第三話 破滅は静かに持ち込まれる
第三話 破滅は静かに持ち込まれる
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夜気が、工場街の鉄の匂いを孕んで冷たく流れている。海に向かって風が吹き込んでくるが、それでもなお洗い流せない臭いが六区全体に染みついている。 浩一は、生垣に囲まれた古風な邸宅の前に立ち、小さく息を吐いた。新西京の喧騒から切り離されたようなこの場所だけが、どこか時代を置き去りにしたような静寂を保っている。 裏手の工房へ回ると、砥石が刃を舐める、規則正しい、石で刃を研ぐ音が聞こえてきた。「……誠二。あなたの論理的思考には、宇宙規模の改善余地がありますね」 雪風が、深い溜息を漏らした。待て。今、こいつは溜息をついたのか? AIが、物理的な肺も持たずに? 「いいか雪風。お前には人間心理の機微が足りない。あれは俺に声をかけるための、古風な口実だ。わかるか? 俺にはわかっていた」 仕方がない――俺は雪風に人間の機微を丁寧にレクチャーする。「我が思うに、誠二にも夢を見る権利はあるのだ。なあ、雪風よ」 すると俺の足元から、失礼な横やりが入った。「そうですね、リーナス。救いようのない夢を」 反論するのも面倒になった俺は適当に合わせる。「そうそう。頭空っぽの方が夢を沢山だな……」 すれ違うゴブリン、オーガ、トロール、エルフ……多様性を極めた街並みを歩きながら俺はふと、視線を上げた。 街頭に設置されているホロディスプレイが流しているのは闘病中の少年――六歳くらいだろうか――のインタビューだった。『ルーブ! 頑張ってください! 僕も明日の手術、頑張ります!! だから明日は必ず勝って下さい!!』 ありがちな話だな。まったく。 マスコミってのは今も昔もこういうありがちなお涙頂戴物語が大好きらしい。 そうこうしているうちに、目的地が目の前に現れた。 壁面、床、ともに赤黒い色調で統一された地下へと続く階段。 ここに来るたびに思うことがある。 現代ナイズされた地獄へ通じる階段があるとするなら――ダンテの神曲ではないが――こんな感じに違いない。 その入り口には、氷のように冷たく青いネオンでこう記されていた。『ヒューマンの入店はお断りしています』――クラブ『コキュートス』「俺、この店嫌いなんだよなぁ」 俺はそうこぼすと、階段を降り始めた。包みを解きながら、ふと思い出したように言った。 「何でしょう?」 浩一は礼儀正しく聞き返した。 千助がどこからか取り出したコップに日本酒を注ぎながら話を続ける。「さっき、なじみの料理人が包丁を研ぎに来てな。……妙なことを口にしていた。客の会話を小耳に挟んだらしいんだが――プルトニウムが、この街に流れ着いたという噂だ」「プルトニウムが……」 奴ら……何を企んでいる?「お前がこの間、それに血を吸わせたのは――確か『蒼き薔薇』だったか。あの狂信者どもがその火を手にすれば、この新西京もただの灰になる」「浩一なら大丈夫だよ、じっちゃん! 悪い奴らはみんな浩一がスパスパだよー!」 飛び回っていたティニィが浩一の肩に戻り、景気のいい声を上げた。「……ティニィ。俺を煽っても、蕎麦の具は増えんぞ」 浩一は肩の元気娘に釘を刺す。「ちぇーっ、ケチ!」 ティニィは頬を可愛らしく膨らませた。「まあ、油断するな。刃は研いだが、お前自身の命までは研げんからな」 そう言うと千助はコップに口をつけた。「肝に銘じます」「これは良い酒だな、浩一」 千助が満足げにほほ笑んだ。「お口にあったようで何よりです。……それでは、ここいらで失礼します」「何だ、お前も一献付き合わんか」 千助が胡坐をかいて座っている床の隣を手で叩いた。「有難うございます。ですが――プルトニウムの件がいささか気になります」「ふむ。ティニィではないが、お前の腕が必要になるかもしれんな」「そうならなければ良いのですが……」 浩一は一礼し、闇の降りた工場街へと歩き出した。背後で再び、砥石が刃を舐める音が響き始める。新西京に持ち込まれた、破滅の火種。 果たしてブルーローズと何か関係があるのか? 午後八時三十分 新西京三区ダウンタウン 弁天通り(斎藤誠二) トルネロに依頼の詳細――依頼人はレイヴンズの監督であり、ルーブの住所も教えてもらった――を聞き出した俺はアビシニアンの重いドアを押し開けて外に出た。 ひんやりとした夜気が俺を包み込む。 新西京は比較的温暖な土地だ。 しかし十月の終わりともなれば、海から吹き込んでくる夜風は、それなりの鋭さを持ってコートの隙間を狙ってくる。 俺は襟を立て、冷え始めた指先をポケットの中で丸めた。 今向かっている弁天通りは、欲望の吹き溜まりだ。 ネオンサインが濡れた路面に乱反射し、安っぽい香水と排気ガスの匂いが混じり合っている。「お兄さん、いい子いるよ!」