第9話 俺も詐欺師だ
第9話 俺も詐欺師だ
昼休みを少し過ぎたころ、直人は会社近くのコンビニにいた。
店内には揚げ物の油の匂いと、コーヒーマシンの蒸気の匂いが混じっている。
レジ前には数人が並び、雑誌コーナーの脇では配送伝票を書いている男がうつむいていた。
エアコンは効いているはずなのに、人の出入りが多いせいで空気はぬるい。
直人は弁当の棚の前で手を止めた。
何にするか迷っていたわけではない。
午前中から仕事に集中できず、選ぶ気力が鈍っていただけだ。
適当なおにぎりと茶を手に取って、レジへ向かう。
そのとき、前にいた女性がスマートフォンの画面を何度も見直しているのが目に入った。
四十代くらい。
紺色のカーディガンに、落ち着いた色のスカート。
肩にかけたバッグはきちんとしていて、買い物帰りというより、用事の途中に立ち寄ったように見える。
左手には細長い封筒。
銀行名の入ったものだった。
女性は会計の順番を待ちながら、画面を閉じ、また開いた。
指先が落ち着かない。
着信履歴らしい赤い印が、直人の目の端に引っかかる。
女性がふと顔を上げた。
視線がかすった、その一瞬。
白い廊下。
電話口の声。落ち着いてください、大丈夫です、今ならまだ間に合います。
息子、という言葉。けれど顔がない。声だけが先走っている。
会社の金に穴をあけた。示談にすれば表には出ない。
今日の午後三時。駅前のバス乗り場のベンチ。
背広の男に、封筒ごと渡す。合言葉は「鈴木課長の使いです」。
誰にも言うな。銀行で聞かれたら、リフォーム代だと答えろ。
焦りと、焦っていることを正当化しようとする強い思い込み。
これで間に合う。これで息子は助かる。
直人は呼吸を忘れた。
背中の内側に冷たいものが走る。
これまでの断片とは違う、と思った。
ばらばらの気配ではない。
場所があり、時間があり、合言葉まである。
読んだというより、差し出された、に近い。
それほどにこの人の頭の中では、その段取りだけが何度も繰り返されているのだ。
女性は何も知らない顔で支払いを済ませ、店を出た。
直人は自分の会計もそこそこに、袋を掴んで後を追った。
レジ袋の中でペットボトルがぶつかり、小さく音を立てる。
そんな音ですら、今は耳障りだった。
昼の光が思ったより強い。
女性は迷いのない速さで大通りを渡り、その先の銀行へ向かっていた。
ガラス張りの入口の向こうに、ATMコーナーの案内板が見える。
やめろと言えば止まるだろうか。
止まらない。
知らない男に呼び止められて、息子のことで振込を疑えと言われて、素直に従う人間などいない。
むしろ「急がなければならないのに邪魔された」と思うだけだ。
この数日で、嫌というほど分かっていた。
それでも、直人は銀行の入口の前で声をかけた。
「あの、すみません。窓口の方が、確認したいことがあるって」
我ながらひどい嘘だった。
女性が振り向く。
予想どおり、まず警戒が来た。
「……私にですか?」
「お金をおろす方に、念のため声をかけているみたいで。先に窓口へ、と」
女性は一瞬迷った。
その迷いの奥に、あの合言葉の段取りが透けて見える。
時間がない。
三時までに、現金を用意しなければならない。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
そう言って、女性は頭を下げ、自動ドアの向こうへ消えた。
窓口へは行ったのかもしれない。
けれど、出てきた時には、封筒がさっきより厚くなっていた。
銀行の人間は、聞いてくれたのだろう。
けれど「リフォーム代です」と答えられてしまえば、それ以上は踏み込めない。
そういう仕組みの隙間を、あの声はあらかじめ塞いでいた。
直人は銀行の前の植え込みの脇で、唇を噛んだ。
言葉では止まらない。
窓口の嘘も、弾かれた。
正しい理由も、嘘の理由も、女性の中ではすでに別の物語に負けている。
女性は腕時計を見て、バス乗り場の方向へ歩き出した。
午後二時四十分。
まだ二十分ある。
直人の頭の中で、さっき差し出された段取りが、ひとつの形になった。
合言葉を、自分は知っている。
背広の男、という条件も。
今の自分は、会社帰りのスーツ姿だ。
バス乗り場のベンチも、時間も分かっている。
本物の受け取り役が来る前に、自分がそこに座っていれば。
思いついた瞬間、吐き気に近い嫌悪が込み上げた。
それは、説得ではない。
理解させることでもない。
相手の信じている物語の中へ、偽の役で入り込んで、金を受け取るということだ。
つまり、騙す。
詐欺師の代わりに、先に。
直人は走らなかった。
走れば目立つ。
女性より先にバス乗り場へ着くために、少し遠回りをして、裏の通りを抜けた。
足が勝手に動いていた。
考えるより先に、体が決めてしまっているようだった。
バス乗り場の端に、古いベンチがあった。
直人はそこに腰を下ろし、鞄を膝に置いた。
心臓の音がうるさい。
手のひらの汗で、鞄の取っ手が滑る。
二時五十五分。
女性が現れた。
封筒を胸に抱えるようにして、周りを見回している。
直人と目が合う。
一瞬、期待と怯えが混ざった顔になった。
直人は立ち上がった。
喉の奥で、声が出るのを拒んでいる。
