001 スノウとチーズ
001 スノウとチーズ
…………壁の穴から少しだけ顔を覗かせて、周囲を探る。気配はない。行くなら今だ。「おい、スノウ。やっぱりやめといた方がいいんじゃないのか?」 背後から声がかかる。幼馴染みのチャーリーだ。丸々とした体に小さな耳。そして短い尻尾。グレーラット種は体が大きくて力も強いが、心配性なのが玉に 瑕 ( キズ ) だ。「大丈夫だよ。ここ数日、あいつはあの部屋に篭りっきりじゃないか。これはチャンスなんだよ」「でも見つかったら、殺されちまうよ」「大丈夫だって。穴あきのチーズだぞ。食べたくないのか?」「そりゃ、食べたいけどさ……」「いざとなったら僕が囮になる。スノーラットは素早いからね。あいつなんかにやられるもんか」 スノーラット。別名、雪ネズミ。この国よりもずっと北の方に棲息するネズミらしい。それが僕の種族。らしいってのは、この辺には僕しかいないからだ。母さんが死んで、それから同族には会ったことはない。 白い毛並みに金の目と、大きな耳に長い尻尾。小さな体はすばしっこく、速さで僕に勝てるネズミはちょっといないね。 だから人間の目を盗んで食料を調達する係は僕が勤めていた。僕の速さなら危なくなってもなんとか逃げ切ることができるから。あ、でもさすがに魔法を放たれた時は死ぬかと思ったけどさ。 ま、母さんが死んでからグレーラットのみんなには世話になっているし、それぐらいなんでもない。「本当に行くのか?」「行くよ。こんなチャンスは滅多にないんだ。貯蔵庫の扉が開いてるなんて奇跡はね!」 この家の人間たちが食料を保存している場所は二つある。 一つは台所にある小さな箱だ。この中には野菜とか麦だとかトウモロコシ、たまに豆菓子なんかも入っている。 そしてもう一つはその台所のさらに奥にある貯蔵庫だ。小さな部屋になっているらしく、前に開かれた時に遠くから見ただけなんだけど、肉とか魚とか、そして大きな穴あきチーズがあったんだ。 いつもはぴったりと閉じられていて、開く時は人間が入る時と出る時だけ。とても入り込める隙はない。 だけどその貯蔵庫の扉が、今日に限って少しだけ開いているのだ! これをネズミの神・ジェリー神の祝福と言わずしてなんと言おうか!「たとえ僕一人でも行くよ。絶対にあの穴あきチーズを手に入れてやる」「わかったよ、俺も行くよ……。なんでスノーラット種はこうも頑固者なんだろう?」 悪かったな、頑固者で。っていうか、お前の知ってるスノーラットは僕だけだろうが。 ぶつぶつ言ってるチャーリーを促し、壁の穴から一気に本棚の裏まで走り切る。「ぐふっ!」「ああ、もう! 少しはダイエットしなよ!」 本棚の裏側に飛び込んだ僕に続いてチャーリーが飛び込んできたが、その大きなお腹が壁と本棚の裏側につかえてしまった。 幸い、本棚の陰にギリギリ隠れることができたけど。チャーリーは左右からおしつぶされた形になってるが。 本棚の裏側を伝い、上へ上へと登っていく。チャーリーもズリズリと挟まりながらも少しずつ上がってきた。 本棚のてっぺんに上がって、周囲を見渡す。よし、大丈夫だ。「スノウ〜。引っ張って〜……」「ああ、もう」 上半身だけ這い出して、下半身は挟まれたままのチャーリーを引きずり出す。 本棚の上から壁の横木を伝って、ぐるりと貯蔵庫近くの食器棚まで移動する。ここで見つかるのが一番まずい。落ちないようにバランスを取りながら、全力で疾走する。 なんとか食器棚の上まで辿り着いた。落ちそうになりながらも、どうにかチャーリーも食器棚の上に滑り込んでくる。 ここから貯蔵庫まではすぐそこだ。「よし。僕が下りてあの中に入るから、チャーリーはここで人間が来ないか見張っていてくれ。あの部屋から人間が出てきたら合図を」「わかった。気をつけろよ」 ここからなら貯蔵庫もこの屋敷の主人である人間の個室の扉もよく見える。出てきたらすぐにわかるはずだ。 