第14話 同じ匂い
第14話 同じ匂い
その週の水曜、午前中から、直人は山田の視線を何度か感じていた。
気のせいかもしれない。
けれど、伝票の確認をしている時も、コピー機の前で順番を待っている時も、島の向こうから、ふと目が合うことがあった。
山田は、そのたびに何事もなかったように視線をそらす。責めているわけではない。ただ、見ている。
見られていると意識するだけで、直人は、自分の姿勢や、手の動きや、表情の薄さまで、急に気になりはじめた。
寝不足は、出社前のコーヒーでごまかしているつもりだった。ごまかせていないのだと、その視線で思い知らされる。
山田の目は、いつも通り穏やかだった。なのに、その穏やかさの奥に、何か測るような静けさがある。直人は画面に視線を戻しながら、自分の指先がキーボードの上でわずかに遅れるのを感じていた。画面の数字が、いつもより少しぼやけて見える。蛍光灯の白い光が、机の上に細長い影を落としている。その影をぼんやり眺めながら、直人は自分の体がどこか借り物のように感じられた。肩のあたりに、薄い疲れが残っている。昨夜、ノートを開いて断片を整理していた時間が、朝になってもまだ体に染みついているようだった。
コピー機の前で順番を待っているときも、山田の視線を感じた。紙の束を揃える音、機械の低い駆動音、誰かが背後を通り過ぎる気配。直人は紙を取りながら、島の向こうにいる山田の横顔を、意識の端で捉えていた。山田は資料に目を落としている。ただ、その視線が一瞬だけこちらへ流れた気がした。直人は紙を抱えて席に戻り、画面に向かった。数字が、意味を失って模様に見える瞬間があった。自分の中のざらつきが、仕事の輪郭を少しだけぼかしている。
昼休みになる少し前、山田が直人の席の脇に立った。
「佐藤、昼、外行かね?」
山田は営業支援部で、直人より五年ほど上の先輩だった。面倒見がいいが、押しつけがましくはない。誰かが困っていても、すぐには声をかけず、少し様子を見てから、必要な分だけ手を貸す。そういう距離の取り方をする人だった。直人は画面から顔を上げ、山田の表情を見た。笑い方はいつもと同じだ。口角が少しだけ上がり、目尻に細い皺が寄る。なのに、今日はその皺の奥に、何か別のものが沈んでいる気がした。山田のシャツの襟元が、わずかに乱れている。朝の慌ただしさの残りだろうか。それとも、何か別の理由か。直人は鞄を持ちながら、その襟元を見て、胸の奥がわずかにざわついた。
「いいですけど、珍しいですね」
「たまにはな。たまには」
山田は軽く笑った。その軽さが、少しだけ不自然に聞こえた。直人は立ち上がり、椅子を引く音を聞いた。その音が、いつもより少し大きく響いた気がした。部署の空気は、昼前の静けさを保っている。誰かが電話で話している声、キーボードを叩く音、コピー機の駆動音。それらが、遠くから聞こえてくる。直人は山田の後ろについて歩きながら、自分の足音が床に落ちる感触を意識した。靴底が、少しだけ重い。
会社から五分ほど歩いたところに、小さな定食屋がある。暖簾は色あせていて、昼時には近所の会社員で席が埋まる。店の中は油の匂いと味噌汁の湯気が混じり、テーブルの表面は少しべたついている。壁には古いカレンダーが貼られ、窓の外には通りの車の音が聞こえる。入口のベルが、二人の入店で小さく鳴った。店員が「いらっしゃい」と声をかけ、二人は奥の小さなテーブルに案内された。山田は生姜焼き、直人は焼き魚を頼んだ。注文を終えると、山田は椅子に深く腰を下ろし、窓の外をちらりと見た。通りを行く人々の影が、ガラスに薄く映っている。
しばらくは、仕事の話だった。今月の締めの段取り。取引先の担当が変わったこと。新しい伝票システムの使いにくさ。どれも他愛もない話で、山田の話し方には、いつものようにどこか力の抜けた調子があった。直人は焼き魚の身を崩しながら、その声を聞いていた。山田の声は低くて、言葉の端が少し丸い。急がない。誰かを急がせない。その調子が、ここ数日の直人の内側にあるざらついたものを、少しだけ遠ざける。皿の上の焼き魚から立ち上る湯気が、蛍光灯の光を屈折させて、ぼんやりと揺れている。その揺れを眺めながら、直人は箸を動かした。
食事が運ばれてきてから、山田は箸を割りながら、ふと言った。
「お前さ、最近ちゃんと寝てる?」
直人は、味噌汁の椀を持ち上げたところで手を止めた。湯気の向こうに、山田の顔がある。責めているわけではない。ただ、聞いている。その目が、自分の寝不足の影を、すでに見透かしているように感じられた。直人は椀をゆっくり下ろし、視線を皿に落とした。焼き魚の表面が、少し焦げている。その焦げ目を、ぼんやりと見つめた。
「寝てますよ」
「そうか」
