第四十九話 みらいへインサイト − これがうちの目指す道 −
第四十九話 みらいへインサイト − これがうちの目指す道 −
朝夕の風にさやめく涼気が、宇治の山々の青葉をさらりと撫でていく。高く澄み渡り始めた空を見上げると、あんなに猛威を振るっていた夏の太陽が、少しずつその斜光を和らげているのが分かった。季節は確実に、秋へと歩みを進めている。
関西大会が終わって、二週間近くが経った。あんなに毎日、時が過ぎるのを忘れるくらいに楽器と向き合い、音を重ね合わせていた夏。高揚と緊張がないまぜになっていたあの時間が遠い昔のことのように思えて、校内に漂う空気はどこか抜け殻のように落ち着いている。全国大会に届かなかった切なさ――胸の奥に残る熱の余韻を抱えたまま、私は宙に浮いたような不思議な静けさの中にいた。
放課後の練習を終え、ユーフォをケースに仕舞うたび、この夏に置き忘れてきたものの大きさを思っては、小さな溜め息がこぼれてしまう。
「瑠美子っ!何ぼーっとしてんの?」
未来が私の肩をぱんと叩く。その叩かれた感触が、私を感傷の沼から現実へと強制的に引き戻した。
今、学校のグラウンドでは弾けるような歓声と黄色い土煙があがっている。そうだ、今日は体育祭だ。
「え?あ……ごめんごめん」
「大丈夫なん?最近ぼーっとしてること増えたで?」
「大丈夫、大丈夫」
「……ほんまに?ほら、手元のプログラム見て。もう競技が始まってるんやから、しっかりしといてや」
未来は赤縁メガネの奥の瞳を少し細めると、自分が持っていた手書きのプログラムをこちらにかざしてみせた。
北宇治高校の体育祭は、生徒主体の手作り感が伝統だ。校舎のすぐ裏手に山が迫るこのグラウンドは、一周わずか二百メートルと決して広くはない。けれどその限られた空間だからこそ、トラックを取り囲む応援席と競技エリアの距離が近く、熱気が逃げずに凝縮される。
各部活やクラスから選出された運営委員が生徒会と連携して裏方を仕切るのが、北宇治のルールだ。うちのクラスからはくじ引きで男女二人ずつが駆り出された。用具係の男子二人がグラウンドの端で入退場門の設置に汗を流す一方、私と未来は救護班を担当することになった。ちなみに体育祭の音源は放送部がPAで流すため、吹奏楽部の演奏機会はない。だからこそ私も、こうしてクラスの委員として裏方の業務に専念できている。
「ええっと、何だっけ……」
「午前のメインやね。百メートル走の予選が終わったら、北宇治名物の『レスキュー綱引き』。そのあと学年別の玉入れと、午前最後は……全学年縦割りのブロック対抗でやる、障害物&借り人競争」
未来は淀みなくプログラムを暗唱してみせる。手作りの進行表には、びっしりとタイムスケジュールが書き込まれていた。
「午後は部活動対抗リレーから始まって、ブロック対抗台風の目、スウェーデンリレー、最後に全校のブロック対抗リレー……って流れやね。一組から六組まで、学年をまたいだ色ごとのブロックで総合得点を競う感じ」
「相変わらずギッシリ詰まってるなぁ。確か、午前中に私らの出番もあったよね?」
「うん。私は『障害物&借り人競争』で、瑠美子は『学年別玉入れ』。出番が被ってへんから、お互い交代で走って救護テントに戻ってくれば大丈夫やと思う」
「よかったぁ。運動苦手な私でも、玉入れなら足引っ張らずに済みそうだしね」
「ふふ、まあ気楽にいこ。あ、レスキュー綱引きって、あの途中で助っ人がダッシュで駆けつけるやつだよね?」
「そう。走力とタイミングで一気に形勢が逆転するから、毎年一番盛り上がるやつ」
未来はそう言いながら、プログラムを四つ折りにして体操服のポケットに仕舞い直した。
「よし、そろそろ本部テントに入っておこか。最初の競技、もう始まってるし」
「そうだね」
二人でトラック脇に設置された大きめの本部テントへと移動する。テントの端に置かれた『救護』の看板の前に折りたたみ脚の長机とパイプ椅子を並べ、私たちはそこへ腰を下ろした。机の上には消毒液やガーゼ、各種サイズの絆創膏やコールドスプレーが入った救護箱が、ポツンと用意されている。
「瑠美子も一緒に救護班になってくれて助かったわ。二人で手分けできるしね」
「うん、私に何ができるかわかんないんだけどねぇ……まぁ、保健の濱崎先生に引き継ぐことぐらいはできるだろうけど……未来は救護班、大丈夫そう?」
「んー、まあ、大したことはできへんけど、擦り傷の消毒とか湿布の貼り方くらいならな」
未来はどこか他人事のようにそう言って、自分の腕に巻き直した黄色い『救護』の腕章を指先で少しだけ整えた。
関西大会が終わってから、もう二週間近くが経つ。当日の酷い落ち込みようが嘘のように、いまの横顔はいつもの穏やかな未来そのものだ。けれど私にはそれが、自分の感情に蓋をして「与えられた役目を淡々とこなそうとしている」だけのようにも見えた。
