第8話 詐欺師を止める方法
第8話 詐欺師を止める方法
その日、直人はいつもより一駅手前で降りた。
理由があったわけではない。まっすぐ帰る気分になれなかっただけだ。改札を抜けると、夕方の空気は思ったよりぬるく、昼の熱がアスファルトの表面にまだ残っていた。駅前には人が多い。仕事帰りの会社員、買い物袋を提げた主婦、高校生、ベビーカーを押す夫婦、待ち合わせらしい若い男女。誰もがそれぞれの用事の中にいて、誰も他人のことなど見ていないように見える。
そういう場所ほど、直人には息苦しかった。
人が多ければ多いほど、視線が触れる。肩がぶつかる。声が耳に入る。
それだけで、必要のないものまで頭の奥に沈んでくることがある。
信号待ちの列に混じったとき、隣の男がスマートフォンで誰かと話していた。
「いや、今月きついって……」
たったそれだけの声だったのに、直人の胸の奥に妙なざらつきが走る。金の話。謝る口調。見えない相手に小さくなっていく気配。
それはただの生活の疲れかもしれない。借金かもしれないし、家族のことかもしれない。詐欺とは何の関係もないかもしれない。
分からない。
分からないが、最近はそういう断片を「何でもない」で片づけきれなくなっていた。
青になって人波が動く。直人もつられて歩き出す。
向かいから来た若い女が、すれ違いざまにバッグの口を押さえた。ほんの一瞬だけ、通帳の磁気テープの匂いみたいなものが鼻についた気がした。もちろん、そんなものが本当に匂うはずはない。ただの連想だ。にもかかわらず、頭の中にはATMの明るすぎる画面と、「こちらへ振り込んでください」という無機質な文字が浮かんだ。
直人は歩きながら眉をひそめた。
自分の頭の中が、だんだん信用できなくなっていく。
昔は、世界はもっと単純だった。
困っている人がいて、誰かが助ければ、それで少しはましになる。
少なくとも、子どもの頃はそう思っていた。
けれど現実には、困っている人ほど、助ける側を選べない。
いや、選べないどころか、いちばん危ないものに縋ってしまうことがある。
苦しいから。急いでいるから。目の前に差し出された言葉が、それらしく見えるから。
駅前広場の端に、小さなベンチが空いていた。直人はそこに腰を下ろした。
自動販売機で買った缶コーヒーは冷たいはずなのに、口に含むと妙に苦く、舌の上に熱が残る。
目の前を人が流れていく。
誰もが普通に見える。
普通に疲れて、普通に急いで、普通に誰かを待っている。
その「普通」の中に、騙される人間も、騙す人間も混じっているのだと思うと、視界が少しだけ歪む。
少し前まで、直人は自分に言い聞かせていた。
見ても、関わらない。
分かっても、踏み込まない。
自分には証拠がないし、説明もできない。人の心に触れてしまうなんて話を、まともに受け取る人間はいない。受け取られたとしても、それはそれで気味が悪いだけだ。
それでも、何度か声をかけようとしたことはある。
露骨にではない。遠回しに、慎重に、不自然じゃない範囲で。
けれど、うまくいかなかった。
「大丈夫ですか」では弱い。
「気をつけたほうがいいですよ」では曖昧すぎる。
「それ、騙されてませんか」などと突然言えば、こちらが不審者だ。
実際、そういう目で見られたことがあった。
一度だけ、駅の構内で年配の男に声をかけたことがある。
男は最初きょとんとしたあと、露骨に顔をしかめ、「余計なお世話です」と言って去っていった。
怒っていたというより、怯えていた。
知らないはずの事情を知られている、その不自然さに。
あの表情が忘れられない。
正しいことを言えば届く、なんて思い込みは、そのときとっくに壊れていた。
直人は缶を膝の上で転がした。
べこ、と小さな音がする。
被害に遭う人は、ただ無防備なわけじゃない。
もう何かを信じている。
あるいは、信じるしかないところまで追い込まれている。
息子からの電話。投資の好機。返金手続き。医療費。示談金。
