第四十八話 とまどいコンダクター − とどかない、この気持ち −
第四十八話 とまどいコンダクター − とどかない、この気持ち −
トーストの焼ける芳ばしい匂いに、淹れたてのコーヒーと深蒸し茶の香りが混じり合う、二〇四三年、八月最後の月曜日の朝。いつもと何も変わらないはずのその匂いが、今朝に限ってひどく白々しく胸に迫る。
残暑の陽光が眩しく射し込む我が家のダイニングルームは、水底に沈んでいるかのように静まりかえり、息をつくのすら躊躇われるほどの沈黙に満ちていた。
温かい野菜スープと、程よく焼けたトーストを、すでに制服姿の瑠美子の前にそっと置く。磁器のスープカップが食卓に触れるコトッという小さな音が、静寂の中で妙に大きく響いた。
「瑠美子、体調は大丈夫? 昨晩は遅かったし、ちゃんと眠れた?」
そっと娘の顔を覗き込むと、案の定、伏せられた目元は泣きはらしたせいで痛々しく腫れ上がっている。私と一度も視線を合わせようとしないその横顔を見つめていると、胸の奥がキュッと締め付けられるように痛む。
その痛みの理由は、昨晩からずっと私の中に居座り続けているものだった。
昨日、琵琶湖湖畔のホールで行われた関西吹奏楽コンクール。全ての演奏が終わり、客席の端で立華の部員たちと一緒になって聞いた結果発表の瞬間、悲願の全国大会出場が決まり、弾けたような歓喜の中で、冷静さを装いながらも私の心は確かに激しく波打っていた。けれど、その高揚感が一瞬で吹き飛んだのは、学校へ戻ってルーチンの事務作業を終え教職員室を出ようとした際、スマホに届いていた秀一からの短いメッセージを目にした時だった。
『お疲れ様、そして全国おめでとう。瑠美子、一言も話さず、家着いたらすぐ部屋へ駆け込んだ。いつもと随分違うので、連絡しておく。今日はそっとしておいたげて』
その文字を見た瞬間、胸を満たしていた達成感は冷たく萎んでいく。日付が変わる頃に辿り着いた我が家は静まり返り、瑠美子の部屋のドアは固く閉ざされたままだった。
そう、昨夜から私の胸を苛み続けているのは、指導者としての喜びなどではない。最愛の娘の夢を、私はこの手で奪ってしまったのだという耐えがたい罪悪感——。
「……あ、そうだ。お母さん」
ふいに、瑠美子が顔を上げた。腫れた両目を少しだけ細め、引きつりそうな唇で、精一杯の笑みを作ろうとしている。
「昨日の立華の演奏、すごかった。……代表、おめでとう」
健気に、そして精一杯の思いを振り絞って母を祝福する娘の声には、かすかな震えが混じっていた。
「……ありがとう、瑠美子。でも」
そこまで言って、言葉が詰まった。
北宇治の演奏も、本当に素晴らしかった。瑠美子のユーフォの音も、ちゃんと届いていた……そう喉元まで出かかったその言葉を、私は必死で呑み込んだ。勝者が敗者に送る慰めほど、残酷で痛々しいものはない。かつて私自身が高校時代に何度も味わい知っていたはずのその事実が、いま重く私の舌を縛り付けている。
「北宇治の演奏、課題もいっぱい見つかったんだ」
瑠美子は私に話す機会を作らないように、早口で言葉を重ねる。
「山岡部長も言ってたけど、昨日が来年に向けての『一日目』だから。私、今日からまた練習頑張るね」
瑠美子はスープにもトーストにも、結局一口も手をつけないまま、勢いよく席を立った。
「ごちそうさま。今朝から練習するから、先に行くね。お父さん、昨日はお迎えありがとう。……瑛斗……は後から出るか。気をつけて行ってらっしゃい」
「あ……ああ、うん」
トーストを最後の一口を咀嚼しながら返事をする瑛斗。北中の三年生でテナーサックスを吹く息子もまた、一昨日の関西大会で「ダメ金」となり、中学での部活動が終わっていた。それでも今朝は終始無言でトーストにかぶりついていた彼の背中には、彼なりに折り合いをつけた覚悟のようなものが滲んでいた。
