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第10話 もう一つの顔

心が読める会社員は、詐欺師の情報を売って子どもたちの居場所を守る — solispia.com · All chapters

第10話 もう一つの顔

夜道を歩きながら、直人は何度も同じ場面を思い返していた。

銀行の前で足を止めた女。

自分の口から出た嘘。

窓口で確認が必要です、と言ったときの、自分でも驚くほど自然な声。

あれで助かったのかどうか、結局分からない。

分からないまま、残ったのは感触だけだった。

人を動かした、という感触。

自分の言葉で、相手の判断を横からねじ曲げた感触。

あのやり方は駄目だと、直人は思った。

助けるためでも、続けていいやり方ではない。

一度うまくいったら、次も使う。

次も使えば、その次はもっと迷わなくなる。

そうやって慣れていく先にあるものを想像すると、吐き気がした。

だからやめる。

そう決めたはずだった。

けれど、やめると決めたところで、見えてしまうものまで消えるわけではなかった。

通勤電車で、駅前で、コンビニで、会社の廊下で。

他人の顔や声や、ほんの短い接触のたびに、断片は相変わらず流れ込んでくる。

金の話。

急がせる声。

妙に親しげな偽名。

何度も変わる連絡先。

口座名義への違和感。

騙される側の焦りと、騙す側の手慣れた癖。

見たくなくても、見える。

見えるたびに、直人は考えた。

これをその場で全部止めに行くのか。

無理だった。

一件ごとに張りついて、声をかけて、嘘をついて止める。そんなやり方は、いずれどこかで破綻する。

相手に覚えられる。

通報される。

あるいは本当に、自分が詐欺師と変わらなくなる。

止めるために、もっと別のやり方がいる。

その考えが形を持ち始めたのは、ある金曜の夜だった。

仕事帰り、直人は駅前の喫茶店に入った。

混んでいたが、奥の二人席が一つだけ空いていた。コーヒーを頼み、壁際に座る。疲れてまっすぐ帰る気になれなかっただけだ。

店内は薄暗く、スピーカーから古い洋楽が小さく流れている。レジの近くでは大学生らしい男女が課題の話をしていた。

直人はスマートフォンを机に置いたまま、ぼんやり窓の外を見ていた。

雨上がりの歩道が街灯を反射している。

そのとき、隣の席に男が二人座った。

四十代くらい。スーツ姿だが、会社帰りの同僚という感じではない。片方は声が低く、もう片方は無駄に愛想のいい笑い方をした。

最初は気にしていなかった。

だが、注文を待つあいだの短いやりとりが耳に入った瞬間、直人の背筋がわずかにこわばった。

「この前の婆さん、息子設定でいけたろ」

「いや、あれは最初の番号がよかっただけっすよ。名簿の質が落ちてる」

会話は小さい。

普通なら雑音に埋もれる程度の声量だった。

けれど、直人にはそれだけで十分だった。

番号。

息子設定。

名簿。

男たちの間に流れる慣れた空気と一緒に、断片が沈んでくる。

何度もかけ直した履歴。

名字だけ書かれた一覧。

「昼過ぎに一人になる人」

「夫に先立たれている」

「以前一度反応あり」

そんな、生々しく乾いた条件の列。

直人は視線をカップに落としたまま、呼吸を浅くする。

聞こえてくる会話は断片的だった。

誰にかける、いくら動いた、使えない番号を切る、新しい口座、前に使った名前は避ける。

露骨すぎて、逆に現実味が薄い。

けれど、男たちの中ではそれが日常の仕事として回っていた。

直人は初めて、騙す現場を“手口”ではなく“管理”として見た気がした。

誰が引っかかりやすいか。

どの時間帯がつながるか。

どういう家族構成が狙いやすいか。

どの偽名を使い回したか。

何県の番号だと警戒されにくいか。

それは一回きりの嘘ではなく、積み上げられた情報の仕事だった。

男たちが店を出たあとも、直人はしばらく席を立てなかった。

カップの底には冷めたコーヒーが少し残っている。

胸の奥に残ったのは嫌悪だけではなかった。もっと冷たい種類の実感だった。

情報だ、と直人は思った。

あいつらが持っているのも情報なら、

自分が見えてしまう断片も情報だった。

人を騙すための名簿。

連絡の癖。

偽名。

口座の使い回し。

被害者に選ばれやすい条件。

連絡が来る時間帯。

焦らせる文句。

信用させる肩書き。

自分が拾っているものは、ただの嫌な感触ではない。

