第12話 情報を売る
第12話 情報を売る
Silent Ledger という名前をつけたあとも、直人はしばらくその文字列を見ていた。
何かが始まった実感はあった。だが、それは前向きな始まりというより、引き返しにくい道へ足を置いた感触に近かった。夜の机にノートパソコンの光が広がり、マグカップの底に少しだけ残った冷めたコーヒーが薄く照り返している。部屋は静かで、換気扇の低い唸りだけが一定に続いていた。
匿名の窓口を作っただけでは、まだ何も変わらない。名前があることで、自分がやろうとしていることが少しだけ形を持った、それだけだ。だがその「少し」が厄介だった。名前をつける前は、試しに断片を流してみただけだと言えた。偶然価値がついただけだ、とも言えた。Silent Ledger と名づけた瞬間から、それは偶然ではなくなる。続けるつもりのある行為になる。
直人は机の横に置いたメモ帳を開いた。会社で拾った断片、駅で感じた違和感、以前関わった詐欺案件の細い記録。書き方は雑だが、自分にしか分からない程度の整理はしてある。偽名の傾向、口座の使い分け、被害者候補の生活条件、電話を入れる曜日の偏り、詐欺師側が嫌う確認のされ方。以前はそれぞれ単独の嫌な情報でしかなかった。今は、それらが「売れるかもしれないもの」として目に入ってしまう。
それが一番気持ち悪かった。
情報に値段がつくこと自体は、世の中では珍しくない。だが直人が持っているものは、公開資料でも統計でもない。誰かの心に残った失敗、癖、恐れ、慢心、その断片だ。近づいた時に偶然触れてしまう、本人ですら忘れたつもりの痕跡。それを並べ替えて価値に変える。そう考えると、自分がしていることは能力の利用というより、他人の中身の切り売りに近い気がした。
それでも、やめるつもりにはならなかった。
あのまま人を直接騙して止める形を続ければ、いずれどこかで破綻する。被害者を助けるために先回りして別の嘘を差し込むやり方は、一度成立したからこそ危険だった。成功体験は繰り返しを誘う。次もいけるのではないか、今度はもっと上手くできるのではないか。そう思い始めた時点で、自分が何者になるのか想像がついた。だから、戻るためではなく、落ち切らないために別のやり方が必要だった。
翌日、会社ではいつも通りに働いた。
朝礼、メール確認、伝票処理、取引先への返信。表面上は何も変わらない。山田に「資料サンキュ」と声をかけられ、「いえ」と返す。コピー機の前で順番を待つ間、近くにいた別部署の社員の心に一瞬だけ触れる。住宅ローンのこと。子どもの塾代。口に出してはいない焦り。直人は視線を落とし、何もなかったふりをした。
能力は、使おうとして使うだけではない。近くにいれば勝手に触れてしまうことがある。だからこそ、今の自分のやり方は危うかった。仕事中に拾った断片まで「使えるかもしれない情報」として見始めたら、日常の全部が材料になる。直人はそこに足を踏み込まないよう、自分の中で曖昧な境界を引いていた。少なくとも今は、目の前で詐欺やその周辺に触れていると確信できる相手から拾ったもの以外は扱わない。それくらいは守らないと、自分がどこまで切り取っていいと思っているのか分からなくなる。
昼休み、社員食堂の隅で一人になった時、直人はスマートフォンで Silent Ledger の画面を開いた。昨夜の短い掲示以降、いくつか問い合わせが増えている。内容はばらついていた。高齢者被害対策を名乗る小さな事業者、内部調査の参考と言う個人、露骨に他人の足元を探りたがっているだけの文面。どれも本当か分からない。名前も所属も信用できない。だが、質問の仕方にはそれぞれ癖があった。何を知りたいか、どこを急いでいるか、何を省いているか。直人は一つひとつ読み、返すものと切るものを分ける。
その日、初めて「ちゃんとした取引」になりそうな相手が現れた。
文面は短い。だが、無駄がなかった。必要以上に大きく出ない。こちらの情報を過剰に煽らない。その代わり、確認したい点だけを淡々と並べてくる。国内特殊詐欺の接触パターンに関心があること。特定地域の支店利用傾向と受け渡し前の連絡癖を知りたいこと。単発ではなく、形式化された断片なら継続的に買えること。妙に落ち着いた文章だった。