バタン、と重い玄関の扉が閉まる音が響き、静寂が再び食卓に降り積もる。
「ごちそうさま」
そう言いながら、使った食器をシンクに置いた瑛斗は、そのまま洗面台の方へと歩いて行った。
「……瑠美子な」
「うん?」
正面に座る秀一が、ぼそっと口を開く。
「あいつ、昨日の迎えのクルマの中でも一言も喋らんと、ずっと窓の外見つめててん。家着いた瞬間、部屋に駆け込んでな……。あんな瑠美子、初めて見たわ」
向かいに座る秀一が、深くため息をつきながらコーヒーカップを置き、少し困ったような顔で私を見る。
「お母さんは何も悪くない。立華の副顧問として、最高の指導をしただけや。……でも、親としては……キツいな」
「……うん。わかってる。わかってる、んだけど……」
私は、自分の手のひらを見つめた。
かつて高校時代、全国金賞の喜びを分かち合ったこの手。指導者となり、立華の生徒たちを歓喜の全国へ導けたこの手。
だけど、その栄光の影で、私がかつて青春のすべてを捧げた愛する北宇治の、そして何より我が娘の涙が溢れている。
瑠美子は常々、北宇治での部活の出来事を本当に楽しそうに家で話してくれていた。
「今日ね、合奏で変拍子がすごく難しくて」
「未来がね、こんなこと言ってて」
そんな娘の言葉に「大変だね」「瑠美子なら大丈夫」と笑って耳を傾ける時間が、私の何よりの幸せだった。
立華での私の立場を理解してか、瑠美子は決して私に秘密を尋ねるような真似はしなかったし、私も指導上の秘匿を守り抜いてきた。互いの大切な場所を理解しているからこその、優しく愛おしい距離感。
……けれど、いま瑠美子の目に映る私は、大好きな母親であると同時に、自分の夢を容赦なく奪っていった立華の「妥協のない指導者」なのかもしれない。
これから、瑠美子はもう私に部活の話をしてくれなくなるんだろうか……。
胸の奥で、冷たい予感が芽を吹く。
仕事としての正しさと、母親としての愛おしさ。その二つの狭間で引き裂かれそうになりながら、私は冷めかけたコーヒーに落としたミルクが、静かに渦を巻いて溶けていくのをただ見つめていた。
その日、立華高校の校舎に入ると、校内に漂うどこか浮き足立った空気が肌に伝わってきた。その原因は、やはり昨日の吹コンの結果のようだ。
立華高校吹奏楽部といえば、マーチングでは全国大会の常連であり、金賞にも慣れている。けれど、座奏——吹奏楽コンクールとなると話は別だった。かつて座奏でも強豪と謳われた時代から随分と時は流れ、関西大会という壁のため全国の切符とは長らく無縁だったのだ。
だからこそ、昨夜の「全国大会出場決定」の一報は、学校関係者にとっても久方ぶりに味わう歓喜の快挙だった。職員室に足を踏み入れるなり、学年主任から声をかけられた。
「塚本先生、おめでとうございます! 昨日の関西大会、素晴らしい演奏だったそうですね」
「ありがとうございます。生徒たちが本当に頑張ってくれたおかげです」
頭を下げながら答える自分の声が、どこか上擦っているのが自分でもわかる。
「塚本先生、実に輝かしい快挙じゃないですか」
奥の校長席から、理事長と校長が歩み寄ってきた。普段は厳格な表情を崩さない理事長が、目を細めて満足そうに頷いている。
「マーチング以外でも、立華が再び全国の舞台に立つ。生徒たちの努力はもちろん、指導にあたった吹奏楽部の顧問の方たちの情熱の賜物です。学校としても誇りに思いますよ」
「ありがとうございます。ですが……まだ全国へ向けて課題も多く、浮かれている暇はありませんので」
