第6話 信じてもらえない
第6話 信じてもらえない
女性の背中は、夕方の駅前へ向かう人波の中に沈みかけていた。
直人は一歩踏み出した勢いのまま、もう一歩だけ距離を詰めた。
呼び止めるなら今しかない。
そう思う一方で、胸の内側では別の声がひどく冷静だった。
知らない相手に声をかける。
しかも、本人が口にしていない危険を、こちらだけが知っているような口ぶりで。
傍から見れば不審者そのものだ。
それは分かっていた。
分かっていたのに、足は止まらなかった。
「すみません」
最初の声は、自分でも驚くほど硬かった。
女性は振り返らない。
周囲の雑踏に紛れたのかもしれない。
直人は少しだけ歩調を上げ、今度は相手の斜め後ろから、もう少しはっきり声をかけた。
「すみません、あの」
女性が足を止めて振り向いた。
四十代半ばくらい。
近くで見ると、疲れていないわけではないが、だらしない印象の人ではなかった。
むしろ身なりはきちんとしていて、普通に仕事や用事を終えて帰る途中の大人に見える。
だからこそ、その表情にわずかに警戒が浮かぶのを見た瞬間、直人は自分がどれほど場違いなことをしているのかを改めて思い知った。
「あの……急にすみません」
何から言えばいいのか分からない。
詐欺に遭いそうですよね、などと言えるはずがない。
そんな言葉を初対面の相手に投げかけた瞬間、話は終わる。
直人は喉の奥が少し乾くのを感じながら、できるだけ当たり障りのない言い方を探した。
「もし、変な投資とか、お金の話を誰かとしてるなら……少し気をつけた方がいいかもしれません」
言ってから、自分でもひどい言い方だと思った。
曖昧なくせに、踏み込みだけは深い。
女性の眉がわずかに寄る。
「……は?」
当然の反応だった。
直人は慌てて続ける。
「いや、その、最近そういう詐欺のニュースも多いので。急がせるような話とか、今日中に振り込めとか、そういうのって危ないことが多いので……」
女性の目つきが少し変わった。
戸惑いから、警戒へ。
スマートフォンを持つ手が、ほんのわずかに体の側へ引かれる。
そのしぐさだけで、直人の背中に冷たいものが走った。
相手はもう、こちらを「親切な通行人」としては見ていない。
「どうして、そんなことを?」
低い声だった。
怒鳴るほどではない。
けれど、その静かさの方がよほどきつい。
直人は一瞬言葉に詰まった。
まさにそこが答えられないからこそ、最初から苦しいと分かっていたのだ。
「いや……たまたま、少し気になって」
「何がですか?」
返しが早い。
まっすぐだ。
しかも正しい。
通りすがりの見知らぬ男が、何を根拠に他人の金の話へ口を出してくるのか。
疑わない方がおかしい。
「スマホを見てたので、とか、そういう……」
口にした瞬間、失敗したと分かった。
駅前でスマホを見ている人間などいくらでもいる。
そんな理由で呼び止められたら、監視されていたと感じても不思議ではない。
女性の表情がさらに硬くなる。
「ずっと見てたんですか?」
「違います、そういうわけじゃなくて」
「じゃあ、何なんですか」
直人は息を詰まらせた。
何なんですか。
その問いに、自分でもまともな答えが浮かばない。
人の心に触れて分かったからです、などという説明は論外だ。
仮に本当のことを言ったところで、信じてもらえるわけがないし、信じてもらえないだけならまだしも、完全に危険人物として扱われるだけだろう。
周囲では人が絶えず行き交っている。
誰も二人のやり取りを気にしていない。
だが、当事者である直人には、その無関心な流れがかえって息苦しかった。
この場にいるのは、自分と、この女性だけだ。
そして自分は、相手にとっては事情を知りすぎている不気味な他人に見えている。
「最近、詐欺が多いから……本当に、それだけです」
苦し紛れの言葉だった。
女性は数秒、直人の顔を見た。
見定めるような目だった。
その沈黙のあいだに、直人は自分が完全に失敗しつつあることを悟った。
「だったら、警察か駅員にでも言ってください」
「え?」
「知らない人に急にそんな話をされても、困ります」
口調は強くない。
むしろ抑えられている。
だからこそ、はっきり拒絶として響いた。
直人は反射的に何か言い返そうとしたが、その前に女性が続けた。
「あと、そういうふうに個人的なことみたいに言われるの、すごく嫌です」
その瞬間、直人の中で何かが止まった。
個人的なことみたいに。
まさにその通りだったからだ。
自分は相手の事情を勝手に覗き見したような位置から話している。
もちろん、好きで読んだわけではない。
けれど相手にとっては関係ない。
知られていないはずの不安へ、正体不明の他人が急に手を突っ込んできたようにしか見えない。
「……すみません」
やっとそれだけ言えた。
女性は小さく会釈ともつかない動きをして、そのまま歩き出した。
会話を終わらせるための動作でしかなかった。
直人は引き止められなかった。
ここでなお食い下がれば、本当に通報されてもおかしくない。
