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第五十二話 あきぞらスウィング - 重なる響きと新しい音 -

響け!ユーフォニアム ー 未来楽章 ー — www.pixiv.net · All chapters

第五十二話 あきぞらスウィング - 重なる響きと新しい音 -

「じゃあ、行ってきます」

「ああ、気をつけてな」

ユーフォのソフトケースを手に下げ、キッチンにいる父に声をかけると、いつもの穏やかな声が返ってきた。今朝、母はもう出かけていったので、今は父が台所仕事をしている。

玄関で靴を履こうとしゃがんだ時、ちょうど洗面所から出てきた瑛斗が私を見て、驚くように言う。

「あれ?姉ちゃん、まだおったん?」

「言ったじゃない、今日は立華に行くから時間に余裕があるって」

「聞いたけど、いつもと違う時間に姉ちゃんが居ると、変な感じ」

「失礼なやつだねー。はいはい、行ってきたらいいんでしょ?」

「行ってらー」

瑛斗の間が抜けた声を聞きながら玄関ドアを開けると、ふと甘い匂いが鼻先をかすめた。金木犀のようだ。

ドアを閉めユーフォのケースをヨイショと背負い、エレベーターへと歩くと、また甘い匂いが鼻の奥をくすぐる。マンションの植え込みの金木犀が、ここ数日のうちに一度に咲いたようだ。

つい先週まで夜になっても蒸し暑さが残っていたのに、今週から朝夕がぐっと冷えるようになり、今朝もブレザーを着ているとちょうどいいぐらいだ。エントランスから出て見上げた空は高く、薄い雲が刷毛でなでたように細く伸びている、気持ちのいい秋晴れだ。

玄関のステップを降り、宇治川の方へ歩いていく。背中に背負ったケースは重いけど、歩幅に合わせてポン、ポンと規則正しく腰を叩くのは嫌いじゃない。あじろぎの道の紅葉も、少しだけど緑から赤へと変わり始めたのを視界におさめながら、京阪宇治駅へと向かう。

今日の目的地は、立華高校南館。

中間考査後の土曜日「黄檗秋の音楽祭」で披露される、参加四校による合同バンドの事前練習が行われるためだ。我が北宇治高校吹奏楽部からは、新体制となった一・二年生あわせて三十九名の中から選ばれた、十六名の選抜メンバーが参加する。初めて行く場所なので、少しばかり緊張感を感じながら、宇治橋を渡っていく。

京阪宇治駅のホームで中書島行きの列車に乗り込もうとすると、襟足を秋風がすっと通り抜けていった。首まわりが涼しいのは、まだまだ慣れない。今年の冬はマフラーの登場が早くなりそうだ。

次の三室戸駅で、トランペットのケースを提げた未来が乗ってきた。空いている座席には目もくれず、私の前のつり革に手をかける。

「おはよう。……なんや、もう疲れた顔してるやん」

「してないよ」

「してる。昨日ちゃんと寝たん?」

「寝たってば。……ベッドに入ってから二時間ほどは、覚えてるけど……」

「ほらぁ、緊張して寝てないやん」

未来から睡眠の重要性についての講釈を拝聴していると、黄檗駅でそれぞれの楽器ケースを持った千紗と陽菜が並んで乗り込んできて、木幡駅では美波がダークグレーのリュックを背負い、片手にはスティックケースを持ってホームの端から小走りで滑り込んでくる。さらに六地蔵から桃山南口まではたった一駅だというのに、「置いていかんといてー!」と言わんばかりの顔で凛々が合流してくると、私の周りはあっという間に、いつもの賑やかな朝の登校風景へと様変わりし、あっという間に目的の駅へと到着した。

桃山南口駅に降り立ち改札を出ると、先着していた他の部員たちが邪魔にならないよう集まっていた。その中心で、ベージュのジャケットを着た高田先生が、腕時計にちらりと目を落としていた。

いつもだと、今回のようなイベントのときは丸尾先生が引率されることがほとんどだけど、今回は高田先生が引率をしている。

その高田先生は私たちを順に見て、人数を確かめるように小さく指先を動かした。

「一、二……十六。はい、全員揃いましたね……みんな、体調は悪くないですか?今日の合同練習には、立華さんのほかに、南宇治さんから五名、黄檗さんから五名が参加します。立華の部員さんたちは、私たち以上にたくさんいますから、それぞれ他校の人たちともきちんと挨拶をしてください。それとケースの持ち方、歩き方も気をつけて」

「はい!」

先生の言葉に、部員たちが一斉に返事をする。ここで、部長として何か言うべきだろうか?と思って口を開きかけたところで、横から未来が私の袖を、指先でつまんで引いてくる。

「……なに?」

「高田先生、今日ちょっと気合い入っとるな」

「え、そう?」

「口紅の色。いつもより明るい」

言われて見直しても、私にはいつもの高田先生にしか見えないけど、未来はこういうことはまず外さない。

「立華や他校の先生に会うから、じゃないの?」

「かもな」

未来はそれ以上何も言わず、わずかに目を細めただけだった。

桃山南口駅をあとにし、私たちは外環状線に向かって西へと歩き出した。秋晴れの太陽が頭上から降り注ぎ、舗装されたアスファルトを白く照らしている。十六名の生徒と一人の先生という集団が、楽器ケースを抱えながらゾロゾロと歩く姿は、道ゆく人の目を引いていた。