理由は何でもいい。大事なのは、その人の中で「今、これをやらなければならない」が成立していることだ。
そこに、後から赤の他人が割り込む。
それは詐欺ですよ、と言う。
なぜ分かるんですか、と聞かれる。
答えられない。
答えられない時点で終わりだ。
むしろ、相手の頭の中では「この人こそ怪しい」にひっくり返りかねない。
助けたい。
本気でそう思っても、届き方が間違えば意味がない。
意味がないどころか、相手をより急がせることすらある。
遠くで救急車のサイレンが鳴った。
直人は反射的に顔を上げる。夕暮れの色がビルの窓に鈍く映っていた。
家のことを思い出すのは、たいていこういう、少しだけ世界の音が遠のいた瞬間だった。
子どもの頃の家は、ある時期から急に寒くなった。
季節の話ではない。
冬でもないのに、食卓の空気が冷たかった。父と母は怒鳴り合わない。ただ黙る時間だけが長くなった。
冷蔵庫の開閉音、テレビの生活音、湯のみの触れ合う小さな音。そんなものだけが耳についた。
金の話が増えた。けれど、子どもの自分には内容が分からない。
「どうするの」
「今は無理だ」
「でもこのままだと」
切れ端だけが漂って、肝心なところは壁の向こうに消える。
理由も知らずに怯えていた。
何か悪いことが起きている。
でも、自分には形が見えない。
見えないものは、余計に怖い。
あとになって、それが詐欺被害だったと知った。
知った瞬間、記憶のあちこちに散っていた冷たさが、一つの名前でつながった。
あれはただ家計が苦しかったのではなく、誰かに騙されて壊れた時間だったのだと。
あの頃、自分にできることは何もなかった。
それがずっと胸の底に残っている。
高校生のとき、帰り道の小さな神社で、詐欺に遭う人がいなくなりますようにと祈ったことまである。
今思えば子どもっぽい。けれど、そのときはそれしかなかった。
祈ることしか、持っていなかった。
直人は目を閉じた。
ベンチの背もたれは固く、背中が痛い。
祈っても何も変わらない。そんなことは分かっている。
分かっているのに、見過ごすことにも慣れきれない。
もし本当に止めたいなら、何を止めればいい。
直人は頭の中で、詐欺というものをできるだけ乾いた形に分解しようとした。
感情を抜く。怒りも嫌悪もいったん脇に置く。
まず、相手が何かを信じる。
次に、その信じた内容に従って金を動かす。
そして最後に、その金が相手の手から離れ、詐欺師の側に渡る。
たったそれだけだ。
たったそれだけの流れのどこかが欠ければ、成立しない。
問題は最初の部分だった。
信じる、をひっくり返すのが難しい。
いや、難しいどころではない。ほとんど不可能に近い。
焦っている人間は、自分が焦っていることすら認めたがらない。
信じている人間は、その信じる理由を後からいくらでも補強する。
そこへ、「あなたは騙されています」と正面からぶつけても、弾かれるだけだ。
だったら、そこじゃない。
直人はゆっくり目を開けた。
通りの向こうで、ATMコーナーから出てきた男がレシートを丸めて捨てている。何でもない光景だった。だが、直人の中ではその「何でもない」が急に鋭く輪郭を持った。
信じることをやめさせられないなら。
金を動かす、その手前で止めるしかない。
あるいは、動いた金が相手に届く前に、流れを断つしかない。
止める。
何で。
「詐欺だから」ではない。
それでは届かない。
本人の頭の中では、すでに別の物語が完成している。助けるための振込かもしれないし、失った金を取り戻すための送金かもしれない。
なら、その物語の外側から、別の理由を差し込むしかない。
直人の指先が、缶の縁をなぞる。
冷えたアルミの感触が、妙に生々しい。
別の理由。
窓口で確認が必要。
手続きに不備がある。
本人確認がいる。
口座に問題が出た。
銀行側が止めた。
家族から連絡があった。
――そんなふうに、本人がいったん足を止めざるをえない理由。
そこまで考えて、胸の奥が冷たく縮んだ。