恐縮しながらそう返すと、理事長は「おお、実に頼もしい」と感心したように頷いた。
「偉業を成し遂げても驕らず、すでに先を見据えている。その謙虚で真摯な姿勢があるからこそ、生徒たちもついていくのでしょう。頼みましたよ、塚本先生」
労いと称賛の言葉が次々と重ねられ、周りの先生たちからも温かい拍手が向けられる。けれど、私の胸の奥に広がっていたのは、誇らしさでも達成感でもなかった。
お世辞にも満面の笑みとは言えない、どこか引きつったような笑みを浮かべながら、私の頭を占めていたのは、今朝の我が家の食卓の光景だった。
瞼をうっすらと腫らし、スープの湯気だけをじっと見つめていた瑠美子の横顔。
『昨日の立華の演奏、すごかった。……代表、おめでとう』
震える声で母を祝ってくれた、あの表情が頭から離れない。
私は……学校ではこうして快挙だと称えられているのに、家ではあの子の夢を奪った張本人なんだ……。
理事長たちが「自分たちの慢心を戒めている」と好意的に解釈してくれた私の硬い表情は、実際には娘への切ない罪悪感と、胸の底で重く解けない葛藤の裏返しでしかなかった。そのすれ違いがあまりにも皮肉で、同時に胸を締め付けるように苦しかった。
午後になり放課後を迎えると、部内の空気はまた一変した。
座奏での全国出場という快挙の余韻に浸る間もなく、立華吹奏楽部はすでに「次の戦い」へと舵を切っていた。今週末の日曜日には太陽公園の体育館で、京都府マーチングコンテストが控えている。
立華の代名詞であるマーチングは、座奏とはスタイルが大きく異なる。指揮者が前に立ち細部まで指導する座奏に対し、マーチングは部長やドラムメジャーをはじめとする幹部と部員たちが主体となり、カウントを合わせ、隊列を組み上げていくのが伝統だ。顧問が直接口を出して教え込むことはせず、あくまで生徒たちの自主性に委ねられている。
今日からの吹部の練習はすべてマーチングのドリル練習に充てられるため、座奏コーチである私の指導は、実質的にお休みとなるのだった。
部員たちは互いの掛け声とともに四階のホールへと向かい、自発的にウォーミングアップを始める音を聞きながら、私は静まり返った音楽準備室で一人、部員達の練習日誌を読んでいた。
窓からは、初秋の少し傾いた日差しが差し込んでいる。日誌の束を整えていると、ドアが静かに開いた。
「やっぱりここにおったんやね」
入ってきたのは、佐々木顧問……梓だった。立華のジャージ姿の梓は、どこか肩の力を抜いた様子で私の向かいのパイプ椅子を引き、深々と腰掛けた。
「梓ぁ、マーチングの練習、もう始まってるんじゃ……」
「ドラムメジャーと幹部たちが仕切って、もう歩幅合わせに入ってるよ。うちはホールの隅っこで、じっと全体を見守ってきたところでね、ちょっと一息つきに来たんよ」
梓は肘を膝につき、覗き込むように私の顔をじっと見つめてきた。
「な、なによ」
「朝からずっと思ってたんやけどな、久美子、職員室で理事長たちに褒められてる時も、ずっと顔が曇ってたで」
「え……? そんなことないよ。ちゃんと『ありがとうございます』って……」
「嘘つけ。うちらは中学生の頃からの付き合いやで? 久美子が本当に喜んでる時の顔と、何か胸に抱え込んでる時の顔くらい、見分けつくわ」
梓は苦笑しながら、優しく息を吐き出した。
「瑠美子ちゃん……のことやろ?」
ズバリと核心を突かれ、私は言葉を詰まらせた。手にしていたペンが、指先からこぼれ落ちそうになる。
「……やっぱり、隠せないか……」
「わかるって。昨日の結果が出た瞬間から、あんたがそういう顔するやろうなって思ってた」
梓は背もたれに体を預け、遠くを見るような目をした。