「パンッ!」というスターターピストルの甲高い音が、秋晴れの空に響き渡った。
グラウンドを揺らすような歓声が一瞬で弾け飛び、トラックの直線コースを一群の影が疾走していく。競技プログラムの皮切りである「男子百メートル走」の予選が始まったようだ。
本部テントのパイプ椅子に腰を下ろし、私はトラックを駆け抜ける選手たちの熱気をじっと見つめていた。体育祭はまだ始まったばかりだし、救護班の出番なんてそうそうないはず――そう高を括って、パイプ椅子の下で足をふらふらとさせていたら、すぐに『見過ごせないレベル』のハプニングがやってきた。
第三レースのコーナー付近。激しくせり合っていた男子生徒の足がもつれ、土煙とともに赤土のトラックへ勢いよく滑り込んだのだ。
「うわ、痛っ……!」
周囲から小さな悲鳴が上がる。彼は何とか立ち上がってゴールラインを駆け抜けたものの、クラスメイト二人に両肩を抱えられ、足を引きずりながらこちらへ向かってきた。鉢巻の色から、どうやら一年生たちのようだ。
「すみませーん! こいつ膝から血が出てて……」
「ああっ、はいはい!こっちに座って!」
わぁわぁと騒ぎ立てる付き添いの男子生徒たちに押されるように、私は彼の足元を見て思わず顔をしかめた。体操服のハーフパンツから覗く右膝には、じんわりと血が滲む痛々しい擦り傷ができている。赤くむき出しになった皮膚に細かい土や砂がへばりついていて、いかにも痛そうだ。
「うわぁ、痛そう……」
見ているこちらまで膝の裏が少しむずがゆくなるような光景に、私は一瞬、どう動けばいいか躊躇してしまう。
「痛っ……てて、砂入っててやばい」
「お、お水持ってきます」
私が慌ててペットボトルの水を手に取ろうとした瞬間、未来がすっと前に出た。
「あー、大丈夫やで。右足、椅子の上に伸ばして置いてみて」
未来の声は驚くほど落ち着いていて、トーンも低く柔らかい。不安そうに顔を歪めていた男子は、言われた通り痛みに堪えながら並べている椅子の上で足を伸ばす。未来は慣れた手つきで救護箱から極薄のビニール手袋、そしてガーゼと生理食塩水のボトルを取り出すと、男子生徒の膝の下にすばやくタオルを敷いた。
「今から水で砂流すな。ちょっと沁みるけど、我慢してや」
「あ、はい……」
「いくよー」
未来は優しく声をかけながら、ビニール手袋をした手で傷口に沿って丁寧かつ手早く水を回しかけ、土や砂利を洗い流していく。ただ雑に流すのではなく、色々と細かく調整しているのが横から見ていて分かった。痛がる隙を与えないほど、その指先の動きは滑らかで無駄がない。
「はい、大きな砂は取れたで。消毒液塗る前に、一度軽く水分拭き取るな」
未来はガーゼをポンポンと優しく傷の周囲に当てて水分を吸い取ると、消毒液の染み込んだ大きな綿棒を取り出した。
「ちょっと冷たいで」
声をかけながら、傷口を強く擦るのではなく、トントンと優しく置くように消毒液を塗っていく。男子生徒が一瞬「うっ」と身構えたものの、想像していたような強い痛みがないと分かると、すぐに肩の力を抜いた。
手際があまりに鮮やかで、付き添いの男子たちも「うわ、なんか本格的……」と息をのんで見守っている。
「擦り傷はきれいに洗ったけど、細かい砂が残ってるかもしれへん。保健室で濱崎先生にしっかり見てもらったほうが安心やと思う。瑠美子、案内頼める?」
「あ、うん! もちろん!」
私が頷くと、手当てを終えた男子生徒は膝に当てられた大きなガーゼを見つめ、ホッとしたような笑顔を浮かべた。
「……ありがとうございます。助かりました」
「うん、お大事にね」
未来に見送られながら、私は「無理しないで、ゆっくりでいいから」と彼らに声をかけ、校舎の方へと歩き出す。付き添いの友人に肩を借りながら、男子生徒は「手際良すぎてビビったわ……」と安心したように呟いていた。
職員室に近い保健室へ送り届け、保健の濱崎先生に「田中さんが初期手当をしてくれました」と伝えて引き継ぎを終える。濱崎先生も「助かるわ、手際がいいのね」と感心した様子で頷いていた。
案内を終えた私がグラウンドの本部テントへと戻ると、未来は救護箱の中身を元通りに整えているところだった。驚きと感心が混ざり合った気持ちで、私は思わずその横顔をじっと見つめてしまう。何事もなかったかのように、未来はいとも自然に、そして驚くほど手際よく応急手当を終えてみせたのだ。
「……未来、すごいね。処置するのに、全然迷いがなかったじゃない」
「え? そうかな」
未来は赤縁メガネの位置を少しだけ直すと、照れくさそうに首をかしげた。
「うち、ママから教えてもらってたんよ。『怪我人のパニックを鎮めるには、まず施術する側が声を低くして落ち着くこと』って。傷口洗うのも、痛がってるからって躊躇したら余計に砂が残って酷くなるから、手早くやるんやでって」