と話しかけてくるキャッチの声を、俺は無関心に聞き流した。 八百長……あのシンカー……俺は歩きながら思考を整理しようとしたが、手札があまりに少なすぎる。考えても無駄だと悟るのに、三歩も歩けば十分だった。「蒼き清浄なる光で、世界を浄化しましょう」 目の前に、一枚のチラシが差し出された。 三十代後半といったところか。茶髪に緑色のインナーカラーを入れた、いかにも自分なりのこだわりを持っていそうなヒューマンの女性だ。 眼鏡の奥の瞳は、どこか遠くの理想郷でも見ているように虚ろで、それでいて熱を帯びた茶色をしていた。 だが、俺の目を奪ったのは彼女の顔ではない。 胸元に提げられた、透明なケースのさがったペンダント。その中には、青白く光る石が収められていた。 礼儀正しく聞き返した。 千助がどこからか取り出したコップに日本酒を注ぎながら話を続ける。「さっき、なじみの料理人が包丁を研ぎに来てな。……妙なことを口にしていた。客の会話を小耳に挟んだらしいんだが――プルトニウムが、この街に流れ着いたという噂だ」「プルトニウムが……」 奴ら……何を企んでいる?「お前がこの間、それに血を吸わせたのは――確か『蒼き薔薇』だったか。あの狂信者どもがその火を手にすれば、この新西京もただの灰になる」「浩一なら大丈夫だよ、じっちゃん! 悪い奴らはみんな浩一がスパスパだよー!」 飛び回っていたティニィが浩一の肩に戻り、景気のいい声を上げた。「……誠二。あなたの論理的思考には、宇宙規模の改善余地がありますね」 雪風が、深い溜息を漏らした。待て。今、こいつは溜息をついたのか? AIが、物理的な肺も持たずに? 「いいか雪風。お前には人間心理の機微が足りない。あれは俺に声をかけるための、古風な口実だ。わかるか? 俺にはわかっていた」 仕方がない――俺は雪風に人間の機微を丁寧にレクチャーする。「我が思うに、誠二にも夢を見る権利はあるのだ。なあ、雪風よ」 すると俺の足元から、失礼な横やりが入った。「そうですね、リーナス。救いようのない夢を」 反論するのも面倒になった俺は適当に合わせる。「そうそう。頭空っぽの方が夢を沢山だな……」 すれ違うゴブリン、オーガ、トロール、エルフ……多様性を極めた街並みを歩きながら俺はふと、視線を上げた。 街頭に設置されているホロディスプレイが流しているのは闘病中の少年――六歳くらいだろうか――のインタビューだった。『ルーブ! 頑張ってください! 僕も明日の手術、頑張ります!! だから明日は必ず勝って下さい!!』 ありがちな話だな。まったく。 マスコミってのは今も昔もこういうありがちなお涙頂戴物語が大好きらしい。 そうこうしているうちに、目的地が目の前に現れた。 壁面、床、ともに赤黒い色調で統一された地下へと続く階段。 ここに来るたびに思うことがある。 現代ナイズされた地獄へ通じる階段があるとするなら――ダンテの神曲ではないが――こんな感じに違いない。 その入り口には、氷のように冷たく青いネオンでこう記されていた。『ヒューマンの入店はお断りしています』――クラブ『コキュートス』「俺、この店嫌いなんだよなぁ」 俺はそうこぼすと、階段を降り始めた。手土産です」「ほう。……お前の持ってくる酒には、いつも嘘がないな」 千助は短く笑い、傍らに立てかけられていた一振りを差し出した。「お前は受け太刀をせん。だから、刃が欠けぬ。死線にありながら、刀を綺麗に使う。……それは、お前の業の深さでもあるな」「私にとって刀は受けるための道具ではありませんから。……受け流すことすら、惜しい」 「ふん。相変わらず、可愛気のない男よ」 千助は言いながら、銀色に輝く刀身を満足げに眺めた。 「銀のコーティングを改めて施しておいた。これならば、夜の怪物相手にも効力を発揮するだろう」 「……有難うございます」「それと鞘のチタンの具合はどうだ?」「有難うございます、そちらも問題ありません」 浩一が深く頭を下げた。 同時に、その肩から淡い光を放つ蛍が飛び立つ。 フェアリーのティニィだ。彼女は好奇心の塊のように工房内を飛び回り、古い神棚や砥石を物珍しそうに眺めている。「そういえば、浩一。一つ、耳汚い話がある」 千助が酒の包みを解きながら、ふと思い出したように言った。 「何でしょう?」 浩一は礼儀正しく聞き返した。 千助がどこからか取り出したコップに日本酒を注ぎながら話を続ける。「さっき、なじみの料理人が包丁を研ぎに来てな。……妙なことを口にしていた。客の会話を小耳に挟んだらしいんだが――プルトニウムが、この街に流れ着いたという噂だ」「プルトニウムが……」 鳴らした――気がした。 ……あの野郎。「えっ、いえ、そういうのではなくて――」 俺に冷たくされたからだろう――うろたえる彼女。 どこまでも紳士的な俺はフォローを入れることにする。