「昨日うちらが代表になった時、北宇治の子たちの顔、反対側の客席から見えた……そりゃそうやわな。夏休み全部捧げて練習してきて、あと一歩で全国に届かんかったんやから。しかも、その全国への切符をさらっていったのが、自分の母親がタクトを振る学校なんやもん」
「私……」
声が震えた。胸の奥深くに澱んでいた重い感情が、静かに波打ち始める。
「……私ね、昨日の夜も、今朝も、瑠美子にどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。今朝、あの子は泣きはらした目で私に『立華の演奏、すごかった。おめでとう』って言ってくれた。……そんな風に言わせちゃったんだよ、私。あの子の夢を、この手で奪っておいて……」
ふと目頭が熱くなったと思ったら、目尻のまつ毛が急に重たくなってきた。鼻をスンといわせながら、慌ててポケットからハンカチを取り出し目元を抑える。
「久美子、落ち着き」
梓の声は、どこまでも穏やかだった。すると彼女は私の手の上に、自分の手をそっと重ねた。
「あんたが全力で立華の音を作ったからこそ、立華は全国に行けた。それは指導者として誇るべきことやし、絶対にブレちゃいかん部分や。……真っ直ぐ向き合ってくれたあんたのこと、瑠美子ちゃんだってちゃんと分かってるはずやで」
「それは……わかってる。わかってるんだけど……親としては、耐えられないよ……」
「うん。キツいよね。……でもね、久美子」
梓は私の目をまっすぐに見つめた。
「今の瑠美子ちゃんにとって、あんたは『大好きな自慢のお母さん』であると同時に、自分たちの全国への道を阻んだ、立華の『情を一切挟まない指揮者』に見えたんやと思う。大人として、プロの指導者として立つっていうのは、そういう残酷な痛みを引き受けることでもある」
情を一切挟まない指揮者……その言葉が、胸の奥深く棘のように刺さってくる。いま、娘がどんなに深く傷つき、どれほど複雑な想いを私に向けているのかを突きつけられているようだった。
「そして、その痛みを背負うのも、うちら指導者の役割や。……でもね、あんたは指導者である前に、瑠美子ちゃんのお母さんやろ」
梓はふっと表情を和らげ、温かく微笑んだ。
「時間がかかるかもしれん。瑠美子ちゃんも、今すぐには気持ちの整理がつかんと思う。でも、逃げずにちゃんと向き合ってあげな。あんたがどれだけ瑠美子ちゃんを愛してるか、あの子はちゃんとわかってくれてるはずやから」
「……梓……」
「うん。よーし、これで息抜き終了」
梓はポンと私の肩を叩き、静かに立ち上がった。
「うちはまた上のホールに戻って、生徒たちが自分らで作り上げてるマーチングをじっくり見届けてくるわ。久美子は今日、指導お休みなんやから、早く帰って美味しい夕飯でも作りな。お母さんとしての仕事、頑張り」
ジャージ姿のまま静かに音楽準備室を出ていく梓の背中を見送りながら、私は深く息を吐き出す。
胸に漂う濃い霧が晴れたわけではない。けれど、梓の言葉のおかげで、強張っていた心がじんわりとほぐれていった。
夕方の西日が差し込む音楽準備室で、私はバッグを手に取り、静かに足を踏み出す。
今夜、我が家で待つ娘とどう向き合うべきか。答えを探しながら、私は一人の母として、もう一度あの玄関のドアを開けるため帰路についた。
立華でのマーチング練習が生徒主体で進むおかげで、座奏コーチである私の仕事はいつもより早く切りがついた。
午後六時過ぎ、夏の終わりの少し生ぬるい風がそよぐ夕暮れ時に、我が家へ帰る。普段ならまだ音楽室で合奏の指導に追われている時間だ。こんなにも早く家に着くのは、なんだか久しぶりのような気がした。
「ただいま」
鍵を開けて静かな玄関に声をかけると、すぐ隣にある部屋のドアが開く音がした。
