第3話 近づかないと読めない
第3話 近づかないと読めない
三日目の朝、直人は洗面台の鏡の中の自分を見た。
寝不足というほどではない。熱もない。ただ、昨日までの自分とは、どこか見えないところがずれている気がした。
ネクタイを締める指先が、いつもより少しだけ意識に残る。玄関を出るまでの動作一つひとつが、妙に他人事のように感じられた。
鏡に映る自分の顔は、いつもと同じだ。目の下に薄い影があるわけでもない。なのに、胸の奥に引っかかったものが取れない。出社の準備を進めながらも、その重さがずっと残っていた。
会社に着いてからも、彼は仕事をしながら、できるだけ自然に周囲との距離を測った。
資料を渡すとき。給湯室ですれ違うとき。席の間を通るとき。
ほんの少し近づいた瞬間だけ、意識を向けてみる。露骨に見つめたり、立ち止まったりはしない。そんなことをすれば不審に思われる。だからこそ、普段の動きの中に紛れ込ませるしかなかった。
給湯室で横を通った女性社員の、人前に出るのが苦手だった記憶。
それを隠そうとしていた、肩のわずかな硬さ。
コピー機の前の三浦の、高校の進路で家族と揉めた感触。
最後に背中を押したのが母親だった、という、言葉にならない重み。
どれも一瞬だった。映像とも言い切れない、感覚に近い断片。
離れているときには何もなく、距離が縮んだときだけ浮かびやすい。
その差は、無視できなかった。
近づかないと、読めないのかもしれない。
そう思った瞬間、直人は自分の中でその言葉をはっきり形にしてしまったことに、かえってぞっとした。
まるで本当に、説明のつかない現象の条件を探しているみたいだった。当たっていてほしくないのに、頭のどこかでは筋が通っているとも感じていた。それがいちばん嫌だった。
デスクに戻っても、マグカップを持った手がわずかに冷たい。窓の外の空は、春の薄い青だった。なのに、自分の内側だけが、少しずつ色を変えていく気がした。
昼前、廊下ですれ違う社員たちに意識を向けたとき、さらに気づいた。
一人だけを意識している時より、周囲の何人かをまとめて気にした時の方が、頭の奥に鈍い重さが出る。
エレベーター前で待つ数人。廊下で行き交う社員たち。視界に入る人間をまとめて意識した瞬間、こめかみの裏がじわりと重くなり、視界の輪郭がわずかにぼやける。
痛いというほどではない。けれど、無視できるほど軽くもなかった。人の声や足音が少しだけ遠のいたように感じ、直人は小さく息を吐き、すぐに視線を落とした。
今のは気のせいではない。さっきまでより、明らかに不快だった。
一人に意識を向けるだけなら、まだ耐えられる。だが、何人もまとめて気にした途端、頭の中に余計な負荷がかかる。それはもう、単なる気味悪さではなく、はっきりした不便さだった。
午後、その重さは消えきらなかった。
入力内容を見直していても、目が文字の上を滑る。同じ行を二度確認してから、自分がさっきもそこを見たことに気づく。電話の取次ぎでは一拍遅れ、相手に言い直させそうになった。
派手に具合が悪くなるならまだ分かりやすい。けれど実際に起きているのは、集中の芯が少しずつずれていくような感覚だった。普段なら引っかからないところで手が止まる。考えが一拍遅れる。誰かに指摘されるほどではないが、自分では確実に分かる。
仕事をしている間じゅう、薄い膜が頭にかかったみたいに、思考の切れが鈍っていた。
能力だなんて呼びたくもない。
だが、もしこれが本当にそういうものなら、便利どころか厄介すぎる。
近づかなければ分からない。意識しすぎると頭が重くなる。仕事中に試せば、普通に集中力が落ちる。
こんなものがあるせいで日常の動き方まで変わるなら、得をする前に先に面倒だけが増える。
直人はそんなことを考えながら、午後の残り時間を何とかやり過ごした。画面の数字が、ときどき意味を失って模様に見える。窓から差し込む光が、机の上で細長い影を落としている。その影をぼんやり眺めながら、自分の体がどこか借り物のように感じられた。
帰り道、駅へ向かう人の流れの中で、直人は朝よりはっきりと人混みを鬱陶しく感じていた。
今まではただ混んでいるだけだった。けれど今日は、近くに人が多いこと自体が落ち着かなかった。誰かに肩が触れそうになるたび、また何かが流れ込んでくるのではないかと思ってしまう。実際には何も起きない瞬間の方が多い。それでも、起きるかもしれないというだけで神経が削られた。
駅の改札前で流れが詰まり、前の人との距離が急に縮む。そのたびに無意識に息が浅くなる。自分でも少し過剰だと思う。昨日までは何ともなかった場所だ。だが、一度でも条件らしきものに気づいてしまうと、人の多さがそのまま警戒の理由になってしまう。
普通に通勤して、普通に会社へ行って、普通に帰る。それだけのことが、今日は妙に面倒で落ち着かなかった。
帰宅後、ノートを開く。
近いと起きやすい。
離れていると何もない。
何も起きない人もいる。
一人より、何人かをまとめて意識すると重い。
疲れる。
あまり気分のいいものじゃない。
そこまで書いて、ペン先が止まる。
ノートの上に並んだ言葉は短いのに、その一つずつの後ろに今日一日の神経のすり減りがぶら下がっている気がした。手を動かして文字にしてみると、余計に逃げ場がなくなる。気のせいだった、と片づけるにはもう材料が揃いすぎていた。
少しずつ分かってきた。
だが、分かったことで安心できる要素はほとんどなかった。
条件がある。制約がある。しかも、使えば自分が消耗する。
確かめようとすればするほど、仕事にも日常にも影響が出る。
こんなもの、役に立つ前に日常の邪魔になる。
通勤も、職場も、人の多い場所も、今まで通りには見えなくなりかけていた。
ノートを閉じたあとも、直人はしばらく机に向かったまま動かなかった。
肩がわずかにこっていて、目の奥にも鈍い疲れが残っている。明日もまた会社へ行けば、人がいる。近づけば、起きるかもしれない。避けたくても、仕事をしている限り完全には避けられない。
それだけのことが、もう少しも気楽ではなかった。布団に入れば眠れるだろうとは思う。だが、明日の朝になればまた同じように人の中へ入っていかなければならないと思うと、胸の奥に小さく重いものが沈んだまま、なかなか消えなかった。