直人は何度か読み返した。相手の善悪は分からない。だが、少なくとも前にいた同業者めいた匂いとは違う。詐欺そのものを回す側というより、情報を整理して別の場所で使う人間の文面に見えた。
仕事を終えて帰宅してから、直人はその相手に返す情報を選んだ。
難しいのは、どこまで出すかだった。価値があると思わせるには具体性が要る。具体的すぎれば、こちらの手持ちを必要以上に明かすことになる。詐欺師の使う偽名の型、連絡の入る曜日の偏り、受け取り前に挟む確認文言の癖。被害者候補の生活条件もあるが、それは気持ちの上で出したくなかった。条件がそのまま狙われる人間の輪郭に近づくからだ。
迷った末、直人は「相手側の癖」としてまとめられるものに絞った。
偽名の運用傾向。
同じ役割でも話し方が統一されないこと。
地方銀行支店名の扱いが妙に具体的であること。
二回目接触で焦らせる構造。
受け子へ渡る前段の連絡順。
それをできるだけ乾いた文面に整える。能力で拾った記憶の残りかすを、そのまま感情の温度ごと渡すわけにはいかない。読んだ相手にとっては、ただの実務的な断片に見える方がいい。そうやって一項目ずつ削っていく作業をしていると、自分がしていることが余計にはっきりした。見えたものを、使える形に加工している。直人の能力が詐欺そのものより、情報の選別に向いているとすれば、たぶんこういう時だった。
送信後、返信は十分も待たずに来た。
形式をそろえてほしい。
今後も同等の粒度で出せるか。
価格を提示してほしい。
やはり、と思う一方で、胸の奥が少しだけ冷えた。相手は内容を評価している。こちらの情報が使えるものだと判断している。つまり、今直人がやっていることは、単なる思いつきではなく、外から見ても商売の形を持ち始めているということだった。
価格。
前回は試しだった。今回は、もう少し露骨に「続ける前提」で問われている。安くすれば軽く扱われる気がする。高くすれば、自分でもこの情報にそこまでの値段をつけるのかとひるむ。少し考えて、直人は内容ごとに幅を持たせる返し方を選んだ。偽名運用や接触パターンのように、再利用されやすい情報。名簿や個別案件につながる可能性のある情報。相手の立場次第で価値が変わるもの。金額を固定しすぎない形にしたのは、相場が分からないからでもあるし、自分でもまだ「何を売っているのか」を確定しきれていないからでもあった。
相手はその条件にほとんど迷わず応じた。
その夜、入金があった。
通知音は控えめなのに、直人には必要以上に大きく聞こえた。スマートフォンの画面に出た数字を見て、しばらく固まる。昨日より額が上がっている。こちらが思う以上に、向こうは価値を見ているのだと分かった。ありがたいとは思わなかった。むしろ、引き返しにくくなる感じがした。
金が欲しかったわけじゃない。
そのつもりで始めたわけでもない。
だが、金は事実として入る。
その事実は、理屈より強かった。
直人は椅子から立ち上がり、台所で水を飲んだ。蛇口をひねる音がやけに大きい。コップの縁に口をつけたまま、ぼんやり流し台を見つめる。情報に値段がつく。値段がつくから、選び方が変わる。どれが高く売れるか、どれが継続につながるか、どの依頼人を残すべきか。そういう発想が入ってきた時点で、目的は簡単に濁る。被害を減らしたいはずなのに、情報としておいしい案件を待つようになったら終わりだ。直人はその可能性に、思った以上に強い嫌悪を覚えた。
その嫌悪が、逆に冷静さをつくった。
翌日以降、直人は売る断片を選ぶ時、以前より長く迷うようになった。相手の求めるものをそのまま出すと、もっと深いところまで掘れと言われる。個人名や家族構成に近い部分へ寄れば、値は上がるかもしれない。だがそこへ手を出せば、自分が何を守りたかったのか分からなくなる。反対に、抽象的な傾向だけでは足りない。金を取る以上、使える情報でなければならない。
