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第4話 忘れていること

心が読める会社員は、詐欺師の情報を売って子どもたちの居場所を守る — solispia.com · All chapters

第4話 忘れていること

四日目の朝、直人は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。

眠れなかったわけではない。だが、眠っても疲れが抜けきらない感覚が残っていた。昨日は、ただ不思議だっただけでは済まなかった。近づいた時にだけ起きやすいこと。意識を広げると頭が重くなること。しかも、それが仕事中の集中まで鈍らせること。分かったことは増えたはずなのに、気持ちは軽くならない。むしろ、曖昧だったものに条件がついてしまったせいで、逃げ道が少し減った気がした。

布団の中でしばらく天井を見ていたが、考えていても何かが整理されるわけではなかった。起き上がって顔を洗い、いつも通りの支度をする。シャツの袖に腕を通し、ネクタイを締め、時計をつける。毎朝変わらないはずの手順なのに、今日はどこか借り物みたいに感じた。自分の生活の中に、説明のつかないものが一つ混ざっただけで、見慣れた朝の景色まで少し遠くなる。そんな大げさなことを考えている自分に、直人は小さく息を吐いた。考えすぎると、またあの鈍い重さを思い出しそうだった。

会社に着いてからも、直人はなるべく余計なことを考えないようにしていた。分かったことは増えたが、安心できる材料は増えていない。むしろ逆だった。条件があるということは、気のせいではないということでもある。考えすぎるとまた頭が重くなりそうで、直人は目の前の仕事に意識を戻した。メールを確認し、回覧を処理し、頼まれた入力を進める。手を動かしている間だけは、まだ余計なことを脇へ追いやりやすい。そうやって午前中を何とか普通に過ごそうとしていた。

午前の終わり頃、営業部から資料整理を手伝ってほしいと声がかかった。午後に来る取引先との打ち合わせ用に、会社案内と担当者メモをそろえるだけの簡単な作業だった。直人は言われた通りファイルを運び、机の上に資料を並べていく。営業部の島は自分の席のある総務寄りの空気とは少し違って、話し声にも慌ただしさがあった。今日の打ち合わせ相手は継続取引先らしく、誰それが前に対応しただの、今回の提案内容はどうだのといった会話が飛び交っている。直人はその輪には加わらず、指示された順に資料を重ね、クリアファイルへ差し込んでいった。

担当者メモには、相手の経歴や過去の所属、異動歴などが簡単にまとめられていた。大学卒業後の入社年、前職、今の部署での担当歴。社外の人間を迎える時の補助資料としてはよくある内容で、特別に詳しいわけではない。直人も深く読むつもりはなく、必要だから目に入っただけだった。ただ、整った箇条書きの経歴を見ていると、人はこういうふうに、表に出してもいい情報だけで要約されるのだなとぼんやり思った。それは別に皮肉でも何でもなく、単なる事実だった。会社で使う資料ならなおさら、個人の迷いや回り道まで書かれるわけがない。

特に気にしていたわけではない。ただ、午後、その取引先担当者が会議室に通されるのを見て、直人は無意識にメモの内容を思い出した。

穏やかな口調の、四十代半ばくらいの男だった。名刺交換のあと、上司たちと軽く挨拶を交わしている。笑う時の口元は柔らかく、受け答えも落ち着いている。資料で見た経歴の印象そのままに見えた。少なくとも、外から見ればそうだった。直人は追加の資料を届けるために会議室へ入り、相手のすぐ横を通った。

その瞬間、頭の奥に短い断片が差し込んだ。

大学三年の冬。

試験会場の前で、受けるはずだった企業説明会の案内を握りつぶしたこと。

行かなかった。いや、行けなかった。

そのことを、ずっと誰にも言わなかった。

直人は足を止めかけて、すぐに資料を机へ置いた。ほんの一瞬だった。だが妙に引っかかった。担当者メモにあった経歴は、まっすぐ今の会社へ入ってきたような書き方だったはずだ。少なくとも、今の断片のような空白を感じさせるものではなかった。もちろん、資料の書き方が簡略なだけかもしれない。載っていない期間があったとしても不思議ではない。それでも直人の中には、単なる省略では片づけにくい違和感が残った。

会議室を出たあとも、その違和感は残った。ただの思い込みかもしれない。資料の記載が省略されているだけかもしれない。そう考えようとしても、頭のどこかが引っかかって離れない。今まで浮かんできた断片も会話とはずれていたが、今回は紙の上の情報とまで食い違うように思えた。そのことが、これまでより一段気味悪かった。会話の流れなら勘違いで済ませられる。けれど、文字になった経歴と、自分の中に差し込まれたものとが噛み合わないとなると、いよいよ何を拾っているのか分からなくなる。

午後の打ち合わせが始まってからも、直人は自分の仕事に戻りつつ、完全にはそこから意識を切り離せなかった。会議室の前を通るたび、さっきの断片が頭のどこかに残っている。試験会場の前。握りつぶした案内。行かなかった、ではなく、行けなかったという感触。それは出来事そのもの以上に、本人の中でうまく言葉にされないまま残っていた気配ごと流れ込んできたように思えた。だが、そこまで考えたところで直人は自分で打ち消した。まだそこまで決めつけるのは早い。感触の意味づけまで始めると、いくらでも話が大きくなる。今はただ、資料の表面に出ていない何かがあったかもしれない、その程度に留めておくべきだった。

