第四十六話 ぼうきゃくバースデー − せわしない日々の中で −
第四十六話 ぼうきゃくバースデー − せわしない日々の中で −
東山の稜線がゆるやかに波打つ南端、伏見と山科の境界に、私が勤めている立華高校がある。
校舎の周囲に広がる住宅街は年々少しずつ密度を増し、夕暮れ時になると通学路を行き交う人々や生徒たちの気配がどこか賑やかに響いていた。
八月も終盤に差し掛かり、暦の上では秋が近づいて夏の終わりがうっすらと見え始めているというのに、残暑の厳しい湿った風が校舎の壁を撫でて吹き抜けていく。
今月三十日に行われる関西吹奏楽コンクールを控え、静音型の空調が低く唸る音楽室には張り詰めた緊張感が満ちており、金管の透明な響きと木管の息づかいが重なっていく。
「ん?はい、ストップ」
私がタクトを振る手をぐっと止めると、音がふっと静かに収まった。部員たちの視線が一斉に私へと集まる。夏の熱気が充満する室内に、みんなの真剣なまなざしが並んでいた。
「今の"N"のところ……バスクラとサード、均一なアルペジオになってないです。二つで一つの旋律ですので、互いの音を聞きながら、自分が吹かない音であっても吹いてるつもりで演りましょう」
音に対する妥協はしない。けれど、力で押さえつけるのではなく、一人ひとりの音が一番輝く場所を一緒に探していく――それが、私が目指してきた指導のあり方だった。
「とても些細なことかもしれないけど、一つの小さな綻びは、やがて大きな裂け目になっていきます。そうならないためにも、一つ一つ直していきましょう」
「はいっ!!」
「本番まで残された時間はわずかですが、みんなの音はもっと豊かに、もっと届くはずだから。……もう一回第三楽章からやってみよう」
「はい!!」
「いきます」
一旦下ろしていたタクトを再び構える。そして優しく振り始めると、一ノ瀬さんのハープの音に支えられながら、魅惑的な西条さんのオーボエの音がすうっと教室内に響き渡る。
また部員たちの音が目に見えて変わっていくのが分かった。音の粒が揃い、硬さが取れ、音の端々に温かな表情が宿る。そして、先ほど止めた第四楽章"N"の箇所も修正され、全体的にいいバランスになり、音が綺麗になった。そして、圧倒的な歓喜の余韻を残しながら、音が悠々と空中に溶けていく。
「――はい、そこまで」
曲の区切りでタクトを下ろすと、ピンと張り詰めていた空気がふっと緩んだ。息を吐き出す部員たちの安堵と手応えの表情が広がる。
「クラ、すごく良くなりました。ハーモニーの美しいアルペジオになった。今の感覚を覚えておいて、本番でも出せるようにしましょう」
「はい!」
「うん……えー、では時間も来ましたので、今日の合奏練習はここまでにしましょう。……関西大会まであと少しですので座奏メインでやってますが、マーチングの基礎練の方も欠かさないようにしてください。それとあと、体調管理もしっかりとね。暑さが続いているので、水分はしっかり摂るように。……では、以上です」
「「ありがとうございました!」」
部員たちの威勢の良い声が響き渡り、皆で一礼する。そして、それぞれが大型楽器の撤収や片付けに取りかかり始める。
私は指揮台を下りると、手元にあった『リズと青い鳥』のフルスコアを抱え、ホール奥のドアから階段を下りて三階の音楽準備室へと足を踏み入れようとした。その時、すぐ横の大型エレベーターの扉が静かに開き、チューバやコントラバスを載せた台車を押す部員たちが、会釈をしながら通り過ぎていく。
準備室に入ると、上階の音楽室とは異なる、どこか生活感と楽器のオイルや木管の匂いが混ざり合った落ち着く空気が漂っている。
壁際の棚には古い楽譜のファイルや予備のリード、チューナーや工具箱が所狭しと並び、作業机の脇には、先日CM撮影に協力したお礼として、スポンサー企業さんから箱で届いた大量の黄色いブロックタイプやゼリー型の栄養補助食品の段ボールが積み上がっている。その横には、練習に顔を出したOGが置いていったお菓子の缶や、部員たちが書いて提出していった練習日誌の束が積まれていた。
私が楽譜ラックにスコアを戻し、タクトを専用ケースへ収めていると、ケースのポケットに差したヘアピンにふと目が止まる。
