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第11話 Silent Ledger

心が読める会社員は、詐欺師の情報を売って子どもたちの居場所を守る — solispia.com · All chapters

第11話 Silent Ledger

最初に値段がついたのは、直人にとってどうでもいい情報だった。

どうでもいい、という言い方は正しくないかもしれない。相手にとっては十分価値があり、その価値があったからこそ金になる。だが少なくとも、直人の中にあった詐欺の実感――家の空気を冷やし、人の生活を削り、最後に子どもの食卓まで痩せさせるような類いのもの――と比べれば、その情報は拍子抜けするほど小さく見えた。

夜十一時を過ぎた机の上で、古いノートパソコンの画面だけが白く浮いている。ワンルームの部屋は静かで、冷蔵庫の作動音と、ときどき外を走る車の音だけが薄く重なる。直人はキーボードに指を置いたまま、開いたままのメモ帳アプリを見ていた。

そこには、ここ数週間で拾った断片が雑に並んでいる。

名字を三つ使い分ける男。

通話のたびに語尾だけ丁寧になる女。

地方銀行の支店名を妙に正確に覚えている受け子。

昼ではなく、必ず夕方四時台に電話を入れさせる指示役。

「息子」ではなく「甥」と言い間違えた一度きりの失敗。

被害者候補は独居、高齢、固定電話あり。

最初の接触は必ず平日午前。

二回目で焦らせる。

三回目で口座へ誘導する。

ただ人に近づいて、心に沈んだ情報を拾う。その繰り返しの中で、直人は少しずつ知ってしまっていた。詐欺師本人が自分で抱えている癖。忘れたつもりで残っている過去の失敗。仲間内で共有されている、効率のいい言い回し。被害者になりやすい条件。金を動かす順番。誰かを正面から止めることはできなかった。何度やっても、事情を知りすぎた他人は気味悪がられるだけだった。

だったら、せめて別の形に変えるしかない。

直人は一度、実際に相手を騙して金の流れを逸らした。被害は止まった。だが、その夜から残った自己嫌悪は消えなかった。助けるためだった、と理屈では言える。けれど、金を動かした方法だけ見れば、自分も詐欺師と変わらなかった。

だから、同じやり方を続けるつもりはなかった。

もっと別の、直接人を騙さずに済む方法がいる。そう考えてから、直人は自分の手元にあるものを数え直した。金ではない。力でもない。人脈でもない。あるのは、近づいた相手から拾ってしまう断片だけだ。記憶の欠片、癖、偽名、連絡の順番、口座の選び方、妙なこだわり。ばらばらで、そのままでは何にも見えない。だが、必要とする人間には価値があるかもしれない。

試すだけなら、できる。

直人はブラウザを切り替え、匿名で使える掲示板のような場所を開く。詐欺被害に敏感な連中が集まる場所、企業の内部不正を嗅ぎ回る連中が流れ込む場所、真偽不明の情報に値段をつけたがる人間が出入りする場所。どこも薄暗く、半分以上は嘘でできているような空気だった。正しい人間が使う場所ではない、と直人は思う。だが、自分が今やろうとしていることも、たぶん正しい場所で育つ種類のものではなかった。

短い文を打つ。

国内特殊詐欺系。

口座受け取り前段の接触癖、偽名運用、地方支店偏重の断片あり。

少額サンプル応相談。

送信したあと、指先が少し冷えた。言葉だけ見れば、完全に裏の人間のものだった。自分で打ったはずなのに、画面の中の文がどこか他人のものに見える。詐欺師を止めたかっただけなのに、どうしてこういう場所で、こういう顔を作ることになるのか。そう考えかけて、直人は思考を切った。今さらきれいごとを言っても遅い。きれいに済むなら、最初からこんなところへは来ていない。

反応は、予想より早かった。

送って十五分もしないうちに、二件、三件と短い返信がつく。証拠はあるか。鮮度は。どの地域か。単独案件か連続運用か。質問の仕方が妙に慣れていて、相手が情報を買うこと自体に抵抗のない人間だと分かる。直人はすぐには返さなかった。一つひとつの文面を読み、何を知りたがっているのかを見る。情報そのものより、質問の角度に相手の立場が出る。

