第414話 何か恨みでもあるのか
第414話 何か恨みでもあるのか
試合終了後。
バーバリスタジアムの仙台アステルFCベンチには、しばらく誰も立ち上がろうとしない重い空気が残っていた。
大型ビジョンには、もう変わることのない最終スコアが映し出されている。
**仙台アステルFC 0-2 エストレヤ千葉。**
前回対戦の0対7とは違う。
守備が崩壊したわけではない。前半終了間際にはフォーレンのパスから決定機も作ったし、後半も最後まで試合を投げたわけではなかった。
それでも九十分を振り返れば、仙台が自分たちの流れで戦えた時間は驚くほど短い。
監督は腕を組んだまま、ロッカールームへ引き揚げていく選手たちを見送っていた。
安西清勝は最後まで疲労を隠せず、ダニー・フォーレンも俯き気味に歩いていく。
その背中が通路の奥へ消えたところで、隣にいたコーチがぽつりと呟いた。
「……千葉って、うちに何か恨みでもあるんですかね」
監督がゆっくりと顔を向けた。
「何だ、それは」
「いや、だって……前回もそうだったじゃないですか」
その一言だけで、周囲のスタッフには何を言いたいのか通じた。
第16節。
0対7。
仙台にとって、忘れたくても忘れられない試合だった。
あの時も、序盤は千葉が何を狙っているのか分からなかった。仙台がボールを運びたい場所へ誘われ、そこへ出した瞬間を狙われる。気づいた頃には何度も同じところから奪われ、試合そのものを壊されていた。
「前回、七点ですよ」
コーチが苦笑する。
「一回それだけやった相手に、次はもう少し普通に来ると思うじゃないですか」
「普通とは何だ」
「そこは分かってくださいよ」
別のスタッフが小さく笑った。
負けた直後に笑えるような気分ではない。
それでも、もうそう言うしかなかった。
今回の千葉もまた、仙台に対してあまりにも嫌なものを用意してきたからだ。
◇
最初に驚かされたのは、宍道務だった。
十九歳。
この試合がプロ公式戦初出場であり、初先発。
なぜこの大一番で、経験のない若手をCFに置くのか。
試合前の仙台側には分からなかった。
だが、始まってみれば理由はすぐに見えた。
センターバックへただ突っ込んでくるわけではない。
中央へのパスコースを切りながら近づき、サイドへ追いやる。GKへ戻れば、そのまま角度を変えて追う。
仙台が夏以降整えてきた後方からのビルドアップを、最初の一手から落ち着かせないための起用だった。
そして、その後ろにいたのが小林庄雅。
「結局、一番厄介だったのは小林でしたね」
分析担当がタブレットを見ながら言った。
監督も否定しない。
「映像、何もなかったんだよな」
「はい。DMFとしては公式戦のデータがゼロです。練習映像もありませんでした」
スタメン発表で小林がDMFに入ることまでは分かった。
だが、その先が何も分からない。
どう守るのか。
どこまで前へ出るのか。
ボールを持たせるタイプなのか。
守備で身体を張るのか。
参考にできる材料が一つもないまま、試合が始まった。
結果。
フォーレンへ入れようとした縦パスが、何度も小林に切られた。
「まさか、ああいう守り方とは思わないですよ」
コーチが言う。
「身体を当てない。タックルにもほとんど行かない。それなのに、ずっと邪魔される」
「人じゃなくて、パスを見てたな」
監督の言葉に、分析担当が頷く。
受け手へ行かない。
ボールが届いてから潰そうともしない。
届く前に、そこへ入る。
間に合わなければ無理に追わず、前へ進む道だけを消す。
守備的MFらしい激しさはほとんどないのに、仙台の中央だけが何度も止まった。
「FWをDMFに置くって聞いたら、普通はもっと攻撃的に使うと思いますよね」
「俺もそう思った」
「それが一番守備で効いてるんですから、意味が分からないですよ」
また、小さな笑いが起こった。
だが誰も、本気で笑ってはいなかった。
◇
前半終了間際。
