第1話 普通の新人
第1話 普通の新人
春の朝だった。
駅前には新しいスーツの色が、いつもの平日より少しだけ多く見えた。
黒や紺のまだ硬い布地、履き慣れていない革靴、髪型を整えすぎたような若い顔。
その中の一人として、佐藤直人もまた改札を抜けた。
山吹商事への入社初日。
空はよく晴れていたが、風にはまだ少しだけ冷たさが残っている。
直人は肩にかけた鞄の位置を軽く直しながら、駅から会社までの道を歩いた。
緊張はしている。
けれど、足が止まるほどではなかった。
誰だって最初の日はこんなものだろう、と自分に言い聞かせられる程度の緊張だった。
大きな期待があるわけではない。
かといって、ひどく不安というわけでもない。
ただ、うまくやれればいいと思う。
目立たず、浮かず、ちゃんと挨拶をして、必要なことをきちんと覚える。
最初に求めるものとしては、それで十分だった。
山吹商事のビルは、思っていた通りの見た目をしていた。
高すぎず、古すぎず、やたらと洗練されてもいない。
仕事をするための場所として、ちょうどいいくらいに無難だった。
直人は一度だけビルの上を見上げ、それから中へ入った。
ロビーにはすでに何人かの新入社員らしき男女が集まっていた。
受付脇に立てられた案内板に「新入社員研修会場」とある。
少し声の大きい二人組、スマホを見ている男、姿勢のいい女性。
まだ誰もが“自分の居場所”を持っていない感じがした。
直人は目立たない位置に立った。
無理に誰かへ話しかける気にもならないし、話しかけられれば普通に応じればいい。
昔から、最初に頑張って人間関係を作ろうとすると疲れることが多かった。
自然に馴染めればそれでいい。
そういう温度でいたかった。
やがて人事担当の女性が来て、明るい声で会議室へ案内した。
席は自由だったが、前の方は避けたくて、直人は二列目の端に近い席へ座る。
その隣に、すぐ別の男が腰を下ろした。
年齢は同じくらいだろう。
人懐こそうな顔立ちで、少しだけネクタイが曲がっている。
「おはよう。佐藤くん?」
名札を見て声をかけたらしい。
自然な調子だった。
「はい。佐藤です」
「俺、三浦。よろしく」
「よろしくお願いします」
三浦はそのまま、大学はどの辺だったのか、通勤は遠いのか、そんな当たり障りのない話を続けた。
直人も短く答える。
話しやすい相手だと思った。
距離の詰め方が雑ではなく、沈黙も変に気にしない。
こういう人は、どこでもそれなりにうまくやるのだろう。
その時だった。
三浦が「満員電車ほんと苦手でさ」と苦笑した瞬間、直人の頭の奥に、妙なものがふっと浮かんだ。
甘いものが苦手。
学生時代、部活で大きな失敗をしている。
妹と少し気まずい時期があった。
直人は一瞬だけ、相手の顔を見た。
もちろん、三浦はそんなことを何も言っていない。
ただ雑談をしているだけだ。
なのに、今の断片は、急に頭へ差し込まれたみたいにそこにあった。
「……通勤、慣れるまで大変そうですね」
とりあえずそう返すと、三浦は「だよな」と笑った。
直人もそれ以上は気にしないふりをした。
ここ最近、ときどきこういうことがある。
相手のことを、知りようがないはずなのに、断片的に思い浮かべてしまう。
最初は気のせいだと思った。
疲れているのかもしれないし、無意識に表情や雰囲気から何かを拾っているだけかもしれない。
毎回起こるわけでもないし、確かめようもない。
だから、深く考えないようにしていた。
研修は、ごく普通に進んだ。
会社の沿革、配属の流れ、就業規則、情報管理。
どこの会社でもやりそうな説明が続いていく。
眠くなるほどではないが、初日の緊張した頭には少し重い。
隣の三浦は、必要なところだけ手早くメモを取っていた。
前の席の女性は終始姿勢がいい。
誰もが、今日だけは失敗しないようにしているのが伝わってくる。
午前の休憩時間、直人は紙コップのコーヒーを買いに立った。
自販機の前に並びながら、会議室の方で人事の女性が別の新入社員と話しているのが見える。
よく通る明るい声。