一人は口座凍結を急ぐ側の目線だった。

一人は、被害予防の営業に使いたい会社側の目線に近かった。

もう一人は、同業者の匂いがした。

直人は最後の相手を無視した。

試すとしても、誰にでも渡すつもりはなかった。まだ自分の中で何も決まっていない段階で、詐欺師の手に戻るような渡し方だけはしたくない。そういう最低限の嫌悪だけが、かろうじてブレーキの役目をしていた。

結局、直人は企業寄りの匂いがする相手にだけ、ごく短いサンプルを返した。被害者候補の年齢層。通話タイミング。地方支店を経由する癖。誰が見ても決定打にはならないが、分かる人間には意味があるはずの断片だけ。自分の中ではそれでも渡しすぎに思えたが、完全に伏せたままでは、相手も金を出さないだろう。

返信は三分で来た。

続きが欲しい。

形式をそろえろ。

値段を出せ。

直人は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。

値段。

頭の中でその言葉だけが浮く。情報に。自分が拾った、他人の心の傷みたいな断片に。詐欺に使われる癖や、騙される人間の条件に。もちろん、理屈としては分かる。知っていることを売る仕事は世の中にいくらでもある。調査会社も、信用情報も、マーケティングも、結局は誰かの情報に金額をつける。その暗い縮小版がここにあるだけだ。だが、分かることと平気でいられることは別だった。

直人はキーボードから手を離し、立ち上がった。湯を沸かし、インスタントコーヒーを作る。マグカップを持つ指先が少し熱くなって、ようやく体に戻ってきた気がした。部屋の窓の外は、向かいのマンションの共用廊下だけが白く光っている。誰かが帰ってきたらしく、一瞬だけ足音がして、また静かになる。

値段を出せ。

直人は机に戻り、もう一度画面を見る。金が欲しかったわけではない。少なくとも、最初はそうだった。詐欺を止めたい。それだけで十分なはずだった。だが、現実には何かを続けるには金が要る。騙して止めるやり方は危険すぎる。なら、拾った断片そのものに値段がつくなら、その方がまだましなのかもしれない。自分の手を直接被害者の口座へ伸ばすよりは。

金額をいくらにするか、直人には見当もつかなかった。高く吹っかければ嘘くさい。安すぎれば、自分でもこの情報を軽く扱っていることになる。少し考えた末、直人は相手の出方を見るために低すぎず高すぎない数字を入れた。試しとしてはぎりぎり許せる額。自分で打ちながら、手のひらが乾いていくのが分かった。

送信。

返事はすぐだった。了承。支払い方法の指定を求める文。必要なら継続も可、と続く。その一文に、直人は小さく眉を寄せた。継続。そんな言葉を簡単に出されると、今やっていることが急に形を持ちはじめる。試しでは終わらず、仕組みになっていく感じがした。

受け取り口座をどうするかで、直人はまた止まった。自分名義をそのまま使うのは論外だ。かといって、ここで手間取っていると相手に不自然さを見せる。数日前から念のため作っていた匿名性の薄い電子決済経由の受け取り手段を選び、必要最低限だけ返す。仕事でもなければ商売でもない、なのにやっていることだけが妙に実務的だった。

送ってから、急に強い眠気に似ただるさが来た。

ここ数日、能力を使う場面が多かったせいもある。会社で人に囲まれ、帰り道に拾い、夜に整理する。近づかなければ読めないくせに、近づくほど頭の中に余計な断片がたまっていく。目の前の誰かに強く反応する時もあれば、古い記憶のかけらだけが引っかかる時もある。便利な力ではなかった。使った分だけ疲れるし、汚れる感じも残る。

それでも今、直人の手元には、初めて自分から形にした情報がある。偶然拾っただけではない。選び、並べ、削り、相手に渡る形へ整えたもの。そこには、助けるために必要だという理屈と、金が発生することへの嫌悪が同時に乗っていた。

一時間後、入金通知が来た。

画面に表示された数字は、直人が想像していたより現実感が薄かった。高いとも安いとも、すぐには判断できない。だが、ゼロではない。自分が打った文字列に対して、知らない相手が実際に金を払った。その事実だけが、じわじわと輪郭を持ってくる。

直人は通知画面を閉じ、深く息を吐いた。

これで何かが救われたわけではない。ただ情報が売れただけだ。もしかしたら、相手はまともな被害予防に使うのかもしれないし、別の何かに転用するかもしれない。自分には分からない。分からないまま手を離れた。そこが怖かった。詐欺師へ直接金を渡す流れを逸らした時とは別の嫌さがある。今回は、結果を見届けることすらできない。

