第五十話 あらたなオーバーチュア - スタート!北宇治高校吹奏楽部新体制 -
第五十話 あらたなオーバーチュア - スタート!北宇治高校吹奏楽部新体制 -
九月二十日、日曜日。
宇治山と宇治川に挟まれたマンションの三階、玄関を入ってすぐ右側にあるのが私の部屋だ。
窓を少しだけ開けると、しっとりと湿り気を含んだ空気が、静かに部屋の中へと流れ込んでくる。もう少し開けて格子の間から空を見上げると、どこまでも低い灰色が広がっている。大吉山の展望台あたりも靄っているように見え、まるで薄い墨を流し込んだかのような、どんよりとした重い雲が天頂を覆い尽くしていた。
秋雨の走りだろうか。今にも雨粒が落ちてきそうな気配を漂わせながらも、不思議とまだ降り出してはいない。川霧の気配と濡れ落ち葉の匂いを含んだ風が、私の頬をさらりと撫でて通り抜けていく。
無地の白いカットソー姿で履き慣れたストレートのデニムパンツに足をとおし、クローゼットから薄手のカーディガンを取り出し、羽織る。背中の真ん中まで伸びた髪を手ぐしでさっと整えて部屋を出ると、キッチンのほうから母の声が飛んできた。
「瑠美子、もう出かけるの?」
「うん、今から行けばちょうどいいぐらいと思うし」
「……それなら、傘を持っていきなさい。今日は午前中の方が、いつ雨振り出すかわからないよ」
私は「はーい」と声を返し、玄関の壁にある姿見の前で自分の姿を確かめる。ふう、と小さく息を吐き出してからスニーカーを履き、鞄に折りたたみ傘を押し込んで、カチャリと鍵を開け重いドアを押し開ける。
「行ってきます」
「はい、気をつけていってらっしゃい」
玄関先まで出てきていた母の見送りの声を背に受けながら、バタンと玄関ドアを閉めた。
マンションのエントランスを出た外の空気は、やはりどこか重たかった。秋の気配を混じえた風が宇治川の水面を揺らし、岸辺の樹々の葉をかすかに鳴らしている。日曜日の朝ということもあってか、平等院あたりも、行き交う人の姿はまばらだった。
縣神社を過ぎて、宇治橋通り商店街を歩く。JR宇治駅にほど近い、いつもお世話になっている美容室に向かっているのだけど、今日は特に緊張感を感じながら歩いている。自分ではもう決めたはずなのに、近づくにつれ迷いの心が頭をもたげてくる。
「いや、もう決めたのだから」
そう自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせるようにする。
通いなれた道の角を折れたところにあるガラス張りのドアの向こうに、温かみのあるオレンジ色の照明が見える。時間通りに目的の場所についたようだ。入口の前で深呼吸一つ、意を決してドアを押すと、カウベルの澄んだ音が静けさを破って鳴り響いた。
「いらっしゃいませ。」
「おはようございます。予約していた塚本です」
「はい、お待ちしておりました。準備ができるまで、もうしばらくそちらのソファで少し待っていてください」
すっかり馴染みとなった美容師さんが、柔らかい笑顔で迎えてくれた。鞄と上着を預け、私は待合スペースの皮張りソファに深く腰を下ろす。
店内には、かすかにシャンプーの甘い香調と、心地よいスムースジャズのBGMが漂っていた。けれど、普段なら心を和ませてくれるその空間も、今の私にはあまりにも異質で、胸の奥がキュッと絞られるような緊張感を覚えてしまう。
膝の上に置いた自分の手に視線を落とし、指先をぐっと握りしめる。……もう、決めたんだから……。
「塚本さん、お待たせしました。こちらへどうぞ」
名前を呼ばれ、私は弾かれたように顔を上げた。
「あ、はい」
立ち上がり、案内されたカットチェアへと向かう。店内の一番奥、大きな一枚鏡の前に置かれた、少し高めの椅子。そこに腰を下ろすと、身体が深く沈み込むような感触があった。
「今日はどうしますか? いつものように、そろえる感じでいいですか?」
美容師さんのその気さくな問いかけが、耳の奥に優しく響いた。
——今日はどうしますか。
その言葉が引き金だった。瞬間、胸の奥に閉じ込めていた緊張と覚悟が一気に溢れ出し、私の意識は現実の美容室の風景から一瞬遠のいていく。
……そう、それは昨日のことだ。
九月十九日、土曜日。
どんよりとした雲が低く垂れ込めていた、北山の京都府立植物園。広大な敷地の一角、青々と茂る樹々に囲まれた野外ステージで、私たち北宇治高校吹奏楽部は秋の演奏会に臨んでいた。
京都府内の高校数校が集まる演奏会ということもあり、広場を埋め尽くした客席には、保護者や地元の吹奏楽ファン、散策ついでに足を止めた家族連れなど、大勢の人々が詰めかけていた。野外ならではの開放感の中で、各校が趣向を凝らした音色を代わる代わる響かせていく。
残暑の面影と、ほのかに混ざり始める秋の気配。少し湿り気を帯びた空気に溶け込むように、北宇治が誇る重厚で澄んだサウンドが、北山の空へと真っ直ぐに抜けていく。最後の曲を吹き終えると、押し寄せるような温かい拍手が会場を包み込み、吹き切った達成感が胸の奥を心地よく満たしていく。
全プログラムが無事に終わり、ステージ裏の控えエリアは、撤収作業に追われる各校の生徒たちでごった返していた。他校の部員とすれ違いざまに挨拶を交わしつつ、自分のユーフォを丁寧にクロスで拭いてケースへしまっていた時だった。
「塚本ちゃん、ちょっとええ?」
片付けの手を止め、声のした方へ振り返ると、山岡部長と藤村副部長が揃って私のところへ歩いてくるところだった。
「あ、お疲れさまです」
「お疲れサン。……あのな、これ終わったらなんか予定あったりする?」
山岡部長が、いつも通りのサバサバとした笑みを浮かべて声をかけてきた。隣に立つ藤村副部長も、どこか面白がるような表情でこちらを見ている。
「いえ、特に何もないですけど……」
「ほんま? じゃあさ、今日うちらに付き合わへん? ファミレスでお腹いっぱい奢ったるから」
「はあ?」
思ってもみなかった言葉に、間抜けた声が出てしまう。部活が終わった後にこの先輩二人に誘われるなんて、これまで一度もなかったことだ。首をかしげる私に、藤村副部長はニシシといたずらっぽく笑い、山岡部長が楽しそうに言葉を継いだ。
「まぁまぁ、詳しいことは後でな。……で、付き合ってくれる?」
「はぁ、それは構いませんけど……」
「おっしゃ、決まり! じゃ、学校戻って片付け終わったら声かけるわな」
そう言い残すと、二人はひらひらと手を振りながら去っていった。
何か、怒られるようなことをやらかしただろうか。急に奢るなんて言われると、かえって怪しくて落ち着かない。せっかくいい演奏ができて晴れやかだった気分に、急にそわそわとした緊張感が混ざりはじめていた。