笑い方もうまい。
ただ、それをぼんやり眺めた瞬間、また頭の奥がざわついた。
大学三年の時、就活でかなり落ち込んだ。
家では母親の前でだけ弱音を吐く。
小さなピアス穴を、面接のたびに隠していた。
直人は一度だけ目を伏せた。
こういうのが続くと、さすがに少し落ち着かない。
だが、やはり確かめようがない以上、どうしようもなかった。
たまたま浮かんだだけだ。
そう考えて、コーヒーのボタンを押す。
昼休みには、三浦を含めた数人で食堂のテーブルを囲んだ。
営業志望らしいよくしゃべる男と、穏やかな雰囲気の女子社員。
話題はバイト、通勤、研修の堅さ、配属先への不安。
いかにも初日の新入社員らしい会話だった。
営業志望の男がデザートのプリンを手に取り、「これうまそうなんだよな」と言う。
その時、三浦が少し困ったように笑った。
「あ、ごめん。俺、甘いのちょっと苦手で」
その一言に、直人の手がほんの少し止まった。
朝、頭に浮かんだ断片と同じだった。
偶然だ。
そう思う。
だが、その後の会話でも、直人の中の引っかかりは少しずつ増えていった。
誰かが学生時代の部活の話題を振った時、三浦はほんの一瞬だけ表情を曇らせた。
兄弟の話になった時も、「妹がいる」と言ったあとに、わずかな間ができた。
それだけだ。
それだけなのに、朝の断片が妙に現実味を持って残る。
何となく嫌な感じがした。
気味が悪いというほどではない。
けれど、説明のつかないものがすぐ近くにあるような、不安定な感覚だった。
最近こういうことがある。
そして今日は、いつもより少しはっきりしている。
それでも直人は、自分からその考えに近づこうとはしなかった。
考えたところで答えは出ないし、初日からそんなことで消耗したくなかった。
午後には営業支援部への簡単な挨拶があり、直人は配属先の社員たちに頭を下げた。
忙しそうに働いている先輩たち、必要なことだけ手早く教えてくれる人、歓迎の笑顔を向けてくれる人。
社会人生活は、自分が主役になる場所ではなく、すでに動いている流れへ入っていくことなのだと思う。
その感覚は、直人にとってそれほど悪いものではなかった。
簡単な雑務も少しだけ手伝った。
コピー機の使い方、共有フォルダの場所、社内チャットの設定。
何か大きなミスをすることもなく、特別褒められることもなく、一日は静かに進んでいく。
こういうのでいい。
こういう始まり方なら、自分にもやっていけるかもしれない。
そんな気持ちが少しだけ出てきた。
定時を少し過ぎて、ようやく解放される。
ビルの外へ出ると、朝よりも風が強くなっていた。
一日中張っていた神経が少しだけゆるみ、直人は肩を回した。
疲れてはいる。
けれど、社会人生活の初日としては悪くない。
目立った失敗もしていないし、変に浮いた感じもない。
このまま普通にやっていければいい。
そう思いながら、駅へ向かう人の流れに混ざった。
夕方の街は、どこにでもある会社帰りの景色だった。
信号待ちの列、コンビニ袋を下げた会社員、ガラスに映る薄い夕空。
直人もその中の一人として歩いていく。
その途中、前から来た男とふと視線が合った。
三十代半ばくらい。
黒いコート。
感情の薄い顔。
ただそれだけの、見知らぬ男だった。
だが、すれ違う一瞬、男はまっすぐ直人を見た。
ただ目が合った、というより、何かを確かめるような視線に思えた。
直人は思わず振り返りかけた。
だが男は何も言わず、そのまま人混みの向こうへ消えていく。
肩がぶつかったわけでもない。
声をかけられたわけでもない。
ただ、ほんの一瞬視線が重なっただけだ。
それなのに、妙に引っかかった。
知り合いではない。
見覚えもない。
ただの通行人だ。
そう思おうとしても、胸の奥に小さな違和感が残る。
会社で一日中緊張していたせいかもしれない。
最近続いているあの妙な感覚のせいで、神経が少し過敏になっているのかもしれない。
それでも、その視線だけがなぜか頭に残った。
気のせいだと思ったのに、その視線だけが、妙に頭に残った。