第五十三話 あきはれコンサート -黄檗の古刹にて-
第五十三話 あきはれコンサート -黄檗の古刹にて-
見上げた空は、昨日の激しい雨が嘘だったかのように晴れ渡っている。頬を撫でる風は、朝のため少しひんやりとしているが実に爽やかだ。そんな秋晴れの今日、黄檗にある古刹萬福寺で「黄檗秋の音楽祭」が催され、そのプログラムの一つに参加するため、北宇治高校吹奏楽部三十九名はJR黄檗駅の改札を抜け、お寺へと続く参道をぞろぞろと歩いている。
沿道に立ち並ぶ昔ながらの木造民家や小さなお店の瓦屋根が、太陽の光を浴びてしっとりと輝いている。参道を進むにつれて、閑静な住宅街の風景の中にふっと歴史を感じさせる古い松並木が現れ、境内から流れてくるかすかなお香の香りと、身が引き締まるような秋の冷気が頬を撫でていった。
今朝は準備のため朝一番で学校へ集合し、打楽器や大型楽器だけでなく、全員の楽器ケースもまとめて懇意の運送屋さんのトラックへ積み込んだ。そのおかげで今はほとんど手ぶらの状態で、身軽なのはありがたい。
「なんか、こうやって楽器を持たんと歩いてると遠足みたいやねぇ! 手が軽いと歩くスピードも上がるわ」
隣の美波が、両手を大きく振りながら上機嫌に言った。彼女の背中にあるのは、大きなダークグレーのリュックひとつだ。
「去年の秋の遠足とか、六月の北海道の修学旅行を思い出すなぁ。あの時も手ぶらでぶらぶら歩いて楽しかったし」
「楽なのは移動の時だけやで。現地に着いたらすぐにトラックと合流して、自分らで荷下ろしと運搬やらんとあかんのやからな」
すかさず冷静に釘を刺す未来の瞳は、呆れたように細められていた。
「未来ぃ、せっかくの秋晴れなんやから、もうちょっと浮かれてもええやんか」
「浮かれて荷下ろしで腰痛めたら、元も子もないやろ」
「うっ……また変に筋痛めたら困るしなぁ。先週の部活休みに入ったとき、筋肉痛でペン握るのすら一苦労やったんやから」
美波の返答に、後ろを歩いていた千紗と陽菜が深く頷きながら苦笑いを浮かべた。
「ほんまそれ。テスト前の休みに入って家で勉強し始めた途端、腕と肩がプルプル震えて集中できへんかったもん」
「家の階段降りるたびに太ももガクガクいってたし。テスト本番までに痛みが引いてくれてほんま助かったわぁ」
凛々も「お試しフィジカル、予想以上に効いてたもんなぁ」と同意するように呟く。
先々週、立華高校での合同練習から戻った翌月曜日、私が提案した「フィジカルトレーニング」を、テスト前の数日間だけ短時間で試してみた結果は、部活休みと重なった筋肉痛と疲労感だった。週明けの中間考査の日までに痛みは収まったものの、たった数日で音圧が上がったり息が増したりするような魔法はもちろん起きてはいない。けれど、文句を言い合いながらも笑うみんなの顔には、不思議とすがすがしい雰囲気が漂っていた。自分たちの『音』を良くするために新しい一歩を踏み出したという小さな実感が、みんなの表情をどこか誇らしくさせているのかもしれない。
お寺の白い塀越しに大きく枝を広げる松の木々を眺めながら歩いていると、やや強めの風が私たちの間を通り抜けた。
「あ、風止めクリップ!みんなちゃんと持ってきた?」
ふと思い出したように私が尋ねると、未来と美波のそれぞれがバッグから予備のクリップを取り出して見せた。
「もちろん。野外ステージやからな。風で楽譜が飛んだら目も当てられん」
「備品ボックスに人数分あるの、確認してるって」
「ありがとう、さすが抜かりないね」
「当たり前や。うちらは部長がこぼしたものを拾うんが仕事やもんな」
「なー」
悪びれもせず未来がニヤリと笑うと、美波の呑気な相槌が飛んで、後ろからついてきている一年生たちを笑わせていた。
参道の突き当たりに、お寺の立派な総門が見えてきた。門をくぐると、普段見慣れているお寺とはどこか違う、中国の明朝様式を取り入れた異国情緒あふれる厳かな雰囲気に包まれる。石畳の参道を歩き、三門や天王殿の佇まいを眺めながら境内を南側へと抜けていき、指定された関係者用の搬入口——東回廊の脇へ回ると、先発していた運送屋さんのトラックが待っていてくれた。
「ありがとうございます!」
いつも来てくれる運転手さんにお礼を伝え、部員全員で声を掛け合い、トラックの荷台から自分たちの楽器ケースや打楽器、譜面台を手際よく下ろしていく。手持ちの楽器がない移動は楽だったけれど、この搬入作業は全員で汗を流す力仕事だ。
下ろした荷物を控室となっている回廊の奥へと運ぶと、そこには参加他校の幹部が集まっており、また先生方もそれぞれ集まっていた。丸尾先生や高田先生もその中に入っていき、挨拶を交わしている先には……母もいた。私の視線に気づいたのか、母は私の方へ振り向き小さく頷いてくれた。
「あ、北宇治の皆さん! おはようございます!」
爽やかな笑顔で声をかけてくれたのは、立華高校部長の藤代さんだ。ハーフアップにした黒髪が秋風にそよいでいる。隣には副部長の三条さんと、ドラムメジャーの神谷さんが並んでいた。
「おはようございます! 本日はよろしくお願いします」
私が深く頭を下げると、南宇治高校の宇野部長と長谷川副部長、そして黄檗高校の桂木部長と小野副部長も温かい笑顔で迎えてくれた。中でも、立華の幹部の方たちはみなさん三年生だから、こうやって面と向かうと少々緊張してしまう。
「北宇治さんも、昨日まで中間テストでしたよね? 皆さん本当にお疲れ様でした!」
「ありがとうございます。お互いにテスト明けすぐのイベントになりましたね」
南宇治の宇野さんが、親しみやすいショートカットを揺らしながら気さくに話しかけてくれた。