それは、説得じゃない。
理解させることでもない。
もっと単純だ。
相手の判断を、別の不安で上書きするだけだ。
つまり、騙す。
直人は無意識に首を振った。
違う、と言いたかった。
助けるためだ。金を奪うわけじゃない。被害を防ぐだけだ。
そう言い換えることはできる。いくらでもきれいに説明できる。
けれど、その説明はどこか薄っぺらかった。
本当のところ、自分がやろうとしていることは、相手の自由な判断に割り込んで、別の嘘で行き先を変えることだ。
目的が違うだけで、やっていることの手触りは、思ったより近い。
背中にじわりと汗がにじむ。
夕方の風はぬるいのに、指先だけが冷たかった。
人を騙してでも止める。
そこまでしていいのか。
そこまでしなければ止まらないのか。
頭の中に、子どもの頃の家の空気がまたよみがえった。
静まり返った食卓。
紙を見つめる父の横顔。
何も説明されないまま、部屋の隅で息をひそめていた自分。
あの時間を誰かが止められたなら、と思う。
もっと早く。もっと別のところで。
誰か一人でも気づいて、流れを断ち切ってくれていたなら。
その「誰か」を待っていても、来なかった。
なら、自分がやるのか。
汚いやり方でも。
ベンチの近くを、小さな子どもを連れた母親が通った。子どもは何かをねだって駄々をこね、母親は困ったように笑っている。ありふれた夕方の風景だった。
直人はその後ろ姿を目で追いながら、胸の内側でひどく嫌なものが固まっていくのを感じた。
自分がこれから思いつく方法は、たぶん効く。
効いてしまう。
だからこそ嫌だった。
効かない正しさより、効く嘘。
そういうものを知ってしまった人間は、どこまで戻れるのか分からない。
最初は一度きりのつもりでも、次も、その次も、「今回だけ」と言い訳できる。
人を守るため。仕方なかった。ほかに方法がない。
そんな理屈は、いくらでも後から足せる。
そのうち、相手のためなのか、自分が止められなかったという後悔に耐えたくないだけなのか、その境目すら曖昧になるかもしれない。
直人は顔を覆い、数秒そのまま動かなかった。
ベンチの脇を通る靴音が、やけに近く聞こえる。
まだ何もしていない。
思いついただけだ。
それなのに、喉の奥にはもう苦いものが貼りついていた。
助けたいからといって、何をしてもいいわけじゃない。
そんなことは分かっている。
でも、何もしないで見送ることが正しいとも思えない。
どちらを選んでも、きれいには終わらない。
遠くで駅の発車メロディが鳴った。
人の流れがまた少し変わる。ベンチの前を、急ぎ足の会社員が何人も通っていく。誰かのスマートフォンから、短い通知音が続けて鳴った。
直人はゆっくり息を吐いた。
もし次に、目の前で誰かが落ちようとしていたら。
もし、その人がもう正しい言葉では止まらない場所まで行っていたら。
自分は何をする。
答えはひとつしか浮かばなかった。
自分が先に騙す。
心の中でその形をはっきり言葉にした瞬間、吐き気に近い嫌悪が込み上げた。
助けるためだと分かっていても、その発想が自分の中から出てきたこと自体が気持ち悪い。
ずっと嫌っていたものの近くへ、自分からにじり寄った気がした。
直人は立ち上がった。
膝が少し重い。空になった缶をゴミ箱に捨てると、乾いた音がした。
まだやると決めたわけじゃない。
だが、次に同じ場面が来たら、この考えを思い出す。
思い出すどころか、たぶん迷いながら使うところまで行く。
それが分かるから、余計に嫌だった。
改札へ向かう人混みの脇を、直人はゆっくり歩き出した。
誰とも目を合わせたくないのに、完全には逸らしきれない。視線がかするたび、胸のどこかが固くなる。
助けたいと思う心と、騙してでも止めるしかないという考えが、同じ場所に居座っている。
そんな自分をどう扱えばいいのか、まだ分からない。
分からないまま、それでも一つだけ確かなことがあった。
次に間に合う相手を見つけたら、自分はもう、前と同じではいられない。