借り切った大型バスに全員で乗り込み、北山の植物園を後にして学校へと向かう。
傾きかけた西日が照らす京都市内を抜け、バスは宇治へと進んでいく。車内には演奏会を無事に終えた安堵感が漂い、部員たちの会話が心地よい羽音のように弾んでいた。けれど、私はどこか落ち着かない気持ちのまま、流れていく窓外の景色を眺めていた。
「どうしたん?浮かない顔をして」
通路を挟んで隣の席にいる美波が声をかけてくると、私より先に窓側の珠里ちゃんが口を開いた。
「そうなんですよ。瑠美子先輩、さっきからずっとこうなんです。話しかけても上の空だし」
「え?いやいや、そんなことないよ」
「そんなことあります。今日の演奏のこと聞いても、『そうだよね、よかったね』ぐらいしか返事してくれないですし」
「瑠美子、心配事でもあるん?だったら、話聞くよ」
美波が私の方に身を乗り出してきたので、私は慌てて手を振り、なんでもないと主張する。
「大丈夫だって、本当になんでもないから」
「そう?」
「もうっ。先輩、いっつも大事なことは言ってくれないんだから」
「そんなことないって。ごめんごめん」
不満顔の珠里ちゃんと心配そうな美波。二人の視線に挟まれた私は、ただ苦笑いを浮かべながら弁明を繰り返すしかなかった。
学校に到着する頃には、西の空が茜色に染まり始めていた。
トラックから大型楽器や各自のケースを降ろし、手分けして音楽室や楽器室へ運び込む、いつもの撤収作業。両手に感じるハードケースのずっしりとした重み。それをスチール棚の定位置に収め終えたところで、廊下に山岡部長の通る声が響いた。
「みんな、片付けご苦労さま!それじゃあ、ちょっとだけミーティングするから、音楽室に集まってくださーい!」
部長の声をきっかけに、ぞろぞろと部員たちが音楽室に集まってくる。黒板を背にして、ズラリと一列に並んだ二十人の三年生たち。その中央に立つ山岡部長が、少しだけ照れくさそうに、けれど力強く声を張った。
「えー、今日は本当にお疲れ様でした! 他校もたくさんおる中で、今日の北宇治の演奏は文句なしに一番格好よかった! うちらの存在感、しっかりアピールできたんとちゃうかなと思います」
一斉に湧き起こった拍手が、音楽室の隅々まで広がっていく。山岡部長は一度大きく息を吸うと、少し柔らかな表情で私たちを見渡した。
「周知の通り、うちら三年生は今日の演奏会をもって、一旦部活の一線からは退くことになります。コンクールが終わってからも今日まで一緒に走ってくれて、みんな、ほんまにありがとうございました」
山岡部長が深々と頭を下げると、音楽室は拍手で包まれる。
「まあ、本格的な引退式は来週にちゃんとやるから、湿っぽい挨拶はその時にたっぷりさせてもらうことにして……」
「ほどほどにしときや」
「もう、余計なこと言わんの! とにかく、今は後輩のみんなと、指導してくださった丸尾先生、高田先生への感謝を伝える場にさせてください。ほんまにありがとうございました!」
「ありがとうございました!!」
先輩たちの声に私たち後輩の声が重なり、温かい拍手が音楽室の壁に反響した。
「それじゃあ、今日はこれで解散! お疲れさまでした!」
一斉に挨拶を交わし、三年生との別れを惜しみながら、みんながぞろぞろと音楽室をあとにする。
「お疲れー。瑠美子、帰ろうや」
鞄を肩にかけた未来が、ひょっこりと隣に並んできた。
「あ、お疲れさま。……うん、帰るんだけど、今日はこのあとちょっと約束があって」
「へえ、約束? 珍しいな」
未来は少し意外そうに目を丸くしたが、それ以上は突っ込まずにニッコリと笑った。
「そっか。じゃあ、うち先帰るわ。また月曜日な」
「うん。お疲れさま」
ひらひらと手を振って去っていく未来の背中を見送りながら、私は、ふう、と小さく息を吐き出す。
人影がまばらになり、夕闇の迫る音楽室に静けさが戻ってきた頃、すっと脇から二つの影が寄り添ってきた。
「塚本、おまたせ。じゃあ、行こか」
「はい……」
私は二人の後を追うようにして、放課後の静まり返った校舎を後にした。
向かったのは、京阪六地蔵駅のすぐ近くにあるファミレス。店内は土曜日ということもあってか家族連れや学生グループで程よく賑わっていた。
店員に案内されて奥のボックス席に腰を下ろすと、山岡部長が「好きなもん頼んでええよ」とメニューを開く。
「えっと……じゃあ、ドリンクバーと、このパンケーキで」
「もっと遠慮せんと頼めばええのに」
「いえ、もう十分です」
二人も注文を済ませ、ドリンクバーからジュースを注いだグラスを運んでくると、テーブルの上に小さな静寂が訪れた。グラスの中の氷が、カランと冷たい音を立てる。
山岡部長は一口ジュースを飲むと、肘をテーブルについてまっすぐに私を見つめた。その目が、いつもの陽気な先輩の顔から、部を束ねる「部長」の眼差しへと切り替わっていた。
「で、何か話があるんですか……?」
耐えきれず尋ねた私に、山岡部長は少しだけ呼吸を整えてから、静かに言った。
「あんた、次の部長やってくれん?」
「……へ?」
言葉の意味を理解するまでに、数秒の間が空いた。山岡部長を見て、それから藤村副部長を見る。真面目な顔の山岡部長も、にやにやと笑っている藤村副部長も、先ほどの言葉を冗談だと撤回することはなかった。
「いやいやいや、無理ですよ!できませんって!」
ぶんぶんと勢いよく頭を振った私に、藤村副部長が芝居がかった仕草でパチパチと手を叩いた。
「おめでとう! 低音からは久方ぶりの部長誕生やで!」
「そんなの求めてないですよ! だいたい、私にこの大所帯をまとめるなんて務まるとは思えないんですけど」
「いけるいける。大丈夫やって」
へらへらと笑う藤村副部長を押しのけ、山岡部長が真剣な面持ちで私に向き直る。
「うちはな、塚本に任せたいって思ってる。今年、うちらが果たせへんかった全国大会金賞の夢を、来年アンタたちの代で叶えてほしいねん」
「え……そ、その言い方は、ずるいですよ……」
私は山岡部長の苦悩を知っている。藤村副部長の陰での努力を、三年生たちがどれだけの想いでこの一年を、今年のコンクールを駆け抜けてきたかを、近くで見てしまっている。夢を託したい。そうまっすぐに言われて、断れるはずがなかった。
「引き受けてくれるな?」
真っ直ぐな山岡部長の問いに、私はしぶしぶと、けれど意を決してうなずいた。
「……分かりました。私でよければ」
「よし、新部長決定! おめでとう」
からかうような藤村副部長の言葉に、山岡部長は呆れ顔で頬杖をついた。
部長はバッグの中身を探り、そこからタブレットを取り出して私に問いかける。
「じゃ、次は副部長やドラムメジャーやな。誰がええとか希望ある?」
「え、そういうの、私に聞いてくれるんですか?」
