第13話 線を引く
第13話 線を引く
月曜の夜、Silent Ledger の受信箱に、一通だけ毛色の違う依頼が届いていた。
件名は短い。
「記録にある男について」とだけある。
直人はコーヒーを淹れ、机に戻ってから開いた。
文面は丁寧だった。丁寧すぎて、かえって必死さが透けて見える種類の文章だった。
先月、あなたが流した断片の中に、受け子の一人についての記述があった。
偽名、連絡の癖、受け取り場所の偏り。
その特徴が、自分の家族を騙した男と一致している。
現在の居場所と、よく立ち寄る場所、家族の連絡先が分かるなら買いたい。
金額は言い値でいい。
直人は画面から目を離せなかった。
続きがある。
父が、騙された金額を家族に言えないまま倒れたこと。
今は退院して家にいるが、以前のように笑わなくなったこと。
警察には相談したが、「受け取った本人を特定するのは難しい」と言われたこと。
自分は、ただ話がしたいだけだ、と。
話がしたいだけ。
その一文を、直人は二度読んだ。
嘘だとは思わなかった。
少なくとも、嘘をついているつもりの文章には見えない。
父親が倒れたことも、警察に言われたことも、たぶん本当なのだろう。
本当だからこそ、この依頼は重かった。
直人の手元には、実際にその男の断片がある。
駅のホームですれ違った時に拾ったものだ。
偽名の使い回し。
地方の支店ばかり選ぶ癖。
そして、北関東に残してきた母親と、年の離れた妹のこと。
妹の進学費用の話が、胸の奥でやけに大きく鳴っていた。そういう男だった。
売れる、と直人は思った。
売ろうと思えば、今すぐ売れる。
母親の住所までは知らない。だが、地域と、妹の年齢と、男がよく使う路線までは分かる。
それだけで、動ける人間なら動ける。
動けるのだ。
それが問題だった。
直人はマグカップを置き、椅子の背にもたれた。
天井の蛍光灯が、少しだけ明るすぎる。
依頼人が「話したいだけ」だと信じたとしても、その先は直人には見えない。
話して終わるかもしれない。
殴りに行くかもしれない。
家族のところへ押しかけるかもしれない。
妹が、何も知らないまま巻き込まれるかもしれない。
どれになるかは、渡したあとの依頼人次第だ。
そして一度渡したら、直人にはもう止める手段がない。
返信は、短くした。
その情報は扱えません。
居場所、家族に関するものは、理由にかかわらず売りません。
送信してから、少しだけ息を吐く。
断るのは簡単だった。簡単なのに、胃のあたりが重い。
返事は、三十分ほどで来た。
あなたは被害者の味方ではないのですか。
詐欺を止めたいから情報を売っていると、どこかに書いてあった気がする。
私は、止められなかった側です。
直人は目を閉じた。
どこにもそんなことは書いていない。依頼人が自分で補った言葉だろう。
けれど、そう読まれてしまっても仕方がない、とも思った。
自分で選んだ窓口だ。
詐欺を止めたい人間が開いている窓口だと、そう見えるように、最初に手を加えたのは自分だった。
何も返さなかった。
返せる言葉がなかった。
正しいことは言える。けれど、父親が倒れた家の人間に、正しいことを言って何になる。
その夜、直人は台所で水を飲み、しばらく流しの前に立っていた。
蛇口から落ちる雫の音が、やけに規則的だった。
銀行の前で嘘をついたあの日から、ずっと自分に言い聞かせてきた。
騙すのはやめた。情報を売るだけなら、汚れ方がましだ。
けれど今日のことで分かった。
売ることだって、十分に人を動かす。
動かす先を選べないぶん、むしろ性質が悪い。
机に戻り、ノートを開く。
前に書いた一行が残っている。
見えたもの全部を売るわけじゃない。
売れるものと、売ってはいけないものは違う。
その下に、ペンを置いた。
今度は、感覚ではなく言葉にする。
子どもや家族の情報は扱わない。
命に直結するものは渡さない。
報復や脅しに使われそうな依頼は受けない。
三行だった。
書いてみると、驚くほど少ない。
こんなものが線だと言えるのか、と自分で思った。
それでも、なかったよりはいい。
何もなければ、今日の依頼のようなものは、金額次第でいくらでもずるずる動く。
