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第7話 止められない

心が読める会社員は、詐欺師の情報を売って子どもたちの居場所を守る — solispia.com · All chapters

第7話 止められない

翌朝、直人は目が覚めてからもしばらく布団の中で動かなかった。

カーテンの隙間から差し込む光は普通の朝の色をしていて、部屋の中に特別な変化は何もない。

それなのに、体を起こすまでに少し時間がかかった。

昨日の出来事は、派手に何かが壊れたわけではない。

怒鳴られたわけでも、通報されたわけでもない。

ただ、助けようとして近づいた相手に、まっとうに警戒され、拒絶された。

それだけだ。

それだけのはずなのに、その「だけ」が思った以上に残っていた。

知らない相手に突然金の話をする。

理由は曖昧。

根拠は言えない。

改めて並べれば、まともに受け取られる方が難しい。

昨夜ノートに書いた内容を思い返すまでもなく、正面から忠告して救うという考えが、最初からかなり脆い前提の上に立っていたことは分かっていた。

それでも直人の中には、まだ完全には捨てきれないものが残っていた。

昨日のやり方が悪かっただけではないのか。

もっと踏み込みを弱くして、もっと一般的な形にすれば、警戒されずに伝えられる余地があるのではないか。

そんな未練に近い考えが、朝のぼんやりした意識の底に沈んでいた。

顔を洗い、支度をし、会社へ向かう。

通勤電車の中で、直人は窓に映る自分の顔を見ながら、昨日の女性のことを思い返していた。

あの人がその後どうしたのかは分からない。

実際に被害に遭ったのか、それとも自分の勘違いだったのかさえ確認のしようがない。

ただ、少なくともあの場では止められなかった。

それだけは事実だった。

そして、その事実の上に次の考えが重なる。

もしまた同じような場面に出会った時、自分はどうするのか。

午前中の仕事は淡々と進んだ。

書類を整理し、備品を補充し、頼まれた集計表の更新をする。

慣れない仕事も少しずつ手順が見えてきて、手を動かしている間だけは余計なことを考えずに済んだ。

けれど、完全には切り離せない。

誰かの横を通るたびに、また何かを拾うかもしれないという意識が薄く残る。

そして、その先にもし危険が見えてしまったら、今度はどうするのかという問いもついて回る。

昼休み、社員食堂の端の席で一人でいる時、直人はスマートフォンで詐欺被害に関するニュースをいくつか読んだ。

被害者の年齢も、手口も、金額もばらばらだ。

だが共通しているのは、周囲が止める時にはもう遅いことが多いという点だった。

家族に相談しなかった。

言っても反対されると思った。

もう少しで取り返せると思っていた。

急がされていた。

そういう文言が並んでいるのを見ると、昨日触れた女性の断片と重なって胸の奥がざらつく。

冷静な第三者から見れば危ない話でも、当人にとっては「今だけ」「この人だけ」「ここで動けばまだ間に合う」という形で迫ってくる。

その熱の中にいる相手へ、見知らぬ他人が少し注意したところで、どれだけ届くのか。

記事を読みながら、直人は暗い気持ちになった。

それでも、その日の帰り道、直人は昨日とは少し違う考え方をしていた。

正面から「あなたは騙されそうだ」と言うのが駄目なら、もっと遠回しにすればいい。

個人の事情へ踏み込まない。

ただニュースの話として触れる。

家族や知人に相談した方がいいと勧めるだけにする。

それなら、相手を追い詰めずに済むかもしれない。

少なくとも、昨日のように「どうしてそんなことを知っているのか」という核心にすぐ踏み込まれる危険は減る。

それはかなり弱い希望だったが、何もしないまま諦めるよりはましに思えた。

その機会は、思っていたより早く来た。

駅から少し離れた商店街の入口で、ベンチに座ってスマートフォンを見ている年配の男性がいた。