「まぁ参考程度にはな。本決定は月曜日のミーティングの時のお楽しみ、ってのが北宇治の伝統やから」
「そんなのあるんですか?」
「もう最悪やったで。コイツが副部長って聞いた瞬間」
「あんときのアンタの顔、めっちゃ引きつってたもんな──痛っ」
こちらから見えないところで二人はげしげしと何かやっているようだけど、そういう音はスルーして私は山岡部長に向き直った。
「希望とかは特にないです。誰がなってくれてもありがたいですし……」
「うーん。じゃあ、田中さんは?よく塚本ちゃんと一緒にいるやんか」
藤村副部長の提案に、山岡部長がうーんと首をひねる。
「未来ちゃんかぁ。あの子は演奏も成績も頭抜けて凄まじいけど、副部長……とはちゃう気がするねんな。人間関係のフォローで悩ますより、トランペットのエースとして演奏面で引っ張ってもらう方が本領発揮できるんちゃう?」
「あー、確かに。じゃあ、椹木さんは?」
「椹木って、パーカスの?」
「うん、 あの子、いつも周りのことめちゃくちゃ見てるし、気配り完璧やからな」
「そうやなー。でも、あの子やと優しすぎる気もするねんなぁ。ほら、塚本は抱え込むタイプやから、心ん中まで踏み込んで、引っ張ってくれるやつがええと思うねん」
「でも、結構ずけずけいう時あったで」
「へぇ、そうなんや」
「しかし……そんなに手がかかる私を、なんで部長に指名するんです?」
「何言うてんの?うちらの代が始まってすぐの時から、うちはアンタを次の部長にするつもりやったんやで」
「へ……?」
知られざる事実を聞かされ、私は瞬間頭が真っ白になった。
「『一年生指導係』させたんは、下級生にアンタのことを覚えてもらうためや。なんのためと思ってたん?それに定演の係やって、少しでも多く、運営のやり方を見てもらうためや」
「私、体のいいパシリだと思ってました……」
「そんなアホな。そもそもな、六十名程度のこの大所帯をまとめていくには、やっぱり人間関係を円滑に回せるやつがいい。それに、演奏面でもしっかり実力がないとあかん。何より……ちゃんと、本音で頼り合える仲間がいる子やないと」
「頼りになる仲間、ですか」
「本気でアンタのことを考えて、支えてくれるやつ。いっぱいおるやんか。北宇治六人衆やろ?アンタらは」
本気で考えてくれる、仲間……未来や美波、千紗、陽菜、凛々たちの顔が脳裏をよぎる。
「大丈夫や。困ったら、うちらOGを遠慮なく頼ってええんやから」
「え~、もうOGなんですか?」
「まぁ実質そうやんか」
OGという言葉を聞いて、ゾクッとした。もう先輩たちはいないのだ。それに……先輩たちもこうして、上の代から北宇治の重みと想いを受け継いできたのだろうか。
黙り込んだ私を励ますように、藤村副部長が私の肩をぽんと叩いた。
「大丈夫! うちらが最強のチーム塚本を作ったるから」
「……その言い方、なんだか余計に不安になります」
「なんでやねん!」
即座にツッコミを入れる藤村副部長に、山岡部長が弾けたように笑った。それに引きずられるようにして、私も小さく吹き出してしまう。
この一年、私は山岡部長の背中を見続けてきた。あの強さと優しさを、自分も持ち合わせることができるのだろうか。
膝の上でそっと拳を握りしめ、私は運ばれてきたパンケーキ一口分を切り分け、口に運ぶ。胸の奥に灯った小さな覚悟の熱を、かみしめるように飲み込んだ。
土曜日の夜。家族四人が揃う我が家は、一週間で一番賑やかになる。
夕食のテーブルが片付き、リビングでは父が淹れたてのほうじ茶を飲みながらテレビのニュースを眺めている。キッチンでは、母が洗った食器を私が布巾で拭き、隣に立つ瑛斗がそれを受け取って順番に食器棚へとしまっていた。カチャカチャと重なる陶器の心地よい音と、水道から流れる水の音がシンク周りを穏やかに包む。
「瑠美子、今日のお夕飯、ちょっと残しちゃってたけどお腹の調子でも悪いの?」
洗剤の泡をシャワーで流しながら、母が心配そうに私を覗き込んできた。
「あ、違うの。LINEでも送ったけど、演奏会の後に先輩に呼ばれてファミレス行って……そこでパンケーキ食べたから、あんまりお腹空いてなかっただけ」
「なんだ、そういうこと。病気とかじゃないならいいんだけど」
ほっとした母の横顔を見ながら、私は手に持っていたお皿をキュッと丁寧に拭き上げ、瑛斗に渡す。
あのことを言うのなら、全員が揃っている今がいいのかもしれない。胸の奥で、ファミレスでの山岡部長たちの顔が重なる。私は一つ小さく息を吐き、食器を拭きながら、なるべくさりげない声トーンで切り出した。
「……あのね、お母さん。さっきのファミレスでね」
「ん?」
「山岡部長から……次の部長、やってほしいって言われた」
水道の音が、ぴたっと止まった。
母の手が動きを止め、泡のついたスポンジを持ったままこちらを振り返る。隣の瑛斗からの視線も感じる。数秒間の沈黙のあと、母はパチパチと瞬きをすると、すぐに口元を優しく緩めた。
「部長……瑠美子が?」
「姉ちゃんが、部長?」
母は手に持っていたスポンジを静かにシンクへ置くと、水道を少しだけひねって手に残った泡を洗い流した。壁のタオルでゆっくりと手を拭き、まっすぐ私と目を合わせる。
「そっか……で、どうするの?」
「うん、引き受けることにした」
努めて平静に喋ろうとしたが、少しだけ声が震えてしまった。その声を聞いて察したのか、母はしばらく私の顔を見て、何か言いたそうだけど一言だけ返してきた。
「そう……大変だと思うけど、頑張りなさい」
どこか誇らしげな母の温かい声。だが、静かに騒ぎ始めたのはリビングの方だった。
「えっ、部長!? 瑠美子が!?」
父が湯呑みを机に置いてガバッと立ち上がる。隣の瑛斗も、皿を棚にしまおうとした手前で完全にフリーズしていた。
「マジで……? 姉ちゃん、本当に引き受けたん?」
「うん。まぁ、そうなっちゃった……」
苦笑いする私に、父は嬉しそうに目尻を下げて声を弾ませる。
「そっかぁ、すごいやんか!」
けれど次の瞬間、ふと何かを思い出したように顎に手を当て、探るような目つきになる。
「……で、副部長はもう決まったのか?」
「ううん、副部長はまだ分からない。月曜日のミーティングで発表されるんだって」
「そうか……」
父はうーんと腕を組み、どこか落ち着かない様子で部屋をうろうろとし始めた。
「副部長か……もし男子だったら嫌だな。いろいろ心配だぞ……」
「はあ?お父さん、何言ってんの?」
呆れる私を余所に、父は「いやいや」と一人で焦りを募らせている。そして、聞かなきゃいいのに、墓穴を掘るような質問を口にしてしまった。
「な、なぁ瑠美子。その……副部長になるやつに、何か返さなきゃならんものとかがあったりするんか? 白い花が付いたヘアピンとか、そういう……」