「また今度、俺が暇な時にでも誘ってくれ」 俺は彼女からチラシをひったくるように受け取る。 そして彼女が俺に惚れて仕事に支障をきたさないよう、十ワット程度の控えめな明るさでウインクを投げ、歩みを速めた。 なんとなくチラシに目を通す。 ブルーローズ教団。 新西京の教団責任者『レイ・アンダーソン』――黒髪黒目の陰気くさい男だ。 俺はチラシをきれいに畳んでポケットに収める。「……ティニィ。俺を煽っても、蕎麦の具は増えんぞ」 浩一は肩の元気娘に釘を刺す。「ちぇーっ、ケチ!」 ティニィは頬を可愛らしく膨らませた。「まあ、油断するな。刃は研いだが、お前自身の命までは研げんからな」 そう言うと千助はコップに口をつけた。「肝に銘じます」「これは良い酒だな、浩一」 千助が満足げにほほ笑んだ。「お口にあったようで何よりです。……それでは、ここいらで失礼します」「何だ、お前も一献付き合わんか」 千助が胡坐をかいて座っている床の隣を手で叩いた。「有難うございます。ですが――プルトニウムの件がいささか気になります」「ふむ。ティニィではないが、お前の腕が必要になるかもしれんな」「そうならなければ良いのですが……」 浩一は一礼し、闇の降りた工場街へと歩き出した。背後で再び、砥石が刃を舐める、規則正しい、石で刃を研ぐ音が聞こえてきた。「……お忙しいところを失礼します」 浩一が声をかけると音が止まった。 白髪を短く刈り込んだ人間の老人が、腰を上げる。鵜飼千助。新西京でこの男に刃を預けられるのは、千助が認めた数少ない『使い手』だけである。 浩一は持参した大吟醸の包みを、丁寧に敬意を込めて作業台の端に置いた。「これは、手土産です」「ほう。……お前の持ってくる酒には、いつも嘘がないな」 千助は短く笑い、傍らに立てかけられていた一振りを差し出した。「お前は受け太刀をせん。だから、刃が欠けぬ。死線にありながら、刀を綺麗に使う。……それは、お前の業の深さでもあるな」「私にとって刀は受けるための道具ではありませんから。……受け流すことすら、惜しい」 「ふん。相変わらず、可愛気のない男よ」 千助は言いながら、銀色に輝く刀身を満足げに眺めた。 「銀のコーティングを改めて施しておいた。これならば、夜の怪物相手にも効力を発揮するだろう」 「……有難うございます」「それと鞘のチタンの具合はどうだ?」「有難うございます、そちらも問題ありません」 浩一が深く頭を下げた。 同時に、その肩から淡い光を放つ蛍が飛び立つ。 フェアリーのティニィだ。彼女は好奇心の塊のように工房内を飛び回り、古い神棚や砥石を物珍しそうに眺めている。「そういえば、浩一。一つ、耳汚い話がある」 千助が酒の包みを解きながら、ふと思い出したように言った。 「何でしょう?」 浩一は礼儀正しく聞き返した。 千助がどこからか取り出したコップに日本酒を注ぎながら話を続ける。「さっき、なじみの料理人が包丁を研ぎに来てな。……妙なことを口にしていた。客の会話を小耳に挟んだらしいんだが――プルトニウムが、この街に流れ着いたという噂だ」「プルトニウムが……」 奴ら……何を企んでいる?「お前がこの間、それに血を吸わせたのは――確か『蒼き薔薇』だったか。あの狂信者どもがその火を手にすれば、この新西京もただの灰になる」「浩一なら大丈夫だよ、じっちゃん! 悪い奴らはみんな浩一がスパスパだよー!」 飛び回っていたティニィが浩一の肩に戻り、景気のいい声を上げた。「……お忙しいところを失礼します」 浩一が声をかけると音が止まった。 白髪を短く刈り込んだ人間の老人が、腰を上げる。鵜飼千助。新西京でこの男に刃を預けられるのは、千助が認めた数少ない『使い手』だけである。 浩一は持参した大吟醸の包みを、丁寧に敬意を込めて作業台の端に置いた。「これは、手土産です」「ほう。……お前の持ってくる酒には、いつも嘘がないな」 千助は短く笑い、傍らに立てかけられていた一振りを差し出した。「お前は受け太刀をせん。だから、刃が欠けぬ。死線にありながら、刀を綺麗に使う。……それは、お前の業の深さでもあるな」「私にとって刀は受けるための道具ではありませんから。……受け流すことすら、惜しい」 「ふん。相変わらず、可愛気のない男よ」 千助は 誠二。あなたの論理的思考には、宇宙規模の改善余地がありますね」 雪風が、深い溜息を漏らした。待て。今、こいつは溜息をついたのか? 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AIが、物理的な肺も持たずに? 「いいか雪風。お前には人間心理の機微が足りない。あれは俺に声をかけるための、古風な口実だ。わかるか?
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