「ママさんの教え……か」
「家に救急医学とか、病気がみえるシリーズの本があって、図鑑みたいによく読んでたし……うち、別に何にも特別なことしてへんよ。見たり聞いたりした通りに、指動かしただけやし」
未来はそう言って、使った綿棒のゴミを小さくまとめてゴミ箱へ捨てた。本人は本当に「大したことではない」という顔をしている。けれど、教えられたからといって、あんなに落ち着いて手際よく動けるものだろうか。
謙遜する横顔を見つめながら、私は「未来って、本当に頼もしい」と、密かに感心していた。
午前のプログラムは順調に進み、グラウンドの熱気は最高潮に達していた。トラック中央では、二年生による名物種目「レスキュー綱引き」が始まろうとしている。スタートの合図とともに各クラスの選抜走者が走り出し、中央に置かれた一本の太い綱に群がって力任せに引き合う、なかなかダイナミックで激しい競技だ。もちろん、うちのクラスの男子たちも、何名か参加している。
「うわぁ、すご……みんな本気だねぇ」
本部テントから眺めていると、砂煙が舞い上がる中で「オーエス! オーエス!」という怒号のような掛け声が響き渡っていた。勝負が決した瞬間、歓声と落胆の声援が入り混じる。
なんで綱引きの掛け声は、オーエス、なんだろう?と思った直後だった。中央の綱から離れた一人の男子生徒が、左足をかばうようにしてその場にしゃがみ込んだ。周りにいた人たちが、心配そうに駆け寄る。
「あれ?ケガした?」
「うん、そうみたいやな」
肩を借りて立ち上がったものの、左足に体重をかけることができないようで、爪先だけでひょこひょこと歩いている。友人達に付き添われ、彼は顔を歪めながら救護テントへと向かってきた。廊下とかで見たことはあるけど、クラスが違う男子なので私にも未来にも面識はない。
「すみません、 綱引きで足捻ったらしくて……」
付き添いの男子が声を上げると、パイプ椅子に腰掛けていた未来がすぐに立ち上がった。
「こっち来て。無理して歩かんでええから、そこの椅子に深く腰かけて」
未来は先ほどと同じ落ち着いた手つきで椅子を引き寄せると、迷わず彼の左足の前にセットした。すると彼は、ポツリと呟いた
「あの……六組の田中さんと、塚本さん……よね?」
「そうだけど」
「うちのクラスのヤツが、救護テントにめちゃくちゃ美人がおるって噂してて……あ、ほんまやなと思って」
「アア、ソウデスカ」
私が苦笑いで返す間も、未来は構わず薄いゴム手袋をつけ、彼の足首へと視線を落としている。
「足首、見せてもらうな。靴紐緩めるで」
未来の手つきは、どこまでも冷静だ。シューレースを丁寧に緩め、靴と靴下を刺激しないよう慎重にシューズを脱がせていく。露出した左足首のくるぶしの下あたりが、右足に比べて少しだけ赤く、腫れ始めているのが分かった。
骨の出っ張り辺りを軽く確かめ、指の可動を尋ねる未来の問いかけに、男子生徒は痛みに顔をしかめながらも素直に答えていく。ひとつひとつのやり取りは短いけれど、迷いのなさだけが、はっきりと伝わってきた。
「骨までは、いってなさそうなんで、靭帯を伸ばした結果の損傷――いわゆる捻挫やね。指も動いてるし。でも、無理に動かすのは禁物やからね」
未来は解説しながらも手を止めず、患部の様子を観察している。そして、私に向かってやんわりとした口調で指示を出した。
「瑠美子、救護箱の横のアイスバッグにクーラーボックスの氷をいくつか入れて、水少し混ぜて持ってきてくれる? あと、濡らしたフェイスタオルも一枚お願い」
「あ、はいっ!わかりましたっ!」
私が急いで氷嚢とタオルを用意する間も、未来の手はもう次の処置へと進んでいた。冷やしながら足を少し高くする、三角巾でアイスバッグを固定する――RICE処置って言うそうだけど、その要点を迷いのない指先が淡々となぞっていく。
「これで十五分くらい冷やしとくね。うちができるのはここまでやから。湿布貼って固定するくらいの初期手当しかできへんし、このあとはちゃんと保健室で濱崎先生に見てもらって、必要なら放課後に整形外科行くんよ」
「はい……めっちゃ助かりました。なんか、手際がプロっぽくてビビりました……」
「ううん、たまたま昔、こういう手当のやり方を教えてもらう機会があっただけやで」
そう淡々と返す未来の眼差しには、男子生徒を気遣う温かさがある。当然、本格的な医療行為まではできない。けれど、いま目の前にいる相手へできる限りの適切な初期手当を迷いなく施す姿には、押し付けがましさなんてどこにもなかった。
「未来ってさ……」
冷やしている間、彼の横で救護記録のメモを取りながら、私は思わず声を漏らした。