「あーっ! もう、余計なことは思い出さなくていい!」
キッチンから父に向かって、母の甲高い声が飛んだ。母は顔を真っ赤にして、リビングの父をビシッと指さして制止する。
「な、なんで怒るんや。俺はただ、昔の記憶がだな──」
「いいから黙って! ほら、テレビでも見てなさい!」
「悪かったよ……」
小さくなってソファーに引っ込む父と、呆れ顔でため息をつく瑛斗。
二人の過去に一体何があったのか、何となく察しがついた私は、苦笑いを浮かべながら父に向かって言った。
「お父さん、大丈夫だよ。私にはそういう人はいないから」
「……そ、そうか。ならええんや……」
父はあからさまに「よかった〜」という顔で胸を撫で下ろした。だが、次の瞬間にはハッと目を見開き、顎に手を当てて唸り始める。
「……いや、でも待てよ? それはそれで父親として少々心配でもあるような……う〜ん」
安堵したのも束の間、一人で勝手に複雑な深読みを始めた父を見て、私はくすりと笑ってしまった。
賑やかなやり取りが落ち着くと、母は再び私の方を向き、手元の布巾で丁寧に指先を拭いた。その目はおそらく、かつて同じように北宇治の重責を背負った「元部長」としての、深くて温かい光を宿しているように見える。
隣にいた瑛斗は、最後のグラスを静かに食器棚へ収めると、パタンと扉を閉めた。空気の変化を察したのか、「お先〜」と小さく手を挙げてリビングへと戻っていく。
「いろいろ不安もあると思うけど、瑠美子のペースでいいんだからね」
「はい」
「ただ一つ、先輩としてのアドバイスね」
「はい?」
「何でもかんでも、一人で抱え込まないこと。問題点が出れば尚更のこと、仲間達で話し合いをしなさい。それは何も恥ずかしいことじゃない。いいことも悪いことも、みんなで共有するように、ね」
「わかりました。それってお母さんの……経験?」
「まあね。……瑠美子、悔いのないよう、頑張りなさい」
「……うん。ありがとう、お母さん」
静かになったキッチンで、母の言葉が深く心に染み込んでいく。
胸の奥に残っていたそわそわとした緊張感が、家族の温かい空気の中に溶けて、静かな覚悟へと変わっていくのを感じていた。
お風呂上がりの熱気が、自室の冷えた空気に触れてふわりと消えていく。ドライヤーのスイッチを切り、静まり返った部屋の中で、私は机の前に腰を下ろした。
鏡の向こうで、濡れ髪を乾かしたばかりの自分がこちらを見つめている。背中の真ん中あたりまで届く、少し茶色がかった私の髪。
膝の上に置いたスマートフォンを開き、部員名簿のファイルを表示させる。画面に並ぶ名前は、三年生も含めて全部で五十九名。来週には三年生が抜け、来年の春、次の新入生が入ってくるまでは、三十九名の大所帯を私が束ねることになる。
五十九人の人生、それぞれの音色、それぞれの想い。その頂点に立つという重みが、じわりと胸を押し潰しそうになる。
今までの自分じゃ、絶対にやっていけない。
目を閉じると、先月末の関西吹奏楽コンクール会場の情景が色鮮やかに蘇る。
北宇治の演奏が終わった後の、あの重苦しい空気。結果はダメ金。全国への扉は、またしても私たちの前で固く閉ざされた。ここしばらく、北宇治は全国の舞台から遠ざかっている。
そして、何より悔しかったのは……母が指導し指揮を執る立華高校の演奏だった。繊細で艶やかな音、それでいて会場を丸ごと支配するような音圧。客席でそれを聴いたとき、全身の血が引いていくような敗北感を味わった。北宇治は、完全にしてやられたのだ。
自分の奏者としての限界も、嫌というほど突きつけられていた。
幼い頃から可愛がってくれ、そして憧れ続けた麗奈さん。指導者として、演奏者として雲の上の存在であるあの人に、プロの音楽家としての道を示してもらえるような言葉は、私には一度もかけられなかった。期待されていないわけではない。でも、本物の才能を持つ者だけに向けられるあの眼差しが、自分に向けられることはないのだという諦めと、消し去れない悔しさ。
『今年、うちらが果たせへんかった全国大会金賞の夢を、来年アンタたちの代で叶えてほしいねん』
ファミレスで山岡部長が発した言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。
先輩たちは、あの悔しさを、果てしない努力を、すべて私たちに託して去っていく。そのバトンを受け取る覚悟が、今の私にあるのだろうか。
これまでの私は、いつだって誰かの背中を追いかけるだけだった。
麗奈さんや順菜さんの音楽にかける情熱にすがっていた。
母や父の音楽に対する愛情を、私も惜しみなく享受していた。
吹部では先輩たちの後ろについていき、仲の良い同期の輪の中で笑っていた。
憧れているだけの、守られているだけの「塚本瑠美子」のままで、どうやってこの北宇治を引っ張っていくというのだろう。
私がわたしでいるために、覚悟を示さなきゃいけない。生半可な気持ちのままじゃ、部員全員の人生を背負うことなんてできない。
視線を上げると、鏡の中の自分がじっと私を見返していた。手で自分の長い髪をすくい上げる。指をすり抜ける毛先の感触。
明日の日曜日、元から美容室に行く予約は入れていた。傷んだ毛先を少し整えて、トリートメントをしてもらうだけのつもりだった。
──今の私と、決別しないといけないのかもしれない。
胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
この髪を切ろう。長く伸ばしてきたこの髪を切って、言葉だけじゃない、目に見える形での覚悟を示そう。よし、そうしよう……。
でも、そう決めたはずなのに、すくい上げた髪を握りしめる手が、微かに震えてしまう。
いや、でも……この髪は、私の……ずっと大切にしてきた、私の一部なのに。これを切ってしまったら、本当にもう後戻りはできなくなる。弱くて甘えた自分のままではいられなくなる。
ふと視線を落とすと、机の片隅で小さな鉢に入ったユーフォルビアが、夜の静けさの中でひっそりと佇んでいた。母から譲り受け、自室でずっと大切に育てていて、この部屋の主のような存在。私はそっと伸ばした指先で、その丸みに触れた。
「……ねえ。私、ちゃんと変われると思う?」
ぽつりとこぼした問いかけに、もちろんユーフォルビアが答えてくれるわけではない。けれど、指先から伝わる生き生きとした緑の温もりに触れていると、胸の奥の迷いや震えが、すっと静まっていく気がした。
鉢からそっと手を離し、顔を上げる。鏡の向こうには、まだ不安げに自分と目を合わせられずにいる、弱気な私が映っていた。いつまでも守られる側にいようとする、情けない顔。
私は自分の頬を両手で軽く叩き、鏡の中の瞳を正面から見据えた。