遠ざかる背中を見送りながら、喉の奥に苦いものが溜まっていく。
本当に危ないなら、今からでも誰か別の人に頼むべきか。
警備員、駅員、交番。
頭の中でそう考えはした。
だが、何と説明する。
見知らぬ女性が詐欺に遭いそうだと、根拠もなく訴えるのか。
スマートフォンを何度も見ていたから怪しい、とでも言うのか。
そんな曖昧な話で人が動くとは思えない。
仮に動いたとしても、それで女性本人がこちらをさらに強く警戒するだけかもしれなかった。
直人はその場に数秒立ち尽くし、それから遅れて駅の方へ歩き出した。
足取りは妙に重かった。
さっき自分がやったことを思い返せば思い返すほど、最初から詰んでいたように思える。
善意で近づいた。
それは間違っていない。
けれど、善意がそのまま相手に伝わるほど単純な話ではなかった。
理由を言えない忠告は、忠告ではなく不気味な介入だ。
しかも、金の話に触れるとなればなおさらだ。
駅の改札を抜けても、女性の表情が頭から離れなかった。
怯えた、というほど露骨ではない。
だが、明らかに線を引かれた。
自分のテリトリーへ入ってきてほしくない相手として見られた。
それが地味にこたえた。
助けようとした、という自分の認識と、相手から見た自分の姿のあいだに、想像以上の隔たりがあったからだ。
ホームで電車を待ちながら、直人は視線を落とした。
もし逆の立場なら、自分だって警戒する。
帰宅途中、知らない男に呼び止められ、金の話に気をつけろと言われる。
根拠を尋ねても曖昧なことしか言わない。
どう考えても怪しい。
詐欺師の手口そのものとまでは言わなくても、少なくともまともな接触には見えないだろう。
そう理解できるからこそ、余計にどうしようもなかった。
電車の窓に映る自分の顔は、疲れていた。
たった数分のやり取りなのに、仕事終わりの消耗とは別の疲れが肩に乗っている。
話しかける前から難しいとは分かっていた。
だが心のどこかでは、一般的な忠告の形にすれば、少しくらいは届くかもしれないと思っていたのだろう。
その甘さを、数分で突き返された形だった。
帰宅して部屋に入ると、急に全身の力が抜けた。
ネクタイを外し、鞄を置き、しばらく立ったまま何もする気になれない。
今日あったことを整理しようとしても、最初に浮かぶのは自分の言葉の不自然さばかりだった。
もしこう言っていれば少しましだったか。
いや、結局同じだ。
何をどう言い換えても、なぜその話をするのかが説明できない限り、相手にとっては脅威の方が先に立つ。
冷蔵庫から水を出して飲み、ようやく机に向かう。
ノートを開くか迷って、結局開いた。
嫌だったが、今日のことを曖昧なままにしておくと、たぶん都合よく考え直してしまう気がした。
事実として書いておかなければならない。
女性に声をかけた。
一般的な忠告にした。
理由を聞かれて答えられなかった。
警戒された。
拒絶された。
そこまで書いて、ペン先が止まる。
文字にすると、ひどく簡潔だ。
けれど実際には、その短い流れの中に決定的なことが含まれていた。
善意では足りない。
直人はその一文を、少し間を置いてから書き足した。
それは諦めに近い認識だった。
危険を知っている。
だから伝える。
それだけで救えるなら、こんなに苦しくはない。
むしろ事情を知りすぎていること自体が、相手からすると恐怖になる。
距離の近い忠告ほど、理由を求められる。
その理由を言えない自分は、助ける側ではなく、正体不明の不審者にしかなれない。
ノートの上の文字を眺めながら、直人はゆっくり息を吐いた。
自分が助けたかっただけなのに。
その思いは本当だ。
だが、本当であることと、相手に信じてもらえることは別だった。
相手から見れば、自分の方がよほど詐欺師じみていたかもしれない。
金の話に踏み込み、急がせるように注意を促し、肝心な根拠は言わない。
それでは信じてもらえるはずがない。
その認識は、思った以上に重く胸へ沈んだ。
詐欺が憎い。
騙される人を見たくない。
だから止めたい。
そこまでは確かでも、止める方法が正面からの忠告ではないのだとしたら、ではどうすればいいのか。
答えはまだなかった。
ただ一つ分かったのは、「正しいことを言えば救える」という発想が、現実にはあまりに弱いということだけだった。
夜が更けてからも、女性の最後の言葉が耳に残った。
個人的なことみたいに言われるの、すごく嫌です。
たぶん、あれがすべてだった。
人は、知らない他人に自分の不安の輪郭を言い当てられた時、それを救いとして受け取るより先に、侵入として感じる。
それが普通だ。
普通である以上、自分の力は正面から使うほど人を遠ざけるのかもしれなかった。
布団に入って目を閉じる頃には、失敗した悔しさよりも、もっと冷たい現実感が残っていた。
善意で近づくほど、怪しくなる。
助けようとするほど、怖がられる。
もし本当に誰かを止めたいなら、ただ正しいことを言うだけでは足りない。
そのことを、直人は今日、自分の失敗で思い知らされた。