本物のアスリートのようだ。
その後を、未来と結菜ちゃんと留守番を交代した美波と梨央ちゃんのパーカッション師弟コンビが、パワフルなクロールで追いかけていった。
鮮やかなセパレート水着を着た美波の引き締まったヘルシーなスタイルと、ネイビーの長袖ラッシュガードにショートパンツという落ち着いた装いながら、吹部では未来と並ぶ高身長で長い手足をダイナミックにしならせる梨央ちゃん。豪快に水しぶきをあげる迫力満点のふたりに、思わず目が釘付けになってしまう。
「凛々先輩……浮いてるんですか……?」
蓮ちゃんが少し感心したような声を上げた。見ると、凛々が水面に完全に仰向けになり、ラッコのようにぷかぷかと無抵抗で流されている。
「あたしね~、水に浮くのだけは得意なの〜」
ふんわり微笑む凛々ちゃんに、一年生たちがどっと笑った。
正午前、定期的に人工の波が発生する”造波プール”へ行ってみる。
“ウーッ! ウーッ!”とサイレンの重低音がプール全体に響き渡ると、深場の方からザザーンと波のうねりが押し寄せてきた。
「ひゃああああっ!」
押し寄せる力強い波に、私と珠里ちゃんは浮き輪ごと大きく持ち上げられる。
「瑠美子先輩! 離れないでくださいね!」
「珠里ちゃんもしっかり掴まってて!」
波の頂点で一瞬、身体がフワリと浮く感触がとても楽しい!すぐ横でも、結菜ちゃんと未来が波のタイミングに合わせ体を波に任せているし、千紗は「波が強すぎるー!」と叫んで莉子ちゃんの背中にしがみついている。
「よーし、水かけ合戦スタートやでー!」
美波の一声で、水かけ合戦が勃発。激しい水しぶきが上がり、誰が誰に水をかけているのか分からない状態になりながら、青空の下で弾けるような笑い声がどこまでも響き渡った。
次はウォータースライダーエリア。高いタワーの上から一気に滑り降りる大人気のアトラクションだ。距離が長い方と短い方があって、私たちは当然長い方に挑戦。
「ペアじゃなくて、一人ずつ順番に滑り降りるんだよね」
未来の提案で、まずは滑る順番をストローを使った即席のクジ引きで決めることになった。荷物番の二人を除く十人が、それぞれ専用マットを抱えて階段へと向かう。
トップバッターの未来と結菜ちゃんのトランペットコンビが順番に勢いよく滑り出し、チューブの先から大きな水しぶきと歓声が上がる。続く陽菜や莉子ちゃん、美波と梨央ちゃんのパーカッション大型ペア……と、みんな次々にきゃあきゃあ言いながら滑り降りていく。千紗と詩織ちゃんも続けて滑り出し、カーブのたびに可愛いハイトーンの悲鳴を響かせていた。
そして最後は、私と珠里ちゃんのユーフォペアの番だ。
「先輩……わたし、なんだか順番が来たらすごく緊張してきました……」
マットを抱えて順番待ちの列に並び、前で少し肩をすくませる珠里ちゃんに、私は必死に強がった。
「だ、だ、大丈夫だよ珠里ちゃん! す、すぐに終わるからさ!」
そうやって励ましているつもりの自分の方が、たかだか数メートルの高所からの景色に心臓バクバクだったりする。
「はい、お次の方どうぞー!」
係員さんに声をかけられ、まずは珠里ちゃんがマットに乗り込む。
「いってきまーす!」
シュッと勢いよく滑り出した珠里ちゃんの悲鳴が、すぐにコースの向こうへと消えていく。そして、すぐに私の番がやってきた。
「はーい、行きまーす!」
「ひゃあああああああっ!?」
一人用のマットに乗り、一歩踏み出した瞬間、思っていた以上の傾斜とスピードに視界がぐるりと回転する。曲がりくねったコースの中、マットの縁をぎゅっと握りしめた。
「うわわわっ、結構速いーっ!」
急カーブを曲がった先で、少し前に滑ったはずの珠里ちゃんが「きゃーっ!」と叫びながら水飛沫を上げてゴールしていくのが見えた。そして私も、バシャァァァッ!っと水しぶきとともに着水プールへ飛び込んだ。
「ぷはっ! げほっ……!」
顔を上げると、すぐ近くの浅瀬で濡れた髪をかき上げている珠里ちゃんと目が合う。
「ふふっ……あはははは!」
先に滑っていった珠里ちゃんが声を上げて笑い出し、私も鼻の奥のツンとした痛みを忘れ、つられて笑ってしまった。
「あはは! 一人だと余計に怖かったけど、すっごく楽しかったね!」
「はいっ! めっちゃスリルありました!」
