第5話 昔の祈り
第5話 昔の祈り
昼休み、社員食堂の端に据えられたテレビでは、午後の情報番組が流れていた。
音量は控えめなのに、出演者の張った声だけは妙に耳に引っかかる。
「高齢者を狙った特殊詐欺の被害が――」
直人は箸を止めた。
画面の下を、被害総額だの注意喚起だの、見慣れた文字が滑っていく。スタジオの人間は深刻そうな顔をしているが、その口調にはどこか他人事の軽さがあった。
隣のテーブルでは、同僚たちが仕事の愚痴をこぼして笑っている。
揚げ物の匂い、食器のぶつかる音、味噌汁の湯気。
いつもの昼休みだった。
それなのに、画面の中で「詐欺」という言葉が繰り返されるたび、胸の奥の古い場所だけがじわじわ冷えていく。
子どもの頃のことを、直人は細かく覚えているわけではない。
ただ、空気だけは残っている。
家の中が、急に静かになった時期があった。
怒鳴り声が増えたわけじゃない。むしろ逆だった。
父も母も、必要なことしか話さなくなった。
食卓に皿は並んでいるのに、そこにいる全員が別々の場所を見ているみたいだった。
金の話が増えた。
でも、子どもに分かる形では話されない。
「今月は」
「とりあえず」
「もう少し待って」
そんな切れ端だけが、ドア越しや台所の隅から漏れてきた。
直人には何が起きているのか分からなかった。
ただ、自分のいる家が少しずつ知らないものに変わっていく感じだけはあった。
母が冷蔵庫の前で長く立ち尽くしていた背中。
父が何かの紙を何度も見返して、最後にぐしゃりと握った手。
電気はついているのに、家の中が暗かった。
あの頃の自分は、理由を知らないまま怯えていた。
何を怖がっているのかも分からないくせに、早く大人たちの機嫌が戻ってほしいとばかり思っていた。
番組では、司会者が「手口は年々巧妙化していて」と言っている。
コメンテーターが、気をつけるべきポイントをもっともらしく挙げる。
直人は視線を落とした。
味噌汁の表面に、蛍光灯の白い光が揺れていた。
後になって知った。
あの時期、家族は詐欺の被害に遭っていたのだと。
最初に聞かされたときも、実感は薄かった。
詐欺という言葉はニュースの中にあるもので、自分の家の空気の冷たさとは、うまく結びつかなかった。
けれど、時間がたつほど、ばらばらだった記憶の形がつながっていった。
あの沈黙も。
あの焦りも。
あの、何かを口にすると全部崩れそうな家の感じも。
全部、そこに行き着いていたのだと分かった。
テレビの中では、被害者家族への取材映像に切り替わっていた。
顔を伏せたまま話す声は小さく、ところどころ聞き取りづらい。
それでも、何を失ったのかを説明する前から、その疲れ方だけで十分だった。
直人は食堂を出た。
食べかけの定食が少し残ったが、戻る気にはなれない。自動販売機で水を買い、人気の少ない非常階段へ向かう。
鉄の扉を開けると、少し湿った外気が頬に触れた。
階段の踊り場には誰もいない。遠くで車の走る音がしている。
キャップを開け、一口飲む。
冷たいはずなのに、喉の奥は乾いたままだった。
高校生の頃、一度だけ本気で祈ったことがある。
今思えば、柄にもないことだった。
帰り道、駅の近くの小さな神社。
受験生でもないのにふらっと立ち寄って、賽銭箱の前で目を閉じた。
何を願えばいいのかもしばらく分からなかった。
成績のことでもない。
将来のことでもない。
頭に浮かんだのは、家の中のあの冷えた空気だった。
自分のところだけじゃなく、どこか知らない家でも同じことが起きているのかもしれないと思った。
それが嫌だった。
だから、祈った。
詐欺に遭う人がいなくなりますように、と。
口に出したわけでもないのに、その願いだけは今でも妙に生々しく覚えている。
青臭いとか、子どもっぽいとか、そういう言葉で片づけたくないくらいには、本気だった。
直人は踊り場の壁にもたれ、目を閉じた。
祈ったところで何かが変わるわけじゃないと、今なら分かる。
分かっているのに、あの頃の自分を笑う気にはなれなかった。
午後の仕事が終わったあとも、気分は重いままだった。
会社を出ると、空はもう夕方に傾いている。駅前は買い物帰りの人と仕事帰りの人で混み合っていた。
直人は人の流れを避けるように歩く。
最近は、近くを通る人の顔を無意識に見ないようにする癖がついていた。見れば、何かが引っかかることがある。拾いたくない断片まで、勝手に入り込んでくることがある。
それでも、その日は避けきれなかった。
横断歩道の手前で立ち止まっていた女性が、ふと顔を上げた。
三十代後半か、四十代に入ったくらい。きちんとした身なりで、仕事帰りにも見える。
視線がかすった、その瞬間だった。
数字の並んだ振込画面。
高額。
一度ためらって、それでも進む指。
「大丈夫です」「信用してください」という、やけに滑らかな声。
胸の奥に張りついた焦り。
それなのに、その焦りを打ち消すような盲信。
大丈夫、これで間に合う。
これで取り返せる。
これで助かる。
そう思い込もうとしている圧だけが、生々しく流れ込んでくる。
直人は思わず息を止めた。
女性は何も知らない顔で信号を見ている。
バッグを持つ手は強くこわばっていた。
表情は普通だ。周りから見れば、少し急いでいるだけの人にしか見えない。
けれど、違う。
焦っている。
追い詰められている。
何かを信じ切ろうとしている。
青になった信号で、人波が動き出す。
女性もその流れに乗って歩き出した。
直人はすぐには動けなかった。
胸の奥で、昼に見たテレビの映像と、子どもの頃の家の空気と、今触れたばかりの女の心の断片が、ひとつの線でつながっていた。
この人は。
喉の奥で言葉になりかけたものを、直人は飲み込む。
この人は、騙される。
そう思った瞬間、足の裏がじわりと冷えた。
ただの勘ではない。
当たってほしくないのに、嫌な確信だけがあった。
直人は人波の向こうへ消えていく背中を見つめたまま、しばらくその場を動けなかった。