第2話 心を読む
第2話 心を読む
翌朝、直人は昨日より少しだけ早く目が覚めた。
初日を終えた安心からか、緊張はわずかに薄れている。
それでも、布団の中で目を開けた瞬間、最初に思い出したのは研修の内容ではなかった。
頭の奥へふいに差し込んできた、あの妙な断片の感触だった。
甘いものが苦手。
部活での失敗。
妹と気まずかった時期。
就活で落ち込んだこと。
母親の前だけで弱音を吐くこと。
どれも、自分が知るはずのないことだった。
それが昨日は、あまりにも自然に頭へ入ってきた。
洗面台の前で顔を洗いながら、直人は鏡の中の自分を見る。
寝不足というほどではない。
体調も悪くない。
だから余計に、疲れや思い込みのせいで片づけにくかった。
ここ最近、ときどきこういうことがある。
誰かを見た時、その人のものとも自分のものともつかない断片が浮かぶ。
毎回ではない。
意味もばらばらだ。
だから気のせいだと流してきた。
だが昨日は、同じ日に二度三度と起きた。
しかも、思い過ごしで済ませるには少し具体的すぎた。
会社へ向かう電車の中でも、そのことが頭から離れなかった。
ただ、考えたところですぐ答えが出るわけでもない。
いま必要なのは推理ではなく、まず普通に仕事をすることだと自分に言い聞かせる。
入社二日目でぼんやりしているわけにはいかなかった。
営業支援部に着くと、朝の空気は昨日と同じように静かだった。
電話が鳴り始める前の部署には、まだ準備の時間らしい整った間がある。
直人は自分の席に座り、昨日教わった手順を思い出しながらパソコンを立ち上げた。
隣の島では先輩社員が二人、資料の確認をしている。
その一人の横顔にふと視線が向いた瞬間、直人の頭の奥がまた小さくざわついた。
学生時代、仲のいい友人に金を貸して返ってこなかった。
家族とは長く、どこかぎこちない。
一度だけ、うまい話に乗りかけて、ぎりぎりでやめたことがある。
直人は視線をすぐに画面へ戻した。
昨日と同じだ。
しかも、昨日より少しだけ速い。
相手をじっと見たわけでも、会話したわけでもない。
ただ目に入った、その程度のことで断片が浮かぶ。
息をつかずに、直人は作業を始めた。
紙の資料とデータの数字を照らし合わせ、入力ミスがないかを確認していく。
単純な作業は、頭を余計な方向へ走らせないためにちょうどよかった。
だが、完全に切り替えることはできない。
さっきの断片が本当にたまたまなのか、それとも何か別のことなのか、意識の端に引っかかり続けていた。
昼休み、直人は食堂の端の席で一人で昼食を取っていた。
別に避けているわけではないが、二日目の時点ではまだ一人の方が気楽だった。
周囲では同じ部署らしい社員たちが、仕事や取引先の話をしている。
聞くつもりはなくても、近い席の会話は自然と耳に入った。
午前中に断片が浮かんだ先輩社員が、同僚に苦笑しながら言う。
「いや、ああいう儲け話みたいなの、俺ほんと無理なんだよ」
直人の手が止まりかける。
先輩は続けて、軽い調子のまま言った。
「前に一回、危ないのに巻き込まれかけてさ」
その瞬間、背中のあたりが少し冷えた。
当たった。
いや、当たったという言い方すら変かもしれない。
もともと問題なのは、自分が“知るはずのないこと”を先に知っていたことなのだから。
食堂のざわめきは普段通り続いている。
周りの誰も、直人の内側で何かがわずかに軋んだことには気づかない。
もちろん自分から言うつもりもなかった。
ただ、偶然で押し切るにはもう少し苦しくなってきている、とだけ思った。
午後、別部署の女性社員が書類を届けに来た。
直人の席の前で短く用件を伝え、ファイルを置く。
それだけの、何でもないやり取りだった。
だが、女性が少し身を乗り出した瞬間、また断片が流れ込んできた。
学生時代、入りたかったサークルに馴染めなかった。
父親とは礼儀正しく話すが、本音はほとんど言わない。
高校の頃、一度だけ、親友だと思っていた相手に裏切られた。
直人はほとんど反射的に目を伏せた。
昨日と同じようでいて、少し違う。
内容がより私的で、生々しい。
しかも、その場のやり取りとはまるで関係がなかった。
書類を渡しに来ただけの相手から、なぜそんなものが浮かぶのか分からない。
気味が悪い、という言葉がいちばん近かった。
仕事を終え、帰宅して部屋に入った頃には、その違和感がかなり強く残っていた。
ただの勘。
ただの推測。
ただの思い込み。
そう言い切ろうとするたびに、今日の断片の具体性が邪魔をする。
知らないはずのことが、断片的に入り込んでくる。
しかも会話と無関係なものばかりだ。
直人は上着を脱ぎ、ベッドの端に腰を下ろした。
静かな部屋の中で、一日の出来事を頭の中へ順に並べ直す。
最近、こういうことが起き始めた。
最初はもっと曖昧だった。
相手のことをなんとなく分かった気がする、その程度の感覚。
たまたま当たっただけだと流せるくらいの弱さだった。
それが昨日、今日と、急に少しはっきりしてきている。
何がきっかけなのかは分からない。
疲れなのか、環境の変化なのか、ただの偶然なのか。
けれど、もう無視し続けるには少しはっきりしすぎていた。
直人は机の上のノートを引き寄せた。
考えようとしても頭の中だけではまとまらない。
とりあえず、思い出せることを書き出してみることにした。
最近、ときどき相手のことが分かる。
会話と関係ないことが浮かぶ。
今日もあった。
午前の先輩。
午後の女の人。
昔のことっぽい。
いまその人が考えてること、ではない気がする。
そこまで書いて、直人はペンを止めた。
字にして並べると、頭の中にあったぼんやりした違和感が、少しだけ形を持ち始める。
浮かぶのは、その場の会話とは関係のないことばかりだ。
しかも、どれも今この瞬間より、もっと前からそこにあったもののように思えた。
人の心を読んでいる。
いちばん近い言い方をするなら、たぶんそういうことになる。
けれど、そう言い切るにも引っかかりがあった。
もし本当に心を読んでいるのなら、浮かぶのは今この瞬間に相手が考えていることのはずだ。
だが、頭に入ってくる断片は、どうにもそうは思えない。
その場の会話と関係がない。
いま考えているにしては遠すぎる。
もっと前の、本人の中に残っていた何かのように感じる。
だから直人にも、これを何と呼べばいいのか分からなかった。
もちろん、全部分かるわけではない。
頭の中の声がそのまま聞こえるわけでもない。
浮かぶのは、いつも断片だけだ。
だが、その断片だけでも十分におかしかった。
直人はノートを見つめたまま、しばらく動かなかった。
何が起きているのかは、まだ何一つ分からない。
けれど、勘なんかで済ませるには、もう少しはっきりしすぎていた。
勘なんかじゃない――そう思った瞬間、背中が少しだけ寒くなった。