「はー……それにしても、お腹減ったなぁ」

横を歩いていた美波が、さっきぽつりと呟いた。

「えっ、美波、朝ご飯食べてこなかったの?」

「食べたよ? 食べたけど……桃山南口の駅の近くに、最近おいしいパン屋さんができたって噂聞いてさ。クロワッサンがめちゃくちゃ美味しいらしいねん」

美波は名残惜しそうに駅の方を振り返り、ぐう、とお腹を鳴らしそうな勢いで溜息をついた。

「あたし、焼き立てのパンの匂いだけでご飯三杯いけるわ」

「パンでお米食べるのは意味わからんし、今日は練習に来たんやで」

間髪を容れずにツッコミを入れたのは、隣を歩く未来だった。

「朝からパン屋の心配してる暇があったら、立華の音圧に吹き飛ばされんよう、腹筋に力入れとき」

「未来は厳しいなぁ! ちょっとくらい妄想したってええやんか。腹が減っては戦はできぬ、って言うし!」

「あたしたちが行くのは戦場やなくて練習場や」

二人の掛け合いに、後ろを歩いていた他の部員たちが「ふふっ」と吹き出す。

いつも通りの未来と美波のやりとりのおかげで、さっきまでみんなの肩に力が入っていた緊張感が、少しだけ柔らかく解けていくのが分かった。

しばらく歩くと、やがて道路の右手に、周囲の住宅街とは一線を画す異彩を放つ巨大な建物が姿を現した。

外環状線に大きく張り出すかのように聳え立つ、モダンで堂々とした四階建ての建築物。

「あれやなぁ……」

誰かがぽつりと声を漏らした。その一言で、歩いていた全員の足がピタリと止まり、全員の視線が一箇所へと吸い寄せられた。

立華高校南館。

大きなガラス窓と洗練されたコンクリートの壁面が、秋の澄んだ日光を反射してキラキラと輝いていた。

「すごい……なんだか、大学のキャンパスみたい……」

陽菜がぽつりと感嘆の声を漏らす。

「四階建てでさ、あの中にはマーチングの練習が丸々できる巨大なホールがあるらしいよ。大型のトラックや巨大な楽器をそのまま上の階に運び込める、特注のエレベーターもあるんだって」

美波が事前に仕入れていた情報を披露すると、初めてこの建物を見る者は「ええっ!?」と目を丸くして驚いた。

圧倒的なスケールの施設を見上げながら、私の胸の奥で、忘れていた古い記憶がふっと蘇ってくる。

あれは、私が中学三年生の時、進路調査票を提出した後の面談室で、当時の吹奏楽部顧問の先生から言われたことだ。

『塚本、高校でも吹奏楽を本気でやりたい、全国を目指したいと思うなら……最高の環境と設備の立華高校への進学も視野に入れてみたらどうや?あそこなら、塚本の可能性をどこまでも広げられると思うで』

——もし、あのとき違う返事をしていたら。今ごろ私は、あの建物の中に毎日通っていたのだろうか。制服の色も、ユーフォを吹く場所も、隣に座る人も、全部違っていて――。

「……まあ、北宇治でよかったんだけどね」

自分でも気づかないほど、ごくごく小さな声で呟いたつもりだった。

「ん? なんか言った?」

隣を歩く未来が、こちらに顔を向けると、眼鏡のレンズが朝の光を小さく跳ねた。

「なんでもなーい!」

自分でも驚くほど大きな声が出てしまった。前を歩いていた高田先生が、ちらりとこちらを振り返るので、私は慌てて、ケースを持ち直すふりをして目をそらした。

立華高校南館の重厚な自動ドアをくぐると、外の秋風とは一線を画す、どこか密度の高い空気が肌にまとわりついてきた。

エントランスでは、すでに数人の吹奏楽部の部員が私たちを待っていた。彼女たちは私たちが近づくと、寸分の狂いもない綺麗な角度でスッと頭を下げた。

「おはようございます! 北宇治高校吹部の皆様ですね。お待ちしておりました、本日はよろしくお願いいたします!」

「おはようございます。北宇治高校です。よろしくお願いします」

私が挨拶を返すと、案内係の部員は爽やかな笑みを浮かべ、手にしていたクリップボードからゲストパスを取り出して私たち一人ひとりに手渡してくれた。

「本日の合同練習会場は四階のメインホールとなります。どうぞこちらへ」

手渡された首掛けのゲストパスを制服の胸元にかけ、私たちは案内されるまま廊下の奥へと進んだ。

角を曲がった先に現れたのは、事前に美波から聞いていた通りの巨大なエレベーターだった。スチール製の武骨な扉は、駅とかにあるものより数倍はある。大型トラックからそのまま、マリンバやティンパニ、コンバスやチューバなどの大型楽器を積み込んで、直通で最上階へ運べるよう設計された、特注の特大エレベーターだそうだ。

「うわぁ……すごいなこれ。うちの学校にあるのとは大違いや」

「当たり前やろ。うちらの学校、築何年だと思ってるの」

広々としたエレベーターの天井を感心したように見上げる美波に、未来は呆れたように応じる。

ゴオン、と重厚な作動音とともにエレベーターが上昇し、やがて滑らかに四階で停止。扉が開いた先は、開放的な自然光が差し込む広いホワイエだった。

ホワイエの中央には、スーツを着こなした立華高校吹奏楽部顧問の佐々木先生と、明るい空色の制服に身を包んだ二名、部長と副部長が並んで待っていた。

「北宇治高校の皆さん、ようこそおいでくださいました」

「お招きいただきありがとうございます。本日はよろしくお願いいたします」

佐々木顧問が穏やかな笑顔で出迎えてくれたことに対し、高田先生は丁寧にお辞儀をし、私たちも合わせて深く頭を下げた。挨拶を交わしている間でも、ホワイエの奥に位置する巨大な防音扉の向こうから、地鳴りのような「何か」が漏れ聞こえていた。

「——ハイ! 一、二! 一、二! 腹から声出す! 限界の先まで引き上げる!!」

「「ハイッ!!」」

防音扉を通り抜けてくるのは、ビリビリと空気を震わせる鋭い掛け声と、数十人分の一糸乱れぬ唱和だった。その見えない迫力に、後ろにいるうちの部員たちは、思わず肩をすくめて身を縮ませるのが分かった。

「……では、ホール内へご案内します。部員たちは、現在ウォーミングアップの真っ最中ですので、どうぞそのままお入りください」

立華の部長さんに促され、重い防音扉の中へと踏み込むと、瞬間、全身の毛穴が開くような熱気がぐわっと押し寄せてきた。

防音扉の中は、体育館と同じ……いやもう少し広いホールだった。マーチングのフォーメーション練習を本番さながらに行えるほどの広さはあり、これが吹奏楽部専用の施設というのにとにかく驚いてしまう。そしてそのフロアの中央で、ジャージ姿の立華高校吹奏楽部の部員たちが、まるでトップアスリートさながらの激しいフィジカルトレーニングをこなしていた。

