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第四十七話 もどらないスモルツァンド − 関西吹奏楽コンクール2043 −

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第四十七話 もどらないスモルツァンド − 関西吹奏楽コンクール2043 −

二〇四三年八月最後の日曜日、午後八時頃。

滋賀県大津市、琵琶湖のほとりに建つ大ホール。

関西吹奏楽コンクールの全出場団体の演奏がすべて終わり、会場内は独特の重苦しい熱気と静寂に包まれていた。

私たち北宇治高校吹奏楽部は、一階席の左後ろ寄りのブロックに身を寄せ合うようにして座っていた。吹き抜けの高い天井の下、遠くに見えるステージには盾やトロフィーが整然と並べられ、まもなく始まる結果発表を待つばかりとなっている。客席の誰もが固唾をのみ、喉を鳴らす音すら憚られるような緊張感が空間を満たしていた。

膝の上でぎゅっと握りしめた自分の手のひらが、冷たい汗で湿っている。少しだけ指を開いてみても、溢れ出す緊張に耐えかねて、私はすぐにまた強く握り直してしまう。

まぶたを閉じると、つい数時間前、あのステージの上で奏でた自分たちの音が鮮明に蘇ってくる。

今年の私たちの自由曲は、かつて北宇治の代名詞でもあった『リズと青い鳥』を生み出した作曲家・卯田百合子先生による新曲『風紋譚〜4つの風が織りなす物語〜』だった。変拍子と複雑なプレッシャーのような和声が絡み合う極めて難解な曲で、春の頃は音を合わせることすらままならず、何度も壁にぶつかった。それでも京都府大会を突破したことで確かな自信を得た私たちは、お盆休みを除いた夏休みのすべての時間を練習に注ぎ込んだ。音と音との微細なズレを潰し、音色を磨き上げる。自分たちが表現し得る最高の演奏を出し切ったはずだった。手応えは、間違いなくあった。

——だが、その手応えと同じくらい、私の胸に重くのしかかっている記憶がある。演奏順の関係で客席から聴くことができた、立華高校の演奏だ。

立華が自由曲に選んだのは、皮肉にも『リズと青い鳥』だった。けれど、彼女たちが奏でた『リズ』は、私たちの知るそれとは随分異なっていた。「二人がそれぞれの道を歩むための別れ」ではなく、「二人一緒にどこまでも羽ばたいていく」という全く新しい解釈。

第三楽章から第四楽章へと押し寄せる圧倒的な感情の盛り上がりと、艶めかしくどこか色香を帯びたオーボエの音色。それに引き絞るような緊迫感で寄り添うフルートの掛け合いを、瑞々しいハープの響きが優しく包み込んでいく。息をすることすら忘れて聴き入っていた私は、演奏が終わった瞬間に客席を包んだブラボーの嵐の中で、ただただ体の震えを抑えられずにいた。

そして、指揮台から降りて客席に一礼をしたのは……私の母だった。

「——これより、審査結果の発表を行います」

スピーカーから流れたアナウンスの声が、回想の底に沈んでいた私を現実に引き戻す。ホール全体の空気が、一瞬で氷のように冷たく張り詰めていく。

ステージの中央では進行役がマイクの前に立ち、注意事項を告げたのち、淡々と審査結果の発表を始めた。

「二番、大阪府代表、大阪東照高等学校。ゴールド金賞」

会場の真ん中あたりから歓声が上がり、ステージ上では代表者二名が賞状とトロフィーを受け取る。

「十番、和歌山県代表、果永中・高等学校。銅賞」

一校、また一校と淡々と結果が読み上げられていく。

「十四番、兵庫県代表、光川高等学校。銀賞」

学校名が呼ばれるたびに、会場のあちこちで歓喜や落胆の声が上がり、その都度ビクッと体が震える。空間を支配する凄まじい緊張と圧迫感の前に、北宇治の名前が呼ばれる頃には、すでに息をするのも苦しいほどの疲労感が胸に溜まっていた。