それでも口は動いた。
「鈴木課長の使いです」
女性の顔から、ふっと力が抜けた。
安堵。
それが、いちばん痛かった。
この人は、今、助けが来たと思っている。
「あの、息子は……」
「大丈夫です。話は通っています。お預かりします」
自分の声が、他人のもののように落ち着いていた。
それが気持ち悪かった。
女性は両手で封筒を差し出した。
指先が震えていた。
「お願いします。息子を、よろしくお願いします」
封筒は、思ったより重かった。
紙の束の重さというより、この人が今日までに積んできたものの重さだった。
直人は何も言えず、一度だけうなずいた。
「あとは課長のほうから連絡が行きます。今日は、お家でお待ちください」
女性は何度も頭を下げて、家の方向へ歩いていった。
その背中が、さっきよりずっと小さく見えた。
直人は封筒を鞄に入れ、反対方向へ歩き出した。
百メートルほど先に、交番がある。
そこまでが、やけに長かった。
すれ違う人の誰もが、自分の鞄の中身を知っている気がした。
交番の机の上に、直人は封筒を置いた。
奥にいた警察官が顔を上げる。
「あの、さっき、駅前で拾いました。銀行の封筒みたいで。中身が、結構ありそうなので」
「拾った? お名前と連絡先を」
警察官が書類を取りに振り向いた隙に、直人は頭を下げて、交番を出た。
走らなかった。
ただ、足が止まらなかった。
少し離れた場所から振り返ると、バス乗り場のベンチに、若い男が一人座っているのが見えた。
十九か二十歳くらい。
背広が体に合っていない。
スマートフォンを耳に当てて、何度も同じ言葉を繰り返している。
「いません。いないんです。誰も来ません」
顔は、血の気が引いたように白かった。
本物の受け取り役だ、と直人は思った。
この子は、このあと、どうなるのだろう。
その考えを、直人は振り払った。
翌日、直人は昼休みに、わざと遠回りをして、あの銀行の前を通った。
自動ドアの内側に、昨日の女性がいた。
制服の警察官と、銀行員と並んで、何かを話している。
女性は両手で口を押さえていた。
泣いているのだと分かった。
銀行員が、肩に手を置いた。
警察官が、封筒を差し出した。
女性は、それを受け取って、深く頭を下げていた。
被害は、止まった。
そう確かめられたのに、直人の足は、そこから動かなかった。
午後の仕事は、まるで頭に入らなかった。
画面の数字が、意味のない模様に見える。
同僚に声をかけられ、一拍遅れて返事をした。
「大丈夫? 具合悪い?」
「いや、平気。ちょっと寝不足で」
便利な言い訳だった。
原因が曖昧で、相手もそれ以上は踏み込まない。
口にしてから、その軽さにうんざりした。
帰宅したころには、空はすっかり暗くなっていた。
コンビニで買ったおにぎりは、昨日のまま、鞄の底にあった。
机の上に置いても、食べる気にはなれない。
冷蔵庫の稼働音だけが、一定の間隔で部屋に響いている。
ノートを開いた。
きれいな文章にする気にはなれなかった。
書いた瞬間に、今日のことを薄めてしまう気がした。
ペン先を紙につける。
合言葉を使った。
受け取り役のふりをした。
封筒を受け取った。
彼女は、助けが来たと思って、頭を下げた。
文字にすると、余計に露骨だった。
言い換えがきかない。
金を奪ったのは詐欺師の電話ではなく、自分の手だった。
結果として、金は彼女のもとへ戻った。
けれど、受け取った瞬間の彼女の安堵は、嘘の上に成り立っていた。
あの顔を、自分は、人を騙して引き出したのだ。
助けた。
でも、最初に騙したのは自分だ。
そう書いた瞬間、胃のあたりが鈍く沈んだ。
金を自分のものにしたわけではない。
それは、いくらでも挙げられる違いだった。
それでも、今日の自分がきれいな側に立っているとは、どうしても思えなかった。
目的の善悪で、どこまで免罪されるのか。
考え始めると、言い訳がいくらでも出てくる。
だから余計に、信用できなかった。
何より嫌だったのは、効いてしまったことだ。
言葉では止まらなかった人が、嘘で止まった。
その事実が、頭から離れない。
次に似た場面が来たら、自分はきっと今日の手順を思い出す。
合言葉。
場所。
受け取り役。
そして、たぶん使う。
その未来が、もう見えてしまっていた。
直人は両手で顔を覆った。
手のひらの中で、息がこもる。
本物の受け取り役の、あの白い顔が浮かぶ。
自分が奪った金の行き先を、あの子は説明できないまま、誰かに詰められるのかもしれない。
自分は、あの子の分まで、何かを壊したのではないか。
しばらくして、誰に聞かせるでもなく、低くつぶやいた。
「……人を騙して金を取ったんなら、俺も詐欺師だろ」
声に出すと、その言葉は部屋の静けさの中で、すぐに冷えた。
大げさだ、と理屈では思える。
同じではない、と反論もできる。
けれど、そのどれも口にしたくなかった。
同じではないことを並べるのは、今の自分を守るための言い訳に思えた。
机の上のノートには、さっきの一文が残っている。
手つかずのおにぎりが、机の端にあった。
直人は背もたれに深く体を預け、天井を見上げた。
次も同じことをするかもしれない。
その予感だけが、暗い部屋の中で、じわじわと形を持っていく。