「姿勢崩さないっ! 体幹固定っ! 呼吸を止めるなっ!」

ホールの中央に立ち、鋭い眼光で部員たちを睨みつけているのは、噂に聞いた立華の誇る「鬼のドラムメジャー」だった。その凛とした立ち姿と、一切の妥協を許さない気迫あふれる声が、ホール全体を支配している。

フロアに並んだ部員たちは、両肘と足先だけで体を支える「プランク」の体制のまま、一人として軸をぶらさずに耐え抜いていた。額から大粒の汗をポロポロと床に零しながらも、その目はまっすぐに前を見据えている。

さらにそこから、ドラムメジャーのパン、パンという手拍子のリズムに合わせて、体幹を左右に捻り、激しいドローイン、腹部を凹ませたまま深く呼吸するトレーニングへと移行していく。

「……嘘やろ。あれ、吹奏楽部の練習風景なんか……?」

背後で美波が、喉を鳴らしながら唖然と呟いた。

「信じられん運動量やな。うちの運動部でもあそこまで追い込んでるかどうか……」

未来も眼鏡のフチを押し上げながら、その瞳に驚愕の色を隠せないでいる。

南宇治高校や黄檗高校のメンバーたちもすでに到着しており、壁際に並んでその光景を呆然と眺めていた。

立華の激しいトレーニングが一区切りつくと、ドラムメジャーの「直れ!」の号令とともに、部員たちが一斉に「ありがとうございました!」と声を張り上げた。汗を拭いながら立ち上がる彼、彼女たちの動きには、無駄な弛緩が一切ない。

そこへ、立華の部長さんが私たちの元へと歩み寄ってきた。

「北宇治の皆さん、南宇治、黄檗の皆さんもお待たせしました。せっかく四校が集まったのですから、ここからの基礎フィジカルは、制服のままでもできるメニューに切り替えて、全員で一緒にやりましょう」

「は、はい! よろしくお願いします!」

私が答えると、ホール内に円陣状の大きな整列が作られた。北宇治の十六名も、南宇治や黄檗のメンバーと並んで列に入る。

「まずは準備運動として、ラジオ体操第一を行います! 体の隅々の関節と筋肉を意識して!」

ホールのスピーカーから聞き慣れたラジオ体操の音楽が流れ始めた。

ラジオ体操——誰もが小学生の頃からやり慣れているはずの体操だ。しかし、隣に並ぶ立華の部員たちの動きを見た瞬間、私は自分の甘さを思い知らされた。

腕を伸ばす、背筋を曲げる、跳ねる。その一つひとつの動作の「キレ」が全く違う。指の先まで神経が行き届き、体幹の軸が一切ブレない。まるで一つの美しい群舞を見ているかのような洗練された動き。制服のスカートをなびかせながら必死についていこうとする私たちは、どうしても動きが滑稽になってしまう。

「次はブレストレーニングです。四カウントで吸って、四カウントで吐き切る。次は八カウント!」

ドラムメジャーのカウントが始まる。ブレストレーニングは、北宇治でも日頃の基礎練に取り入れている。けれど、立華の部員たちが吐き出す「音」を聴いた瞬間、私の背筋にゾクゾクっとした鳥肌が立った。

スーーーーーッ、という息を吸う音。

ハーーーーーッ、という息を吐く音。

それは単なる呼吸の音ではなかった。まるで巨大なシリンダーが空気を一気に吸い込み、圧力をかけて噴射しているかのような、圧倒的な空気の密度と音量。ホール全体に、彼女たちの呼吸音そのものが太い管楽器の響きのように充満していく。

「……っ!」

隣で息を吐いていた千紗や陽菜が、自分たちの息の細さに気づいて青ざめていくのが目に入った。吸える空気の絶対量、そしてそれを押し出すインナーマッスルの強さが、根本から違うのだ。

「では、各自楽器を取り出してください。楽器保持三分間を三セット行います」

ドラムメジャーの指示に応じ、私たちは急いでケースから自分の楽器を取り出した。

ユーフォニアムを抱え、正しいと思っている演奏フォームで構える。これを三分間維持しなければならない。

「セット、スタート!」

一回目の三分間。日頃から楽器を持ち慣れている私たち北宇治メンバーも、なんとか歯を食いしばって持ちこたえた。腕にじわじわと乳酸が溜まっていく感覚があるものの、まだ余裕はある。

「三十秒休憩! ……二セット目、スタート!」

二回目の三分間。二分を過ぎたあたりから、急激に腕と肩が悲鳴を上げ始めた。ユーフォニアムの四キロ近い重量が、鉛のように重くのしかかってくる。

チラリと横を見ると、南宇治や黄檗の部員たちから「う……っ」という漏れ聞こえる吐息とともに、ポロポロと楽器を下ろしてしまう脱落者が出始めていた。北宇治のメンバーも、サックスの凛々やフルートの神瀬さんがプルプルと腕を震わせ、今にも限界を迎えそうになっている。

「三十秒休憩! ……ラスト三セット目、スタート!」

三回目の三分間。開始一分で、私の腕の感覚は麻痺しかけていた。指先がピクピクと痙攣し、ユーフォニアムのベルがわずかに下がりそうになる。必死に腹筋に力を入れ、背筋を伸ばして持ちこたえようとするが、肩の奥が焼けるように熱い。

二分経過。ガタッ、と音がして、ついに北宇治の低音パートのメンバーが楽器を下ろした。それを皮切りに、千紗、陽菜、凛々、そして副部長の美波やドラムメジャーの未来までもが、苦悶の表情を浮かべて次々と脱落していく。

残り一分——。

「く……っ、あ……!」

私も最後まで粘ろうと歯を食いしばったが、腕の筋肉が限界を超えて膝がガクガクと震え出し、ついにユーフォニアムを下ろしてしまった。

結局、北宇治の十六名は、最後の三分目の最後の「一分」を前に、全員が脱落となったのだった。

腕をさすりながら、ハァハァと息を荒らげる私たち。だが、その目の前で、立華高校の部員たちは誰一人として腕をブレさせることなく、微動だにせずに楽器を構え続けていた。汗が顎から床へと滴り落ちても、その瞳はまっすぐに前を向いたままだ。