「本当にすごいよ。指示も的確だし、声のトーンが落ち着いてるから、怪我した人も安心できるんだと思う」
「そうかな……? 瑠美子がすぐに氷とタオル準備してくれたから助かったよ。一人やと手際悪くなってたし」
未来はメガネのつるをちょっと指で押し上げながら、嬉しそうに目を細めた。
十五分後、アイシングを終えた男子生徒は、付き添いの友人に支えられながら、「田中さん、塚本さん、ほんまにありがとうございました」と何度も頭を下げて保健室へと向かっていった。
その後、お昼休憩までの午前中は、私も未来も交代で自分たちの競技に出場した。運動が苦手な私は、高く掲げられた籠に向かって必死に玉を投げ入れ、未来は障害物競走で見事な借り人引き当てを見せて救護テントへと戻ってきた。
互いの健闘をたたえ合いながら仕事に戻ったものの、午後に入ると気候が変わってきた。九月も中頃だというのに、澄み渡っていた秋空からギラギラとした日差しが降り注ぎ、グラウンド全体が焦げるような暑さに包まれ始めたのだ。
そんな中、体育祭もいよいよ終盤。トラックでは花形のブロック対抗リレーが繰り広げられ、割れんばかりの大声援がグラウンドを揺らしている。熱狂が頂点に達する一方で、長時間の屋外活動と緊張から、生徒たちの疲労もピークに達している時間帯だった。
「やっぱり、ブロック対抗リレーは盛り上がりが段違いだね」
本部テントのパイプ椅子から身を乗り出すようにしてトラックを眺めていた私は、思わず言葉を漏らした。だが、ふと隣を見ると、未来はトラックの熱気を見てはいなかった。応援席の末端やトラックの脇で力尽きたように座り込んでいる生徒たちへ、すっと鋭い視線を向けていた。
「瑠美子、ちょっとあっち見て」
「え?」
未来が指さした先には、三年生の応援テントの陰があった。ブロック対抗リレーで自分の走区を走り終えたばかりと思われる女子生徒が、クラスメイトらしき二人に両肩を抱えられ、足元をフラフラと覚束なくさせながらこちらへ向かってくるところだった。
「顔、すごく赤い……それに肩で息をしているようや」
未来の言葉にハッとしてよく見ると、その先輩はハチマキを固く巻いたまま、うなだれるように首を振っていた。額からは大量の汗が吹き出し、唇が少し乾いているように見える。付き添いの女子たちが、焦った様子で救護テントへと駆け込んできた。
「すみません! この子がリレーのあと急に気分悪くなっちゃって! 立ちくらみがするって……あ、塚本さんに、田中さんやん?」
駆け込んできたのは吹部の先輩の野中さんと新田さんだ。野中さんはパーカスのパーリーで新田さんはフルート。そういえばこのお二人、一緒にいるのをよく見た覚えがある。
「あなた達が、救護班やったんやね」
「はい、野中先輩! ……どうされたんですか!?」
「この子、岡本って言うんやけど、さっきのリレーに出て戻ってきたら、気分が悪いって言うもんだから……」
「そうなんですか。先輩、こっちへどうぞ! 日陰で風が通るところに椅子用意しますから!」
私が慌ててパイプ椅子を動かすと、未来はすでに救護箱から必要なものを取り出し、さささっと先輩の元へ歩み寄っていた。
「先輩、救護の田中と言います。顔あげられますか?」
未来の声は、午前中と同じように驚くほど低く、柔らかく落ち着いている。付き添いの吹部の先輩たちも、その声を聞いて少し安心したのか、肩の力を抜いたようだった。
「う、うん……なんか、頭がガンガンして……気持ち悪い……」
「わかりました。大丈夫ですよ。今から体を楽にしますね」
未来は先輩の前に屈み込むと、まずは状態を観察するように素早く視線を走らせた。
「瑠美子、うちわか下敷き持ってきて、風送ってもらえる? あと、クーラーボックスの中のポカリもお願い」
「わかった」
私は指示通り、クーラーボックスのそばに置いていたうちわと、中から程よく冷えたポカリのペットボトルを取り出している間も、未来の手際よい処置は続いていた。
「先輩、襟元少し緩めますね。ハチマキも解きます。苦しくないですか?」
「あ、うん……ありがと……」
「先輩方、スミマセンが男子に見えへんよう、ちょっと壁になってもらえますか?」
「え? あ、うん、わかった!」
未来は手早くハチマキを解くと、先輩のVネックの襟元を手で引っ張り、中に溜まった熱を逃がすように風を通した。ウエストのゴムも、引っ張って締め付けを緩めていく。続いて、私が手渡した冷たいペットボトルを受け取ると、それを直接飲ませようとはせず、まずは先輩の首筋や脇の下にそっと当てた。
「ひやっ……」
「冷たいですよね。今、体を冷やしますからね。瑠美子、またアイスバッグに氷と水を」
「うん」
未来の指示で氷嚢を作り、彼女に手渡す。
未来はその氷嚢を濡らして固く絞ったタオルで包んだ。