「……ううん、ダメ」
鏡の中の自分に向かって、声に出して呟いた。
今までの気持ちのままじゃ、絶対に全国なんて行けない。山岡先輩たちの夢も、部員たちの想いも、守り切ることなんてできない。
憧れを捨てるんじゃない。憧れを超えるために、私は変わるんだ。
「……明日、髪を切ろう」
揺らぐ心を握りつぶすように、私はきっぱりと言い切った。
指先から髪をこぼし落とすと、鏡の中の私は、少しだけ強く、凛とした瞳で私を見つめ返していた。
「塚本さん?」
「え、あ、はい、スミマセン」
そうだった。私は今、美容室に来ているんだった。回想に浸っている場合じゃないんだ。
「今日はどうしますか? いつものように、毛先を2センチくらい揃えて、少し重さを取る感じでいいですか? あと、いつものトリートメントも一緒にやっておきますね」
鏡越しに、担当のお姉さんが見慣れた笑顔で尋ねてくる。そう、それが私の「いつもの」だった。
気合を入れるため髪を結んだときに崩れないよう、長さを保ったまま傷んだ毛先だけを数センチ切り落とし、重くなった内側を少しすいてもらう。仕上げにトリートメントをして艶を出す。数ヶ月に一度、そうやって大きくスタイルを変えることもなく、同じ長さを維持し続けてきた。
波風を立てず、今の自分を守るための、安全で慣れ親しんだリクエスト。でも、今日ここに来たのは、今まで通りの自分を守るためじゃない。
膝の上で重ねた手にぐっと力を込める。鏡の中に映る自分の瞳を、逃げないようにまっすぐに見つめ返した。
「あの……今日は、揃えるんじゃなくて……」
「?」
「バッサリ、切ってください。肩より上の……ボブにしたいんです」
「ええっ? いいんですか?」
「は、はい……お願いします」
「本当に、バッサリ切っちゃいますよ? 後悔しない?」
鏡越しに映るお姉さんの瞳が、どこか躊躇うように私を覗き込んでいる。
首元に巻かれたカットクロスの黒い生地の上に、自分の長い髪が重たく広がる。幼い頃からずっと当たり前のように手入れし、伸ばしてきた大切な髪。ずっと担当してくれているお姉さんだからこそ、私にとってこの髪がどれほどの存在かを知っているのだと、その静かな眼差しから伝わってきた。
「はい。お願いします」
もう一度、しっかりとうなずいてみせる。ここで僅かでも迷いを見せたら、昨日までの弱気な自分に簡単に逆戻りしてしまう気がした。鏡越しに見つめる自分の瞳に、ブレない覚悟を込める。
「でも塚本さん、背中の中ほどまであってこんなにキレイな髪なのに……あ、ちょっと待ってね」
お姉さんはふと思い立ったようにコームを持ち替え、私の髪の手触りをたしかめるようにすっと指を通した。そのまま手尺で肩までの長さを測り、鏡越しににっこりと笑いかけてくる。
「じゃあ、こんなに長さがあって傷んでないキレイな髪なら、ヘアドネーションしてみない?」
「ヘア……ドネーション、ですか?」
「そう。病気とかで髪を失った子供たちのために、医療用ウィッグを作る髪の毛を寄付する活動のこと。31センチ以上から寄付できるんだけど、塚本さんの髪なら、肩上のボブに切るなら余裕で取れるよ。どうかな? 大切にしてきた髪が、誰かの役に立つってすごく素敵じゃない?」
誰かの、役に立つ――。
お姉さんの言葉が、胸の奥に静かに染み込んでいく。ずっと大切に伸ばしてきた、私の一部だった髪。それをただ捨ててしまうのではなく、誰かの支えや希望として送り出すことができるのなら……いいかも。
「……はい。誰かの役に立てるなら、ぜひお願いしたいです」
「よかった! じゃあ、ドネーション用の準備からしていきますね。寄付する髪は濡らすとカビちゃったりするから、今日はシャンプーの前に、乾いたまま束ねて切っていきますよ」
お姉さんは手際よくコームを走らせ、私の髪を丁寧にとかしていく。ひんやりとしたコームの先が頭皮をなでるたび、背筋がすっと伸びた。髪をいくつもの細かいブロックに分け、それぞれの束の根元から少し離れた位置を、きつめの輪ゴムで固く縛っていく。
きゅっと頭皮が引っ張られる感触。鏡の中に映る私は、頭のあちこちに固い髪の束を作った、少し奇妙な姿をしていた。これから起きることの現実味が、刻一刻と迫ってくる。
「準備できました。ゴムの少し上から、一気にハサミを入れていきます。……いいですか?」
「はい。お願いします」
お姉さんがハサミを手に取り、右の耳下の束へと刃をあてた。逃げ場のない冷たい金属の感触が、首筋に直に触れる。
ザクッ、という、乾いた重い音が耳元で響いた。
固い束が切り離された瞬間、右側の頭からふっと重みが消えた。お姉さんの手の上に、ゴムで固く縛られたままの私の長い髪の束が横たわっている。
「……っ」
胸の奥を直接叩かれたような衝撃が走り、喉の奥が小さく引きつった。視界が急速に滲んでいく。幼い頃からずっと一緒で、嬉しかった時も、コンクールで悔しくて泣いた時も、いつも私の肩に触れていた大切な髪。それが自分の身体から完全に切り離された寂しさと切なさが一気に込み上げ、右の頬を一筋の冷たい涙が伝い落ちた。
すると、鏡越しに私の変化に気づいたお姉さんが、慌てて手を止める。
「塚本さん、大丈夫!? やっぱり、悲しくなっちゃった……?」
「だ、大丈夫です……!」
私は慌てて手の甲で頬の涙を拭った。声は少し震えてしまったけれど、鏡の中に映るお姉さんの目をまっすぐに見返す。
「大丈夫です。……続けてください」
「……うん。分かりました」
お姉さんは頷くと、優しく、でも迷いのない手つきで残りの束へハサミを入れていく。
ザクッ、ザクッ。
束が落ちるたびに、首元が劇的に軽くなっていく。カットクロスの上には、固く結ばれた私の髪の束がいくつも並べられていった。
涙はもう出なかった。頬に残った涙の冷たさが消えていくのと引き換えに、胸の奥で燻っていた覚悟が、静かに熱を帯び始めていた。
「はい、これでドネーション用のカットは完了です! 綺麗な状態で送れるように、ちゃんと包んで後でお渡ししますね。……じゃあ一旦シャンプーして、ここからボブの形に整えていきますよ」
切り落とされた髪の束が大切に袋へ収められたのを見届けてから、シャンプー台へと向かう。
温かいお湯が頭皮を包み込み、指先で丁寧に洗われていく。水流に乗って細かい毛くずが流されていく感覚は、これまでの迷いが一緒に洗い流されていくようだった。
席に戻り、ドライヤーの温風が吹き付けられる。ブローが進むにつれて、湿っていた髪がふんわりと空気を含み、顎のラインに沿うようなすっきりとしたボブのシルエットが現れていく。首筋に直接あたる風の温かさが、驚くほどダイレクトに肌へ伝わってきた。こんなに首元がスースーするなんて、知らなかった。