けれど同時に、直人は理解していた。このやり方なら、少なくとも誰かを目の前で騙さなくて済む。汚れが消えるわけではない。だが、前よりはましだ。そう思ってしまった時点で、もう完全には元の場所へ戻れない気がした。

それから数日、直人は同じようにごく小さな断片を選んで流した。毎回、誰に渡すかを迷った。文面の匂いを読み、質問の角度を見て、危なそうな相手は切る。完全には見抜けない。だが、何も考えず流すよりはずっといい。そうやって一つずつ続けるうちに、反応の差が見えてきた。

情報を欲しがるのは、詐欺師だけではなかった。

企業の不正対策。調査の下請け。内部監査の補助。個人で被害を避けたい人間。中には、まともな顔をしたまま汚い目的を隠している連中もいるだろう。それでも、直人にとって大きかったのは、自分の持っている断片が思っていた以上に広い場所へ流れうると分かったことだった。詐欺を止めたい、その一点から始まったはずなのに、情報そのものの価値はもっと別の文脈で立ち上がっている。

名前が必要だった。

何度目かの取引が終わった夜、直人はそう思った。匿名のままでもやれる。けれど、毎回ばらばらの文体と窓口で出るのは、かえって危うい。相手に雑さを見せるし、自分でも管理しきれなくなる。継続するなら、顔を作らなければいけない。本名でも素性でもない、ただ窓口としての顔だ。

ノートパソコンのメモ欄に、思いつくまま単語を並べる。静か、記録、断片、帳面、残す、沈む、痕跡。英語にする。短く削る。直人は昔から名前をつけるのが得意ではなかった。商品名でも会社名でもないものに、妙に大げさな意味を背負わせたくなかった。ただ、今から作ろうとしているものには、少なくとも「忘れない」という感じが必要だった。

最終的に残ったのは、二語だった。

Silent Ledger。

声を上げず、ただ記録だけが残るもの。誰のためにあるのか、外から見れば分かりにくい名前。けれど、直人にはしっくりきた。騒がず、名乗りすぎず、痕跡だけは消さない。そのくらいの温度がちょうどよかった。

直人は仮のアカウント名をその名前に変え、最低限の説明文を整えた。

国内詐欺・偽名運用・資金移動・接触傾向に関する断片情報。

内容により可否判断。

用途不明確な依頼は受けない。

最後の一文を書いた時、自分で少し笑いそうになった。用途不明確な依頼は受けない。こんな場所に出入りしておいて、今さら何を線引きしているのか。だが、その一文がなければ、自分がどこまで落ちるのか本当に分からなくなる気がした。外から見れば気休めでも、少なくとも自分の側には必要だった。

設定を保存し、画面を見つめる。

Silent Ledger。

匿名の窓口。情報屋の顔。まだ小さく、脆く、少し押されればすぐ崩れそうな名前。けれど、その瞬間、直人ははっきり知った。これはただの思いつきでは終わらない。自分はこれから、この名前を通して人に近づき、断片を選び、値段をつけ、誰かへ渡していくのだ。

詐欺を止めるために。

食卓が冷えることも、家の中の声が低くなることも、入口が少し狭まるだけで、いくつかは防げるかもしれない。

その途中を削る役目なら、自分にもできる。

そのために、自分が何になるのかは、もう半分くらい決まっている。

人を騙すのではない。

かといって、きれいな側に立つわけでもない。

知ってしまった断片を、売る。

選んで、値段をつけて、流す。

その汚さを引き受ける窓口として、名前だけ先に置く。

外では救急車の音が遠くを横切っていった。直人はノートパソコンを閉じず、そのまま椅子にもたれて天井を見た。疲れているはずなのに、頭は妙に冴えている。新しい仕事が始まった時のような、少しだけ輪郭のある緊張があった。

普通の会社員の顔は、明日も変わらず会社へ行くだろう。

挨拶をして、資料を作って、昼には安いコーヒーを飲む。

その一方で、夜には別の名前で断片を売る。

その二つが両立するのかは、まだ分からない。

けれど、少なくとも今夜、直人は自分のもう一つの顔に名前を与えた。

Silent Ledger。

静かな帳簿のように、その名前だけが、暗い画面の中でひどくはっきり見えていた。