「あと、保冷剤もう二つ。タオルで巻いて渡してくれる?」
「はい、これ!」
「ありがとう。……先輩、ちょっと失礼しますね。太い血管が通ってるところを冷やします」
未来は慣れた手つきで、氷嚢を先輩の首の後ろを包むように当て、保冷剤を左右の脇の下へと挟み込ませた。
「太ももの付け根――股関節のところも冷やすと効率がいいんやけど、自分で押さえられますか?」
「うん……こう……?」
「そうです。上手です。そのままじっと挟んでおいてくださいね」
体を締め付けるものを緩め、首筋、脇の下、股関節の三箇所を冷やしていく。さらに、私が横からパタパタとうちわで風を送り続けると、先輩の荒かった息遣いが、少しずつ静かになっていくのが分かった。
「顔の火照り、少しマシになってきましたね。水分、飲めそうですか? 一気に飲むと胃がびっくりするから、一口ずつちびちび飲んでみてください」
「……うん」
先輩は差し出したポカリを小さく一口含み、ゆっくりと飲み込んだ。未来はその様子をじっと見守る。飲み込みに喉が詰まらないか、吐き気がないかを慎重に確かめているらしい。
しばらくの間、様子を見ていた未来は、先輩に優しく話しかける。
「気分、どうですか? 吐き気とか、手足のシビれはないですか?」
「うん……さっきより、ずっと楽……頭のガンガンするのも、冷やしてもらったら少し落ち着いてきた……」
「よかった。でも、これは熱中症の初期症状やから、油断は禁物です。涼しい保健室で、ベッドに横になって濱崎先生にしっかり状態を見てもらいましょう」
未来はそう言って立ち上がると、私に向かって頷いた。
「瑠美子、保健室まで一緒に付き添ってもらえる? また立ちくらみするかもしれへんから」
「うん、もちろん!」
「野中さん、新田さん。岡本さんを保健室に連れて行ってきますので」
「あ、ありがとう」
私たちは両脇から岡本さんの体を優しく支え、ゆっくりとした歩調で校舎内の保健室へと向かう。
職員室近くの保健室に辿り着くと、濱崎先生がすぐにベッドへと案内してくれた後、濱崎先生に淡々と状況を報告した。
「先生、三年生の先輩です。リレー後に立ちくらみと頭痛、軽度の悪心がありました。日陰で衣類を緩めて、首筋と両脇、股関節をアイシングしています。水分も少し摂れましたが、念のため休ませてください」
報告を聞いた濱崎先生は、驚いたように目を丸くしたあと、頼もしそうに微笑むのだった。
「完璧な初期手当ね。ここまで適切に冷やしてくれてたら安心だわ。ありがとう、あとは私が見ておくから、二人は救護テントに戻って大丈夫よ」
「よろしくお願いします」
未来は丁寧におじぎをすると、安心して息を吐いた先輩に「お大事にしてくださいね」と声をかけ、保健室を後にした。
グラウンドの本部テントへと戻り、パイプ椅子に腰を下ろすと、二人同時に「ふぅ……」と大きなため息が漏れた。
「……これで午後の大きな山は越えたかな」
未来は赤縁メガネを外し、目元を指で軽くこすった。その表情には、さすがに少し疲れが見えていたけれど、どこかすがすがしい安堵感が漂っている。
私は、そんな未来の横顔を、心からの感嘆を込めて見つめていた。
「……ねえ、未来」
「ん? 何?」
「やっぱり、未来って本当にすごいよ」
私が真っ直ぐにそう言うと、未来はメガネをかけ直しながら、きょとんとした顔をした。
「え? 何が?」
「何がって……さっきの手当だよ! 先輩が倒れそうになって入ってきたとき、私、どうしていいか分からなくて一瞬フリーズしちゃったもん。なのに未来は、全然動揺しないで、必要なことをパッパッと判断して……服を緩めるとか、太い血管を冷やすとか、私だったら頭で分かっててもあんなにスムーズに動けないよ」
私が熱を込めて語ると、未来は少し照れくさそうに視線を泳がせ、膝の上で自分の指先をじっと見つめた。
「そんなことないよ。うちだって、最初は心臓バクバク言ってたし……」
「嘘だぁ。全然そんな風に見えなかったよ。声だってすごく落ち着いてて、先輩たちも未来の声を聞いて安心した顔になってた。あの落ち着きと的確な指示は、誰にでもできることじゃないよ」
私が力強く断言すると、未来は「そっかなぁ……」とつぶやき、ぽつりと言葉を続けた。
「……うちのママがね、よく言ってたんよ。『病気や怪我で一番不安なのは、患者さん本人だから。手当をする側が不安な顔を見せたら絶対にダメ』って。うち、ただママの真似をしてただけなんよ」
「ママさんの真似でも、それを現場で完璧にできるのは未来のすごさだよ。頼もしすぎるよ、ほんとに」
私が笑顔で言うと、未来は「瑠美子が手伝ってくれたからや」と謙遜しながらも、嬉しそうに目を細めた。
