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第20話 普通の会社員

心が読める会社員は、詐欺師の情報を売って子どもたちの居場所を守る — solispia.com · All chapters

第20話 普通の会社員

朝の六時半、目覚ましが鳴る。

直人は、手探りで止めて、少しだけ天井を見た。

頭の奥に、鈍い重さがある。

昨夜、遅くまで、Silent Ledger の依頼を整理していたせいだった。

断る依頼が二件。

慎重に返す依頼が一件。

返信文の言い回しを、何度も直した。

直した後の文面が、本当に正しかったのかどうか、いまだに自信がない。

顔を洗って、鏡を見る。

目の下のクマは、少しだけ薄くなっていた。

けれど、完全には消えない。

ネクタイを締め、鞄を持ち、玄関を出る。

会社員としての、いつもの朝が始まる。

電車の中では、できるだけ、人と距離を取る。

吊り革の位置を選び、視線を窓の外へ向ける。

断片は、拾わないに越したことはない。

けれど、毎日同じ電車に乗っていると、嫌でも、顔見知りが増える。

その人たちの断片が、ふと入ってくる朝もあった。

今日は、運がいいことに、何も起きなかった。

山吹商事のビルに着く。

エレベーターの中で、同じ部署の先輩に「おはようございます」と声をかける。

返ってくるのは、いつもと同じ、ぼんやりした挨拶だった。

営業支援部の島では、山田が、先に来ていた。

コーヒーのカップを片手に、パソコンの画面を睨んでいる。

直人が席につくと、横目で、ちらりとこちらを見た。

「おはよう。今日は、顔、ましだな」

「そうですか」

「ちょっとな。昨日よりは」

それだけ言って、また画面に目を戻す。

その軽さが、ありがたかった。

踏み込まない。

けれど、見ている。

その距離感が、今の直人には、ちょうどよかった。

エレベーターの前で、同期の三浦に呼び止められたのは、その少し後だった。

入社初日から、変わらず人懐こい男だった。

「佐藤、最近、飲み会、来ないよな」

「ちょっと、忙しくて」

「そうか。まあ、無理すんなよ」

三浦は、手に持った紙袋から、個包装の菓子を一つ取り出して、直人に差し出した。

「出張の土産で配ってるやつ。俺は食わないけど」

直人は、思わず笑った。

初日に拾った断片のことが、ふと頭をよぎる。

甘いものが、苦手。

あの頃は、ただ、気味が悪かっただけだった。

今は、同じ断片が、少しだけ、懐かしかった。

午前中は、伝票の処理と、取引先への見積書の作成で終わる。

手を動かしている間は、頭の中の雑音が、少しだけ静かになる。

会社の仕事は、嫌いではなかった。

ミスをすれば、誰かが困る。

ちゃんとやれば、誰かが助かる。

その単純さが、今の自分には、ありがたいものに思えた。

昼休み、直人は、食堂の隅の席で、スマートフォンを開いた。

Silent Ledger の受信箱には、新しい問い合わせが三件。

一つは、前に取引のあった企業の担当者から。

一つは、初めての相手。

もう一つは、文面だけで、断ると決めた。

返信は、夜にまとめて書く。

昼休みに書くと、文面が焦る。

そう決めてから、少しだけ、気持ちが楽になった。

食事を終え、午後の仕事に戻る。

午後三時を過ぎた頃、少し頭が重くなってきた。

朝、電車で拾わなかった分が、別の形で溜まっているのかもしれない。

直人は、席を立ち、給湯室で、水を一杯飲んだ。

そこで、山田に出くわした。

「顔、白いぞ」

「大丈夫です」

「それ、前にも聞いた」

山田は、苦笑して、自分のカップに、新しいコーヒーを注いだ。

そして、ついでのように、もう一つ、紙コップを取り出して、直人のほうへ差し出した。

「飲め。俺のおごりじゃない。会社の備品だけど」

直人は、少しだけ笑って、受け取った。

熱いコーヒーが、喉を通っていく。

たったそれだけのことで、頭の重さが、少しだけ引いた気がした。

定時になると、直人は、手早くパソコンを閉じた。

以前は、残業を引き受けることが多かった。