「でも、こんなに綺麗に晴れてくれて最高ですよね。萬福寺の境内で吹くなんてめったにない機会ですから、すごく楽しみです」
黄檗高校の桂木さんが、柔らかいおだんごヘアに添えた丸メガネの奥から優しく目を細めて言ってくれた。
「本当に。歴史のあるお堂に囲まれた響きがどうなるか、ワクワクしますね。各校単独演奏はもちろんですが、最後の合同演奏でもよろしくお願いします!」
私が意気込みを伝えると、立華の藤代さんも力強く頷いてくれた。
「ええ、こちらこそ! 思いきり楽しんで、今日の演奏会を成功させましょう!」
「皆様、本日は『黄檗秋の音楽祭』にお越しいただき誠にありがとうございます。間もなく開演いたします」
境内のスピーカーから開会を告げるアナウンスが響き渡ると、集まった観客から大きな拍手が湧き上がった。中庭には続々と人が押し寄せ、石畳の観客エリアは立ち見客で埋め尽くされていく。秋の爽やかな空気の中に観客たちの期待に満ちたさざ波のような話し声が広がり、境内全体に心地よい緊張感と熱気が高まってきた。
出番を控えた私たち北宇治の面々も、舞台が見渡せる場所に身を寄せ合いながら、その独特の雰囲気に胸を高鳴らせている。舞台裏の控えエリアでは、水色のユニフォームを纏った立華高校吹奏楽部の面々が場所が狭いながらも円陣を組み、真ん中に居る藤代部長が声を張り上げ、他の部員も応じていた。
「よーし、今日も行きますか!」
「「おーーっ!」」
「笑顔じゃなければ?」
「「立華じゃないっ!」」
「We enjoy」
「「music!」」
「We love」
「「music!!」」
「We are」
「「RIKKA!!」」
黄色い歓声を上げながら気合を入れ、改めて舞台に向かって隊列を組み直している。
やがて境内を流れていたBGMが静かにフェードアウトし、再びマイクのスイッチが入る音が響いた。
「お待たせいたしました! 幕開け一番手を飾りますのは、全国屈指のパフォーマンスを誇るマーチングの名門、立華高校吹奏楽部の皆さんです! 躍動感あふれるステップと華やかなサウンドを、どうぞお楽しみください!」
割れんばかりの拍手に迎えられ、"水色の悪魔”たちは舞台へと上がっていった。
今回本堂前に組まれた特設舞台は、グラウンドや体育館のような広大なフィールドではないものの、横幅も奥行きも十分な広さが確保されていた。フルスケールのマーチングは難しくても、立華が得意とする「ステージマーチング」を展開するには格好の舞台だ。
部員たちが舞台上できっちりとグリッド状にフォーメーションを組んだ瞬間、周囲の空気の密度がグッと高まってくる。下手の端に立ったドラムメジャーの神谷さんが、引き締まった眼差しで全体を見渡し、無駄がない鮮やかな動作でカウントを出した。
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
放たれた最初の一音——立華の代名詞とも言えるオープニングナンバー、「Winter Games」の華やかなファンファーレが境内の空気を一瞬で震わせた。アップテンポなリズムが鳴り響くと同時に、水色のユニフォームが一斉に躍動し始める。
限られたスペースをギリギリまで生かした、高密度なステージマーチング。激しいステップを踏みながらも、前後左右のラインが一糸乱れず交差し、目まぐるしく綺麗な陣形を変えていく。
ベルの角度が一斉に揃い、弾けるようなステップで回転しながらも、放たれる音圧と粒立ちは驚くほど整っていた。
屋外という音が逃げやすい環境であっても、軸のぶれない体幹から繰り出される音が、力強い束となってまっすぐに客席へ届いていく。主旋律を奏でる金管の華やかな音がグイグイと牽引し、ファンファーレが秋空へと突き抜けていく。
「……うわ……すご……。あの狭いステージの上で、あんなに動き回りながら音がぶれへんとかありえんわ……」
隣に立つ美波が、息を呑んで呟いた。
「あれが、毎日の地道な体幹トレーニングで鍛え上げられた本当の『軸』やな。うちらが先週数日間やって苦しんでたメニューを、あの人らは何年間も血肉にしてるんやから」
未来が静かな感嘆を言葉にする。
その通りだった。たった数日真似した程度で追いつけるような生半可なものじゃない。だからこそ、あの激しい動きと揺るぎないサウンドが融合した表現力は、見る者の胸を強く打つのだろう。
私はステージ上で躍動する立華の姿を目に焼き付けながら、いつか自分たちもあのレベルの芯の強さを手に入れたいと、心の中で静かに誓っていた。
『Down By The Riverside』
『It Don't Mean a Thing (If It Ain't Got That Swing)』
曲が続いていき、もうアウトロに入っているようだ。立華のパフォーマンスに見とれていると、全員が揃って右足を踏み出し、空を掴むかのようにまっすぐ手を上げた。
「ハイッ!!」
完璧にそろったかけ声。立華の圧巻のステージマーチングが終わったことに気づいた観客から、盛大な拍手が立華の部員たちにもたらされる。かけ声から一拍おいて、舞台上からそそくさとはけていくと、会場スタッフによって素早くパイプ椅子が合奏形式にセットされ、各校による単独演奏プログラムがスタートした。
『それでは、次は北宇治高校吹奏楽部の皆さんです!』
「みんな、行こう!」
「「はいっ!」」
アナウンスとともに、私たち北宇治高校の三十九名が舞台へと足を踏み入れた。