つなげれば、誰かにとって価値になる。

その考えにたどり着いた瞬間、直人はひどく疲れた気分になった。

まともな発想じゃないと思った。

誰かを救う方法を考えた結果、次に出てくるのが「売れる情報」だなんて。

けれど同時に、それは初めて現実的でもあった。

一人ひとりを追いかけて止めることはできない。

だが、連中が何を見て、どう選び、どう近づくかが分かれば、別の止め方があるかもしれない。

少なくとも、自分が毎回その場で嘘をつくよりはましだ。

土曜の朝、直人は机にノートを広げた。

これまで頭に引っかかってきた断片を、できるだけ言葉にして並べてみる。

相手の名前そのものではなく、名前の癖。

口調。

家族設定の定番。

年齢層。

「前にも騙されかけたことがある人」が再び狙われやすいこと。

孤立している相手ほど、急がせる言葉が効くこと。

振込だけでなく、電子マネーや代行受取の形に変わっていること。

書いていくうちに、ばらばらだった断片に、うっすら筋が通り始めた。

直人は気づく。

自分は誰かの心の中身を全部読めるわけじゃない。

触れた一瞬のノイズしか拾えない。

けれど、そのノイズが数を重ねると、個人の秘密ではなく傾向になる。

個人を暴くことは危うい。

だが傾向は、使い方によっては武器になる。

その日、昼過ぎにコンビニへ行く途中、直人は商店街の掲示板の前で足を止めた。

「高齢者の見守り強化」

「地域防犯セミナー」

「詐欺に注意」

そんな貼り紙が並んでいる。どれも間違ってはいない。

でも、遅い。薄い。具体がない。

本当に必要なのは、もっと手前の情報なのではないかと直人は思った。

どういう人が狙われるのか。

どんな連絡先が使われるのか。

どんな言い回しが最近増えているのか。

それを知っているだけで、防げるものもある。

家に戻った直人は、ノートを閉じてベッドに倒れ込んだ。

天井を見上げながら、嫌な考えが静かに形になっていく。

自分が直接止めなくてもいい。

知っていることを、必要な相手に渡せばいい。

必要な相手。

その言葉の中身はまだ曖昧だった。

警戒したい側かもしれない。

調べたい側かもしれない。

同じ業界の別の人間かもしれない。

きれいな相手ばかりではないだろう。

むしろ、汚れた相手のほうが多いかもしれない。

それでも、人を騙す側に回るよりは、まだましだった。

直人は寝返りを打ち、腕で目を覆った。

まし、という言い方自体がもう濁っている。

それでも比較の問題として考えるしかなかった。

直接騙して止めるのは、危険すぎる。

続ければ、自分が壊れる。

なら、別の顔がいる。

月曜、会社で昼休みに一人になったとき、直人はスマートフォンのメモ帳を開いた。

これまで書いた断片を見返しながら、短く項目を打っていく。

偽名の傾向。

受け子の連絡順。

狙われやすい条件。

使い回しの口座名義。

「息子」「役所」「返金」などの設定別の誘導。

二度目に狙われる被害者の特徴。

文字にすると、ますます実務的だった。

感情が削がれ、資料に近づいていく。

それを見ていると、自分が扱っているのが他人の破滅の断片だということを忘れそうになる。

忘れるな、と直人は心の中でつぶやいた。

これはただのデータじゃない。

生活が壊れる手前で拾った、ぬるい破片だ。

だが、破片は破片として並べなければ役に立たない。

痛みのまま抱えていても、何も止められない。

その日の帰り道、直人はようやく言葉にした。

人を騙すより、知っていることを売るほうが現実的だ。

口にした瞬間、その言葉の冷たさに自分で少し驚いた。

売る。

そんな言い方をするだけで、何かを決定的に損ねた気がする。

けれど、ただ配るだけでは終わらないことも分かっていた。

情報には値段がつく。

値段がつくから流れ、流れるから届く。

綺麗事だけでは、この手の世界に入っていけない。

駅前の雑踏の中で、直人は立ち止まらなかった。

前みたいに、誰か一人の焦りに飛び込んでいく気配はない。

その代わり、見えてしまうものを別の形にする道筋だけが、静かに固まり始めていた。

助けるためだと、胸を張るつもりはなかった。

そんなにきれいな話ではない。

ただ、このまま詐欺師みたいな真似を続けることはできない。

それだけははっきりしていた。

だから、もう一つの顔を作るしかない。

まだ名前はない。

窓口もない。

誰に渡すかも決まっていない。

それでも、直人の中ではもう、次に進むための形ができはじめていた。