やがて、グラウンドから響いていた熱狂的な歓声が落ち着き、閉会式を告げる放送が学校中に響き渡る。得点発表、表彰、校長先生の挨拶、そして生徒会長による閉会宣言。秋晴れの空の下で行われた体育祭は、すべてのプログラムを無事に終了したのだった。
「よし、じゃあ救護テントの片付けに入ろうか」
「うん!」
全校生徒が各クラスのテントの撤収を始める中、私と未来も長机の上に並べた救護箱やポカリスエットの予備、クーラーボックスなどを片付け始めた。パイプ椅子を畳み、テントの足を縮める作業をしていると、西へと傾きかけた太陽が長い影を伸ばし、グラウンド全体を斜めの眩しい光で包み込んでいく。
「田中さん! 塚本さん!」
片付けの最中、不意に後ろから透き通った声で名前を呼ばれた。
振り返ると、そこには制服に着替えた三年生の岡本先輩が立っていた。さっきまで顔を真っ赤にしてぐったりしていたのが嘘のように、顔色はすっかり元通りになり、しっかりとした足取りでこちらへ歩いてくる。
「あ、先輩! もう大丈夫なんですか?」
私が声をかけると、先輩は「うん、すっかり良くなった」と明るく微笑み、それから未来の前へと歩み寄った。
「田中さん、さっきは本当にありがとうございました!」
先輩はそう言うと、深々と頭を下げた。未来は驚いたように「あ、いえ! 頭をあげてください!」と慌てて手を振る。
「保健室で濱崎先生から聞いたよ。田中さんがすごく手際よく初期手当をしてくれたおかげで、熱が体にこもらずにすんだって。あの時、急に気持ち悪くなってすごく怖かったんやけど……田中さんが落ち着いた声で『大丈夫ですよ』って冷やしてくれたとき、本当に救われた気持ちになったんよ」
先輩は未来の手を両手でキュッと握りしめ、溢れんばかりの感謝を込めて言葉を続けた。
「本当にありがとう。おかげで最後の写真撮影にも参加できたし、最高の体育祭になったよ。田中さんが救護班に居てくれて本当に良かった!助かりました!」
先輩の真っ直ぐで温かい感謝の言葉が、夕暮れの心地よい風に乗って未来の心に届いていっているようだ。未来は握られた自分の手を見つめ、それからパッと顔を上げた。
「…… 先輩が元気になってくれて、ほんまに良かったです。お役に立てて嬉しかったです!」
「うん! 本当にありがとうね!」
先輩は最後にもう一度爽やかな笑顔を見せると、待っていたクラスメイトたちの元へと駆け出していった。その背中は、夕日に照らされてとても誇らしげだ。
先輩たちが去った後も、未来はその場にたたずんだまま、じっと自分の両手を見つめている。
自分の知識と差し出した手が、誰かの苦しみを和らげ、あんなにも深く感謝されたこと。ただ「ママに教わったから」やっていただけの作業が、いま確かにひとりの人を救い、大切な一日を守り切ったのだという実感――。その言葉にならない思いを噛みしめるように、未来は小さく息を吐いた。
「未来……?」
私が隣から静かに声をかけると、未来はゆっくりとこちらを振り返った。その顔を見て、私は息をのむ。メガネの奥にある未来の瞳は、夕日の光を受けてキラキラと輝いており、その表情には今まで見たこともないほど、澄み切った晴々とした笑顔が浮かんでいる。
「……瑠美子」
「うん?」
「うち……なんか、すごく嬉しい」
胸の奥から溢れ出るような、素直で温かい言葉。未来は自分の胸にそっと手を当てながら、晴れやかな笑みを深めた。
「自分の手がね、誰かの役に立って『ありがとう』って言ってもらえるのって……こんなに温かい気持ちになるんやね」
夕暮れの風が吹き抜け、未来の髪を優しく揺らす。
私は何も言わず、ただ温かい愛おしさを込めて未来のその晴々とした横顔に頷き返したのだった。
九月十四日、月曜日。秋の気配が一気に深まった爽やかな朝だった。
『三室戸、三室戸です』
列車のドアが開くと同時に、乗り込んできた未来と目が合った。
「おはよう、瑠美子」
「おはよう、未来」
交わした挨拶はいつも通りだったけれど、私は思わず未来の顔を二度見してしまった。メガネの奥にある瞳は少しの陰りもなく澄み渡っていて、その口元にはどこかすがすがしく、晴れやかな笑みが浮かんでいたからだ。ここ最近、どこか遠くを見るようなアンニュイな表情を浮かべることが多かった未来とは、まるで別人のようだった。
その理由が気になりつつも、月曜日という時間は容赦なく進んでいく。授業が終わり、放課後の部活動が始まっても、未来のまとっている雰囲気は変わらなかった。
音楽室に響き渡るトランペットの音色。今日の未来が鳴らす音は、驚くほどまっすぐで、どこまでも伸びやかだった。まるで心の中にあった大きな引っかかりが、綺麗に溶けてなくなってしまったかのように。
「それじゃ、今日の練習はここまで! お疲れ様でした」
「お疲れ様でした!!」