すごい……。私は肩で息をしながら、目の前の光景に強烈なショックを受けていた。

楽器を持ってもブレないという、あの圧倒的な体幹と筋肉。あれが、立華のあの強烈な音圧と、いくら動いても揺らがない華やかなサウンドの「正体」なのだろう。

ただ『吹く』練習をしてるだけじゃダメだ……。

体を根本から鍛え上げないと、届かない音がある。

汗を手で拭いながら、私は固く心に誓っていた。今回の合同練習が終わったら、絶対に北宇治でも正式にフィジカルトレーニングをメニューとして取り入れよう、と。

「はい、お疲れ様でした。では、椅子を配置して合奏のセッティングに移ります」

佐々木顧問の声がかかり、ホールのフロアに手際よくパイプ椅子が並べられていった。

フィジカル練習で疲弊した体を奮い立たせ、各校の部員たちが指定された席に着いていく。私は北宇治のメンバーとともにユーフォニアムパートの席に着き、譜面台の上に『宝島』と『Let's Swing 〜 Sing, Sing, Sing』の楽譜をセットした。

ホール内の熱気が、フィジカルトレーニングの「運動」の空気から、一気に音楽の「緊張感」へと切り替わっていく。

やがて、中央に設置された指揮台に向かって、一人の女性が歩み寄ってきた。足音がホールにコツン、コツンと心地よく響く。落ち着いた紺色のスラックスに、清潔感のある白いブラウス。ショートヘアが、歩幅に合わせてかすかに揺れている。

指揮台の前に立ち、くるりと振り返った——立華高校吹奏楽部副顧問兼座奏コーチ、塚本久美子、その人だった。

「……お母さん……」

自分にしか聞こえない声が溢れる。

服装は、今朝、私より先に家を出て行った時と同じものだ。だけど、そこに立っている人物は、私が知っている母ではなかった。家でエプロンをつけ、「瑠美子、ご飯できたよー」と柔らかい笑顔で声をかけてくれるお母さん。休日の朝、少し寝ぼけた顔でお茶を淹れているお母さん。そんな日常の優しい母の面影は、今どこにも存在しなかった。

指揮台の上に立つ塚本先生の表情は、研ぎ澄まされた刃物のように鋭く、凛としていた。背筋は隙なくすっと伸び、その瞳はホール全体を包み込むような、深くて揺るぎない光をたたえている。私自身もめったに見ることがない、完全に一人の「音楽家」「指導者」としての顔。

「皆さん、おはようございます。本日、合同ステージの指揮を担当させていただきます、立華高校の塚本です」

スッと通る、静かだがホール全体によく響く声。塚本先生は静かに一礼すると、穏やかな、しかし一切の妥協を許さない口調で語り始めた。

「今回の『黄檗秋の音楽祭』における合同ステージは、地域の方々に音楽の楽しさを届けると同時に、学校の枠を超えてお互いの音を高め合ってほしいという、主催者側の強いご希望によって実現した企画です。北宇治、南宇治、黄檗、そして立華。それぞれ異なる響きを持つ四校が集まりました。限られた時間ですが、素晴らしい音楽を作り上げていきましょう」

淡々と、けれど確かな情熱を秘めたその言葉に、ホール内の約六十名の部員たちがピンと背筋を正した。

「では、まずチューニングから始めます。チューニングキーのB♭を奏者に……はい、全体で鳴らしてください」

塚本先生が静かにタクトを上げ、全体に音を促すと、ふうっと楽器たちに息が吹き込まれ、ホールにB♭の音が広がった。

——けど、その響きは明らかに「バラバラ」だった。

立華の圧迫感のある太い音、北宇治の繊細でしなやかな音、南宇治や黄檗の個性が混ざり合い、ピッチ音高も音色も互いに喧嘩をして、空中で歪んだ音波となってぶつかり合っている。

「——はい、一回止めて」

塚本先生の手がスッと上がり、音がピタリと止まった。

「……トランペット、ちょっと全体的に上ずってます。口先でピッチ合わそうとしたら、音が痩せてしまうので、お腹からしっかり息を入れて、管をたっぷり鳴らした状態で音を重ねていきましょう」

声を張り上げるような指導ではない。だが、その指先が指し示すポイントは的確で、一瞬にして音の問題点の本質をえぐり出してみせる。

「金管セクション、息の入れ始めのシラブルが揃っていません。『トー』ではなく『トゥー』のシラブルで、息の頭をハッキリ揃えて。木管は、息を入れすぎてピッチをぶらさないで。自分の音を聴く前に、両隣の音を聴いて。……はい、もう一度」

指示が出るたびに、全体の音が目に見えて変わっていくのが分かった。最初はバラバラだった四校の音が、塚本先生の手によって少しずつ粗を正され、一つの美しい「響き」へと収束していく。

指揮台の上でタクトを振る母の横顔を、私は吸い込まれるような思いで見つめていた。

「……すごい……」

体の奥の方で、熱いものが込み上げてくる

そこにいるのは、私の母だけど母ではない。音楽のすべてを見抜き、数十人の音を自在に導いていく、凛とした凄みを纏う一人の指導者だ。

家で見せる温かい母の顔とのギャップに戸惑いながらも、私は自分の中にある誇らしさと、純粋な憧れを抑えることができなかった。

「……かっこいい……」

私が好きな、私が目指すべき「音」を作ってきた人は、こんなにも凄かったんだ。思わずユーフォニアムを握りしめる自分の指先に、自然と力が入る。

「うん、だいぶピッチが整ってきましたね。では……曲に入りましょう。一曲目、『宝島』」

塚本先生が楽譜をめくり、タクトを静かに構えた。

そのシャープな視線が、ホール内をぐるりと見渡し——ほんの一瞬だけ、ユーフォニアムパートにいる私と交差した。

母の瞳が、かすかに細められた気がした。

私は大きく息を吸い込み、マウスピースに唇を当てて、しっかりと前を見据えて息を吹き込んだ。

午前中の合奏練習がひと段落した頃、壁掛け時計の針は十二時を回っていた。

立華高校の佐々木顧問が指揮台の脇に立ち、ホール全体を見渡しながら穏やかに口を開く。

「では皆さん、ここでお昼休みにしましょう。お弁当は四階のホワイエを開放していますので、そちらを使ってください。せっかく四校が集まっている機会です。ぜひ他校の部員同士、交流の時間として過ごしていただければと思います」