「少し量を減らして、顎ラインのきれいなボブに整えますね」
シャカシャカと、すきバサミの軽快なリズムが響く。
鏡の中に映る姿は、もういつもの私ではなかった。背中まであった長い髪はなくなり、顎のラインに沿うように切りそろえられたボブ。耳が少し覗き、首筋もはっきりと見えている。髪型が変わっただけで、我ながら顔つきまでどこかすっきりとして見えた。
山岡部長の真面目な眼差し。藤村副部長のいたずらっぽい笑い声。昨晩のキッチンの匂いと、母がかけてくれた「頑張りなさい」という言葉。そして、誰かのためにと送り出す私の髪。ハサミが入れられていくたびに、それらが一つずつ心の中で繋がっていく。
これからは、私がみんなの先頭に立つんだ。
北宇治高校吹奏楽部を、引っ張っていくんだ。
「はい、お疲れ様でした! どうでしょうか?」
お姉さんが首に巻かれていたタオルを外し、後ろに手鏡をかざしてくれる。
鏡の中の自分と、目が合う。
首筋に触れる短い毛先の感触は慣れえうのに時間がかかりそうだけれど、もう迷いはなかった。鏡の中にいたのは、守られる立場からみんなを支える立場へと踏み出した、新しい私――北宇治高校吹奏楽部・新部長としての、塚本瑠美子だった。
「……すごく、いいです」
私は鏡の中の自分に向かって、小さく、けれど深くうなずいた。
「ありがとうございます。大満足です」
美容室を出ると、もうすぐお昼を迎える明るい光の中で、秋の気配を含んだ風が剥き出しになった首すじを通り抜けていく。ぞくっとするほどの涼しさに身を縮めながら、私は途中のコンビニでレターパックを買い求め、まっすぐに自宅への道を急いだ。
歩くたびに跳ねる髪の軽やかさが、まだ自分のものじゃないみたいで落ち着かない。けれど、胸の奥に宿った覚悟は、さっきまでの迷いよりもずっと静かに、それでいて確かに息づいていた。
自宅マンションに到着し、玄関のドアを開け、靴を脱ぎながら声を張る。
「ただいまー」
「おかえりー。早かったねー」
奥のキッチンから、母の声とトントンとまな板を叩く規則正しい音が聞こえてくる。私は深呼吸をひとつして、覚悟を決めるようにバッグをしっかり握り直すと、リビングへと足を踏み入れ、キッチンのカウンター越しに手元へ集中している母に声をかけた。
「お母さん、ただいま」
「はいはい、お昼はすぐできるから……ええっ!?」
振り返った母の手が、ぴたっと止まった手にした包丁を少し浮かせたまま、丸く見開かれた目が私の頭に釘付けになる。一秒、二秒。母は息を飲むのも忘れ固まったように私を見つめ、次の瞬間、素っ頓狂な声を上げた。
「ど、どうしたの、その髪!? 」
無理もない。物心がついてから今日に至るまで、私は一度だって肩より短い髪にしたことがなかった。いつも背中まで伸ばして、結んだり編んだりしていた私のトレードマークが、跡形もなく消えているのだから。
私はすこし照れくさくなって、首すじを軽く手で撫でながら、あらかじめ考えていた言い訳を口にした。
「あはは……びっくりした?うん、ちょっと気分転換! 今年の夏、すっごく暑かったじゃない? 部活のときもずっと邪魔だなって思ってたから、思い切ってバッサリ切っちゃった。それでね、美容師さんにヘアードネーションしないかって教えてもらって、この髪を寄付しようと思ってるの」
努めて軽やかなトーンで話しながら、美容室のお姉さんに丁寧に包装し大きいジップロックに入れてもらった髪を、チラリと母に見せた。けれど、母の反応は私の予想とはまるで違っていた。
母は包丁をそっとまな板の上に置くと、言葉を失ったまま、じっと私の目を見つめた。私の瞳の奥にある決意を、すべて見透かそうとするような強い眼差し。
北宇治の部長という重責を知る母には、暑さのせいだなんて嘘は通用しなかった。このタイミングで長年大切にしてきた髪を切り落としてきた意味を、母はすべてを瞬時に察したようだ。
「……瑠美子」
掠れた声で私の名前を呼ぶ。急いでキッチンから出てきた母は、迷いのない足取りで私との距離を詰め、そのまま私をぎゅっと力強く抱きしめてきた。
「お、お母さん……?」
「……うっとうしかったからなんて、嘘つかなくていいの……」
耳元で聞こえる母の声は小さく震え、背中に回された腕にぎゅうっと力が込められる。私を丸ごと包み込むような母の体温に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……怖かったでしょ。覚悟を決めるの、すごく勇気がいったでしょ」
「お母さん……」
「わかるよ……わかる。だって、北宇治の部長だもんね。みんなの先頭に立つって、そういうことだもんね」
母の目から溢れた温かい涙が、私の首筋にぽたりと落ちた。
私自身、もう泣かないと決めていたはずだった。美容室で涙は全部流しきってきたつもりだった。なのに、母の温もりと、私の痛みを誰よりも理解してくれる優しい言葉に触れた瞬間、涙と一緒に胸の奥に溜まっていたものが一気に溢れ出した。
「……う、うん……ぐすっ……わ、私ね、先輩から……ひっ……ぜ、全国金を取ってって……言われたの、託されたの!……うっぅっ……先輩、たちの想いも、全国に……いぃ、行けなかった……くっ悔しさも……全部、アンタが引き継ぐんだって……」
「うん、うん……」
「でもでも……でも、今の私のままじゃダメなの……お母さんや、先輩たちの後ろをついていくだけの私じゃ……ひくっ……だぁ、誰も引っ張っていけないから……」
母の背中に回した手に強く力を込め、私は子どものように声を押し殺して泣いた。泣いてしまった。
母は何も言わず、ただ私の背中を優しく、何度も何度もさすり続けてくれた。私が背負ったものの重さも、その辛さもすべて知っている母の温もりが、私の覚悟を優しく包み込んでくれた。
しばらくして、私が少し落ち着いたのを見届けると、母は私の肩をそっと掴んで体を離した。涙で濡れた顔で、でも心底愛おしそうに目を細めて、私をまっすぐに見つめ返す。
「瑠美子……どんな時でもお母さんはあなたの味方だから……頑張れ、部長」
「……はいっ」
ぐいっと手で涙を拭い、力強く頷いた──その時。
カタリと和室の引き戸が開き、何か用事をしていたらしい父がふらりとリビングに出てきた。手に持った書類に目を落としたまま、何気なくこちらへ視線を向けた瞬間、父の動きが完全に凍りついた。
「……っ!?」
父は派手にのけぞり、手にしていた書類をバラバラと床に撒き散らした。自分の目を何度もゴシゴシと擦り、信じられないものを見る目で私の頭を二度見、三度見してくる。
「る、瑠美子……!? その髪……! え、なんで!? 髪が、髪がない!?」
「いや、あるよ。肩の上にはちゃんとあるから」