「おかえりなさい。今日は早かったね」
自室から現れた瑠美子は、制服のブラウスを普段着に着替え、髪を後ろでひとつに束ねていた。
「うん、今週はマーチングの練習ばかりだからね。……瑠美子も、おかえり」
「うん」
瑠美子は短く頷くと、いつものように台所へ回ってエプロンを手に取った。
「じゃあ、夕飯の手伝いするね。お父さんは今日も遅くなりそう?」
「うん、仕事で少し遅くなるって連絡があったから、先に三人で食べようか」
「分かった」
そう言って瑠美子は、冷蔵庫から手際よく野菜を取り出し、まな板の上に並べ始めた。
トントン、トントンと、リズム良く包丁の音がキッチンに響き渡る。瑠美子は以前から料理の手際が良く、忙しい私を助けるために進んで台所に立ってくれる。いつもなら、この包丁の音の合間に弾むような声が重なるはずだった。
『ねぇお母さん、今日の合奏でさ、クラリネットのパートが急にテンポ走っちゃって』
『未来がね、また屁理屈こねてね』
そんな、他愛もなくて愛おしい、北宇治吹奏楽部の日々の報告——だが、今の台所にあるのは、規則正しい刃物の音だけだった。
着替えを終えた私は瑠美子の隣で鍋に火をかけながら、そっと横顔を覗き込む。
瑠美子の視線は、まっすぐ手元だけに注がれている。伏せられた長いまつ毛の影が、少し赤みの引いた頬に落ちていた。私と目を合わせようとしない徹底したその仕草に、胸の奥がキュッと固く縛られるような痛みを覚える。
「……瑠美子、今日の部活はどうだった?」
意を決して、できるだけ自然なトーンで問いかけてみた。
瑠美子の手が、一瞬だけピタリと止まる。だが、すぐに何事もなかったかのように包丁を動かし始めた。
「うん。山岡部長を中心に、次の学園祭と植物園の演奏会で吹く曲をさらったよ。みんな、もう来年に向けて切り替えて練習してる」
淀みのない、完璧に整った返答。どこか他人に状況を報告するかのような、淡々とした静かな声。
そこには、昨夜まであの子の胸を焦がしていたはずの情熱も、敗北の悔しさも、あるいは母親に対する甘えも、綺麗に削ぎ落とされていた。
「……そう。みんな、立派だね」
「うん」
それ以上、言葉は続かなかった。
問いかければ答えてくれる。頼めば手伝ってくれる。親に対して反抗的な態度をとるわけでもなく、怒りをぶつけてくるわけでもない。完璧に行儀よく「良い娘」を演じているからこそ、瑠美子が私の周りにそっと築き上げた透明なガラスの壁が、余計に高く、冷ややかに際立っていた。
秀一のいない食卓は、いつもよりずっと広く感じられ、私と瑠美子、瑛斗の三人だけで囲む夕食は、いつになく静かだった。
瑛斗は、この場の重苦しい空気を察してか、黙々とご飯を口に運んでいた。時折、姉の顔を気遣うように盗み見ているが、口を開く気配はない。
「……瑛斗、今日の唐揚げ、口に合う?」
「え? ああ、うん。めっちゃ美味いよ」
「よかった」
瑠美子はそう言って、瑛斗に向かって小さく微笑んだ。その笑顔は優しく、お姉ちゃんらしい温かみに満ちていた。けれど、その視線が私の方へ向かうことは、最後までなかった。
カチャリ、カチャリと、食器と箸が触れ合う音だけが流れていく。
「ごちそうさまでした。お皿、洗っておくね」
食べ終わると同時に、瑠美子は素早く立ち上がり、自分と瑛斗の食器を重ねた。
「あ、瑠美子。私がやるから大丈夫だよ、座ってなさい」
「いいよ。お母さん、今日も仕事で疲れてるでしょ。これくらいやらせて」
そう言うと、瑠美子は私の返事を待たずにシンクへ向かい、水道の蛇口をひねった。水流の音が、私たちの間に流れる沈黙を塗り潰していく。
私を気遣う言葉。私を労わる行動。