パイプ椅子に腰を下ろし、ユーフォニアムの冷たい感触を確かめる。正面を見上げれば、満員の客席の向こうに萬福寺の歴史ある建造物と、雲ひとつない秋空が広がっていた。左の席の珠里ちゃんをちらりと見ると、どことなく肩に力が入っているように見える。
「緊張してるの?」
「……さっきの立華さんのを見たら、……ちょっと……」
ああ、わからないでもない。間近であんな完璧なパフォーマンスを見せつけられたんだから。
私は手を伸ばして、珠里ちゃんの背中をぽんぽんと軽く叩いた。
「大丈夫だって、私たちには私たちの強みがあるんだから。ほら、肩を上下させて息を吐いてごらん」
「は、はい」
私の言ったとおりに、珠里ちゃんは肩を動かしては深く呼吸をした。
そうしていると、丸尾先生は指揮台から私たちを見回し、軽く頷いてゆっくりとタクトを胸の高さまで掲げた。
その動きに従い、ユーフォを構え、深く、お腹の底まで息を吸い込むと、タクトが静かに振り下ろされ、北宇治の音が境内へと解き放たれた。
一曲目は『大江戸捜査網のテーマ』。
ホルン主体のファンファーレが華やかに境内に鳴り渡った瞬間、立ち止まって遠巻きに見ていた参拝客たちが「おっ」と一斉にこちらへ顔を向けた。立ち上がりのブラスの切れ味と、疾走感あふれる木管の刻み。境内を包む空気を一気に北宇治のペースへと引き込んでいく。
この曲は、ホルンパーリーの陽菜が部のデータベースで見つけたものだ。「ホルンがかっこいい!是非やりたい!」という強い押しで曲決め会議で採用されたのだが、楽譜キャビネットの奥から掘り出した紙の譜面には、全パートにびっしりと書き込みが残っていた。私のユーフォパートの譜面にも、「変拍子、注意!」や「壮大に」という当時の母の字が残されていて、思わず胸が温かくなった。
一曲目が終わると、休み無しに次の曲へと続く。二曲目は『必殺仕事人のテーマ』。
先ほどとは空気がガラリと変わり、どこか哀愁を帯びた独特なサスペンスフルな緊張感が漂う。
この曲の主役は、なんといってもトランペット隊だ。未来が提案していたアイディア通り、五名のトランペッターが、代わる代わるメインメロディやあの有名なソロフレーズを引き継いでいく。
まずはパーリーの真帆ちゃんが、オープニングのお馴染みのソロフレーズを朗々と響かせる。萬福寺の古びた木造の柱を伝うかのように、艶やかな音が境内の隅々まで突き抜けた。
続いてメロディに入り、Aメロを一年の斎藤さん、Bメロは一年の山中くんが担当、そしてサビを紗和ちゃんが、と次々とバトンが渡る。一人が吹き終えて息を吸う隙間すら与えず、隣の奏者へとメロディが滑らかに、かつスリリングにリレーされていく。五人の息が完璧に揃っていなければ、この独特のキレと緊張感は表現できない。
そして、曲の最後にトドメのソロフレーズを吹き鳴らすのは未来だ。未来が力強くベルをわずかに持ち上げ、ドラマチックに決めると、聴いていた参拝客の間から思わず感嘆の息が漏れた。
息つく間もなく、三曲目。続いては『暴れん坊将軍のテーマ』。
番組タイトルのBGMを盛大に鳴らす。低音パートやパーカス隊が叩き出す歯切れの良いリズムの上で、メロディを引き継いだホルンやトロンボーンの温かな響きと、それを華やかに彩る木管の細かいパッセージが展開される。弾むようなビートが、聴く者の背中を心地よく押していく。まるで砂浜を駆け抜ける上様の白馬の足音のように、リズミカルで疾走感あふれるアンサンブルが広がった。
境内を埋め尽くした参拝客の間からは、「おっ、これ知ってる!」と言いたげな楽しげな笑い声や、自然と湧き上がった手拍子が広がっていった。お年寄りから子供まで、誰もが笑顔になって音楽に聴き入っている。
曲はワンコーラスだけとし、エンディングは仰々しいほど華やかに終えた。客席からは特に年配の方々から楽しそうな笑顔と大きな拍手が送られる。
演奏が終わると、マイクを手にした未来がすっと前に進み出た。赤縁の眼鏡を指先でわずかに押し上げ、落ち着いた、しかし柔らかく響く声で語りかける。
「改めまして皆さん、こんにちは。北宇治高校吹奏楽部です。今日は歴史ある素晴らしい境内で演奏させていただき、部員一同とても光栄に思っております。……さて、先ほどはここの風情に合わせて少し懐かしい時代劇のメドレーをお届けいたしました。楽しんでいただけましたでしょうか?……たくさんの拍手をいただき、ありがとうございます。では、続いてお送りする曲は、ガラリと雰囲気を変えまして、今の季節にぴったりのジャズ・スタンダード、『枯葉』をお聴きいただきたいと思います。秋空の下、境内の木造の美しい回廊に響く私たちの音色を、どうぞごゆっくりお楽しみください」
深くお辞儀をした未来が位置に戻り、再び静寂が降り立った。
丸尾先生の指揮者のタクトがゆっくりと宙を描く。放たれた音は、立華のような音圧はないが、どこまでも澄み切った音で丁寧に重ね合わせた豊かで温かな和声の波、これが北宇治サウンドだ。
『枯葉』の切なくも美しいメロディが、歴史を刻んだ石畳にじんわりと染み込んでいく。金管の哀愁を帯びたアンサンブルと、木管のしなやかな旋律。愚直な基礎練習の繰り返しで磨き上げてきた北宇治の「音の透明感」が、秋の澄んだ空気に溶け合っていくようだった。客席の誰もが息を呑み、その響きの美しさにじっと耳を澄ませている。
曲の最後の音が静かに境内の空気に溶けて消えると、一瞬の静寂を置いて、惜しみない拍手が響き渡った。
その余韻が残る中、ドラムの美波がスティックを構え、軽快でキレのあるビートを打ち鳴らし始め、パーカス隊も一緒にラテンのリズムを刻み始めた。
「ラスト、いきまーす!」
「「Paradise Has No Border!!」」