「十九番、京都府代表、北宇治高等学校。ゴールド金賞」

その言葉がマイクを通してホール全体に響いた瞬間、私の左側からは「わあっ」と喜びの声がこぼれ、同時に安堵の息を吐き出す音が漏れ聞こえた。自然と拍手が湧き起こり、私の胸にもまずはつ壁を越えられたという波が押し寄せる。

右隣の未来が「やったな」と言って指でVサインをつくり、前の席の美波も振り返って笑いながら拳を差し出してきたので、こつんとグータッチを交わした。この夏、泥臭く練習を重ねてきた日々が実を結んだ喜びで、少しだけ心が軽くなる。

ここからの進行は、体感的にはあっという間に進んでいった。

「二十八番、京都府代表、立華高等学校。ゴールド金賞」

プログラム最後の学校名が呼ばれ、客席の反対側から大きな歓声と拍手が沸き起こった。

会場全体を呑み込んだあの演奏だ。文句なしのゴールド金賞に、誰もが納得するように深く頷いている。しかし、その快挙の余韻に浸る間もなく、進行役の声が容赦なく次の発表へと移っていった。

「続きまして、来る十月に名古屋で行われる全国大会に出場する、三団体を発表します」

進行役の声のトーンが変わる。ホール内の空気が、先ほどまでの結果発表とは一線を画す、冷たく張り詰めた重圧へと一変した。代表の枠はわずか三つ。金賞を取った学校の中でも、ほんの一握りだけが許される全国への切符だ。

「一校目……二番、大阪府代表、大阪東照高等学校」

「二校目……九番、大阪府代表、秀塔大学附属高等学校」

全国常連校の名前が順に呼ばれていく。歓声があがり、会場がどよめく中、北宇治の名前は、まだない。

「あと一校……」

未来がつぶやく。私は手にぐっと力を込め、体全体を強張らせた。心臓がうるさいくらいに胸を打ち鳴らしている。

「そして、三校目です」

場内の空気が、限界まで張り詰める。残された金賞受賞校の誰もが、自分の学校名が呼ばれる瞬間をひたすら祈っている。

そして、それは告げられた。

「三校目……二十八番、京都府代表、立華高等学校」

その瞬間、私たちの席とは反対側のブロックから、大きな歓声と悲鳴が弾け飛んだ。

一斉に立ち上がって抱き合い、肩を寄せて泣き崩れる立華の部員たち。マーチングでは全国金賞常連だけど、座奏ではかつての強豪でありながら近年は全国から遠ざかっていた立華が、ついにその壁を打ち破り、悲願の代表権を奪還した瞬間だった。ホール全体を包み込む祝福の拍手が、彼女たちのいる客席を眩しく照らし出していく。

ホールを隔てた遠く向こう側の光景。そこに満ちる圧倒的な熱量が、自分たちの敗北という現実を容赦なく突きつけてくる。まぶたの裏が熱くなり、私はその眩しすぎる光景から逃げるように、そっと視線を落とした。

そして——そのまま、代表校の発表は終了した。全国大会へ進めるのは、わずか三校。その中に、北宇治の名前が入ることはなかった。

一瞬にして、私たちの周りだけ時間が止まったかのような静寂が訪れた。熱狂に包まれるホールの中で、私たちがいるあたりだけが、ぽっかりと取り残されたように凍りついている。何が起きたのか、頭が理解を拒絶していた。スーッと全身の血の気が引き、喉の奥がカラカラに張り付いて、呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだ。

「……っ」

隣で小さな声が漏れた。見ると、未来が顔を覆い、声にならぬ嗚咽を漏らしながら肩を激しく揺らしていた。いつも冷静な未来が、形無しになるほど涙を流している。

前の席では美波がすぐさま向き直し、顔色を失いながらも、うつむいて肩を落とすパーカスの後輩——梨央ちゃんや詩織ちゃんの背中にそっと手を当て、低く優しい声で言葉をかけていた。自分だって傷ついているはずなのに、どこまでも周りを気遣う美波の姿勢が、かえって切なかった。