何ひとつとして責められる要素はないのに、その配慮のひとつひとつが、鋭く研ぎ澄まされた刃のように私の胸を突き刺してくる。
もし「お母さんのせいで負けた」と声を上げてくれたなら、どれほど救われただろう。
もし「悔しい」と泣きついてきて、抱きしめさせてくれたなら、どんなに楽だっただろう。
瑠美子は、悲しみも悔しさも、そして母への複雑な想いもすべて自分ひとりの内側に押し込め、私に一切の立ち入りを許してくれない。
「洗い物、終わったよ。じゃあ、私、部屋で勉強します」
「……うん。お疲れ様」
「お母さんも、ゆっくり休んでね」
瑠美子はそう言い残すと、最後まで私の方を振り返らないまま、静かに自分の部屋へと歩いていった。
夜遅く、秀一が帰宅し、静まり返ったリビングで二人で温かいお茶を飲んでいた時のこと。
「……瑠美子、どうやった?」
頬杖をつきながら、少しくたっとした秀一が尋ねてくる。
「……うん。普通に会話はしてくれるよ。私の体調も気遣ってくれる。……でも、一度も目を合わせてくれなかった」
私がそう呟くと、秀一は深いため息を一つついた。
「あいつは根が真面目で不器用やからなぁ……。自分の悔しさと、お母さんへの感謝と尊敬が頭の中でこんがらがって、どう接していいか分からんようになってるんやと思う。……俺らとしては、見てて一番つらい形やな」
「うん……。私が立華の指導者として、あの場所に立っていたから……」
そう言いかけると、秀一はハッキリした声を被せてくる。
「久美子、自分を責めたらあかんって。……ん……お母さんは、プロとして仕事を全うした。瑠美子だって、それは頭では分かってるはずや。ただ……気持ちが追いつくのに時間がかかっとんやろ」
「う……ん……」
そうは言ってくれるけど、その言葉は、今の私の心の隙間を埋めてくれるほどのものではなかった。
就寝前、私は廊下で瑠美子の部屋のドアを見つめた。
ドアの隙間から、かすかに漏れる部屋の明かり。かつてなら、気兼ねなくノックして「入るよー」とドアを開け、ベッドの端に腰掛けて夜遅くまでおしゃべりをしたものだった。
けれど今の私には、その金属製のドアレバーに手をかけることすら躊躇われた。
「……おやすみ」
ドアに向かって、低く語りかける。
少しの間をおいて、室内から静かな声が返ってきた。
「……おやすみなさい」
ドア一枚を隔てたその距離が、地球の裏側ほども遠く感じられた。
そんな、息が詰まるようなすれ違いの日々が、火曜日も、水曜日も、木曜日も続いていった。
朝になれば瑠美子はきちんと起きてきて、「おはよう」と言い、朝食をとって、学校へ行く。
夕方になれば「ただいま」と帰ってきて、黙々と料理を手伝い、静かに自分の部屋へ戻っていく。
何ひとつとして日常のルーティンは崩れていない。
けれど、かつて我が家に溢れていた、北宇治での出来事をうれしそうに語る瑠美子の声は、完全に消え失せていた。
瑠美子が成長し、大人になっていく過程で、親離れをしていく寂しさとは明らかに違う。誇りを持って歩んできた『指導者』としての道が、最愛の娘との間に深い亀裂を生み出している。
手繰り寄せようと伸ばした手が、触れた瞬間に相手を傷つけてしまうようなもどかしさの中で、私はただ、時間が過ぎ去っていくのをじっと耐えることしかできなかった。
あっという間に一週間が過ぎ、土曜日の夜を迎えた。
この日、北宇治高校は毎年恒例の学園祭。そのため、今朝の瑠美子は、心なしかいつもより少し早起きをして慌ただしく家を出て行ったのだった。
夜七時を過ぎた頃、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
「おかえり、瑠美子」