イタリアンホワイトという名前の、白い小ぶりのひまわりを模したヘアピン。これはお父さんが……秀一が十年おきに更新してくるので、これは三代目。先代、先々代は金属の部分がくすんでしまっているけど、私のポーチに大切に保管していて、本番の指揮台に立つときは、お守りとして必ず上着のフラワーホールに差して行くようにしている。
ほんのしばらくそのヘアピンを眺めていると、静かな足音とともに引戸がシューッと開き、副顧問の一人である小鳥遊先生が入ってきた。小鳥遊先生は抱えていた出席簿とバインダーをトントンと軽い音を立てて、机の上に重ねている。
「お疲れ様です、塚本先生。今日もいい合奏でしたね」
小鳥遊先生は立華吹部のOGで、私がこの学校に来た当時三年生だった彼女は、教員としての丁寧な礼儀を保ちつつ、どこか親しみを込めて微笑んだ。
「うん、いい感じだった。あ、小鳥遊先生、生徒たちへの片付けの指示は……?」
「はい、各パーリーに伝えてあります。四階のホールと三階の教室の施錠を含め、私が最後に各階の窓と扉の点検をして鍵をかけますので、大丈夫です」
「ありがとう。じゃあ、見回りが終わるまでここで待ってますね」
私がトートバッグに筆記用具とタクトのケースを仕舞い込んでいる間に、小鳥遊先生は「少し見てきます」と部屋を出ていった。
静かになった準備室でスコアを整理しながら待つこと十数分。最後の下校生たちの賑やかな足音が廊下に響くと、しばらくして小鳥遊先生が戻ってきた。
「塚本先生、お待たせしました。全階の消灯と施錠、完了しました。生徒も全員下校しています」
「お疲れ様、ありがとう。それじゃあ、職員室へ戻りましょうか」
私は準備室の電気を消し、小鳥遊先生を共に重い扉を押して部屋をあとにした。
静まり返った校舎をエレベーターで一階へと下り、セキュリティの最終退出のボタンを押してから重厚なガラス戸を押して建物を出ると、京都の夏特有の湿った温かい風が肌を撫でた。
本館から独立したこの吹奏楽部専用の校舎から、JR奈良線のガードをくぐって本館の職員室へと向かう道。着任したばかりの頃は遠く感じられたこの道のりも、猛暑の夏や凍えそうな冬も経た今では、すっかり歩き慣れた日常の移動ルートになっていた。
頭上をカタンカタンと電車が通り過ぎていく音を聞きながらガードを抜けると、視界が一気に開ける。西の空は、沈みかけた夕日の残光である鈍いオレンジ色から、上方へ向かって深い紺紫へと移り変わる美しいグラデーションを描いている。
坂道を上りながら本館へ向かう途中、北側に広がるグラウンドや中庭に目をやると、黄昏時の光と夜間照明の混ざり合う中で、運動部が最後の掛け声を張り上げているのが聞こえた。すっかり夜の気配を増していく空を見上げるように歩きながら、コツコツと規則的に響く二人の足音の合間に、小鳥遊先生がふっと穏やかな声を漏らした。
「それにしても……今日の『リズ』、本当にゾクゾクしました。二人一緒に飛び立つという解釈、やっぱり私は塚本先生の作る音が一番好きです」
「ふふ、ありがとう。そう言ってもらえると、すごく安心するよ」
「お世辞ではありませんよ。……まあ、私が現役の時にこの解釈で吹きたかったな、という嫉妬は少ぉしありますけど」
「なにそれ。あの頃の合奏だって、みんなすごくいい音出せてたじゃない。私だって今でも覚えているよ」
クスクスと品よく微笑む彼女の横顔に、私は苦笑いを返した。普段は教員として非常に落ち着いており、生徒の前では頼れるお姉さんとして振る舞う彼女だが、こうして二人きりになると、絶妙な距離感で甘えと牽制を混ぜ込んでくる。丁寧な言葉遣いの裏に隠されたその独特の小悪魔さは、ずっと昔の、高校時代のあの後輩を嫌でも思い出させた。
「冗談です。ですが、あの頃から塚本先生の音楽に対するまっすぐな姿勢には、誰も敵いませんでしたから。今の生徒たちが少し羨ましいのは本気ですよ」
「はいはい、ありがとうね」
坂道を上りきって本館の勝手口から校舎内に入り、階段を二階へと上がる。大職員室の前に広がるオープンスペースでは、放課後に残って居残り勉強をしている生徒たちが数人、ノートを開いて机に向かっているのが見えた。その横をそっと通り過ぎ、大職員室の引き戸の前まで来ると、小鳥遊先生が「失礼します」と小さく声をかけて扉を滑らせた。