そのちょうど中間を探すうちに、直人は少しずつ気づいた。
自分が向いているのは、暴くことではなく、選別することなのだと。
能力そのものは乱暴だ。近づいた相手の中に残っているものへ触れ、勝手に知ってしまう。だが、その後どう扱うかは別だった。全部を出すわけではない。見えたからといって渡すわけでもない。ばらばらな断片のうち、どれが価値で、どれが危険で、どれが一線を越えるのかを見極める。この作業だけは、自分の意思でやっている。
ある夜、依頼人の一人から追加の要望が来た。
高齢女性が一人暮らしかどうか。
同居家族の有無。
地域と年齢帯の絞り込み。
もし分かるなら、普段相談している相手の有無。
画面を見た瞬間、直人は無意識に眉をしかめた。
それはもう、被害を防ぐための情報の聞き方ではなかった。
少なくとも、こちらからはそうは見えない。狙いやすい人間の条件を、そのままなぞっているように感じた。
直人は返事をしなかった。
しばらく待つと、催促が来る。条件が悪いなら価格は上げられる、と続く。金額の問題ではなかった。むしろ金額を持ち出されることで、何を買おうとしているのかが余計に透ける。直人は画面を閉じ、その依頼人とのやり取りを切った。こういう切り方で何かを防げる保証はない。それでも、何でも売るつもりはないと自分に示すには必要だった。
一度売った情報は、もう戻らない。
その実感も日ごとに強くなっていた。最初に渡した断片が、その後どこでどう使われたかは分からない。企業の被害防止に回ったのか、調査資料の一部になったのか、もっと別の暗い用途へ流れたのか。追えないし、追う術もない。自分の手を離れた時点で、情報は別の意思に従う。
それは、金そのものより重かった。
助けるためにやっているはずなのに、助けた結果が見えない。
止めるために流しているはずなのに、別の誰かを追い詰める側へ回っていないと言い切れない。
その曖昧さの中で、直人がよりどころにできるのは、渡す前の判断しかなかった。
その週の金曜、帰り道に、直人は駅前のスーパーに寄った。総菜売り場は夕方の値引きの時間帯で、仕事帰りの人や買い物かごを提げた主婦で混み合っていた。直人は惣菜の棚の前で、半額になった唐揚げのパックに手を伸ばす。
隣に、小学生くらいの女の子を連れた母親がいた。
子どもが「これがいい」と指さし、母親が「それ、昨日も食べたでしょ」と笑いながら言う。結局、二人は同じパックをかごに入れた。たったそれだけのやり取りだった。
直人は、その背中を少しだけ目で追った。
何でもない夕方の景色だ。だが、何でもないことが成り立っている場所は、思っているよりずっと脆いと、直人は知っていた。
誰かの生活は、こういう細部でできている。
詐欺の被害額や回収率ではなく、夕飯の総菜や、買い物かごの重さや、帰ってくる場所の明るさでできている。
それを壊す流れのどこかを削りたい。
そう思った原点は、まだ消えていない。
だからこそ、情報を売るという行為を、ただの商売にしたくなかった。
帰宅後、直人はメモ帳を開いた。
売った情報。
切った依頼。
迷った項目。
相手の聞き方で危険だったもの。
思いつくまま書き出し、最後に少し間を空けてから一行足す。
見えたもの全部を売るわけじゃない。
売れるものと、売ってはいけないものは違う。
書いたあと、その文がまだルールにはなっていないと分かった。
ただの感覚だ。だが、感覚でもないよりはいい。何もないまま続ければ、金額の大きい方へ流れるのは目に見えている。自分の能力が情報の選別に向いていると気づいたのなら、その選別の基準も、いつか言葉にしなければいけない。
Silent Ledger の画面には、新しい問い合わせがまたいくつか届いていた。
知らない相手。知らない意図。知らない金額。
その一つひとつに、直人はもう以前とは少し違う目を向けていた。
情報には値段がある。
だが、その値段は中身だけでは決まらない。
誰に渡るかで、意味が変わる。
誰に渡すかで、自分が何者かも変わる。
そのことを、直人はようやく本気で理解し始めていた。