帰ってきた瑠美子の表情には、この一週間の張り詰めた硬さが少しだけ和らぎ、どこか心地よい疲労感が滲んでいた。学園祭での演奏や仲間たちとの時間が、あの子の強張っていた心を少しずつ解きほぐしてくれたのかもしれない。
秀一が休日出勤で帰宅が遅くなるため、今夜も瑠美子、瑛斗、私の三人で夕食を囲んだ。
食卓での瑠美子は、相変わらず淡々とした落ち着いた口調で「今日の学園祭の体育館での演奏、すごく盛り上がった」「瑛斗、見にきてくれてありがとう」と報告してくれたが、私と目が合うと、やはりどこか気まずそうにすっと視線を泳がせてしまうのだった。
夕食が終わり、片付けを終えると、瑠美子は「部屋で勉強する」と言って自分の部屋へと戻っていく。瑛斗は少しの間タブレットを弄りながらリビングのソファーにいたが、そのうち自分の部屋へと移動していった。
私は静まり返ったキッチンで、温かい緑茶を二つの湯呑みに丁寧に淹れる。湯気が静かに立ち上るお茶をお盆に乗せ、意を決して瑠美子の部屋へと向かった。
瑠美子の部屋の前に立ち、すーっはーっと深呼吸をひとつ。
トトトン、と静かにドアをノックする。
「瑠美子、ちょっといいかな?」
しばらく返事がないので、失敗したかもと思っていたら、やがて低い声が返ってきた。
「あ……うん、どうぞ」
ドアレバーを回して部屋に入ると、机に向かっていた瑠美子がくるりと椅子を回転させてこちらを見た。
「これ、温かいお茶。少し話しても大丈夫?」
「ん……うん。ありがとう」
瑠美子は机の上の参考書を端に寄せ、スペースを作ってくれた。私はベッドの端に腰掛け、空きスペースにそれぞれのお茶をことりと置くと、緑茶の柔らかい香りがふわり。
何から話すべきか、喉の奥が少し乾くのを感じながら、私は瑠美子の目をまっすぐに見つめた。今夜はもう、目を逸らさせないように。
「えーと、……瑠美子。この一週間、辛い思いをさせてごめんなさい」
私の最初の言葉に、瑠美子はびくっとして小さく息を呑んだ。
「お母さんね……立華の副顧問として、あのステージで一切の妥協をしたくなかった。それは仕事として、指導者として当然の矜持だったし、全力で挑むことこそが、北宇治のみんなに対する礼儀だと思ってた」
瑠美子は膝の上で拳をギュッと握り締め、じっと私の言葉を聞いている。
「でもね……指導者である前に、やっぱり私は瑠美子のお母さんなんだよ。瑠美子が夏休みのすべてを部活に注ぎ込んで、どれだけ練習してきたか、一番近くで見てきた。……だから、あなたの夢を立華の音で打ち砕いてしまったこと、瑠美子をあんなに泣かせてしまったことが、親として、本当に切なくて、申し訳なくて……でも、どうしようもなかったんだ」
胸の奥に溜め込んでいた本音を吐き出すと、目元がじんわりと熱くなった。
瑠美子は静かにうつむき、握りしめた拳を見つめていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……お母さん」
その声は、この一週間の冷たく固いものではなく、いつもの柔らかい娘の声だった。
「私ね……お母さんの立場も、言いたいことも、最初から全部わかってたよ。うん、一応、わかってた……」
瑠美子はぽつり、ぽつりと語り始めた。
「お母さんが立華の先生として、一切の妥協なしで全力を尽くしたこと、私は最初からわかってたよ。どんな時でも自分の仕事に一切手を抜かない、筋を通す人だって知ってるから……だからこそ、私はお母さんを尊敬してるんだ」
瑠美子は少しだけ目元を緩め、照れくさそうに言葉を重ねる。