部屋に踏み入ると、エアコンの心地よい冷気とともに、大型プリンターが吐き出す用紙の匂い、キーボードを叩くタイピング音、そして遅くまで残って作業をしている他教科の先生方の話し声が出迎えてくれた。
私たちは通路を進み、大職員室の中央付近に位置する一角、通称「吹部島」と呼ばれる吹奏楽部顧問陣のデスクが集まるエリアへと向かった。
自席へ辿り着き、トートバッグをデスク横に置く。私の机の上には、スリープ状態のタブレットと横に積まれた来週からの授業用プリントと使い込まれた細字の赤ペンやスタイラスペン、そして部活の指導計画書が所狭しと並んでいた。
「お疲れ様です、佐々木先生」
校外から届く書類に囲まれ、ノートPCと大型モニターの二つの画面と格闘していた女性がパッと顔を上げた。肩の上で上品に切り揃えられた黒髪に、どこか凛とした佇まい。立華高校吹奏楽部の正顧問の、佐々木梓先生だ。
「お疲れ様、塚本先生、小鳥遊先生。今日の合奏、どうでしたか?」
梓は……いや、佐々木先生は椅子を少し回転させて私の方を見た。公の場である職員室では互いに立場に合わせた言葉遣いを選ぶが、その眼差しには長年培った確かな信頼が宿っている。
「お盆休み明けにあった不安点も解消され、全体的にかなり音が安定してきました。西条さんのオーボエと高木さんのフルート、それと一ノ瀬さんのハープ……あそこは今日の練習でかなりフレーズが噛み合ってきました。本番に向けて良いピークを作れそうです」
「うんうん、特に第三楽章はあの三人が中心だからね。頑張ってもらわないと……ご指導ありがとうございます」
佐々木先生は手元のノートにサッとメモを走らせると、隣の席で画面のデータチェックをしていた副顧問の長谷川先生が、キーボードから手を離してこちらに顔を向けた。
「佐々木先生、関西大会の遠征同意書と費用の承認、保護者全員分がオンラインで揃いましたよ。個別の問合せ対応も終わって、集計はバッチリです」
「ありがとうございます、長谷川先生。本当に助かります……遠征費の件、無事にご家庭のご理解をいただけてホッとしました」
テキパキと交わされる先生どうしのやり取り。向かいの席では、生徒指導担当もしている高橋先生が部員の夏休みの課題提出状況をタブレットでチェックしていたり、衣装担当の藤本先生はマーチング衣装の修繕リストをプリンターへ飛ばしている。総勢百名に迫る部員と大きな組織を、こうして私たち顧問団がチームプレーで動かしているのだ。
「よし。もう本番まで十日切ってるからね」
梓は手元のノートを閉じると、ふうっと小さく息を吐いて私を見た。
「さっき塚本先生が全体に言った基礎連のこと、念のためパーリーの連絡グループにもリマインド流しておいたで。吹コン前やけど、その次の週はマーコンやし、体を動かす感覚だけは落としたくないしね」
「ありがとうございます。立華の強みは、やっぱりあの機動性と躍動感ですから」
私が頷きながら応えると、梓は口元を柔らかく緩めた。
「座奏の精度をいくら上げても、立華らしい芯のある音のパワーが乗らないと意味がないですし」
「ふふ、そんな気負わんでええよ。……でもほんま、塚本先生が座奏の細部を徹底的に詰めてくれるからね。私は安心して全体のバランスと、次のマーチングへの引き継ぎに専念できる。今年の関西、今度こそええ結果掴んでほしいもんね」
正顧問と副顧問という役割の違いはあれど、目指す音楽の頂点は同じ。迷いのない梓の強い眼差しに、私も「はい!」と力強く頷いた。
「生徒たちも本当にいい表情で応えてくれています。本番まであと少しですが、このまま自信を持ってステージに立たせてあげたいですね」
「ほんまそれ。……あ、そうや」
一通り部活の報告を終えたころ、タブレットに視線を戻しかけた梓が、何かを思い出したように悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見た。
「ちょっと、塚本先生。あっちへ……」と梓が指さしたのは、部屋の端にある簡易応接だった。梓は机の下から自身の鞄を取り出すと、先に立ち上がって歩き出した。なんだろう、と思いつつ梓の後をついていく。