美波とパーカス隊の叫びとともに、北宇治のラストスパートが弾けた。
『枯葉』の静けさから一転、弾けるようなテンポと華やかなブラスサウンドが境内を包み込む。パーカス隊が刻む心地よいリズムに引っ張られるように、最初はパラパラだった観客の手拍子が、あっという間に境内全体を包む大きな手拍子の渦へと変わっていった。
木管の細かい連符が鮮やかに決まり、金管が誇らしげにベルを傾けて音を解き放つ。
メインメロディの熱狂を抜けると、音楽は各パートのソロへと引き継がれていく。今回のステージでは、一つの試みとして、この後の合同合奏に参加しないメンバーの中から一年生を優先してソロの担い手を抜擢していた。しかも与えられた条件は「八小節のソロ。楽譜通りでもアドリブでも、自分の好きなように表現していい」というもの。
忠実に譜面をなぞる者もいれば、思い切ったフェイクや熱のこもったアドリブに挑む者もいる。一人ひとりの選択や音の出し方にその子の性格がそのまま滲み出ていて、聴いていて思わず顔がほころんでしまうような、やって大正解の企画だった。
そして、順番が回ってきたのは珠里ちゃんだった。彼女は愛おしそうにユーフォニアムをしっかりと抱え込み、一歩前へ踏み出すと、観客の方へ向けて堂々とその音色を響かせた。どこか真面目で、けれど内側に熱いものを秘めた彼女の人柄がそのまま投影されたような、まっすぐで伸びやかな旋律が、秋晴れの空へと高らかに歌い上げられていく。
個性豊かなソロのバトンが次々と手渡され、やがて再び全員の音が一つに重なる。北宇治の単独演奏のフィナーレに向け、部員全員のエネルギーと熱気が噛み合い、秋空へとどこまでも高く突き抜けていった。
最後の音が秋の空へ吸い込まれると同時に、境内を揺るがすような盛大な拍手が湧き起こった。
私たちは深い余韻を噛み締めながら、一礼して順に舞台袖へと下がっていく。楽器をケースにしまったり、重い打楽器を抱え直したりする足取りには、大役をやり切った安堵と心地よい疲労感が入り混じっていた。
「お疲れ様でしたーっ!」
舞台裏の狭いスペースに戻った瞬間、誰からともなく声が上がり、あちこちで笑顔のハイタッチや肩を叩き合う姿が生まれる。
「珠里ちゃん、ソロすごく良かったよ! めっちゃかっこよかった!」
「ほ、本当ですか……? 足が震えて変な音にならないか、そればかり心配で……」
先輩たちから頭を撫でられ、珠里ちゃんはユーフォニアムを大事そうに抱えながら、恥ずかしそうに頬を緩ませている。その横では、アドリブで思い切ったフレーズを吹いてやり切った一年生たちが、「緊張したぁ!」とどっと息を吐き出していた。
みんなの額にうっすらと浮かぶ汗が、この25分間に注いだ本気度を物語っている。あんなにバラエティに富んだ個性豊かなソロを堂々と響かせ切ったのだから、誇っていい。
そんな賑やかな喧噪と熱気が冷めやらぬ舞台袖のスピーカーから、次の出番を告げる明るい声が響いてきた。
『——さて、続きましてのステージは、南宇治高校吹奏楽部の皆さんです! 皆さん、大きな拍手でお迎えください!』
アナウンスに呼応するように、客席側から再び大きな拍手が沸き起こる。
舞台の袖から、これから本番を迎える南宇治の部員たちが緊張した面持ちで整列していくのが見えた。私たちは邪魔にならないよう静かに道を開け、心の中でエールを送りながら、その背中を見送る。すると、背中をぱしんと叩かれたので、え?とそちらを振り向くと、フルートを持った南宇治の宇野部長が笑っていた。
「もう~、うちらの前であんなに盛り上がられたら、やり辛いわ。後のこと考えてよ」
「え、あ……すみませんでした……」
「へへ、うちらは北宇治さんの半分しかおらんけど、南宇治の全力を見ててや」
そう言って彼女はニカッと笑い、ポンと小さな拳を差し出してくる。私もつられて笑いながら、そこに自分のこぶしをコツンと合わせた。
次に舞台に上がった南宇治高校のステージは、宇野部長を中心とした、明るくポップでサービス精神にあふれた演出が魅力的だった。イントロから部員たちが手拍子を促し、ブラス・ロックのナンバーをノリノリで演奏していく。宇野部長の吹く抜けの良いフルートが旋律を牽引し、会場全体がまるで野外ライブ会場のような熱気に包まれた。
南宇治高校の次に登場したのは、地元・黄檗高校だ。彼女の演奏は、伝統校らしい格式高く落ち着いた響きを届けてくれた。萬福寺という静寂なロケーションに合わせ、クラシックの吹奏楽作品を中心に構成されたセットリスト。
中でも圧巻だったのは、部長の桂木さんが奏でるクラリネットのソロパートだった。柔らかく、どこまでも深みのある音色が萬福寺の木々の間に優しく染み渡っていき、客席の誰もが静かに息をのんで聞き入っていた。
そして単独演奏の最後は、立華高校。今度は座奏を行うため再びステージへ立った。
先程のマーチングの時のユニフォームから水色の制服に着替え、副顧問の塚本先生の指揮のもとで披露された座奏のプログラム。
消え入るような極小のピアニッシモから、萬福寺の境内全体を激しく鳴らし切るような圧巻のフォルティッシモまで、一切ピッチを揺らすことなく表現してみせる。それは日頃の過酷なフィジカルトレーニングによって支えられた「強靭な息のコントロール能力」があって初めて成立する表現だった。
「やっぱり……立華さんはすごすぎるわ……」
舞台袖でその音を浴びていた凛々が、感心したように呟く。凛々だけじゃなく、他の部員も立華の音の圧力と正確さに恐れ入っているように見える。
「うん。でも、焦る必要はないよ」
私は振り返り、そばにいた部員たちを見つめた。