「だけど……あの時、立華の全国出場が決まった瞬間……頭ではわかってても、胸の中がグチャグチャになっちゃって……。悔しくて、悲しくて、どうしようもなかった。大好きな吹部の仲間たちの顔を見るのも辛くて……一番大好きなはずのお母さんの顔を見るのが、一番怖くなって……」
瑠美子の目から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
「お母さんに冷たくあたって……ずっと困らせてごめんなさい……。取り乱して、子供みたいな態度取っちゃって……」
「ううん、……いいんだよ、瑠美子」
私はたまらずベッドから立ち上がり、瑠美子の肩を抱き寄せた。瑠美子は私の服に顔をうずめ、この一週間溜め込んでいた涙を吐き出すように小さく肩を揺らした。
「……でもね、お母さん」
瑠美子は涙を拭いながら、少し鼻声を交えて顔を上げた。
「今日、学園祭で仲間たちとステージで吹いて、次の植物園の演奏会の準備してたら……いつまでも関西大会の結果に囚われてちゃダメなんだなって、ようやく思えたの。山岡部長も言ってた通り、もう来年に向けた練習は始まってるんだから」
その瞳に宿るのは、葛藤を乗り越えた者だけが持つ力強い光。娘の頬に残る涙をそっと指で拭うと、胸の奥から温かな安堵がこみ上げてくる。
そこにはもう、ふたりを隔てていた透明な壁など存在しない。目の前に咲いたのは、私の愛おしい、いつもの瑠美子の笑顔だった。
「瑠美子、大人になるとね、こういう風に自分の立場と感情がぶつかったり、どうしても避けられない切ない現実と向き合わなきゃいけないことが、たくさんある。……辛い思いをさせちゃったけど、この悔しさも痛みも、全部これからの瑠美子の音になっていくから。無駄なことなんて、ひとつもないからね」
そう言うと、瑠美子は「うん」と、はっきり頷いてくれた。
二人で温かいお茶を口に含むと、ふくよかな香りがじんわりと心にしみ渡っていく。
すると、静かになった部屋で、瑠美子がふっと表情を緩め、まっすぐに私を見つめてきた。
「そうだ。ねえ、お母さん」
「ん?」
「私がお母さんを許してあげる代わりにさ……条件があるんだけど」
「条件?」
私が首をかしげると、瑠美子は両手をキュッと握りしめ、悪戯っ子のような、けれど真剣な声で言った。
「絶対に全国金賞取ってきてね! お母さんだって、北宇治の部長時代に全国金賞取ったんでしょ? それなら、今度は指揮者として、もう一度最高の景色に立ってみせてよ。私たちの夢を乗り越えていったんだから、全国で金賞を取らなきゃ、私、承知しないからね!」
まっすぐで、どこか誇らしげな娘からのエール。けれど、その言葉の奥に、ほんの一瞬——瑠美子自身もまだうまく言葉にできていないような、複雑な色がふっと過ったのを、私は見逃さなかった。まるで、いつか自分もまた「北宇治の塚本」として、何かを背負うことになる未来を、遠くぼんやりと予感しているかのような、そんな横顔だった。
その言葉の重みと温かさに、私は思わず苦笑いを浮かべながら、深く頷いた。
「……うん。わかった。絶対に、金賞取ってくるよ」
夜の静けさの中、お互いの温かい笑い声が静かに響き渡った。
長い一週間が明け、私たちの本当の「明日」が、いま確かに始まろうとしていた。
しかし……私、子離れできてないし、この先できるのかな……。瑠美子と話せないことがこんなにも辛いなんて、この歳になって改めて実感した一週間だった。
でも、そう遠くない将来、瑠美子は私たちから巣立っていかなければならない。瑛斗だってそうだ。その時、私は毅然とした母親でいられるだろうか……うーん、自信ない。秀一なんか、もっと出来なさそうだ。
私たち夫婦に、大変な課題が見つかってしまった。秀一と相談しなきゃ……。
無理だろうなぁ。色々と。