部長の声がかかり、植物園の演奏会用の合奏練習が終わると、みんなそれぞれ急ぎ足で片付けを始めた。普段なら「帰りにアイス食べていかへん?」なんて話になるけれど、今日は他のみんなにそれぞれ用事があった。千紗は塾の補習があると言ってカバンを抱えて走り去り、美波や陽菜、凛々たちもそれぞれの方向へと散っていった。結局、昇降口を出て校門をくぐったのは、私と未来の二人だけだった。
茜色に染まり始めた住宅街を下っていく。夕日を反射してキラキラと黄金色に輝き、心地よい秋風が水面を渡って私たちの頬を撫でていく。
しばらく無言で歩いていたけれど、気まずい静寂ではなかった。むしろ、隣を歩く未来の足取りはとても軽やかで、何か大切な言葉を温めているような、不思議な充満感があった。
下校途中によく立ち寄る公園が目に入った時、未来がふっと足を止め、夕日に照らされたまま静かな声で切り出した。
「……あのなぁ、瑠美子」
「なーに?」
「うち、ようやっとやりたいことがわかったわ」
その言葉の響きに、私は息をのんで未来の横顔を見つめた。未来の視線は遠くの山並みに向けられていたけれど、その瞳には強い意志が宿っていた。すると、「あのな……」と言いながら公園の中に入って行くので、私も遅れないようについて行く。
東屋のベンチによいしょと腰を掛けると、 未来はどこか懐かしむようにぽつりと語り始める。
「……夏休み前にな、高坂先生からプロへの道を誘われたよなぁ。音大のパンフレット、手渡されて」
「あ、うん……」
私はあの時のことを思い出し、胸がドキリとした。あの二者面談が終わった後のこと、突如学校に現れた麗奈さんが、私に未来の居場所を聞いては未来に音大のパンフレットを渡しに行った時の話だ。私には、音大の話は一切しなかったのに。
「あの時、すっごく嬉しかった。高坂先生みたいなすごい人に認めてもらえて、うちの演奏を評価してもらえたんやって思うと、胸が躍った。それからはもう、その気になって必死で頑張ってたんよ。プロの演奏家になるんやって」
けれど、と未来は言葉を区切り、自嘲気味に小さく苦笑した。
「でも……関西大会は、まるでダメやった。自分の実力のなさも、プロを目指すことの本当の厳しさも、思い知らされた気がした。あれで『やっぱりうちにはプロなんて無理や』って落ち込んで……でも、諦めたくなくて『いや、練習し直せばやり直せるんちゃうか』って、ずっと頭の中で同じところをぐるぐる回って悩んでてねぇ」
未来が一人で抱え込んでいた葛藤の深さに、私は胸がキュッと締め付けられるような思いがした。教室で、吹部で、それこそずっと共に過ごしていながら、私は未来のそんな苦しみにどれだけ気づけていただろうか。
「うちな、元々は『人を助ける仕事』をしようと考えてたんよ」
未来は赤縁メガネの位置を指で少しだけ直し、柔らかい声で続けた。
「お母さんが弁護士で、ママが看護師やろ? 小さい頃から、困ってる人を法律で守るお母さんの背中と、傷ついた人を現場で手当するママの背中を見て育ったから。二人とも格好良くて、うちも大きくなったら誰かを助ける仕事がしたいなぁって、ごく自然に思ってたんよ」
弁護士のお母さんと、看護師のママさん。二人の母親から注がれた愛情と、その働く姿は、未来の根っこに深く根付いていたのだ。
「でもそこに、高坂先生からのスカウトの話が舞い込んできたんよなぁ。音楽が好きで、吹奏楽が好きで、トランペットが大好きで……だから舞い上がってしもたんやと思う。高坂先生はうちに、夢を見させてくれたんよ。……とっても短い夢をね」
未来は寂しげに、けれど慈しむようにそう言った。音楽の道という輝かしい夢。それは未来にとって、自分の限界と本当の願いを知るための、かけがえのない寄り道だったのかもしれない。
そこで、私はゆっくりと尋ねてみた。
「……じゃあ、未来はどうするの?」
未来は振り返り、私を真っ直ぐに見つめた。
「うん。やっぱり、医療の道を目指す。とりあえずは……医師を目指したいな、と」
「お医者さん……!」
驚きで声をあげた私に、未来は「うん」と力強く頷いた。
「どうして……どうして急に気が変わったの?」
私の問いかけに、未来は照れくさそうに頬を緩め、先週の体育祭の出来事を振り返るように目を細めた。
「体育祭の救護班の仕事が、大きかったんよ。擦り傷の手当てをしたり、足首痛めた子の応急処置をしたり……。あの時、みんなが『助かりました』って言ってくれて……特に、熱中症で倒れそうになってた岡本さんがな、最後にすごく元気に戻ってきて、『田中さんのおかげで最高の体育祭になった』って手を握ってくれたやろ?」
夕日に包まれた本部テントの前で、先輩から感謝されていた未来の姿が、私の脳裏に鮮やかに蘇る。