「私たちのトレーニングはまだ始まったばかり。これから時間をかけて、来年のコンクールまでに自分たちのペースで追いついて……いや、追い越せばいいんだから」
千紗も陽菜も凛々も、その他の部員たちも私の言葉に力強く頷いてくれた。筋肉痛に耐えた先週の数日間の苦労は、決して無駄ではなかった。立華の凄さを正しく肌で感じ、自分たちのこれからの課題と目指すべき目標をはっきりと掴むための、かけがえのない第一歩だったのだ。
各校二十五分ずつの単独演奏がすべて無事に終了し、境内の熱気と盛り上がりは最高潮に達していた。
司会者の高らかなアナウンスがスピーカーから響き渡る。
「——皆様、四校の素晴らしい演奏に、もう一度盛大な拍手をお送りください! さて、いよいよ本日のフィナーレとなります。立華高校、北宇治高校、南宇治高校、そして黄檗高校の四校により選抜された総勢六十名による、合同バンドの特別ステージです!」
客席全体から、大きな拍手と期待のこもった歓声が巻き起こった。
ステージ上には手際よく六十脚のパイプ椅子と譜面台が並べられていく。学校の垣根を越え、今日という秋晴れの日に萬福寺へ集った六十名の演奏者たちが、それぞれの愛器を手に、次々とステージへと向かって足を進めていく。
胸の高鳴りを抑えながら、私もユーフォニアムを両手でしっかりと抱え直す。
いよいよ、今日のハイライトである合同演奏が始まろうとしていた。
ステージ上に所狭しと並べられた六十脚のパイプ椅子と譜面台。その隙間を縫うようにして、私たち四校の奏者たちがそれぞれの愛器を手に、ぞろぞろと配置についていく。
私の席の右隣には立華の時任さんと南宇治の綾さん、左隣には黄檗の弓削さんが座り、お互いに「よろしくお願いします」と小声で微笑み合う。制服の色も違えば、学年も、普段吹いている音の質感も違う。けれど、いま同じステージの上に並び、同じ秋晴れの空を見上げているという事実だけで、胸の奥が熱く波打っていた。
ざわめいていた客席が落ち着いていく中、指揮台の側へと歩み寄るのは、立華高校吹部の副顧問であり、今回の合同バンドを指揮する塚本久美子先生だ。ダークネイビーのパンツスーツ、すっきりとした白いブラウスにアクセントとしての一粒パールネックレス。……実はそのネックレス、昨晩「無い!アクセサリーボックスに入ってない!」と一騒動あった代物。結局細長い専用ケースに入れたままドレッサーの引き出しにしまっていただけなのだが、もちろんみんなには内緒だ。
塚本先生は指揮台の前に立つと、まずは満員の客席に向かって深々と一礼した。その背すじの伸びやかさに、客席から大きな拍手が送られる。そして、くるりと私たち演奏者の方へと向き直り、指揮台に立った。
そこに立つのは、もう母ではなく、妥協は許さないという気迫を全身から漂わせた、一人の指揮者だ。そのシャープな瞳が六十名の顔を素早く、一人ひとりの瞳の奥まで見通すようにぐるりと見渡して、すっとタクトを構えた。
その一瞬、萬福寺の広い境内から雑音が消え去っていく。風の音さえもピタリと止まったかのような、密度の高い静寂。六十名の息が、指揮者の一挙一動に完全に同調している。
指揮者の指先がかすかに動き、左手で静かにカウントを提示する。
——カンカン、コンコン、カンカッッカ、コココン。
パーカス隊が叩くアゴゴベルの乾いた甲高い音と、ドラムのハイハットの軽快な刻みが、静寂を破ってラテンのビートを打ち鳴らした。
一曲目、『宝島』。
タクトが空中で鮮やかな弧を描いて力強く振り下ろされた瞬間、六十人の息が一気に解放され、目に見えるような巨大な音の塊が秋空へと解き放たれた。
鳥肌が全身を駆け抜ける。
ホールのような壁も天井もない野外ステージだからこそ、音波がどこまでもまっすぐに、ダイレクトに空間を突き抜けていく。金管セクションが放つ華やかなファンファーレが、眩しい太陽の光を反射して弾け飛ぶようだ。ユーフォやチューバ、コンバスの中低音がそこに豊かな厚みを加え、巨大な音楽の波となって境内の隅々まで押し寄せていく。
オープニングフレーズが駆け抜けると、曲は弾けるようなAメロへと突入した。
塚本先生の指揮は、舞うようにしなやかで、かつ正確無比だった。タクトの軌道一つで全体のテンポとダイナミクスをコントロールし、左手の繊細な指先の表情だけで、木管セクションの細かい16分音符の跳ね方を生き生きと引き出していく。指揮台の上で全身を使って音楽を躍動させるその姿は、息をのむほどかっこいい。
そして、曲はいよいよ『宝島』の見せ場である、サックスパートのソロ回しへと差し掛かった。
ドラムのビートが刻まれる中、タクトがすっと上手を指し示す。それに応え、まずは立華高校の二年生アルトサックス奏者が、颯爽と席を立ってステージ前方へと躍り出た。
彼女がマウスピースに息を吹き込んだ瞬間、野外の空気を鮮やかに突き抜けるような、どこまでも艶やかで力強いフレーズが響き渡る。マーチングで鍛え上げられた抜群の存在感。ベルを客席へ向け、身体を揺らしながら奏でられるフレーズに、客席から「おおっ!」と歓声が上がった。
続いてタクトはクルリと回転し、今度は上手側にいる北宇治のアルトサックスの凛々を指し、凛々はパッと立ち上がり、立華のソロを受け継ぐようにして前へ出る。
凛々の音色は、立華の鋭さとは一味違う。伸びやかで、どこまでも透き通った綺麗なトーンが、スウィングするビートの上で楽しそうに躍動する。立華のソリストと凛々が、交互にフレーズを交わし合いながら笑顔で目を合わせる。異なる学校のふたつのサックスが、音の対話を楽しんでいるのが伝わってきた。
——楽しい! すっごく楽しい!!