けれど、最近は、定時で上がる日が増えている。

「お先に失礼します」

「おう」

山田が、デスクから顔を上げた。

その目が、ほんの少しだけ、含みを持っていた。

「お前、最近、定時で帰るよな」

「あ、はい。ちょっと、用事があって」

「彼女でもできた?」

あまりにも、あっさりした聞き方だった。

直人は、一瞬、返事に詰まった。

「いや、そういうのじゃないです」

「そうか」

山田は、それ以上、聞かなかった。

ただ、ふっと、肩の力を抜くように笑った。

「まあ、いい。たまに、いい顔してる日もあるからな。

悪いもんじゃないんだろ、それ」

直人は、返す言葉が見つからなかった。

悪いもの、ではない。

けれど、全部を、話せるものでもない。

「お疲れさまです」

それだけ言って、直人は、席を離れた。

会社を出て、電車に乗り、青葉の家のある坂道を上る。

引き戸の向こうから、子どもたちの声が聞こえてきた。

玄関で靴を脱ぐと、台所のほうから、美咲の声がした。

「佐藤さん、今日は、水曜ですね。お皿、出してもらえますか」

「はい」

それが、ここでの、直人の役割だった。

子どもたちとは、必要以上に話さない。

約束を守って、台所の隅で、皿を並べ、鍋を運ぶ。

それだけでいい、と美咲は言った。

広間では、陽介が、算数のドリルを広げていた。

ボランティアの大学生が、横で、問題の読み方を教えている。

陽介は、眉間にしわを寄せて、鉛筆を握っていた。

その顔は、コンビニの前で小銭を数えていた時より、ほんの少しだけ、年相応に見えた。

その時、陽介が、ドリルを抱えて、台所の前を通りかかった。

話しかけられた時に答えるのは、禁じられていない。

「……佐藤さんって、何の仕事の人?」

美咲が、鍋から目を離さずに言った。

「答えられる範囲で、いいですよ」

「会社員、だよ。普通の」

「ふつう」

陽介は、その言葉を、少し不思議そうに繰り返した。

「そっか。ふつうの人なんだ」

そう言って、広間へ戻っていく。

直人は、その背中を見ながら、胸の中で、小さく笑ってしまった。

普通の人。

その言葉が、いちばん、自分から遠い場所にあるものに思えた。

皿を並べ終えて、直人は、台所の隅に立った。

美咲が、鍋をかき混ぜながら、背中を向けたまま言った。

「先月分の領収書、まとめておきました。あとで、渡します」

「ありがとうございます」

「食費は、思ったより、かかっていません。

でも、冬は、光熱費が上がるので、そのつもりでいてください」

「分かりました」

事務的なやり取りだった。

けれど、そのやり取りの間にも、鍋の湯気が、台所の窓を白く曇らせていた。

この小さな光景が、毎日、続いていく。

そのことが、直人の中で、静かに、重みを持ちはじめていた。

夜、青葉の家を出て、帰りの電車に揺られながら、直人は、窓に映る自分の顔を見た。

朝より、疲れている。

けれど、悪くない疲れだった。

会社員として、普通の日常を保つ。

情報屋として、線を守りながら、断片を選ぶ。

支援者として、青葉の家を支える。

一日の中で、三つの顔を切り替える生活が、少しずつ、日常になりはじめている。

家に帰り、シャワーを浴びてから、ようやく、Silent Ledger の返信を書いた。

昼間に決めた通り、三件のうち、二件にだけ、短く返した。

送信ボタンを押す頃には、時計は、午前一時を回っていた。

布団に入り、天井を見つめる。

体は、重い。

けれど、頭の中には、さっき見た、青葉の家の台所の湯気が残っていた。

守りたいものが、増えている。

会社の、山田の何でもない一言。

青葉の家の、台所の明かり。

陽介の、少しだけ緩んだ顔。

それらは、一つひとつは、小さな、普通のものだった。

けれど、守りたいものが増えるということは、失うかもしれないものが増えるということでもある。

直人は、そのことに、うっすらと気づいていた。

気づいていながら、その考えを、今夜は、深く追わなかった。

目を閉じる。

遠くで、救急車のサイレンが、細く鳴っていた。

その音が、夜の底へ沈んでいくのを聞きながら、直人は、眠りに落ちていった。