「……瑠美子先輩」

左隣から、珠里ちゃんが震える声で私の袖を引っ張る。眉を八の字に歪め、今にも崩れ落ちそうな顔で、懇願するように私を見つめてくる。

「私たち……もう、終わっちゃったんですか……?」

その問いに、私は声が出なかった。口を開けば、惨めな叫びが漏れ出してしまいそうだった。私はただ、唇をかみ締めながら、静かに首を横に振ることすらできず、小さく首を縦に振るのが精一杯だった。

すると、ぐっと強い力で右腕を掴まれた。指先が食い込むほどの強い力で私の制服を掴みながら、未来は絞り出すように後悔の言葉を溢れさせていた。

「あのフレーズの立ち上がりが」「自分のアタックがもっと鋭ければ」——責任をすべて自分ひとりで背負い込もうとする、支離滅裂な独白を続けている。

「未来、そんなに自分を責めないでよ……。私達、精一杯演ったじゃない」

言い聞かせるように呟いた私の言葉を、未来は聞いているのかいないのか、溢れる涙をぬぐおうともせず、ただ荒い息を吐いていた。

そして、私の腕を掴む手にさらにぎゅっと力を込めると、吐き捨てるように、その言葉を零した。

「……悔しくて、死にそうや」

いつも理知的で大人びている未来が剥き出しにした、ドロドロとした感情。その声の重みに、私はただ沈黙するしかなかった。

表彰式が終わり、退場を促された私たちは、重い足取りで大ホールをあとにした。

大ホールの重厚なガラス扉を抜けると、夏の終わりの夜気を含んだぬるい風が、火照った私たちの頬を撫でた。昼頃、胸を張ってこの会場に足を踏み入れたときの誇らしさは微塵もなく、部員たちの背中は一様に丸まっている。踏み出す足の一歩一歩が、まるで鉛のように重い。

視線を巡らせると、三年生の先輩方は涙で目を真っ赤に腫らし、言葉を失ったまま肩を落としていた。二年生は誰一人として口を開こうとせず、重苦しい沈黙の中でただ唇を噛み締めている。そんな先輩たちの異様な雰囲気に圧倒された一年生たちは、どう振る舞えばいいのかも分からず、オロオロと視線を彷徨わせるばかりだった。

少し離れた場所では、顧問の丸尾先生や高田先生が静かに私たちの様子を見つめていた。かける言葉が見つからないのか、それとも今の私たちが抱える敗北感をそのまま受け止めさせようとしているのか、その真意は分からない。

その時、ふとすれ違った他校の生徒たちと目が合った。確かあのブレザーは、兵庫県の学校だ。

彼女たちの表情は私たちのそれとは対照的に、驚くほど晴れ晴れとしている。弾んだ声で「金賞ゲットだぜ!」と喜び合い笑顔を弾けさせているところを見ると、きっと彼女たちにとっての目標はこの関西の舞台で金賞を取ることであり、それを今日、達成できたのだと思う。

私と視線が交わった瞬間、相手の瞳にふっと浮かんだのは、隠しようのない「憐れみ」の色だった……全国を目指しながら、あと一歩で届かず散っていった北宇治への、同情と憐憫。それが刺すような痛みを伴って、私の心に深く突き刺さる。

私たちは、目標を達成できなかった。夏休みのほとんどを使って、あんなに泥臭く、必死に重ねてきた練習の日々。変拍子に苦しみ、何度も息を合わせたあの膨大な時間は、一体何だったのだろう。

「頑張ったからといって、必ずしも望む結果が得られるわけじゃない」

——そんな頭では分かっているはずの現実を、今の私は到底消化することができない。胸の奥で渦巻くもどかしさと悔しさに、ただ押し潰されそうになっていた。

会場側の大型バス駐車場、街灯とバスの車輪を照らす明かりのすぐ外側の暗がりには、足元へ重く沈み込んでいくような悲痛な静寂が立ち込めていた。

“ゴールド・金賞”——けれど、全国大会への切符には届かなかった、あまりにも残酷なダメ金。

これまでの努力や想いの強さに比例するかのように、その場を支配していたのは、息をすることすら憚られる暗く冷たい空気だった。

その重苦しい沈黙を、一歩踏み出す力強い靴底の音と、パーンと弾けた手拍子の音が吹き飛ばした。

「ちょっとちょっと、何やの?この空気! お通夜やないんやから!」

うつむいていた私たちが弾かれたように顔を上げると、そこには表彰式から戻ってきたばかりの山岡部長が立っていた。そのすぐ後ろでは、副部長の藤村先輩が、輝く金賞の盾と大きなトロフィーを両手でしっかりと抱きかかえ、悔しさを押し殺した顔で立ち尽くしている。