私は夢中でユーフォニアムを吹き鳴らしていた。激しさが増すビートと、各校が重ね合わせる華やかな旋律。その一番底の辺りに、お腹の底からたっぷりの息を注ぎ込んだ温かく太い音を潜り込ませる。先日の筋肉痛が少しだけ残る腕や腹筋が、演奏の負荷でピクピクとしてくるけれど、そんな違和感を忘れてしまうほどの興奮が全身を駆け巡っていた。足の裏でしっかりとステージを踏みしめ、自分の音が全体へ綺麗に溶け込んでいく心地よさに痺れていく。
客席からは、曲のリズムに合わせた手拍子が鳴り響いていた。萬福寺の参拝客も、地域の人々も、みんなが笑顔で体を揺らしている。観客とステージが、音楽の熱量で完全に一つに溶け合っていた。
タクトが大きな円を描き、全奏のフォルティッシモを誘導する。
六十人の音が最高潮の盛り上がりを見せ、『宝島』のラストの音がバシッと決まった。
「ブラボー!!」
「うわーーっ!!」
曲が終わるやいなや、境内に割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。
しかし、塚本先生は観客の方を振り向かない。両手を胸の高さで静かに保持したまま、ニヤリと不敵で魅力的な笑みを浮かべ、私たち演奏者をぐるりと見つめる。
次の曲を始めるよ!——その眼差しが語っていた。
タクトが静かに、空中をノックするように動く。
パーカス隊のドラムから、力強く叩き出すドシッと重いトムトムのジャングル・ビートが鳴り響いた。
観客が「お次は何だ!?」と息をのむ。
流れるように始まったのは、二曲目——『Let's Swing 〜 Sing, Sing, Sing』のメドレー!
パーカス隊が重厚なスウィングのリズムを刻み続ける中、タクトが鋭く横一線を描いた。
サビのフレーズの瞬間、最後列のトランペット隊とトロンボーン隊が、一斉にベルアップをする。
秋空の太陽を受けて、黄金色のベルが一斉にキラリと眩しい輝きを放つ。そこから放たれたのは、圧倒的なスウィング・ブラスの咆哮だった。
曲がスウィングのノリを増していく中、今度は各パートのソロ回しが始まった。
タクトに導かれ、まずは黄檗高校のアルトサックスが前へ出て、ジャジーで妖艶なソロを軽やかに吹き鳴らす。木管の温かなトーンが、萬福寺の古い木造建築に美しく映える。
次に前へ躍り出たのは、南宇治高校のトロンボーンだ。グリッサンドを効かせた豪快なフレーズで観客を沸かせ、スライドを華やかに滑らせて客席へアピールする。
そして、我が北宇治の至宝と言われるクラリネット隊リーダー、千紗が涼やかな表情を崩さぬまま繰り出す洗練された高速パッセージを、軽快なスウィングに乗せて秋の空へと鮮やかに響かせた。
さらに立華高校のトランペットが前へ出ると、驚異的なハイトーンと圧倒的な音圧でスウィングの旋律をリードし、境内のボルテージを限界まで引き上げる。
それぞれの学校の代表たちが、自分の持ち味を遺憾なく発揮し、音で競い合いながら一つの音楽を作り上げていく。
指揮台の上でタクトを振る塚本先生の表情は、どこまでも冷静で、そして最高にエネルギッシュだった。全身からあふれ出る音楽への情熱が、的確なタクトの動きとなって演奏者一人ひとりの音を鮮やかに束ね上げていく。
指揮者と奏者六十名、そして境内の観客全員が、同じ熱量でスウィングの渦の中に巻き込まれていた。
いよいよ曲は、クライマックスの『Sing, Sing, Sing』のラストカデンツァへと向かう。ドラムソロが情熱的なビートを打ち鳴らし、全体の緊張感が極限まで高まる。
塚本先生は大きく両手を広げ、その瞳がまっすぐに私をとらえた。
——瑠美子、もっと響かせて!