スライダーで思いっきり叫んだあとは、お待ちかねのランチタイム。売店で購入した山盛りのフライドポテトと香ばしい焼きそば、そしてカラフルなカキ氷がレジャーシートの上に並んだ。
「いただきまーす!」
太陽の下で思いっきり体を動かしたあとのランチは格別だった。イチゴ、ブルーハワイ、メロン……色とりどりのカキ氷を口にするたび、冷たい甘さが火照った体に染みわたっていく。
そして、パーカスの梨央ちゃんと詩織ちゃんを除く一年生たちが、初めて目の当たりにして絶句していたのは、美波の圧倒的な食欲だった。もう私達は見慣れた光景だが、彼女の周りに配された、焼きそばとかカレーライスとかおにぎり等々、数人分のメニューが細身の美波の体内に消えていく。でも、私も今日初めて知ったのは、やっぱりぽっこりお腹にはなっていくんだ、ということだった。
「はぁ、美波先輩、相変わらずすごすぎます」
私の隣にいる梨央ちゃんがぼそっと呟いた。
「梨央ちゃんは普通だよね」
「うち、そこまで食べれないんですよ。この体は親譲りなんです」
そういうと、少しだけ背中を丸める。
「ご両親も大きい人なの?」
「父がでっかいですね。兄が東京にいるんですけど、似たようなもんです」
「そうそう、瑠美子。梨央ちゃんのご両親って、時々楽器のメンテに来てくれてる、あの人達なんよ」
パクついたおにぎりを手で持ちながら、美波が話に入ってきた。すると、梨央ちゃんは頭を掻きながら「そうなんです」と恥ずかしそうに頷く。
「メンテに来てくれるのは、後藤さん……ああ!そうなんだ。……あれ?じゃあ梨央ちゃんは、チューバの藤堂くんと……」
「そうです、あれは従兄です」と、今度はバツが悪そうに返事する。
「え……とすると、パーカスを始めたのって、藤堂くんと同じパートを避けたかったからなのかな?」
「あはは……それも理由の一つですが、小さい頃から、太鼓を目一杯叩きたかったっていうのがほんとです」
「なるほどね」
「だーいじょうぶっ!梨央も詩織も、わたしが教えてるんやからね、安心してついてきて!」
次は焼きそばを頬張りながら、美波が返事すると、「お願いしまーす!」と莉子ちゃんの隣にいた詩織ちゃんが返事した。話を聞いていたんだね。
「それにしても、先輩たち、今日ほんまに楽しすぎます!」
ブルーハワイで舌を真っ青にした結菜ちゃんが感激したように声をあげる。
「部活の時はすっごい頼もしくてカッコいいですけど、こうやって遊ぶと優しくて……吹部に入って本当に良かったです!」
真っ直ぐな言葉に、私だけでない、未来や美波、千紗も陽菜も凛々も、みんな胸が温かくなったに違いない。
「何言っとんの、うちらこそ楽しませてもらってるで。みんなが来てくれて良かったわ」
未来がフッと柔らかく微笑みながら、冷たいお茶をこくんと飲む。その佇まいには、いつもの頼もしい先輩としての雰囲気が戻っていた。
「来週は合宿ですけど、これで精一杯頑張れます」
莉子ちゃんがパッと明るい顔でそう続けると、結菜ちゃんや蓮ちゃんも口々に大きくうなずいた。
「うちもです!」
「もう充電満タンですよ!」
「よし、その意気だ!」
千紗が力強くサムズアップを見せる。
「それじゃ、みんなで合宿もがんばろー」
「「おーっ!」」
その後、あちこちのプールをもう一巡して目一杯楽しんだ後、私たちは更衣室で着替えを済ませ、太陽公園のゲートをあとにした。
宇治駅へと続くゆるやかな坂道を、心地よい疲れを楽しみながら十二人並んで歩く。西に傾き出した日に照らされ、私たちの影が歩道の上に伸び伸びと並んでいた。日差しはまだ強く暑いは暑いんだけど、風の質が変わったのか、やや乾いた風が辺りを通り過ぎていく。
「瑠美子先輩」
「んー?なーに?」
隣を歩く珠里ちゃんが、そっと私の服の袖を引っ張った。
「来年も……先輩たちと、またここに来たいです」
素直で愛おしい言葉に胸をいっぱいにさせながら、私は珠里ちゃんの肩をそっと抱き寄せた。
「うん、 絶対に来ようね。新しい一年生が増えても……またみんなで、ここに来よう!」
そろそろ夕空へと向かい始める青空に溶けていく蝉の声と、十二人の温かい笑い声があたりに響いていた。
関西大会という厳しい試練を前に、大好きな仲間たちと過ごした夏の一日は、まだ眩しい午後の陽射しの中に深く愛おしく刻み込まれていった。