食器棚の裏を伝って床へと下りる。主人の個室とは別の、廊下へと出る扉の方にも気を配る。使用人がやってくるかもしれないからだ。 …………よし、今だ。 素早く貯蔵庫の扉前まで、駆け抜ける。 扉の前に立つとひんやりとした空気が貯蔵庫の中から流れてきた。なんだろう? ネズミ避けの魔法かな? だけどあいにく僕は雪ネズミ。寒さには強いのさ。 扉の隙間からついに僕は貯蔵庫の中に足を踏み入れる。中にはいろんな棚があり、肉とか何か液体の入った瓶やらが所狭しと置かれていた。 キョロキョロと辺りを見回す。肉もいいが僕が欲しいのは────あった! 棚の真ん中あたりに黄色い塊が見える。僕は 逸 ( はや ) る気持ちを抑えつけ、棚を上っていく。 目的の物がある棚を駆けて、やっとその前に辿り着いた。 鼻いっぱいに広がる木の実のような芳醇な香り。とてつもなく美味しそうな匂い。 円形から何切れか切られていたその端っこに我慢できず、一気にかぶりつく。 ッ、美味いッ! 涙が出そうなほど美味い! 口一杯に蕩けるようなうまさが広がる。生きててよかった……! はっ! いけない。いつまでもここにいたら見つかってしまう。早くチャーリーのところへ戻らないと。 僕は前足でいくつかの大きいチーズのカケラを抱えて、それを棚から投げ落とす。 棚からするりと下りて、床に散らばったチーズのカケラから、一際大きいのを二つ両前足を使って小脇に抱える。 雪ネズミは器用だ。後ろ足だけで立って歩くことだってできる。スピードが遅いからあまりやらないけど、こういう時は便利なんだ。「へへへ。チャーリーがこれ見たら驚くぞ」 チーズを両脇に抱え、よたよたと貯蔵庫の扉へと向かう。 チャーリーの合図がなかったから、人間はまだ来ていないはずだ。扉の隙間を抜けて、居間へと足を踏み出した瞬間、ピピピピピピピ、とどこからか不思議な音が響き渡った。 えっ、なにこれ!? 慌てた僕は手にしていたチーズを思わず落としてしまう。次の瞬間、僕の足下の周りに光る円形の模様が浮かび上がった。 直感的にマズいと感じた僕は、チーズを置いて一目散に走り出そうとする。が、何か見えない壁のようなものに阻まれて、円形の模様から出ることができない。なんだこれ!?「スノウー!」 チャーリーが食器棚から下りてこようとしていた。「来るな、チャーリー! なんだかわからないけど、出られない! 罠だ! お前まで捕まるぞ!」 僕はこれが、魔法による人間たちの罠だと確信していた。こんな不思議な力は人間、亜人、魔獣、魔族くらいしか使えないってグレーラットの長老が言ってた。 ガチャリとこの屋敷の主人であろう部屋の扉が開く。 そこから出て来たのは白髪の老爺。目に透明なガラスの板をかけて、耳で留めている。灰色のローブを来て、首からは銀色のメダルをぶら下げていた。「n+ez$um¥ik#@? ho÷u……ko*re=h@m〒ez〆ur@s☆ii」 なに言ってるか全然わからないけど、よくない状況ってのはわかる。 なんとかその場から逃げ出そうとするが、やっぱり見えない壁に阻まれて出ることができない。 目の前の爺さんが僕へと向けて手をかざす。またしても直感的に、魔法を使われる、ということがわかった。僕を火魔法で焼く気か!? 爺さんが何か呟くと薄い紫色の雲のようなものが僕の周りに立ち込めた。なんだこ、れ……。 あれ? なんだかすごく眠い……。眠っちゃダメだ……眠っちゃ……。 遠くでチャーリーの叫ぶ声が聞こえたような気がしたが、僕は睡魔に勝てず意識を手放した。 気がつくと僕はなにか大きな箱のようなモノに入れられていた。 ガラスの板で周りと天井を囲まれ、地面にはおがくずが敷き詰められている。穴の空いた木製の小さな巣箱と、なにかくるくる回る水車のようなものがあった。 ガラス板から見える景色は本だらけの室内で、おそらくはあの老爺の部屋であろうと思われる。