「「はい! ありがとうございました!」」

挨拶を交わし、緊張の糸がふっと切れたように、ホール内にガタガタとパイプ椅子を引く音や話し声が広がり始めた。そして各自、自分の楽器をスタンドやケースに収め、お昼ご飯の用意をする。

「瑠美子、未来、お腹すいたー! どこで食べる?」

美波が自分のリュックを抱えながら、待ちきれないといった様子で駆け寄ってきた。

「あっちで各校の幹部が集まってるみたいだから、私たちも混ざろうか」

私が提案すると、美波は「ええね! 行こう行こう!」と元気よく頷いた。

四階ホワイエの大きなガラス窓からは、秋晴れの明るい光がたっぷりと降り注いでいる。中央のテーブル付近には、立華高校、南宇治高校、黄檗高校の部長や副部長たちが集まり、少し遠慮がちに輪を作ってお弁当を広げているところだった。

「こんにちはー、北宇治です。お邪魔してもいいですか?」

私が声をかけると、立華の部長さんが「あ、北宇治の皆さん! もちろんです、どうぞどうぞ!」と笑顔で席を空けてくれた。

それぞれが持参したお弁当箱を取り出す中、美波が自身のダークグレーの大きなリュックから取り出したものを見て、周りの視線が一瞬で釘付けになった。

まず出てきたのは、運動部の男子高校生が使うような二段重ねの特大お弁当箱。そしてさらに、その下から丁寧な風呂敷に包まれた二段のお重箱がごとりと重厚な音を立てて現れたのだ。

「え……それ、全部ひとりの……?」

南宇治の部長さんが目を丸くして呟く。

「ふふん、これね!」

美波は嬉しそうにお重箱の結び目を解くと、パカッと蓋を開けた。

そこには、甘辛いタレで艶やかに輝くゴルフボールより大きめのミートボールと、お出汁をたっぷり含んだ黄色く綺麗な出汁巻き卵が、まるで隙間なく美しく敷き詰められていた。甘辛いテリヤキの芳醇な香りがふわっと広がり、周りから「うわぁ……!」と小さな感嘆の声が漏れる。

「昨日の夜、いっぱい仕込んだんです。冷えてても美味しいから、 皆さん、よかったらどうぞ食べて食べて!」

美波はニコニコと笑顔を浮かべると、割り箸を手際よく動かして、幹部たちの弁当箱の隅にミートボールと出汁巻き卵を一つずつ乗せて回り始めた。

「えっ、いいんですか? ……じゃあ、遠慮なくいただきます」

立華の部長さんがミートボールをぽんと口に運ぶ。もぐもぐと噛みしめた瞬間、彼女の目がパッと輝いた。

「……っ! これ、めちゃくちゃ美味しい!! すごくふんわりしてて、タレもすごく好きな味です!」

「本当だ、出汁巻き卵もふわっふわで美味しい……! どこかのお店のみたい!」

黄檗の副部長さんも感激したように声を上げる。美波の自家製おかずは、一瞬にして各校幹部たちの心を鷲掴みにした。

「えへへ、よかったー! まだまだあるから遠慮なくつまんでくださーい!」

美波は満足そうに胸を張ると、今度は自分の特大お弁当箱の蓋を開けた。ぎっしり詰まった白米と色とりどりのおかずを、ひょい、ひょいとテンポよく口の中へと運んでいく。

細身で華奢な美波の身体のどこに、そんな勢いでお米やおかずが消えていくのか。私や未来はすっかり見慣れた光景だが、立華や、南宇治、黄檗の幹部さん達が呆然とした表情で、美波の口元とお腹のあたりを交互に見比べた。

「……あ、あの、失礼ですけど……その細い身体のどこに、それだけの量が入っていくんですか……?」

あっけにとられたその問いかけに、私の隣で黙ってお茶を飲んでいた未来が、静かにカップを置いて一言返事をした。

「……どこに消えているのかは、私たちにも解明できていません。ただひとつ言えるのは——彼女はうちらの『胃袋担当』だということです」

未来が平然とした顔で放った一言に、中央のテーブル全体が一瞬静まり返り、次の瞬間、どっと大きな笑いの渦が巻き起こった。

「胃袋担当って……吹奏楽にそんなパートあった!?」

「あはは! 最高すぎる!」

他校の幹部たちがお腹を抱えて笑っている。美波も「ちょっと未来! 人のお腹を四次元ポケットみたいに言わんといてよ!」と言いながら、嬉しそうにお米を頬張っている。

フィジカルトレーニングの凄まじさや、合奏練習の緊張感でどこかピリついていたみんなの表情が、美波のミートボールやだし巻き卵と未来のクールなツッコミのおかげで、一気に和やかで温かいものへと変わっていった。

こういう時、未来と美波の阿吽の呼吸は実に頼もしい。言葉を交わさずとも互いに役割を察し、あえて『いつもの掛け合い』を演じて見せることで、全体の空気をスルリと変えてしまう。すまし顔の裏で仕掛け合っている二人なりの優しさと計算が、なんだか無性に誇らしかった。

そうもあってすっかり打ち解けた私たちは、お互いの学校の練習環境や普段の悩みを語り合い、昼休みは本当にあっという間に時間が過ぎていった。

午後一番の練習は、各自の個人練習およびパート練習の時間に充てられた。午前中の合奏で塚本先生から出された課題——音圧に頼らない息の密度、シラブルの徹底、両隣の音を聴くアンサンブルの意識——を、各自が自分の楽器と向き合って丹念に修正していく。