言葉はなくとも、母の、いや指揮者である塚本先生の強い想いがダイレクトに胸に飛び込んできた。
私は大きく息を吸い込み、ユーフォニアムのベルを前へと向けた。足の裏から全身へ、そして管の奥へとすべてを注ぎ込む。私の奏でる太く温かな中低音が、南宇治や黄檗の低音と重なり合い、立華の華やかな音の波の下で、豊かなうねりとなって力強く響き渡っていく。
タクトが空中で大きく舞い、最後の全音符を極限まで引っ張り上げた。
六十人の息、六十人の響き、萬福寺の秋空、観客の手拍子。すべてが一つに溶け合い、力強い音楽となって空間全体を大きく包み込んでいく。
そして、タクトが空中で音を断ち切るように振り下ろされる。
「「「ハイッ!!」」」
六十名全員が声を張り、手を上げての決めのポーズを取ると、萬福寺の境内は万雷の拍手に包まれた。
塚本先生の合図とともに全員が一斉に起立すると、先生は客席に向かって深々と頭を下げる。
「——皆様、四校の素晴らしい演奏に、もう一度盛大な拍手をお送りください!」
司会者の声に従って、境内は再度大きな拍手に包まれた。そして、下手から順番に舞台から下りていく。
ステージ脇では、汗の浮かんだ額を拭いながら、南宇治の綾さんや黄檗の弓削さんが「すごかったね!」「楽しかったー!」と弾けるような笑顔で語りかけてきたので、私もやや興奮気味に「うん、すっごく楽しかったね」と返した。
指揮台から降りた塚本先生は、私たちに向かって穏やかに微笑み、ねぎらいの言葉をかけながら拍手を送っている。その瞳には、溢れんばかりの愛おしさと誇らしさが宿っているように見えた。
手拍子の鳴りやまない萬福寺の特設ステージを振り返り、私は熱くなった胸をそっと押さえた。
四校の風が混ざり合い、弾けた音楽祭。筋肉痛の残る腕も、吹ききった心地よい疲労感も、すべてが愛おしい。
最高のステージをやり遂げた爽快感と確かな手応えを抱きしめながら、私たちはそれぞれのもとの控えの場所に戻り、楽器を大切にケースへと収めていくのだった。
「黄檗秋の音楽祭」の熱気が残る萬福寺をあとにした私たちは、JRに揺られてから、学校へと戻ってきた。
すっかり傾いた秋の陽光が、西の空をあたたかな朱色に染め上げている。音楽室へ向かう校内の廊下には、夕暮れの穏やかな影が長く伸びていた。
各々が自分の楽器を愛おしそうに拭き上げ、楽器室の棚へと慎重に収めていく。ケースのラッチをパチンと閉める乾いた音が、静まり返った音楽室に心地よく響いていた。
片付けが一段落したところで、全員音楽室に集まってもらい、私は指揮台の前で部員全員に向けて一礼する。
「みんな、片付けお疲れ様でした!では、本日最後のミーティングをやります。まずは、……今日の萬福寺での『黄檗秋の音楽祭』、本当にお疲れ様でした。直前の中間考査や『お試しフィジカルトレーニング』の筋肉痛なんかで、みんな身体も大変だったと思うけど、北宇治サウンドをたくさんのお客さんに届けることができたと思います。他校の演奏や合同バンドでの経験を、来週からの練習にしっかり反映させるようにしましょう。……丸尾先生、何かありますか?」
丸尾先生に話を振ると、軽く咳払いをして私たちの方を見回した。
「部長さんが言ってくれたので、付け足すことはないですが……今日は皆さん、生き生きとしたいい演奏でした。”音を楽しむ”、という吹部のモットーを体感できた日でもありましたね。この調子で、来週以降も頑張ってください」
「「ありがとうございました!」」
「高田先生、お願いします」
「はい。……えー、みんな、今日の演奏、最高だったよ!他校さんに決して負けてない!……音楽は勝ち負けじゃないんだけど、それでも、モチベーションを上げるためのツールとして使えますからね……まぁとにかく、今日は良かったです。お疲れ様でした」
「「ありがとうございました!」」
「ありがとうございました。それじゃあ、今日はこれで解散とします。今日明日はゆっくり体を休めてください。お疲れ様でした!」
私が締めくくると、部員たちから「「お疲れ様でした!」」と爽やかな声が返ってきた。
全体ミーティングはスムーズに終了し、明日は休日というのも相まって部員たちは弾んだ足取りで音楽室をあとにしていった。
校門を出ると、宇治の街並みを見下ろす坂道には、すっかり秋の夕闇が忍び寄っていた。冷気を帯びた秋風が頬を撫で、街灯がポツポツとオレンジ色の光を点灯し始めている。
坂道を並んで下りていくのは、いつもの六人——私と未来、美波、千紗、陽菜、凛々だ。下り坂の途中、美波がダークグレーの大きなリュックを両手で前抱えにしながら、真っ先に満足そうな溜息を漏らした。
「はーっ! 萬福寺のステージ、めちゃくちゃ気持ちよかったなぁ! もう、お腹ペコペコやわ」
「美波はお昼にあれだけ食べておいて、もうお腹減ってるん?」
千紗が呆れたように笑いながらツッコミを入れる。
「だって打楽器って全身運動やもん! 『Paradise Has No Border』でドラム叩いてるときなんて、完全にハイになって無我夢中やってんから!」
「うち、美波のドラムのビートに乗って吹いてるとき、ゾクゾクって鳥肌立ったわ」
陽菜がスクールバッグのストラップをギュッと握り締めながら、感慨深そうに呟く。
「合同演奏の時も立華のあの激しい音圧の中でさ、北宇治の中低音がドシッと支えてる感じがして……なんか『うちの学校、負けてへんやん!』って誇らしくなったもん」
「ほんまにな」
凛々が自分の襟足を秋風になびかせながら、まっすぐな目で同意した。
「各校のソロパートもすごかったけどさ。北宇治の音って、やっぱりどこまでも綺麗で、吹いてて胸がじーんとするんよ。瑠美子のユーフォが下で温かく鳴ってくれてるから、うちらも安心して吹けたし」
「へへ……ありがと」