部屋の隅にあるあの扉には見覚えがあった。「捕まった……のか……?」 僕の胸に絶望とともに、疑問が湧き上がる。なぜ、ネズミなんかを捕まえたのだろう? こういう場合、有無を言わさず殺されるのが一般的だ。チャーリーの叔父さんもそうなった。 ネズミに価値はない。僕らは人間の家を荒らす盗人でしかないのだから……って、くんくんくん。 ……いい匂いがするな。チーズの匂いだ。あ! 箱の隅に置かれた小さな皿のようなところにチーズが盛られていた。その横の器には水もある。 なにかの罠かもしれないが、遠慮せずに食らいつく。もう捕まってるんだ。関係あるか。 モグモグとチーズを咀嚼する。やっぱり美味いなあ……。チャーリーにも食べさせてやりたかった……。あいつ、泣いて喜んだろうに。 チーズに舌鼓を打っていると、部屋の扉が開いて爺さんが入ってきた。思わず巣箱の陰に隠れる。 爺さんはなにか薄い板のようなものを持っていて、それを開いた状態のまま、壁と僕が閉じ込められているガラス箱の間に差し込んだ。 そして背中を向けて部屋の机の方へと行ってしまった。 目の前に爺さんが置いていった二つ折りの板が見える。 なんだこりゃ。いくつかの枠に分かれていてそれぞれ絵が描いてある。食べ物だ。 りんご、じゃがいも、クルミ、豆……お、チーズもある。 そしてそれぞれの絵の下に、なにかの記号のようなものが並んでいる。なんだろう、これは? 「んー……? よく見ると記号が一個一個違うな。ひょっとして、それぞれがこの絵の物を指しているのかな? 『apple』がりんごで、『potato』がじゃがいも? この『a』ってのは同じ記号だよな。並び方で意味が違うのか? なにか人間の決めごとだろうか?」 なにもすることがなかったので、僕はその絵と記号をずっと見続けていた。 三日も見ていると全部覚えてしまった。たまに爺さんがやってきて、水と食べ物を入れてくれる。どうやら僕を今すぐ殺す気は無いようだ。食べ物はチーズじゃなかったけれど。 何日かに一度、爺さんは挟まれた薄い本をめくる。新しいページにはまた違ういくつかの絵と記号が並んでいた。もう慣れたので一日もあればそれを覚えてしまう。 そんなことを繰り返して僕はいろんな記号を覚えていった。本は『book』、水は『water』、そしてチーズは『cheese』だ。 ある日爺さんは本を片付け、小さい何枚かの紙をガラス箱の中に入れてきた。見てみると、あの記号が書かれている。絵はない。記号だけだ。 『potato』、『cherry』、『corn』……。食べ物の記号ばかりだな。 ガラスの向こうを見てみると、爺さんがこちらを覗き込んでいた。なんだよう。 爺さんは手に赤いりんごを持って、それを指差している。ん? こちらへ向けて何回もりんごに指を差しているけど……。見ろってこと? 僕は最初、爺さんがなにをしたいのかさっぱりわからなかったが、足下に散らばった記号の書かれた紙を見て、ひょっとして、とそのうちの一枚を手にとって爺さんに見せた。 『apple』と書かれた紙を見せると、爺さんは手を叩いて喜んでいた。どうやら当たりらしい。そしてガラス箱の中にりんごをひとかけら入れてくれた。美味い。 甘酸っぱいりんごを咀嚼していると、はっ、と気が付いた。『apple』と書かれた紙でりんごをくれるのなら……! 僕は足下に散らばった紙を慌ててひっくり返し、目的の物を見つけた。そしてそれを爺さんに向けて、高々と掲げる! 『cheese』! チーズだ! 爺さんチーズだあああぁぁぁぁ! チーズをよこせえぇぇぇ! 爺さんはひとつ頷くと、扉の向こうへと消えていき、皿に穴あきチーズを載せて戻ってきた。やったああぁぁ! ガラス箱に入れられたチーズに思い切りかぶりつく。 ここに閉じ込められて初日以来のチーズだ。やっぱり、ンまい! こうして僕と爺さんはある程度の意思の疎通ができるようになったのである。