四階ホワイエや廊下の端々から、基礎音やフレーズの確認を行う音が聞こえてくる。

「瑠美子、さっきの『Let's Swing』のスウィングの跳ね方、ちょっと浅かったかも。も少し裏拍を重ために取った方が、立華のドラムと噛み合うんと違う?」

未来がトランペットを片手に、楽譜の十六分音符を指で示しながらアドバイスをくれた。

「あ、本当だ。タッ、タッ、じゃなくて、もっとタァーウ、タァーウってタメを作る感じだね」

「そうそう。うちらの綺麗めの音のままスウィングに乗るには、アーティキュレーションをハッキリさせんと、立華の圧に負けてしまうで」

「了解、ありがとう」

互いの音を確かめ合い、修正を重ねるうちに、一時間半の個人練時間はあっという間に過ぎ去った。

そして十四時。再びホール内に全員が集合し、いよいよ本日最後の全体合同合奏が始まった。

指揮台の上に塚本先生が立つ。タクトがすっと掲げられ、静寂がホールを支配する。

「——『宝島』、頭から」

高く乾いたアゴゴベルの音が鳴り響き、パーカッションが刻む鮮やかなラテンのビートに乗って、一気に華やかな前奏が弾けた。

——すごい。午前中とは、明らかに響きが違っていた。立華高校のフロント陣が放つ、爆発的で華やかなサウンドがホールいっぱいに広がる。マーチングで鍛え上げられた彼女たちのビート感は、まるで巨大な波となって押し寄せてくる。

……くっ、呑まれそう……!

気を抜けば、その圧倒的な音圧とグルーヴに、北宇治や他校の繊細な音が掻き消されてしまいそうになる。周囲に並ぶ南宇治や黄檗の部員たちにも一瞬の硬さが見え、焦りが胸をかすめてユーフォニアムを握る指先に余計な力が入った。

その時——右奥のパーカッション群から美波のシンバルが、ジャーン! と空間を一瞬で塗り替えるような華やかな音を炸裂させた。それに呼応するように、最後列の右手側、トランペット隊の渦から抜けてくる未来の音が、寸分の狂いもない鋭い輝きで爽快なラテン・ビートの旋律をリードしていく。

——そうだ、張り合おうとしちゃダメだ。

私は目を瞑り、深く息を吸い込んだ。

立華のパワフルさに正面から大きい音で対抗するんじゃない。私たちの強みは、繊細で、柔らかくて、どこまでも澄んだ、豊かな響き。お腹の底から、たっぷりの息をユーフォニアムの管の中へと注ぎ込む。ベルからあふれ出すのは、深みと芯を備えた温かな音色だ。

立華の弾けるようなサウンドの底に私の音がすっと潜り込み、全体の響きをまろやかにブレンドしていく。立華の激しいリズムと、重ね合わせた各校の豊かな響きが、喧嘩することなく綺麗に噛み合い始める。学校の垣根を越えた六十名のハーモニーが、かつてない密度と煌めきを帯びてホールいっぱいに広がっていった。

曲はそのまま『Let's Swing 〜 Sing, Sing, Sing』へとなだれ込む。

サックスパートのソロ回し、トランペットの掛け合い。スウィング独特の跳ねるようなビートの上に、四校の音が一つになって躍動している。

楽しい。音楽が弾けている。

指揮台の上でタクトを振る、塚本先生に視線を向けた。タクトを鮮やかに躍らせながら、先生の眼差しがまっすぐに私へと注がれる。

——あ。

厳しかった目元がすっと柔らかくなり、満足そうに口元が緩んだ。私の奏でる音色と、全体を支える音の軸をしっかりと確かめるように、小さく、けれど確かにコクリと頷いてくれたのだ。

通じた……!

胸の奥で、あたたかい光がパッと弾けた。言葉なんて一言もいらなかった。私の吹く息の温度も、音に込めた誇りも、いまベルから放たれているすべてが、ダイレクトに指揮台へ届いている。そして先生もまた、そのタクトの指先と眼差しだけで、私のすべてを受け止めて応えてくれている。

私は音を途切れさせることなく、指揮台の母……いや、指導者である塚本先生に向かって、力強く頷き返した。

指揮者の満足そうな笑みをもらえたことが、たまらなく嬉しくて、気持ちが誇らしさでいっぱいになった。

白熱した合奏通しが何度か繰り返され、時計の針が十四時四十五分を指したところで、本日の合同練習はすべて終了となった。

「——はい、ここまで! 本日の練習は以上にします」

塚本先生の声とともに、合奏が締めくくられた。ホール内には、やりきった部員たちの充実した息遣いが満ちている。

指揮台から降りた塚本先生が、マイクを手にして全員に向かって頭を下げる。

「各校の皆さん、本日は大変お疲れ様でした。最初はバラバラだった響きが、最後の合奏ではお互いの強みを活かした素晴らしいサウンドへと進化していました……素晴らしいです。……本番まであと二週間あまりですが、今日の感覚を忘れずに各校で持ち帰り、磨き上げてください。本日はお疲れ様でした。ありがとうございました」

「「ありがとうございました!」」

続いて、各校の引率の先生方や部長たちが、一言ずつ本日の感想を伝える流れとなった。南宇治、黄檗の部長に続き、私も北宇治の部長としてマイクの前に立った。

「えー、北宇治高校の塚本です。……午前の合奏はもちろんですが、立華高校さんの体幹トレーニングやブレストレーニングなど、音作りの根本となるフィジカル面で本当に多くのことを学ばせていただきました。この経験を持ち帰り、本番ではさらに良い演奏ができるよう頑張ります。お世話になりました。今日は、本当にありがとうございました!」

私が深々と頭を下げると、ここに居る誰からも、大きな拍手が送られた。

最後は、立華の佐々木顧問がマイクを受け取り、穏やかな笑みをたたえて全員を見渡した。

「各校の皆さん、本日は本当にお疲れ様でした。そして、遠方よりお越しいただいた北宇治高校、南宇治高校、黄檗高校の皆様、素晴らしい時間を本当にありがとうございました。立華の部員たちにとっても、皆さんの繊細で豊かな響き、そして音楽に向き合う真摯な姿勢から、大変大きな刺激と学びをいただきました。お互いに持ち寄った風が混ざり合い、最高の化学反応が起きた一日だったと感じています。……本番のステージで、さらに進化した皆さんとお会いできることを楽しみにしています。本日は誠にありがとうございました!」

「「ありがとうございました!」」

割れんばかりの拍手とともに、本日の合同練習は正式に終了、解散となったのだった。

片付けを終えホールからホワイエへ出ようとした時、私は扉の側に立ち、ホールから出ていく北宇治、南宇治、黄檗の参加メンバーに挨拶をしていた塚本先生……いえ、母とすれ違った。