仙台にも一度だけ手応えがあった。
フォーレンが中央を離れ、右のハーフスペースへ動いた場面だ。
小林は追ってこなかった。
そこで前を向き、鋭い縦パスを通した。
仙台CFが抜け出し、シュート。
玉縄幸三に止められはしたが、あれはこの試合で最も得点に近づいた場面だった。
だからこそ、ハーフタイムではそこを突破口と考えた。
「フォーレンを小林から離せばいい」
その判断自体は、少なくとも前半終了時点では間違っていなかった。
右へ出す。
安西と絡ませる。
右SBも加え、外で人数を作る。
小林が中央に残るなら、その外側を使えばいい。
そう考えた。
ところが後半が始まると、千葉はあまりにも自然に対応してきた。
フォーレンが右へ出れば戸塚。
左へ行けばエミリオ。
中央へ戻れば小林。
さらに外へ出れば、そのサイドの選手が引き取る。
誰もフォーレン一人を追い回さない。
だから千葉の形は崩れない。
動き続けるのは、フォーレンだけだった。
「こっちは、前半最後に答えを見つけたと思ったんですけどね」
コーチが自嘲気味に言う。
「後半始まったら、その答えごと潰されてた」
監督は少し考えてから首を振った。
「潰したというより……待ってたように見えた」
その言葉に、スタッフたちが黙った。
そちらの方が、よほど嫌だった。
前半最後の一度を見て、ハーフタイムだけで整理したのかもしれない。
だが後半開始直後からの受け渡しには迷いがなかった。
小林は追わない。
戸塚が出る。
エミリオが引き取る。
外まで行けばサイドへ渡す。
あまりにも滑らかだった。
「外へ逃げるところまで想定してたんですかね」
「そこまでは分からん」
監督は正直に答えた。
「だが、少なくとも後半開始時点では完全に準備されていた」
◇
そして、苦しかったのはフォーレンだけではない。
安西清勝もまた、前半から動かされ続けていた。
攻撃では右へ張り、内側へ入り、フォーレンと位置を変える。
守備では塩川を追い、高山の上がりにも対応する。
後半になれば、フォーレンが右へ流れてくるたび、その周囲で再び動き直した。
その積み重ねで、安西の脚から徐々にキレが消えていった。
そして後半三十八分。
塩川康文に代わって入ってきたのが、森川佑。
「そこなんですよ」
コーチが思い出したように顔をしかめた。
「安西が一番きつくなったところで森川ですからね」
特別に守備的な交代ではない。
同じLSHに、そのまま森川を入れただけ。
しかし仙台側からすれば、それが最悪だった。
前半から走り続けた安西の前へ、フレッシュな元日本代表が出てくる。
森川は無理に抜き切ろうともしなかった。
一度仕掛ける。
安西を走らせる。
戻す。
またボールが回ってくる。
もう一度仕掛ける。
また安西が走る。
「最後、安西ほとんど何もできなかったですからね」
「何もできなかったというより、もうできる身体が残ってなかった」
別のスタッフが訂正する。
その表現の方が正しかった。
千葉は安西を一度のプレーで潰したわけではない。
八十分以上かけて動かし続け、最後に森川をぶつけた。
◇
さらに終盤。
後半四十四分。
宍道に代えて材木座義輝。
そこでも、千葉は前線の役割を変えてきた。
宍道は走るCFだった。
材木座は収めるCF。
試合序盤には相手のビルドアップを乱すための選手を使い、終盤にはボールを前線で止めて時間を作れる選手を入れる。
そして後半四十九分。
材木座は相手陣内でファウルを受け、FKを獲得した。
仙台に残されていた最後の時間が、そこでまた削られた。
「最後まで嫌でしたね」
分析担当がぼそりと言う。
「本当に」
誰かが返した。
そして、その一分前。
後半四十八分には小林を下げて戸部翔を投入している。
戸部をOMFへ。
戸塚とエミリオを、いつものダブルボランチへ戻す。
試合を通して使った特殊なアンカーを最後まで引っ張るのではなく、終盤は慣れた形へ戻して締める。