山田はそれ以上、何も言わなかった。生姜焼きを一切れ口に運び、咀嚼して、飲み込む。その間、視線は直人の顔ではなく、皿の上に落ちていた。直人は、その沈黙の長さを、じっと感じていた。店内の話し声、食器のぶつかる音、入口のベル。それらが、遠くから聞こえてくる。自分の心臓の音が、少し大きくなった気がした。
「目の下」
「え」
「クマ。この二週間くらい、ずっと濃いぞ」
直人は思わず、自分の目の下に指をやりそうになって、やめた。鏡では見ていた。見ていたが、見ないふりをしていた。朝、洗面台の前で顔を洗ったとき、鏡の中の自分が、いつもより少し疲れて見えた。目の下の影が、蛍光灯の光で強調されていた。それを見て、直人は小さく息を吐き、タオルで顔を拭いた。見ないふりをしていた。でも、山田には、見えていた。
「ちょっと、家でやってることがあって」
「家で」
「個人的な……調べものというか」
嘘ではなかった。けれど、本当のことでもない。Silent Ledgerの画面、拾った断片の整理、ノートに並べた条件。それらが、頭の中に浮かぶ。山田に言えることではない。言えば、話が終わってしまう。直人は箸を動かしながら、焼き魚の身を崩した。身が、箸の間から崩れて落ちる。その感触が、指先に残った。
山田は「ふうん」とだけ言って、水を飲んだ。その時、コップを置く手が、テーブルの上で一瞬だけ直人の腕の近くを通った。
触れたわけではない。ほんの数センチ、距離が縮んだだけだった。それなのに、頭の奥に、細い断片が差し込んできた。
夜の営業支援部。島の端の席に、まだ一人だけ残っている後輩。蛍光灯の下で、背中を丸めてキーボードを叩いている。山田は帰り支度をしながら、「お疲れ」と声をかけて、そのまま帰った。その後輩は、次の月に出社しなくなった。理由は、最後まで誰からも聞かされなかった。
佐伯、という名前が、断片の一番底に沈んでいた。
直人は、ほとんど反射で視線を落とした。拾いたくなかった。他人の、誰にも言っていない後悔なんて、ただの覗き見だ。けれど、一度拾ってしまったものは、もう戻せない。断片の中の光景が、頭の中で繰り返される。蛍光灯の白い光。背中を丸めた後輩の影。山田の「お疲れ」という声。その声の後ろに沈んでいる、言葉にならない重さ。直人は、自分の胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「俺さ」
山田が、箸を置いた。
「前に、同じ部署に後輩がいたんだよ。佐伯って奴」
直人は顔を上げなかった。名前を聞いても、驚いたふりをしなければいけない、と思った。でも、声が出てこない。湯気の向こうの山田の顔が、ぼんやりと揺れている。
「真面目で、仕事もできるやつだった。でも、ちょっと抱え込みすぎるところがあってな。俺が気づけなかった。気づいてたつもりだったけど、結局、何もしてやれなかった」
山田の声は、いつもより少しだけ低かった。直人は、その声を聞きながら、湯気の向こうの山田の顔を見た。目は皿の上に落ちたまま、口元がわずかに硬い。後悔の形が、そこにある。能力で拾った断片と、今、言葉にされたものが、きれいに重なった。直人は、自分の胸の奥が冷たくなるのを感じた。山田の中に沈んでいたものが、今、言葉になって出てきた。それを、自分が先に触れてしまった。その事実が、胃のあたりに鈍く沈む。
「俺は、あの時、何もできなかった。だから今は、少しでも様子がおかしい奴がいたら、声をかけるようにしてる。押しつけがましくない範囲でな」
山田はそう言って、水をもう一口飲んだ。直人は、箸を動かしながら、小さくうなずいた。言葉が出てこない。山田の視線が、自分の寝不足の影を、佐伯の影と重ねて見ている気がした。それが、怖くもあり、少しだけ救われるような気もした。誰かに、ちゃんと見られているという感覚が、ここ数日の孤独を、ほんの少しだけ薄めた。
食事を終えて店を出ると、空はすでに午後の白い光に変わっていた。通りの車の音が、いつもより少し大きく聞こえる。直人は山田と並んで歩きながら、自分の影がアスファルトの上に細長く伸びているのを見た。山田の影が、その隣にある。重ならない。少しだけ離れている。その距離が、今の自分と山田の関係を、正確に表しているように思えた。風が、顔に当たる。春の風なのに、少し冷たい。直人は、その冷たさを、胸の奥に沈めて歩いた。
会社に戻っても、直人の頭から、佐伯という名前が消えなかった。誰にも言われなかった後悔。山田の中に沈んでいた、言葉にならない重さ。それを、自分が先に触れてしまった。直人は席に座り、画面を見ながら、自分の指先がキーボードの上でわずかに震えているのを感じていた。能力は、便利なものではない。ただ、他人の傷を、勝手に拾ってしまうだけのものだ。その事実が、今日は特に、胸の奥に重く残った。画面の数字が、意味を失って模様に見える。窓から差し込む光が、机の上で細長い影を落としている。その影をぼんやり眺めながら、直人は自分の体がどこか借り物のように感じられた。