山岡部長は私たちを一通り見渡すと、腰に手を当て、力強く声を上げた。

「何落ち込んでんの? 私らは今日、最高の演奏をした。それは事実やろ?」

胸の奥に、その言葉が鋭く突き刺さる。山岡部長は自分の胸にそっと手を当て、まっすぐな眼差しで私たちを見つめながら言葉を重ねた。

「それやったら、これまで私らのことを支えてくれた保護者の人たちや、指導してくれた先生達のためにも、胸張って帰らなあかんやろ!」

部長の目元には、隠しきれない涙がうっすらと浮かんでいた。けれど、その視線は決して下を向かない。背筋をピンと伸ばし、普段と変わらない溌剌とした声で語るその姿に、私は息をのんだ。

「確かに、全国にはいけへんかった……けど、落ち込む必要はない! 演奏が終わった後の会場からのものすごい拍手、覚えてるやろ? あの拍手がうちらのいままでの努力の成果や! 間違いなく、最高の演奏を私らは演ったんや!」

全国に行けなかったという現実。でも、私たちが積み重ねてきた時間は何ひとつ間違っていなかったんだと、部長の言葉がみんなの今までの努力を力強く肯定してくれる。

「一年間、この北宇治の部長をやったうちが断言する! 北宇治はここで終わりやない! もっと良くなる、もっと強くなれる! だから、みんな顔を上げて!」

顔を上げて——。その声に背中を押されるように、うつむいていた部員たちが一斉に顔を上げた。

すると、パラ……パラ……と、誰かの手から小さな拍手が上がった。

それは一瞬で波紋のように広がり、三年生も、二年生も、一年生も、涙を流しながら拍手を送り始めた。私も目の前の部長へ向けて、手を叩いた。

みんなの胸の奥に澱んでいた冷たい陰りが、みるみるうちに熱い熱量へと書き換えられていき、みんなの顔に力強さが戻ったのを見届けると、山岡部長は誇らしげに大きく頷いた。

「今日という日は、来年のコンクールに向けての一日目! 明日からの練習、頑張っていきましょう!」

「「はい!!」」

琵琶湖からの夜風を吹き飛ばすような、腹の底からの返事。涙を拭った私の胸の奥に、来年の夏へ向けた消えない誓いが、強く固く刻み込まれた。

駐車場に並んでいた大型バスに乗り込み、私たちを乗せた車体はゆっくりと会場をあとにした。

車内灯は落とされ、カーテンの隙間から街灯の光が不規則に差し込むだけの暗闇が広がっている。聞こえるのは、タイヤの重い「ゴーッ」というノイズと、低いエンジン音ばかり。緊張の糸が途切れて眠りについた後輩のかすかな寝息や、暗がりの中消え入りそうな声で交わされるひそひそ話が、車内の静寂をより際立たせていた。

私の隣の未来は、バスに乗り込んでからというもの、一度も口を開かず、じっと流れる夜景を見つめていた。いつもなら、全体の演奏の分析や練習効率について理知的に語る彼女が、まるで魂を抜かれたように静まり返っている。

ふいに、未来の肩がこちらへ寄ってきた。

私の制服の袖に触れる距離まで身を寄せてくると、未来は低く、震える声でぽつりぽつりと話し始めた。

「……うち、あの展開部のトランペット、もっと音立てられたはずやってん」

ポロポロと絶え間なく溢れ出る涙を拭おうともせず、未来は掠れた声で後悔の言葉を吐き出していく。

「アタックがほんの少しだけ浅かった……。もっと音圧を出して、全体を引っ張るくらいの存在感を見せられたら、審査員の評価も変わってたんと違う……? うちが……うちがもっと完璧に吹けてたら、全国に行けたんと違うん……?」