試合の最初から最後まで。
時間帯ごとに、仙台が嫌がるものを置かれ続けた。
「……やっぱり、うちに何か恨みあるんじゃないですか」
最初に言い出したコーチが、もう一度呟いた。
今度は、別のスタッフまで吹き出した。
「二試合とも対策の量がおかしいですよね」
「前回は七点」
「今回は初出場の十九歳と、初DMFの元FW」
「フォーレンが外へ逃げたら受け渡し」
「安西が疲れたら森川」
「最後は材木座で時間を止めて、戸部入れていつもの形に戻す」
一つずつ並べていくほど、腹立たしくなってくる。
監督は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「恨みなんかない」
「本当ですか?」
「ない。多分」
「多分じゃないですか」
今度は監督まで少し笑った。
◇
もちろん。
本当に千葉が仙台だけを特別視しているわけではない。
そんな証拠はどこにもない。
仙台に恨みがあるはずもない。
ただ、相手を調べて、その相手に刺さるものを準備してくる。
おそらく、それだけだ。
それでも。
二試合続けて真正面から食らった側には、そう簡単に割り切れなかった。
「こっちだって分析はしてるんですけどね」
スタッフの一人が悔しそうに言った。
監督はすぐに答える。
「当たり前だ」
「でも、今日は一段先に行かれた感じがします」
誰も反論しなかった。
仙台も前回対戦から何も変わっていないわけではない。
CBが不用意に食いつかないよう守備を修正した。
ゾーンで受け渡す。
夏にはフォーレンが加わり、4-2-3-1が機能するようになった。
安西とフォーレンを中心に、右から崩す形も増えた。
実際。
今回は七失点していない。
前回とは違う仙台として戦った。
だが千葉もまた、前回の仙台を見てきたわけではなかった。
変わった仙台を調べ、その現在地に合わせて別の策を持ってきた。
そこが、一番悔しい。
そして。
認めなければならない部分でもあった。
◇
分析担当がタブレットを操作しながら言う。
「次からは、小林のDMFにも映像が残ります」
「そうだな」
「他のクラブは今日の試合を見て準備できます」
少し間を置いて。
「でも、今日だけは、うちが初見でした」
再び。
沈黙。
そして。
コーチが露骨に顔をしかめた。
「やっぱり恨みあるだろ」
「ないと言ってるだろ」
「小林の実験台までうちじゃないですか」
「成功したからそう見えるだけだ」
「初公式戦DMFでフォーレン消された側は笑えませんよ」
「俺も笑ってない」
そう言いながら。
監督の口元も。
ほんの少しだけ緩んでいた。
負けた悔しさは消えない。
だが、いつまでも俯いているわけにもいかない。
◇
監督は最後に、少しずつ人の減っていくピッチへ目を向けた。
0対2。
前回の0対7とは違う。
だからこそ。
より悔しい。
今回は戦えた。
守備も改善した。
試合中にも修正した。
前半終了間際には突破口も見つけた。
それでも。
最後には千葉の方が一つ先にいた。
「次は」
監督が静かに口を開く。
周囲のスタッフが顔を上げる。
「こっちが先に仕掛けるぞ」
空気が変わる。
「二度やられた。三度目まで好きにやらせる必要はない」
「はい」
コーチ陣が頷く。
その中で。
最初に恨みの話を出した男が、最後にまたぼそりと言った。
「その前に、本当に何も恨まれてないか確認したいですけどね」
「しつこい」
今度こそ。
仙台ベンチに。
小さな笑い声が広がった。
◇
第33節。
仙台アステルFC。
0対2。
エストレヤ千葉。
前回は。
0対7。
二試合続けて。
千葉の用意した策を真正面から受けた仙台。
もちろん。
そこに恨みなどない。
ただ。
千葉が仙台を調べ。
仙台に刺さるものを準備した。
それだけ。
だが。
やられた側の首脳陣が思わず勘繰りたくなる程度には。
二度の対戦ともエストレヤ千葉は、あまりにも仙台にとって嫌な相手だった。