「そういう問題やないやろ! どしたんや急に、何かあったんか!? ……そうか、失恋か!? 失恋したのか!?」
「違うってば!」
「ちょっと、お父さん、落ち着いて」
父が手振り身振りで取り乱しているのを、母が呆れ顔で制止しようとしていた時、廊下からガチャリとドアが開く音がした。自室から喉を鳴らしながら出てきた瑛斗が、リビングの異様な空気に足を止めた。
「なにごと……って、ええっ?!」
手にマグカップを持ったまま、瑛斗の視線が私の頭でピタリと止まる。父のように取り乱すことはなく、ただじわじわと目が点になっていき、そのまま石のように完全フリーズした。
「……姉ちゃん、それ、コスプレのウィッグ?」
「地毛だよ」
「マジで……? え、誰……?」
まだ失恋を疑っている父と、「誰?」なんてひどいことをボソッと呟いて絶句している瑛斗。
さっきまでの母との温かく切ない雰囲気が一気に吹き飛んでしまって、私は呆れ半分、可笑しさ半分で小さく吹き出してしまった。覚悟を決めた時からずっと胸の奥で固まっていた重苦しさが、二人の騒ぎのおかげで、温かい可笑しさとなって心地よくほぐれていく。
「二人とも、大袈裟だなあ。……もう、一通り驚いたでしょ?」
私は二人に向かってべーっと少し舌を覗かせると、自分の短くなった髪を一度だけ手ぐしで整えた。
「あー、お腹すいた! お母さん、お昼の支度手伝うね。……あ、その前に服着替えてくる!」
父の「待て瑠美子! ちゃんと説明しろ!」という声を背中で受け流しながら、私はすばやくリビングを抜け出した。
自室に入り、パタンとドアを閉める。静かになった部屋で鏡に向かうと、そこには髪を短くし、泣き濡れて少し目を赤くした私がいた。けれど、その瞳の奥には、もう迷いなんて微塵も残っていなかった。
「よし」
私は自分に小さく気合を入れると、部屋着に着替えるために、着ていた服のボタンを解き始めた。
今日は月曜日だが、敬老の日で学校はお休み。けれど午前中のミーティングと個人練習のために、私はいつも通り制服に身を包んで学校へ向かっている。
澄み渡った秋空の下、私は短くなった髪を風に揺らしながら、京阪宇治駅へと宇治橋を渡る。首筋に川面を滑る風の冷たさが、まだどうしても落ち着かない。ホームで電車を待っている間も、すれ違う乗客や他の高校生からの視線がやけに肌に刺さる気がした。いや、ただの自意識過剰だとは分かっているのだけれど。
緑色をした電車が滑り込んできて、ドアが開く。車内へ乗り込み、空いている席に腰を下ろすと、ガラス窓に映る自分の見慣れないシルエットと目があった。ガラス窓の自分は、まだどことなく落ち着かないように見える。
定刻通りに動き出す列車。スピードが上がってきたかと思うと、すぐに減速。三室戸の駅に着き、右側のドアが開くと聞き慣れた足音が近づいてきた。
「おっはよー……って、えっ!?」
乗ってきた未来が、手を振る私を見るなり固まった。赤縁メガネの奥の目を限界まで丸くして、私の隣にダッシュで滑り込んでくる。
「瑠美子!? え、なにそれ! 髪、どうしたん!?」
「あはは……ちょっと、思い切って切ってみたの」
「ちょっとってレベルちゃうやん! めっちゃ短いやん! でも……うん。そうか……凄いやん、なんかカッコええで!」
未来は騒ぎながら私の髪を上から下からと観察し、黄檗駅に着くまでの間ずっと「びっくりしたー」を連発していた。
黄檗駅のホームでは、千紗と陽菜が並んで待っていた。乗り込んできた二人は、私と未来の姿を視界に収めた瞬間、示し合わせたように足を止める。
「おはよう……って、瑠美子!?」
「嘘、瑠美子!? 髪、切ったんや!?」
陽菜が甲高い声を上げて私の肩をユサユサと揺さぶり、千紗は目を大きく見開いて「すごい……雰囲気ガラッと変わったやん」と感嘆の息を漏らした。車内は一気に賑やかになり、周囲の乗客からの視線が私たちの方に集中する。少し気恥ずかしいけれど、みんなの驚きようがどこか可笑しくもあった。
続いて木幡駅。ドアが開くと、美波がゆっくりと乗り込んできた。美波は私たちの人集りを見るなり一瞬首をかしげたが、中央にいる私の姿をとらえると、ぴたりと足を止めた。
「……瑠美子」
「あ、美波、おはよう」
美波は驚きに眉をひそめたあと、すぐにその意図を察したように優しく目を細めた。そっと私の隣に歩み寄ると、私の肩のあたりの短い毛先に触れ、ふわりと微笑んだ。
「……似合ってる。すごく、凛として見えるよ」
「美波……ありがとう」
余計な理由を聞かずにすべてを受け止めてくれる美波の温かさに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
六地蔵駅で電車を降り改札を出ると、改札前で待っていた凛々がこちらに気づいた。
「みなさん、おはようござ……ひゃい!?」
変な声を上げた凛々は、持っていたバッグを落としそうになりながら私を二度見する。
「瑠美子!? あ、あの、髪が……! すごく、すごく似合ってる!」
「ふふ、ありがと」
学校までの道を歩く間も、音楽室へ到着してからも、驚きの連鎖は止まらなかった。
珠里ちゃんには「瑠美子先輩!?」と叫ばれ、他の二年生や一年生たちからも次々と驚きの声が上がった。流石にここまで驚かれ続けると、もうなんだか面白くなってきて、恥ずかしさよりも開き直りの気持ちの方が勝ってくる。
やがてミーティングの時間が近づき、二年生だけが音楽室に残る。三年生たちが引退し、少し広く感じられる空間。みんなそれぞれ椅子に腰掛け、「幹部って誰になるんやろね」「あの係だったら引き受けてもええな」とソワソワした様子で口々に話し合っている。
時計の針が、定刻を指した。
私は静かに立ち上がり、音楽室の前方、教壇へと足を一歩踏み出した瞬間、話し声がピタリと止んだ。
「おお〜……」
音楽室に小さな歓声とどよめきが広がり、一斉に十八人分の真剣な視線が私一人に集中する。
心臓がドクンと大きく脈打ち、一瞬だけ足がすくみそうになった。呼吸が浅くなりかける。けれど、私は首筋に触れる短い毛先を肌で感じ、胸の奥で深く息を吸い込んだ。土曜日の夜にファミレスで受け取った先輩たちの想い。昨夜、母が抱きしめてくれた温もりが、背中を強力に押ししてくれる。よし。
しっかりと前を見据え、私は声を張った。
「おはようございます。ただいまから、三年生引退に伴う新体制の発表、及び新しい各係を決めていくミーティングを行いますので、よろしくお願いします」
静まり返った音楽室に、自分の声がしっかりと響き渡る。
「まずは部長ですが……私、塚本が前部長より指名を受けました。引き受けたからには、一所懸命に努めますので、皆さんご協力をよろしくお願いします」