午後の打ち合わせ後、片づけを手伝っていた時だった。その担当者が廊下で上司と雑談している声が聞こえた。

「学生の頃は、わりと要領よくやってたつもりなんですけどね」

そう言って笑う。軽い調子だった。だがその瞬間、さっきの断片がまた胸の奥にひっかかった。行かなかったのではなく、行けなかった。握りつぶした案内。口にしなかったこと。

直人は書類を抱えたまま、少しだけ視線を伏せた。表に出ている経歴や、本人が今話していることと、頭に浮かぶ断片がきれいには重ならない。けれど、完全に無関係とも思えなかった。むしろ表に出ていない何かの方が、本体に近い気すらした。今、廊下で交わされているのは人に見せてもいい話し方だ。会社の場で、差し障りのない範囲に整えられた言葉。それは嘘というほどではないのだろう。ただ、その下に沈んだ部分までは含んでいない。そして自分が触れてしまうのは、いつもそちらなのではないか。そんな考えが浮かび、直人は急に背中が落ち着かなくなった。

夕方、担当者が帰ったあと、営業部の先輩が何気なく言った。

「真面目そうに見えるけど、昔ちょっと回り道してたらしいよ。本人、あんまり話したがらないみたいだけど」

直人は思わず顔を上げた。先輩は深い意味もなく、雑談として続ける。「途中で進路変えたとか何とか。詳しくは知らないけど」

それだけだった。断片の内容そのものが確認できたわけではない。だが、表向きの経歴に出ていない部分が実際にあるのだとしたら、今まで自分が拾ってきたものも、単なる現在の思考では説明しきれない。話していないこと。普段は出していないこと。場合によっては、自分でも前にしまい込んでいること。そういうものばかりに、なぜかこちらが先に触れてしまう。その積み重なりが、ようやく一つの形を取り始めていた。

今考えていること、ではない。会話に出ていること、でもない。もしかすると、自分が触れているのは、その人の中に残っている情報そのものなのかもしれない。普段は表に出さず、本人の中でも奥へ沈んでいるもの。忘れていたとは言い切れなくても、いつも意識しているわけではないこと。それでも消えずに刻まれている何か。頭の中でそう整理してみると、これまでの断片のずれ方にも少し説明がつく気がした。会話と噛み合わないのも、今の考えと一致しないのも当然なのかもしれない。自分が触れている場所が、そもそも別なのだとしたら。

帰宅後、直人はノートを開いた。机に向かって座ると、日中は何とか動いていた思考がまた静かに戻ってくる。部屋の中は会社よりずっと静かなのに、その静けさのせいで逆に昼間の違和感がはっきり浮かび上がる気がした。ペンを持つ指先に少しだけ迷いが出る。書いてしまえば、また一つ仮説が形になる。それでも書かずに曖昧にしておくよりはましだと思って、直人はノートに言葉を並べていった。

近いと起きやすい。

離れると読めない。

今考えてることではない。

会話ともずれる。

昔のことが多い。

表に出していないこととも重なる。

忘れていたことまであるのかもしれない。

最後の一行を書いたあと、直人はしばらくその文字を見ていた。忘れていたこと。あるいは、忘れたままでいようとしていること。自分が読んでいるのは、そういうものなのだろうか。心を読む、という言い方では足りない気がした。もっと深いところに残った情報を、勝手に拾ってしまっているような感覚だった。考えれば考えるほど、気味が悪い。相手が口にしていないことどころか、本人の中でうまく整理もされていないものまで触れているのだとしたら、それはもう覗き見に近い。しかも、自分の意思で完全に止められるわけでもない。近づけば起きる。条件がある以上、避けたつもりでもまた触れてしまうかもしれない。そう思うと、昼間に感じた違和感とは別の寒さが背中をなでた。

ノートを閉じ、直人はなんとなくテレビをつけた。流れていたのは、投資話を装って高齢者から金をだまし取った詐欺グループの報道だった。聞き慣れた言葉のはずなのに、その夜は妙に耳に残った。画面の向こうで読み上げられる被害額より先に、家の空気が冷えきっていた昔の感覚が、ごく薄く胸の奥をかすめる。食卓に流れていた重たい沈黙。大人の声が低くなる気配。金の話だけが、子どもにも分かるほど家の中の温度を変えていた、あの感じ。まだはっきりと思い出せるわけではない。だが、忘れていたはずの何かの輪郭が、ニュースの音に押されて水面の下から浮かびかけているようだった。

直人は無意識に視線を落とした。今のは思い出しかけただけで、まだ形にはならない。けれど、確かにそこに何かがある。他人の中に残っているものに触れているかもしれないと考えた、その日の終わりに、今度は自分の中にもまだ沈んだままのものがあると知らされる。ニュースの音を聞きながら、胸の奥の古い傷が、触れられたように鈍く疼いた。