六十代後半くらいだろうか。

買い物帰りらしい袋が足元に置かれている。

直人は最初、そのまま通り過ぎるつもりだった。

だが、脇を抜ける瞬間に、短い断片が引っかかった。

息子にはまだ言うな。

今うまくいけば戻せる。

銀行は明日の午前。

先方は待ってくれている。

直人の足が止まりかける。

昨日と同じだ、と思った。

断片的で、具体的な全体像までは見えない。

けれど、焦りと「取り戻せる」という言葉の組み合わせが嫌なほど生々しい。

すでに何か失っていて、それを回復したい気持ちにつけこまれている。

そういう構図だけは、短い断片でもはっきり伝わってくる。

すぐには声をかけず、直人は少し先まで歩いてから立ち止まった。

昨日の失敗が頭をよぎる。

また同じやり方をすれば、同じように警戒されるだけだ。

だが、今回はもっと遠回しに言う。

個人的な事情を知っているようには見せない。

ただ、一般的な注意として伝える。

そう決めてから、直人は引き返した。

「あの、すみません」

男性が顔を上げる。

表情はやや疲れているが、険しくはない。

直人は昨日よりずっと慎重に言葉を選んだ。

「急にすみません。今、詐欺とか投資トラブルの話って多いじゃないですか。もしお金のことで迷ってることがあったら、一人で決めない方がいいかなと思って……」

男性はきょとんとした顔をした。

警戒される前に、まず意味が分からないという顔だった。

それも当然だ。

直人は続ける。

「家族とか、銀行の人とか、第三者に一回相談した方が安全なこともあるので」

自分でも回りくどいと思った。

だが昨日よりはましなはずだと信じたかった。

男性は数秒黙ったあと、苦笑いのような顔になった。

「君、保険屋か何か?」

「え?」

「そういう相談の勧誘?」

違う。

そう言おうとして、直人は一瞬言葉を失った。

男性の受け取り方は予想外ではなかった。

見知らぬ若い男が、金のことで家族や銀行に相談した方がいいと話しかけてくる。

たしかに、営業や勧誘に見えてもおかしくない。

「違います、そうじゃなくて」

「じゃあ何?」

男性の口調にはまだ強い敵意はない。

むしろ半分は面白がっているようですらある。

だが、その軽さがかえってきつかった。

ここでもまた、核心には答えられないからだ。

「最近そういう被害のニュースが多いので……」

「ニュースなら知ってるよ」

男性はスマートフォンを軽く持ち上げた。

「だからこそ気をつけてるし、大丈夫だよ」

大丈夫。

その一言に、直人の胸の奥が冷えた。

本当に大丈夫な人間は、たぶんそう何度も自分に言い聞かせる必要がない。

だが、もちろんそんなことは言えない。

言った瞬間、今度こそ完全に怪しい。

直人はなおも何とか食い下がろうとした。

「もし少しでも迷う話なら、本当に一回、身近な人に――」

「いや、君の方がちょっと怪しいな」

男性は今度こそはっきり笑った。

悪意のある笑いではない。

けれど、線を引くには十分だった。

「急にそんな話されても困るよ。今は大丈夫だから」

断られた。

言葉としては柔らかいが、昨日と同じだった。

ここから先へ進める理由が直人にはない。

これ以上話せば、親切ではなくしつこさになる。

直人は小さく頭を下げて、その場を離れるしかなかった。

商店街を抜ける間、足取りはひどく重かった。

昨日よりうまくやったつもりだった。

個人的な事情を知っているふうには見せなかった。

詐欺だとも断定しなかった。

家族や銀行に相談すればいいと、一般的な安全策を勧めただけだ。

それでも届かない。

届かないどころか、勧誘か、不審な干渉として処理されて終わる。

冷静に考えれば当然なのかもしれない。

人は、自分が今まさに判断しようとしていることを、見知らぬ他人に止められたくない。

ましてそれが金に関する話なら、なおさらだ。

恥も、焦りも、期待も絡む。