言い終えて深く頭を下げると、一瞬の間を置いて、音楽室全体に大きな拍手が広がった。仲間たちの温かい眼差しが、一堂に私を包み込んでいく。
みんなに認めてもらえたようなので、ホッとした心持ちのまま頭を上げ、私は言葉を続けた。
「次は、副部長ですが――」
私が言いかけると、前列の席から美波が静かに立ち上がった。美波は迷いのない足取りで教壇へと歩み寄り、私の右隣にスッと並んだ。
「副部長に指名された椹木です。塚本部長を支え、みんなが楽しめる部活を作っていきたいと思います。よろしくお願いします」
美波の落ち着いた声に、再び大きな拍手が沸き起こる。心強い相棒が隣に立ってくれたことで、私の胸の緊張がスッと和らいでいくのが分かった。
「次は、ドラムメジャーですが――」
今度は未来が、ニッと眩しい笑顔を浮かべて席を立った。堂々とした歩調で教壇へ上がると、私の左隣へと並ぶ。
「ドラムメジャーに指名された田中です。演奏面でみんなをグイグイ引っ張っていくんで、覚悟しといてや! よろしくお願いします!」
未来らしい威勢の良い言葉に、周囲からどっと笑いと歓声が上がった。
私の右側に美波、左側に未来。二人とも、私にとってかけがえのない、頼もしすぎる親友だ。この二人となら、どんな困難も乗り越えていける、そんな気がしてくる。
私は二人と顔を見合わせ、小さくうなずき合った。そして、再び全員に向き直る。
「目指すは全国大会金賞です。コンクールで無念な結果に終わった先輩たちの雪辱を、私たちの代で果たしましょう」
「「はい!」」
「それでは、みなさん、これから一年間、よろしくお願いします!」
三人揃って、深く一礼した。大きな拍手が音楽室の天井に反響し、新しい北宇治高校吹奏楽部の物語が、今ここから静かに動き始めた。
ミーティングとそれぞれの個人練習を終えて校門を抜けると、秋の風が心地よく頬を撫でた。山から吹き下ろす空気には夏の蒸し暑さはもうなく、どこかからっとした清々しさを帯びている。
賑やかな六人の足音を響かせながら、京阪六地蔵駅へと続く緩やかな住宅街の坂道を降りていく。首筋を吹き抜ける風にまだ少し身を縮めてしまうけれど、短い毛先が軽やかに揺れる感触は、もう嫌じゃなかった。
途中で自然と足が向いたのは、私たちがいつも集まる小さな公園だった。木々の隙間からこぼれる斜めからの木漏れ日が、ベンチや自動販売機を静かに縁取っている。自販機でボタンを押し、ガコンと重い音を立てて取り出し口に落ちてきた缶を手に取ると、それぞれの手に収まった飲み物からかすかな温もりと冷たさが伝わってきた。
「しっかし、よく思い切ったねー、瑠美子」
自販機に背中を預けた未来が、缶のプルタブをチキッと鳴らしながら、改めて私の短くなった髪に視線を送ってきた。
「朝、電車で会った時はほんまビビったで。でも……凄く似合ってる。覚悟、伝わってきたわ」
未来の言葉に、美波も温かいお茶のペットボトルを両手で抱えながら、深く頷いた。
「うん、わかる気がする。なんせ部長やもんね」
「そういう二人こそ、いつ指名されたの? 正直驚いたんだけど」
私が尋ねると、美波は少し照れくさそうに微笑んだ。
「あたしは昨日……日曜日に、山岡先輩と藤村先輩から呼び出されて。『次の副部長をやってくれ』って」
「えっ、昨日だったんだ」
「うん。びっくりしたけど、断るなんて選択肢はなかったかな。で、未来は?」
「うちなんて、一昨日の植物園の演奏が終わった直後やで」
未来が缶のジュースを小さく揺らしながら笑う。
「演奏会の後!?」
「そう。学校に戻って瑠美子と別れたすぐ後に、東山先輩から呼び止められてな。『ちょっといい?』って、次のドラムメジャー頼むって言われたんよ。ほんま心臓止まるかと思ったわ」
「へえ、そんな早くに……」
みんなそれぞれの場所で、先輩たちの重い想いを受け取っていたんだ。思わず感心していると、そこに陽菜がくすくすとイタズラな笑みを浮かべて割り込んでくる。
「まあ、泣き虫で恥ずかしがり屋で人見知りの部長さんやけん、うちらがしっかり支えていかんとね」
「ちょっと! 良いところ、ひとっつもないじゃん!」
私がむくれてみせると、公園のベンチに小さな笑いが広がった。千紗は目を細め、凛々は無言のまま力強く頷いている。
「何があっても、一人で背負い込む必要なんてないんやから」
「そうそう、三人寄れば文殊の知恵っていうし」
「三矢の訓え、というのもあるやん、毛利元就の」
「あるある。ほら、足してちょうど六人」
「ほんまや」
お互い顔を見合わせ、声を出して笑い合う。
「……うん。みんな、頼りにするね。お願いします」
照れくささに包まれながら頭を下げる私を、みんなが温かい眼差しで見つめてくれている。
ふと、胸の奥からこみ上げてくる熱いものがあった。
幹部になった私と美波と未来だけじゃない。千紗も、陽菜も、凛々も、今日それぞれパートリーダーに就任したのだ。
山岡部長をはじめ今までの部長のような圧倒的な存在になれるか不安で、一人で背負い込もうとしていた私に、こんなにも頼もしくて、愛おしい仲間たちが隣にいてくれる。誰一人として欠けてはならない、最高の仲間……。
「……よーしっ!」
不意に、凛々がパンッと手を打つと、右手の拳をグッと強く握りしめて構えた。
「じゃあ、部長さん。初めてのアレは、まずうちらでやろう」
「アレって?」
凛々の言葉に、みんなの目が輝いた。
「そうや! うちらでやろう!」
未来がニッと太陽のような笑顔を弾けさせ、同じように右手の拳を力強く構える。
美波も、千紗も、陽菜も。一人ひとりが迷いのない目をして、ぐっと拳を握りしめ、私の目の前で構えた。
「ほら、瑠美子!」
美波に促され、私の視界が急激に滲んでいく。
歴代の先輩たちが、北宇治の誇りを胸に何度も何度も空へと打ち上げてきた、あの言葉。
今度は、私がこの短くなった髪と一緒に、新しい北宇治の先頭に立って叫ぶんだ。
握りしめた私の右手に、ぎゅっと力がこもる。溢れそうになる涙をぐっと堪え、私は目の前の五人に向かって、心からの感謝を込めて微笑んだ。
「うん……みんな、ありがとう」
深く息を吸い込む。肺いっぱいに満ちる秋の冷たい空気が、胸の奥の熱い覚悟と混ざり合い、声となって解き放たれる。
「そんでは! ご唱和くださいっ!」
全身の細胞が、叫んでいた。私の、私たちの時代が始まるのだと。
「北宇治、ファイトぉーーーっ!」
「「「オーーっ!!!」」」
公園に響き渡る六人の声。
それは夕闇が迫る秋の空へ、茜色から群青色へと移ろいゆく高い天井に向かって、どこまでも、どこまでも真っ直ぐに吸い込まれていった。
首すじを撫でる風は冷たかったけれど、重ね合わされた拳の熱は、いつまでも消えなかった。涙を拭い、笑い合う私たちの頭上で。
そして──次の曲が、始まるのです!