「瑠美子、お疲れさま」

すれ違いざま、母は周囲に聞こえないくらいの小さな声で、私だけに聞こえるように囁いた。そこにはもう、指揮台の上の厳しい顔ではなく、いつもの優しい母の表情が戻っていた。

「うん。……お母さんも」

私も小さく笑って答えた。

ホワイエの窓から外を見ると、陽射しが少しずつ傾き、秋色の柔らかい光がこの立華高校南館を優しく包み込み始めていた。

合同練習がすべて終了し、ゲストパスを返却して立華高校南館の大きな自動ドアを出たのは、十五時半を少し回った頃だった。西に傾き始めた秋の日差しが柔らかな黄金色を帯び、外環状線沿いの街路樹の影を少しずつアスファルトへ引き延ばしている。一歩外へ出ると、まだ昼の温もりを残した秋風が、火照った頬と解き放たれた体に心地よく吹き抜けていった。

「いやー……すごかったな、立華の体幹トレーニング!」

「あんなん毎日やってたらさ、絶対に腹筋バキバキになるで! うち、二回目の三分保持の時点でもう腕の感覚なかったもん!」

帰り道を歩く十六名の足取りは、行きとはどこか違っていた。心地よい疲労感と、それ以上の圧倒的な刺激に満たされた興奮が、部員たちの弾んだ声となって秋空に溶けていく。

「あたしたちも負けてられんよ! 帰ったら、やっぱりお肉しっかり食べな!」

スティックバッグを抱えた美波が、お腹のあたりをぽんぽんと叩きながらマイペースに言い放った。

「美波はお昼にあれだけ食べたのに、もうお肉の話なん?」

すかさずツッコむ千紗に、みんながどっと吹き出す。

「だって筋肉つけるにはタンパク質やろ! 今日の晩ごはんはハンバーグか焼肉にしてもらうって決めたもんね!」

「美波の胃袋はほんまに底なしやな……」

和やかな笑い声を聞きながら、私は歩幅を緩め、全員の顔を見渡すようにして口を開いた。

「みんな、今日は本当にお疲れ様。他校との合奏もすごかったけど、何よりフィジカルや音作りも含めて、すごくいい経験になったよね」

私の言葉に、歩いていた部員たちが一斉に大きく頷いてくれた。

「ほんまにな。うちのパートでもさ、息の入れ方とかシラブルのこと、明日からの練習にすぐ持ち帰ろうって話してたんよ」

凛々がまっすぐな目で答えてくれる。

「北宇治の十六人としてここに来られて、ほんまによかった。瑠美子、ありがとな」

「ううん……みんながいてくれたからだよ」

京阪桃山南口駅前で北宇治参加メンバーは解散となり、改札に入ってちょうどホームに滑り込んできた下り電車に乗り込む。カタンカタンと揺れる電車の中で、何人かの部員は安心したのか、座席に深く腰掛けて心地よさそうに舟を漕ぎ始めていた。

車窓の外を流れる伏見から宇治への景色を見つめながら、私は自分の胸の奥でふつふつと湧き上がる「ある情熱」を意識していた。

やっぱり……北宇治にも必要なんだ。

今日、立華高校で目の当たりにした、あの揺らがない体幹と圧倒的な音圧の理由。楽器を持っていも姿勢が一切ブレない強靭な肉体があるからこそ、あんなに豊かでパワフルな息を管楽器に注ぎ込めるんだ。

北宇治の繊細で美しい響きに、あの体幹に支えられた芯の強さが加わったら……北宇治の音は、もっともっと遠くまで、もっと深く響くようになるはずだ。

けれど、立華と同じ練習を、そのまま北宇治に持ち込めばいいわけじゃない。部員数も、練習環境も、私たちが目指している音も違う。欲しいのは、立華そのものになることじゃなくて、北宇治の柔らかな響きを支えられる、揺らがない体。だったら、北宇治に合う形に作り直せばいい。

よし、やってみよう。

私の心の中で、北宇治のための新しい「企み」がしっかりと固まった瞬間だった。

週が明けた、十月五日の月曜日の朝。京阪六地蔵駅から北宇治高校へと続く坂道を、いつものメンバーで歩いていた。

やや厚めの雲で覆われた空の下、冷たい朝風が頬を撫でていく。私と未来、美波、千紗、陽菜、凛々の六人は、土曜日の立華高校での合同練習の余韻をまだ残したまま、おしゃべりを弾ませていた。

「それにしても、土曜日はほんまに濃い一日やったなー」

陽菜がスクールバッグのストラップを握りながら、感慨深そうに空を見上げる。

「うん。うち、昨日ちょっと腕と背中が筋肉痛になってたもん」

千紗が苦笑い混じりに吐露すると、凛々も「分かる! 楽器保持三分の三回、は効いたわぁ」と同意した。

その坂道の途中、私はチラリと隣を歩く美波と未来に目配せをした。二人は「きたな」という顔をして小さく頷いてくれる。

私は咳払いをひとつ挟むと、努めて自然なトーンで話題を切り出した。

「ねえ、みんな。土曜日の立華の体幹と音量の関係なんだけど……やっぱり、体がブレないってすごく大事なんだなって痛感したんだよね」

「うん、それはほんまに思った。立華の人ら、息の通りが全然違ったもんな」

「でしょ? だからね……北宇治でも、今後正式にフィジカル強化メニューを取り入れようと思うんだけど、どうかな?」

——一瞬の静寂——。

「「えええーーーっ!??あれ、やんの〜〜〜〜?!」」

坂道に、千紗、陽菜、凛々の三人の見事なハモりの悲鳴が響き渡った。前の方を歩いていた北宇治の制服が驚いて振り返るほどの大音量だ。

「ちょっと瑠美子! 本気で言うてんの!?」

千紗が目を丸くして、身を乗り出してくる。

「あれは立華やからできるんと違うの!? うちらがあんなプランクとか保持とか毎日やったら、吹く前に全員倒れてまうで!」

「そうそう! 筋肉バキバキの吹奏楽部になっちゃうよ〜!」

凛々も陽菜も、全力で首を横に振る。

三人の悲鳴を聞きながら、私は口を開きかけて、ふっと息を飲み込んだ。

部長の私が必要だと思ったからといって、自分の考えだけで押し切ってしまっていいのだろうか。つい先日、選抜の件で「信じて任せる」という言葉を自分に都合よく使って失敗したばかりだ。今度は逆に、「部長だから」という理由で、みんなの声を聞かずに決めようとしてはいないだろうか……。