ルールを書いた翌朝、受信箱に、見覚えのある名前が一件だけ光っていた。
先週から継続して買ってくれている、あの落ち着いた文面の相手だった。
家族や居場所に触れる項目は出さないことにした、と直人が短く告げたことへの返事だった。
そこを外すなら、情報の価値は半分以下になる。
他に当たる先もある。
文面は変わらず丁寧で、感情の起伏がなかった。
だからこそ、脅しではなく、ただの事実として読めた。
直人は、読み終えてからも、しばらく動かなかった。
半分以下。
たぶん、本当にそうなのだろう。
この窓口の値打ちは、他では手に入らない踏み込んだ断片にあった。
その踏み込みのいちばん深い部分を、自分で切り落としたことになる。
金が減る。
相手が離れる。
それでも構わない、と言い切れるほど、自分は強くない。
実際、胸の奥では小さな損得の計算がすぐに動いていた。
ここで線を緩めれば、収入は保てる。
今回だけ、この項目だけ、と言い訳をつくることも、たぶんできる。
そこまで考えて、直人は苦く息を吐いた。
今回だけ。
それは、銀行の前で嘘をついた夜に、自分が何度も思い浮かべた言葉と同じだった。
返信は、短くした。
方針は変えません。
それで不要でしたら、今後のお取引は結構です。
送信ボタンを押す指は、思ったより震えなかった。
代わりに、胃のあたりに薄い冷えが残った。
客を一人、失うかもしれない。
それでも、手元の三行はまだ消えていない。
その日の昼休み、直人は食堂の隅で、別の依頼を読んだ。
差出人は、企業の内部調査を名乗る相手だった。
従業員の一人について、「家庭に問題がないか」「実家に金銭トラブルがないか」を知りたい、と書いてある。
理由は、情報漏えいのリスクを避けるため。
守るためです、と、文面にははっきり書いてあった。
直人は箸を止めた。
これは、どうなのか。
実家の借金が原因で、従業員が不正に手を染める。そういう話は実際にあるのだろう。
会社側が事前に気づければ、誰も傷つかずに済むかもしれない。
けれど、その従業員の家族のことは、本人以外の誰にも知らされないまま、ただ情報として動いていく。
借金があると分かった従業員は、会社からどう見られるのか。
家族の情報は扱わない。
自分でそう書いたばかりだった。
だから、これは断るべきだ。
断るべきだと分かっているのに、返信の文面を打つ指が止まった。
守るためです。
その言葉は、さっきの依頼人の「話がしたいだけ」と、どこか似ている。
どちらも、本当にそう思っている人間の言葉だった。
本当にそう思っている人間が、結果として誰かを傷つける。
詐欺師だって、最初はそういう顔をして近づいてくる。
結局、返信は短く済ませた。
家族に関する情報は扱いません。
それだけを送り、スマートフォンを伏せた。
食堂の窓の外では、昼の光が駐車場に落ちている。
いつもの昼休みで、いつもの平日だった。
線は、思ったより簡単に揺れる。
直人はそれを、身をもって知り始めていた。
依頼人の本音は、善悪できれいには分かれない。
きれいに分かれていたら、そもそも迷わない。
夜、帰宅してから、もう一度ノートを開いた。
三行の下に、少し間を空けて、四行目を書き足そうとして、やめた。
書き足すほど、線はかえって細くなる気がした。
なぜ線を引くのか。
それを、直人は考えた。
正義のためではない。
自分が誰かを裁きたいからでもない。
もっと単純な理由だった。
引かなければ、自分がどこまでも落ちていく。
落ち方に歯止めがなければ、そのうち「どうせ売るなら」と思うようになる。
どうせ汚れているなら、もっと汚れても同じだ、と。
そうなった時、自分は詐欺師と本当に変わらなくなる。
線は、人を守るためというより、自分が壊れきらないための手すりだった。
それはひどく利己的で、だからこそ、いちばん信用できる理由でもあった。
直人はノートを閉じ、部屋の灯りを消した。
暗がりの中で、父親が倒れた家の人間の、最後の一文だけがまだ残っている。
私は、止められなかった側です。
あの人に、自分は何も渡さなかった。
それが正しかったのかどうか、たぶん一生分からない。