「あの瞬間な、胸の奥がジンっと熱くなったんよ。うちの小さな知識でも、うちの手でも、誰かの役に立つんや、って。誰かの苦しみを和らげて、直接『ありがとう』って笑ってもらえることが、うちにとって一番胸が満たされることなんやって、はっきり分かったんよ」
未来の言葉には、迷いや偽りが一切なかった。救護班でのあの一連の出来事は、未来の中に眠っていた「大切な適性」を呼び覚ます、かけがえのないきっかけだったんだ。
「それでな、昨日――日曜日に、家族会議でお母さんとママの前で『うち、やっぱり医療の道に行きたい。医師を目指したい』って話したんよ」
「二人とも、なんて言ってた?」
「それがさぁ……」
未来は「聞いてよ瑠美子」とばかりに、可笑しそうに肩をすくめた。
「話を聞いたお母さんが、ふっと笑ってん。『そう言うと思ってたよ』だってさ」
「ははぁ」
「ママも『未来は昔から、傷ついた人を見捨てられへん子やったもんね』って頷いてて。お母さんなんか、『高坂さんの話が来たときも、未来は本当にやりたいことを最後は選ぶと思って見守ってた』って言うんよ」
未来は、はぁーっと大袈裟にため息をついて見せたけれど、その顔には家族への愛おしさが溢れていた。
「ほんま、お母さんにはかなわんわ。うちがどんだけ悩んで回り道してても、最初から全部お見通しやったんやもん」
そう語る未来の表情は、どこまでも晴れやかで、眩しいほどに輝いていた。
自分の目指すべき場所を見つけ、迷いを振り払い、明日に向かってしっかりと足を踏み出した一人の女子高生の姿が、そこにはあった。
「でも、麗奈さん……高坂先生には、なんて言うつもりなの?」
「あー……電話口でだいぶ慰留されたけど、繰り返し事情伝えて『申し訳ありません』って何回も言ったら、大きなため息一つついて許してくれはったわ」
「もう電話したの!?」
「うん、家族会議終わったらそのまま。すぐ出てくれたわ、電話」
「早っ……」
私はそんな大事なことを平然と話す未来にあっけにとられたけど、未来らしいな、とも思った。
「未来……本当におめでとう。すごく素敵だと思う。未来なら絶対、心から信頼される良いお医者さんになれるよ」
「ふふ、ありがとう瑠美子。まずは勉強、めちゃくちゃ頑張らんとあかんけどね」
未来はそう言って照れくさそうに笑った。
「でも……」
「なに?」
「トランペットはどうするの……?」
未来は空を見上げ、少し何かを考えるような素振りを見せるが、視線を膝に抱いたトランペットのハードケースに落としそっと指先を添えた。夕日の光を浴びるその瞳には迷いや焦りは一切なく、愛おしい宝物を見つめるような柔らかい愛着だけが宿っていた。
「トランペットは……ずっと続けるよ。プロにはならへんでも、うちからトランペットを取ったら何も残らへんもん。だって、もう体の一部みたいなもんやから」
「うん」
「趣味でも何でも、一生吹き続けていく。いつか医者になっても、休みの日に吹いたりしてさ」
「そっか……そうだよね」
メガネの奥の目を細めて微笑む未来の顔には、重荷を降ろしたからこそ戻ってきた、音楽に対する真っ直ぐで純粋な情熱が溢れていた。
「行こうか」と未来の声を合図に私たちは腰を上げ、秋の虫たちの声を聞きながら再び歩き出す。
晴々とした未来の横顔を見つめながら、私は密かに自分自身の胸の中に視線を落としていた。
……羨ましいな。
胸の奥で、ぽつりと小さなつぶやきが漏れた。
未来はこんなにもはっきりと、自分の進むべき「道」を見つけた。自分の手で誰かを救うという、揺るぎない夢を手に入れた。
翻って、自分はどうだろう。
私も「将来は音楽に関わる仕事がしたい」と漠然と思ってはいる。けれど、それは「演奏家になりたい」のか、「教える側になりたい」のか、それとも「音楽を支える裏方になりたい」のか……具体的な形はまだ何も見えていない。ただ「音楽が好きだから」という曖昧な気持ちのまま、ふわふわと漂っているだけだ。
はっきりとした目標を見つけ、胸を張って前を向く未来の姿が、少しだけ誇らしく、そしてほんの少しだけ羨ましかった。私もいつか、未来のように自分の道を見つけて、こんな風に晴れやかな笑顔で歩き出すことができるのだろうか。
「瑠美子? どうしたん、急に黙り込んで」
「え? あ、ううん! 何でもない!」
未来に覗き込まれ、私は慌てて手を振った。
「ただね、未来があまりにも格好いいから、見惚れてただけ」
「な、なに言ってるんよ、恥ずかしい!」
顔を真っ赤にして照れる未来を見て、私も思わず笑ってしまう。
私の迷いや悩みは、まだ解決したわけじゃない。けれど、隣で輝く親友の存在が、私の背中を優しく押してくれるような気がした。
赤く染まる宇治の街並みを、二人の影が長く伸びていく。
秋の風は半袖には少し涼しかったけれど、並んで歩く私たちの間には、どこまでも温かく穏やかな時間が流れていた。