三人の言葉に、私は照れくささと嬉しさが混ざり合った気持ちになりながら微笑んだ。
「でもさ」
それまで静かに歩いていた未来が、冷静な口調で会話に加わった。
「今日の本番で分かったやろ。立華のあの音圧とダイナミクスは、単に大きな音を出してるんと違う。体幹が一切揺れへんから、屋外でも音が散らないということや」
「う……未来、ここでまたフィジカルの話に戻る〜?」
千紗が眉を八の字にして呻く。
「戻るも何も、事実やん。うちらが先週試した数日間のトレーニングなんて、ただ筋肉痛を残しただけのお試しに過ぎん。でも、あの体幹の重要性を身をもって知ったうえで今日合奏できたのは、大きな収穫やったんと違う?」
未来の言葉に、千紗も陽菜も凛々も、少し考えてから深く頷いた。
「……うん。確かに、立華の人らと並んで吹いたとき、息の太さが根本から違うなって実感したわ」
千紗が苦笑いしながら自分の腹筋あたりをさする。
「今までのうちやったら『立華すごすぎ、無理!』で終わってたと思う。でも、ちょっとだけでもトレーニングやってみたからこそ、『あ、体幹鍛えたらあの音に近づけるんや』って理由が分かった気がする」
「そうだね」
私は歩幅をゆるめ、五人の顔を見渡しながら言葉を継いだ。
「焦る必要はないんだよ。フィジカルトレーニングの効果が本当に出てくるのは、きっと来年の春の定期演奏会あたり。それまでに、私たちのペースで少しずつ筋肉と体幹を育てていけばいいんだと思う」
「よし! じゃあ春までに美ボディ獲得目指して、地道にフィジカルトレーニングも継続やな!」
美波がニヤッと笑って拳を突き出すと、「結局そこかい!」と全員から一斉にツッコミが飛んだ。坂道に笑い声が響き渡り、すっかり暗くなった住宅街の空に溶けていく。
坂を下りきり、外環状線の明かりが見え始めてきた頃、私は表情を少し引き締めて話題を切り替えた。
「ねえ、みんな。今日の演奏会も無事に終わったけど……週明けの月曜日からは、いよいよ次の大きなイベントを始めるよ」
私の言葉に、未来と美波が「きたね」というように顔を見合わせる。
「アンサンブルコンテスト、やな」
未来が落ち着いた声で口にする。その一言で、五人の間にふっと心地よい緊張感が走ったように見えた。
「うん。今年は私たちが主導していかないといけない。月曜日のミーティングで、部員全員に向けてアンコンの概要と選考スケジュールを説明するつもりなんだ」
「月曜日のミーティングか……。一年生にとっては初めてのアンコンやし、不安に思う子もおるかもしれんな」
美波が顎に手を当てながら、真剣な表情で思案する。
「特に少人数での演奏になるから、大人数の合奏とは違うプレッシャーがあるやろ? 一年生も、自分のパートでどうチームを組むか悩むと思う」
「そうだね。だからこそ、月曜日の説明では『アンコンは仲間同士で競い合う場でもあるけれど、少人数でじっくり音を聴き合って、自分の音と向き合う絶好の成長のチャンス』ってことを、幹部としてしっかり伝えて安心させてあげたい」
「瑠美子、ええこと言うやん」
凛々がパッと表情を明るくして、私の肩を小突いた。
「アンサンブルで吹くのって最初は緊張するけど、自分の音がダイレクトに響くからめちゃくちゃ楽しいもんね。うちもアルトサックスでどんなチーム組むか、週末じっくり考えてみるわ!」
「私もクラリネットパートで話し合っておくね。千紗と一緒になるか、後輩と組むか……いろいろアイデア出してみる」
陽菜が千紗と顔を見合わせ、千紗も「任せとき! 月曜日の説明、瑠美子が言いやすいようにパート内でもフォローするからね」と頼もしく微笑んでくれた。
「任せたで、ふたりとも」
未来が満足そうに小さく頷く。
「少人数で音を磨くアンコンの経験は、さっき瑠美子が言ってた『春の定期演奏会に向けた音作り』にも直結する。全員が自分の音を持てるように、幹部でしっかり導いていこう」
「うん!」
みんなの温かい言葉と頼もしいサポートに、胸の奥が熱くなるのを感じた。部長として一人で背負い込む必要なんてない。隣には未来や美波がいて、千紗や陽菜、凛々といった信頼できる仲間たちがしっかりと脇を固めてくれている。四校合同の音楽祭というイベントを乗り越えたことで、私たちの絆は、いつの間にかこんなにも固く揺るぎないものになっていた。
街灯の光に照らされながら歩くうちに、やがて京阪六地蔵駅の駅舎が見えてきた。
改札口の手前で、私たちは足を止める。
「じゃあ、あたしはここで。瑠美子、未来、美波、千紗、陽菜! 今日は本当にお疲れ様! 月曜日、また学校でね!」
「お疲れ様、気をつけてね!」
凛々の背中を見送り、残った私たちは京阪電車の改札をくぐった。
ホームへ上がると、夜の冷たい秋風がすっとホームを駆け抜けていく。木幡駅で下車する美波、黄檗駅では千紗と陽菜、三室戸駅で未来、そして宇治駅まで乗る私。それぞれの帰路へつく電車を待つ間も、私たちの会話が途切れることはなかった。
「月曜日のミーティング原稿、明日中にLINEで幹部グループに送るから、未来と美波、目を通してもらえるかな?」
「了解。いつでも送ってきてな」
「あたしも夜には確認するわ! 昼間は食料品の買い出しに忙しいし」
「また余計なお菓子とか買い込む気やろ」
「てへっ」
未来のツッコミに、千紗と陽菜がまた吹き出す。
滑り込んできた下り電車に乗り込み、座席に並んで腰掛けると、窓ガラスに映る自分たちの顔が見えた。そこには、筋肉痛の疲労感を遥かに上回る、充実した眩しい笑顔があった。
——萬福寺の境内に響き渡った四校のアンサンブルは、私たちに確かな手応えを残してくれた。
週明けからは、いよいよアンサンブルコンテストに向けた練習が本格化する。仲間たちと音を合わせ、試行錯誤を重ねる日々が、またここから動き出していく。