当人にとっては切実であるほど、外から来る言葉はノイズになる。

自分が拾っている危うさは本物かもしれない。

だが、それをそのまま相手の判断に差し込めるわけではない。

正しいかどうかと、届くかどうかは別の問題だった。

その夜、帰宅してから直人はすぐにはノートを開かなかった。

机に向かう気力が出るまで少し時間が必要だった。

昨日の失敗の上に、今日の失敗が重なった。

やり方を変えれば少しはましになるかもしれない、という淡い期待まで折られた気分だった。

水を飲み、上着を脱ぎ、部屋の中を意味もなく一周してから、ようやく椅子に座る。

ノートを開き、しばらく白い余白を見ていた。

書くべきことは分かっている。

だが書いてしまえば、自分の希望がまた一つ事実に負ける。

それでも、目を逸らしても意味はない。

直人はペンを取り、ゆっくりと書き始めた。

別の相手にも警告した。

遠回しにした。

家族や銀行に相談するよう勧めた。

それでも届かなかった。

勧誘か怪しい人間だと思われた。

数行で終わる内容だった。

そして、その短さがひどく残酷に思えた。

方法を少し変えたくらいでは、何も変わらない。

正面から言っても駄目。

遠回しに言っても駄目。

個人の事情へ踏み込めば怖がられ、一般論にぼかせば自分の話だと思ってもらえない。

どちらにしても、こちらの言葉は相手の判断を止める力にならない。

直人はペンを持ったまま、しばらく考え込んだ。

自分が相手の立場ならどうか。

もし何かを取り戻せるかもしれない話に縋っている時、見知らぬ若者に「家族に相談した方がいい」と言われて、素直に従うだろうか。

たぶん従わない。

たぶん内心では、余計なお世話だと思う。

自分の事情を知らないくせに、とさえ感じるかもしれない。

そう考えた瞬間、胸の奥に重い納得が沈んだ。

被害者の判断を正面から変えるのは、ほとんど不可能なのかもしれない。

その認識は、昨日よりさらに冷たかった。

善意では足りない、では済まない。

善意の言葉そのものが、そもそも相手の決断へ届きにくい。

詐欺に引き込まれかけている人は、単に注意不足なのではなく、その時点でもう切実な事情の中にいる。

損を取り返したい。

信じたい。

ここで動かないと終わる。

そういう感情の渦の中に入っている相手を、外から理屈だけで引き戻すのは難しい。

まして事情を説明できない自分には、なおさら無理だ。

直人はノートの下の余白に、しばらく迷ってから一文を書き足した。

正しいことを言えば救える、は違う。

それは諦めというより、思い込みを捨てる確認だった。

この数日、自分はどこかでまだ信じていたのだ。

危険に気づけるなら、その危険を伝えることで助けられるのではないかと。

だが現実には、危険を知ることと、止められることのあいだには、簡単には埋まらない溝がある。

ノートを閉じたあとも、直人はすぐには立ち上がれなかった。

部屋の中は静かで、窓の外から遠く車の走る音が聞こえる。

何も起きていない夜だった。

それなのに、自分の中だけで何かの前提が静かに崩れていく感覚があった。

誰かを救いたいと思うこと自体は間違っていない。

だが、そのための方法として「正しい忠告」はあまりに弱い。

その事実を受け入れた時、では何を使えばいいのかという問いだけが残る。

まだ答えは出ない。

だが少なくとも、これまでのやり方では無理だ。

そのことだけは、もう誤魔化せなかった。

布団に入って目を閉じたあとも、商店街のベンチに座っていた男性の「大丈夫だよ」という声が耳に残った。

あれは拒絶であると同時に、たぶん本人が自分へ向けて言っていた言葉でもあった。

大丈夫だと信じたいから、大丈夫だと言う。

その強さを、見知らぬ他人の一般論で崩すことはできない。

直人はようやくそこまで理解して、胸の奥に沈む重さを感じながら、ゆっくり息を吐いた。

正しいことを言うだけでは、止められない。

その現実が、眠りに落ちる直前まで、鈍く居座り続けた。