いつもどんな時も、冷静に物事を見極めてきたあの未来が、なりふり構わず自分を責め立てている。自分の演奏のわずかな綻びばかりを拾い上げ、すべてを背負い込もうとする姿が切なくて、胸がギュッと苦しくなる。

「……高坂先生な、うちにプロを目指せって言うてくれたんよ」

自嘲するような、掠れた呟きが未来の唇から漏れた。

「でも、無理やんか……こんなん。関西すら突破できへんような奴が、プロの道なんて行けるわけないやん。あんな厳しい世界、うちみたいな半端な演奏しかできへん奴が目指せるわけない……やれるわけないやんか……っ」

普段の彼女からは想像もつかないほど弱気で、投げやりな言葉。夏休み前、麗奈さんからかけられた期待を重圧に感じ、そしてこのダメ金という現実によって、自分の可能性すらも自身の手で切り捨てようとしている。

私は暗闇の中で未来の手をそっと包み込み、優しく言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「そんなことないよ、未来。未来の音はちゃんと響いてた。……私たちは精一杯努力したし、自分たちの最高の演奏をした。部長の言った通りだと思う」

「……ほんまに?」

「うん。だから、そんなに自分を責めないで……責めたらだめだって」

私の言葉を胸に落とし込むように、未来は「……うん」と小さく呟き、そのまま口をつぐんだ。

激しかった肩の震えが少しずつ収まり、やがて呼吸がゆっくりとしたリズムへと変わっていく。しばらくすると、私の肩に頭を預けたまま、規則的なかすかな寝息が聞こえ始めた。

どれほどのプレッシャーと恐怖の中で今日という日を迎えていたのかを物語るように、暗闇の中で眠る未来の顔はどこか幼く、疲れ切っていた。

そんな未来の温もりを感じながら、私は未来の頭越しに見える車窓の外に広がる真っ暗な夜景へと視線を投げた。

本当は、私が一番分かっていないのだ。

夏休みのほとんどを捧げ、死にもの狂いで向き合ってきた日々。泥臭く音を重ねてきたあの膨大な時間に嘘はなかった。私たちは間違いなく、今日という日に持てるすべてを出し切った。

——なのに、なぜ届かなかったのだろう。

精一杯努力したはずなのに、全国への扉は私たちに開かれなかった。駄目だった本当の理由が、どれだけ頭を巡らせても分からない。

暗闇の中でふと、立華高校のあの演奏が脳裏をよぎる。

二人の旅立ちを鮮やかに描いた『リズと青い鳥』。会場全体に息をのませた、あの圧倒的な音の波の真っ只中で、静かに、時に情熱的にタクトを振っていた母の姿。

母は立華のことについて、家では何ひとつ話さなかった。

私はといえば、「今日の合奏がね」「変拍子がすごく難しくて」と、夕飯の席で何でもかんでも楽しそうに話していたのに。お母さんはそれをただ微笑んで聞きながら、「大変だね」「瑠美子なら大丈夫」と優しく相槌を打ってくれていた。

——当たり前だ。お母さんは社会人で、立華を率いる指導者でもあるのだから。

家に仕事を持ち込まないのも、手の内を漏らさないのも、職業人として当然の矜持だ。もし仮にお母さんが家で立華のネタバレや秘密をペラペラと喋ったりしたら、「ちょっとお母さん、そんなこと他校の私に話しちゃっていいの?」と、私の方が呆れてダメ出ししていたはず。そんな筋を通すお母さんだからこそ、私は心から尊敬しているんだ。