「久美子、今日は何の日やったっけ?」
席に着くや、口調が先生モードから昔なじみモードに変わる梓。
梓の正面に腰掛けた私は、梓の質問に心当たりがないので首を傾げる。
「え? 今日……? えーっと、何か書類の締め切りだった……?」
腕を組んで、本気で思い出そうとしてみるが……ちょっと思い出せない。
そんな私を見た梓は、プッと吹き出し笑いだした。
「ちがうわ。ほんま、自分のことになると途端に疎くなるんやから」
そう言いながら、私の眼の前にそっと、小さい手提げ袋をおいた。
「誕生日おめでと。今日やったやろ?」
「あ……!」
言われて初めて、思い出す八月二十一日。ここ最近、毎日の指導と吹コンでのスコアで頭が埋め尽くされていて、自分の生まれた日なんて少しも頭になかった。もう祝われる歳じゃない、という思いが心の奥底にあるのも、今日という日を忘れていた一因かもしれない。
「えっ、私……! ありがとう、すっかり忘れてた」
「やっぱり。そうかもしれんなーっては思っとったけどな」
「あはは……」
気が抜けた笑いで、その場をごまかそうとする私。バカだな。
「うちらには、いっつもちゃんとしてくれるくせに、自分のこと忘れるんやからなぁ」
梓は呆れ半分、愛おしさ半分の苦笑いを浮かべると、「開けてみて」と小袋を促した。
梓から差し出された小さな袋を手にし、隙間からちらっと中を覗くと、シンプルで洗練された小箱が入っていた。
「あ、ここのハンドクリーム……! ありがとう、梓」
「ふふ、どういたしまして。いっつも机の上にあるやつもええけど、それ、ベタつかへんしええ香りなんよ。コンクール前で手ぇも心もガチガチになってんやろなーと思ってね。 練習の合間にでも使って、ちょっとリフレッシュしてみてや」
嬉しい、純粋に。中一のとき出会ってからもう長い月日が流れた。副顧問として、毎日目の前のことに必死になっている私を、こうして変わらない温かい眼差しで見守ってくれている。
「ほんと、梓には叶わないな……すごく嬉しい。大切に使うね」
「うん。……さーて、久美子。これでちっとは肩の力、抜けた?」
梓は満足そうに目を細めると、肘をついてふっと柔らかく微笑んだ。
「……うん、すごく抜けた気がする。ありがとう、梓」
私が深く息を吐きながら素直に微笑むと、梓は満足そうに「それなら良かった」と目を細めた。彼女のこの細やかな気配りには、中学生の頃からずっと救われっぱなしだ。一人で抱え込んでガチガチになっていた肩の強張りが、じんわりと解けていくのが分かる。
「それじゃ、これで打ち合わせ終了っ!」
「ありがとうございました」
二人で小さく笑い合う。
もらった紙袋を大切に鞄へと収め、私たちは立ち上がったそれぞれの自席へと戻った。いつの間にか職員室はすっかり静まり返っており、慌てて残務を片付けて、机の上を整理整頓してから鍵をかける。
ああ、こうしてまた一つ歳を重ね、好きな音楽と全力で向き合っていられるのは、間違いなく恵まれたこの環境のおかげだ。それに、隣で同じ熱量で歩んでくれる梓をはじめ、理解ある職場の同僚がいるからこそ、私は迷わずタクトを持って指揮台に立ち続けられる。
そして何よりも――私の家族。
どれだけ遅くなっても文句ひとつ言わず……どこかで文句言ってるかもしれないけど、私に聞こえてきていないからいいや……当たり前のように家事を分担して支えてくれるお父さん。そして、自分たちも勉強や部活に打ち込みながら、母の多忙さを理解し、温かく応援してくれる子どもたち。
家族の理解と優しさがなければ、私はこんな風に夢中になって生徒たちと向き合うことなんてできなかった。みんながいてくれるから、今の私がいる。
「じゃあ久美子、お先に。明日も頼むね」
「うん、お疲れ様、梓。気をつけてね」
職員用駐車場で手を振り合い、私は一人夜風に吹かれる。
鞄の中からスマホを取り出すと、お父さんからメッセージが入っていた。
「気をつけて帰ってくるように。夕食とケーキ置いてあるから」
胸の奥がじんわりと温かくなる。
さて、家に帰ろう。すっかり遅くなっちゃったな。
大好きな音楽と、愛おしい家族に囲まれ、また次の一年が始まるのです!