「大丈夫だって! いきなり立華と同じレベルの運動量をやるわけじゃないよ」

予想通りのブーイングに、私は慌てて手を開いてなだめた。

「まずは制服でもできるラジオ体操とブレストレーニング、それに短時間の軽いトレーニングから。……それにね、いきなり正式決定にはしないよ。まずは一週間だけ、お試しでやってみない?」

「お試し……?」

千紗たちが意外そうに目を丸くする。

「うん。実際にやってみて、きつすぎるとか、かえって楽器が吹きにくくなるとか、問題があったら何でも幹部に教えてほしい。みんなの意見を聞きながら、時間も内容も北宇治に合わせて調整していきたいんだよね」

「う〜〜〜、言葉の重みがすごい……」

正論と歩み寄りの姿勢で語る私に、三人は眉を八の字にして唸る。

そこで、後ろから歩いてきた美波が、ニヤリといたずらっぽい笑みを浮かべて助け船を出した。

「まぁまぁ、三人ともそんなに眉間にシワ寄せんで、ちょっと聞いて。これな、体幹鍛えて基礎代謝上がったら……なんと、ダイエットにもなるんやで? スタイル良くなって美味いもん食べても太りにくくなる。 一石二鳥やん」

「えっ……ダイエット……?」

千紗と陽菜のピクッと眉が動くのを、見逃さなかった。

すかさず、隣で冷ややかに静観していた未来が、絶妙な追い打ちをかけた。

「そうそう。みんなで、美ボディになろうな」

未来が真顔で、けれどどこか楽しそうに放ったそのフレーズに、今度は私たちが爆笑した。

「未来が『美ボディ』とか言うたら、説得力がありすぎて怖いねんけど!」

「学年一番の美人が言うなー!」

凛々たちが笑い転げながらツッコミを入れる。

「……まあ、瑠美子がそこまで言うなら、試してみる価値はあるかもしれんけどな」

「うん……綺麗になって音も良くなるんなら、ちょっとだけ頑張ってみようかな……」

ブーイングと笑いが交錯する坂道で、こうして北宇治吹奏楽部への「フィジカルトレーニング導入」の第一歩が踏み出されたのだった。

放課後の家庭科室。昨日色々調べてとりあえずの原案ノートを机の上に広げ、私と美波、未来の幹部三人は頭を突き合わせていた。

「……うん、やっぱり三分保持を三セットは、最初からやったら絶対みんな潰れるな」

未来が赤ペンを手に、ノートの項目に大きく横線を引いた。

「そうだね。まずは三十秒を一セットからで十分だと思う」

「それに、毎日はやめた方がええって」

美波がメニュー表の端を、指先でトントンと叩きながら付け加える。

「慣れへん筋肉痛のまま楽器持ったら、フォームが崩れて本末転倒やんか。みんなの様子を見ながら、週に二〜三回から始めるのが現実的ちゃう?」

立華で見聞きしたメニューをそのまま書き写すだけなら簡単だった。けれど、それでは「北宇治のための練習」にはならない。

「じゃあ、最初は予告通り『お試し期間』にしよう……うーん、試験が始まる前までになっちゃうか」

私は二人が赤ペンで修正してくれた用紙を見つめ、ペンを握り直す。

「実際にやってみたみんなから意見を集めて、負荷も時間も調整する。……でも、その意見を踏まえた上で、最終的にこのメニューを継続するかどうかを決める責任は、私たち幹部が持とう」

「今度は、任せっぱなしにもせえへんし、押しつけっぱなしにもせえへんわけやな」

「そう、責任から逃げずに、でもみんなと一緒に作りたいから」

私の答えに、未来も美波も微笑みながら頷いてくれた。

出来上がったものを携え、丸尾先生と高田先生に相談すると、「うん、よく考えられたメニューですね」と快く導入を許可してもらえた。

そして放課後の全体ミーティング。音楽室に集まった三十九名の部員たちの前で提案した際、案の定「ええ〜!?」という悲鳴や、運動が苦手な部員からの不安の声が上がる。

「体幹が鍛えられたら美容にもええし、美ボディへの近道やで!」

美波の場の空気を和ませるトークと、真顔で頷く未来の援護で音楽室にふっと笑いが広がった。そのうえで「最初の一週間は一コマ五分程度のお試し期間であること」「体調や個人差に合わせて負荷を調整すること」の二点について詳しく説明すると、部員たちから納得と安堵の頷きが返ってきた。

こうして北宇治高校吹奏楽部に、全員で声を掛け合いながら取り組む、新しいフィジカルトレーニングが第一歩を踏み出したのだった。

西日に染まり始めた音楽室のなかで、膝の上に抱えたユーフォニアムが柔らかな金色の光沢を浮かべている。音楽室を満たすのは、これから始まる練習への期待と、仲間たちの賑やかな熱気。

立華の激しいビートと、北宇治の柔らかな響きが溶け合ったあの瞬間の心地よさを、私の体がしっかりと覚えている。当面目指すのは、「黄檗秋の音楽祭」だ。

指揮台へと上がったドラムメジャーの未来が、落ち着いた眼差しで音楽室全体を見渡し、穏やかな口調で指示を出す。

「では、基礎練習を始めます。まずは、チューニングから」

指揮台の上から私と一瞬目が合い、未来が頼もしく小さく頷く。それに合わせて、私も深く、たっぷりと息を吸い込んだ。

全員で一斉に放つB♭の響きは、まだ立華で耳にしたような揺るぎない圧倒的なものにはほど遠い。けれど、いつもの北宇治らしい澄んだ柔らかさの奥に、ほんの少しだけ新しい凛とした芯を宿し始めていた。

進化し始めた、北宇治吹部の響き。それは青く広がる秋空のように、どこまでも澄み渡っていった。