分かっている。頭では、そんなこと痛いほど理解している。

……でも。

あのステージの上で、北宇治の前に絶対的な壁として立ち塞がったのは、本当に「私の大好きなお母さん」だったのだろうか。

手加減なんて一切ない、冷徹なまでに完璧な音楽。私たちがこの夏に捧げてきたすべての努力も、泥臭い時間も、その圧倒的な熱量で容赦なく踏みにじっていった。

あれはお母さんじゃない。立華高校の指揮者だったんだ。

そう思いたい。そうやって自分を納得させたいのに、胸の奥底から冷たい寂しさがこみ上げてきて止まらない。

今夜は多分、迎えに来てくれる父のクルマに乗って、私の方が早く家に帰るはず。帰ってゴソゴソしている間にお母さんが帰ったきたら、どうしよう。

帰ってくるまでに先に寝てしまっても、朝起きれば、お母さんはまたいつもの顔で「おはよう」と言ってくれるのだろうか。

北宇治の夢を打ち砕いたその手で、私に温かい朝ごはんを作ってくれるのだろうか。

どんな顔をして向き合えばいいのか、全く分からない。「悔しかった」と泣きつくことも、「代表おめでとう」と祝うことすら、今の私にはできない。お母さんのあの底知れない優しさが、今はどんな言葉よりも恐ろしかった。

分かっているのに。仕方のないことだって、痛いほど分かっているはずなのに——。

「……っ」

抑え込んでいたタガが完全に外れ、不意に視界が激しく歪んだ。我慢していたものが一気に決壊し、大粒の涙がボロボロと溢れ出して頬を伝っていく。

隣で疲れて眠る未来を起こしてしまわないよう、私は奥歯をグッと噛み締め、喉の奥から這い上がってくる嗚咽を必死に押し殺す。声を殺し、止めどなく伝う涙を流し続ける。

悔しい。

悔しい。

悔しい。

けれど、この泥のような感情を、私は一体どこへぶつければいいのだろう。北宇治の仲間と一緒に流す悔し涙とは、何かが違う。私たちの夢を打ち砕き、絶望の淵に突き落とした張本人は、誰よりも愛していて、尊敬しているお母さんなのだから。

「悔しかった」と、お母さんに抱きついて泣くこともできない。

「どうしてあんな残酷なことをしたの」と、責めることだってできない。

正しすぎるお母さんの前で、私の幼い感情は行き場を完全に失い、胸の底でドロドロと渦を巻くだけだ。

悔しくて、悲しくて、自分の無力さが怖くてたまらない。いっそこの暗いバスの中で、すべてから逃げ出してずっと泣いていたい。

だけど、現実は私たちが立ち止まるのを待ってはくれない。今週末には学園祭があって、そのあとには体育祭も、植物園の演奏会だって待っている。どれだけ胸が痛くても、どれだけ涙が止まらなくても、時間は容赦なく明日を引き寄せてくる。

私たちがダメだった本当の理由も、あの大観衆を呑み込んだステージの上で、お母さんが見せたあのタクトの真意も、今の私には推し量ることすらできない。窓の外の暗闇を見つめていたって、どこかに答えが落ちているわけでもないのに。

これからどうすればいいのか、何が正解なのかも分からない。

それでも——明日は、やってくる。

立ち止まることが許されないのなら、この行き場のない痛みを抱えたまま、前に進んでいくしかない。

そうするしか、ないんだ……。

バスは夜道を進んでいく。

いつの間にか、車窓の景色は見慣れた住宅街の坂道へと変わった。バスは静かにスピードを落とし、迎えに来ている保護者の方々のクルマのライトに囲まれながら、学校の校門前に停車した。

「お疲れさん。着いたでー」

山岡部長のはっきりした声を受け、足取りがおぼつかない未来の背中を押しながらバスを降りる。残暑の夜の蒸し暑さが漂う中、たくさんの秋の虫達の声が響き渡っている。

バスから部員全員が降車した後、その場で解散となった。

私は、未来がお迎えに来ていた未来のママさんの方へと歩いていくことを見送ってから、父の姿を見つけた。

「今日という日は、来年のコンクールに向けての一日目……」

部長の言葉をつぶやいた私は、小さく息を吐き出してから父のクルマに乗り込み、北宇治高校をあとにした。